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プリンセスコード  作者: 烏屋マイニ
魔界の王国
39/46

24.地下水道

「こっちだ!」

 議場の扉を開け放ち、ユーゴは叫んだ。手負いのまま敵に姿をさらすなど、あまり賢明な行いでないことは承知の上だが、そうしなければならない理由が彼にはあった。

 クセは身を翻し、一つの躊躇も見せず開かれた扉に向かって駆け出した。いいぞ、とユーゴは密かにほくそ笑む。差し出された手を、なんの疑いも無くつかむのは愚かだが、命の危機を前にそれをためらうのは、ただの間抜けだった。つまり、少なくともクセは、間抜けではないと言うことだ。

 女が扉を抜けるなり、ユーゴはそれを閉め、素早く取っ手に細工をする。もちろん、そんなものが大して役に立たないことは承知の上だ。議場にいる連中にとって、扉一枚など薄っぺらい紙切れほどの障害にもならないだろう。特に、ばかでかい剣を持った少女の強さは、トレボーで思い知らされている。

 ユーゴはクセの手首を引っ掴み、すぐ近くのクロークに飛び込んだ。そこは議場に入ろうとする者が、手荷物や、あるいは武器など持ち込みが禁じられている物を預ける場所で、広さは一〇フィート四方ほどしかなく、間口に扉は無いが、棚など身を隠せる遮蔽物はじゅうぶんにあった。普段であれば荷物番がいるのだが、彼は議場周辺の警備にあたっていた兵ともども、すでに始末してある。

「袋のネズミじゃない」棚の裏側に隠れながら、クセがしかめっ面で言った。ユーゴは唇に人差し指を当てて彼女を黙らせる。すぐにけたたましい音が響き、ばたばたと足音が聞こえ、それはあっという間に遠ざかった。クロークの間口から覗いてみれば、真っ二つになって床に転がる扉と、廊下の角を折れて消えようとする大剣を携えた少女の後ろ姿が見えた。

 ユーゴはクセに目配せすると、クロークを出て、少女が去った先とは逆方向へ駆け出した。しばらく廊下を走り、中庭に出てからそこを突っ切って格子状の鉄柵を乗り越え、王宮の敷地から外へ出る。辺りは住宅街で、立ち並ぶのはご立派なお屋敷ばかりだ。そのほとんどは地方に領地を持つ貴族の別邸で、議会の期間など、王都へ長らく滞在する際の住居として使われている。もちろん、屋敷の主の多くは議会へ出席するために王宮へ出かけているし、年の大半が無人になるから住み込みの使用人もいないので、辺りに人影は全くない。それはつまり、王宮の柵を慌てて乗り越える、怪しい人物を見咎める者もいないと言うことだ。

 ふと振り返れば、クセが涼しい顔でそこにいた。手加減無しに駆けて来たと言うのに、彼女は難なくついて来れたようだ。しかし、七フィートはあろうかと言う鉄柵を、スカート姿でどうやってよじ登ったのだろう。

「それで?」クセはたずねた。

「隠れ家がある」

 ユーゴは短く答え、再び駆け出した。ほどなく彼は屋敷の一つに駆け込み、玄関の扉を閉じてエントランスで足を止めた。

かしら、どうかしましたか?」

 不意に、どこからか声が上がる。しかし、その主の姿はどこにも見当たらなかった。

「親父はしくじった。今頃、彼は牢の中だろう。何人か見繕って、急いでルアンへ向かわせろ。俺と彼女が、王都にはもういないと王宮に思わせるんだ」

「すぐに手配します」

 部下の気配は消えた。ユーゴはクセに目を向けた。

「メーン公爵を救い出す。手を貸せ」

 クセはふと笑みを浮かべた。「あなたの計画だと、最初っから私が頭数に入ってるみたいね?」

「まあな」ユーゴは認めた。「どうやら、あんたには公爵に肩入れする理由があるようだし、なによりも力がある。これ以上無い助っ人だと、俺は勝手に考えたわけさ。もちろん断るって言うなら、別な手を打つつもりでいる」

「別な手?」

「ケツをまくって逃げるのさ」ユーゴは肩をすくめた。「それで、どうするんだ?」

「いいわ」クセはすぐに応じた。「あなたが言うように、私には公爵にやってもらいたいことがあるの」

「それは、俺が聞いても構わねえことか?」

 クセは鼻を鳴らした。「主の命をねじ曲げて、大陸の覇権なんてものにうつつを抜かしている、私の姉妹たちの目を覚まさせるの。それには、どうしたってメーン公爵の力が必要になるわ。彼女たちがメヌでふんぞり返っていられるのは、セドリックがそれを許しているからに過ぎないんだもの」クセは、ふと眉間に皺を寄せた。「でも、どうやって彼を助けるつもり。王宮にいた連中は、私の魔物よりもずっと化け物ぞろいだったわよ?」

 ユーゴはうなずいた。「油断ならねえ連中だってことは承知してるさ。けどな、実際に王宮を警備しているのは、やつらじゃなく大半が当たり前の人間なんだ。だとしたら必ず隙はあるし、なけりゃあ作ればいい」

「ずいぶん、自信満々ね」

「さて、どうだかね」

 もちろん、ユーゴに自信などあろうはずがない。必ずうまく行くと信じ込んで、しくじったときの対策を怠れば、取り返しのつかない事態になることを、彼は経験の中でよく心得ていたからだ。もちろん、そうと言ってびくびくした態度を部下たちに晒すつもりもないが。

「まあ、いいわ」クセは鼻を鳴らして言った。「ところで、ここには休めるところはあるのかしら。さすがに、ちょっと疲れたの。それに」クセは右手を顔の前に掲げる。すでに血は止まっているようだが、そこには大きな傷があった。「これをなんとかしなきゃ」

「ここは空き家だ。どこなりと好きな部屋を使うといいさ」ユーゴは肩をすくめた。「だが、一階の部屋は止めておけ。前の住人が色々残して行ったから散らかってるし、こう暖かいと大抵の死体は傷んで臭い始める」

「なるほど」クセはのんびりとあくびをして、正面の大きな階段へ向かった。その背に向かって、ユーゴは言った。「事が片付くまで、屋敷を出るなよ」

 クセは肩の上でひらひらと手を振っただけで、振り返りもせずに二階へ姿を消した。もちろん、警告するまでも無いことは、ユーゴもわかっている。つい先ほど、彼が部下に下した命令を聞いていたのであれば、今誰かに姿を見られてはならないことくらい、彼女はすっかり承知しているに違いない。

 もっとも、警告を発した当人に、そうするつもりはなかった。彼は階段の裏手にある部屋へ向かい、次にそこから出てくると、使用人の格好をした老婆に姿を変えていた。手に籠をぶら下げ、屋敷を出て市場へ向かい、夕食の材料を買い出す振りをしながら、町人たちの話を拾い集める。しかし、彼らの様子は平穏そのもので、王宮で起こった事件の報せは、未だ外にまで及んでいない様子だった。もちろん、メーン公爵は彼のクーデターが成った時に、王がトレボーやルアンへ援軍を乞うような事態を恐れていた。それを防ぐには、王宮の外へ出る人たちの動きを抑え込むことが必要で、実際、ユーゴはそうなるよう手を打ったのだ。今の状況が、彼の工作によるものであれば問題はないのだが、敵のコントロールによるものだとすれば、いささか厄介で、むしろその可能性の方が高かった。

 あのカトリーヌと言う女は、なかなかに手強い相手だ。ユーゴと同じく他人へ指示するよりも、現場にいることを好むたちのようだが、おそらくは王の密偵組織のトップに近い立場にあるのは間違いなかった。彼女が能力と権力の両方を持っているのであれば、やるべきことをやっているに違いない。

 それを確かめるべく、ユーゴは王宮へと足を向けた。門の前を何気ない様子で通り過ぎながら、二人の若い門兵がひどく緊張した面持ちで立哨にいるのをみとめる。どうやら、彼がめちゃくちゃにした警備体制は、すっかりとまでは行かなくとも、ひとまずは修復されてしまったようだ。それは彼の読みが正しく、カトリーヌか他の誰かが、王宮の機能を取り戻すために動いたと言う証だった。

 不意に、どしんと何かにぶつかり、ユーゴは尻もちをついた。ぶつかったのが、まさしくカトリーヌのナイフを受けた場所だったから、彼は歯を食いしばり、どっと脂汗をかいた。変装する際に簡単な手当はしてあるが、痛みがすっかり引いているわけではない。

「おっと。悪いな、婆さん」ぶつかってきた若い男がにやにや笑いながら言った。「怪我はねえか?」

「おかまいなく」ユーゴは立ち上がり、スカートの尻についた砂埃を払った。「あたしも、よそ見をしていたからね。どうか、気を悪くせんでおくれ」

 そう言って立ち去ろうとするユーゴを、男は通せん坊をする。「ずいぶん加減が悪いように見えるぜ。なんなら、そこらでちょいと休んで行ったらどうだ?」

 ユーゴは内心、舌打ちをした。()()の正体はわかっている。親切のふりをして獲物を人気ひとけのない場所へ誘い込み、金品を奪ったり若い女に乱暴を働くつまらない犯罪者だ。真昼間、しかも王宮の真ん前で不貞を働くなど大胆極まりないが、いかにも安全そうに思える場所だからこそ、彼らの手口は効果を上げる。ただし、門兵たちがもめ事に気付いて駆け付けるより前に、仕事は手早くすませなければならない。

「実を言うとね」老婆姿のユーゴは大儀そうにため息を吐いた。「ひどく膝が痛くて、ちょいとばかり休みたいと思ってたんだ」

「そんなことだろうと思ったよ」男はしめしめと言った顔でうなずき、手招きした。「すぐ近くにいい場所がある。ついて来てくれ」

 物盗りの男はユーゴを薄暗い路地へと連れて行った。そうして袋小路にやって来ると、くるりと振り返り、黄色く汚れた歯を見せる。すぐに背後から足音がして、二人のごろつきが道を塞いだ。正面の男に目を戻すと、彼の手にはいつの間にか刃渡りが一〇インチほどのナイフが握られていた。

「おいおい、しわくちゃの婆さんなんて連れてきて、どうするんだ」背後の男の一人が言った。

「女には違えねえけどな」もう一人が言った。

「馬鹿言うな。こんな古びたもんを抱いたりしたら、きっと食あたりするぜ」

「だが、着ているもんは上等だ。きっと、大きなお屋敷の使用人だろうから、金は持ってるだろうさ」正面の男が言った。

 ユーゴはふと手を伸ばし、自分に突き付けられたナイフをあっさりと奪い取った。それは、あまりにも手際よく、しかもさり気ないものだったから、強盗は自分のナイフが心臓に突き立てられるまで、武器を奪われたことに気付くことさえなかった。ユーゴは男の胸にナイフを残したまま、彼がくずおれるに任せ、背後の二人のごろつきに目を向けた。彼らはしばらくぽかんとしていたが、ようやく目の前で起こった事態を理解すると、遅まきながら腰の後ろに差したナイフを引き抜いた。しかし、一人の背後からにゅっと二本の腕が伸び、それは片手で男の口を塞いでから、もう一方の手にあるぎらぎら光る刃で、彼の喉を水平にかき切った。ぱっと血が噴き出し、ユーゴは小さく毒づいて背後に跳び退った。ごろつきの一人が倒れると、そこには灰色の布を顔に巻いて目だけをのぞかせる男が立っており、彼の右手には血を滴らせる湾曲した細身のナイフがあった。もう一人の強盗犯は、不意の襲撃者をぎょっとした様子で眺めてから、その胸元へ目がけてナイフを突き出した。覆面の男はひょいと身を屈め、のろまな攻撃をあっさりとかわし、お返しとばかりに自分のナイフをごろつきの腹に突き立て、横様に引いた。びりびりと言う音がして、ごろつきの腹から内臓がこぼれた。ごろつきはナイフを放り出し、泣きわめきながら座り込んで、自分の腸を押し戻そうと無駄な努力をはじめるが、覆面の男にナイフの柄で後頭部を殴られ意識を失い地べたに突っ伏した。

「気を付けろ」ユーゴは部下を叱責した。「血まみれの婆さんが、街をうろうろしてたら騒ぎになるだろうが」

「申し訳ありません」覆面の下からくぐもった声が響く。それは、隠れ家のエントランスで聞いた、姿のない声と同じ物だった。覆面の男は言った。「女が消えました」

 ユーゴは眉をひそめた。「逃げたのか?」

「いえ。見張りの者が言うには、部屋に入るなり何やら妙な札を取り出して、それを胸に押し当てた途端、煙のように消えたそうです」

 ユーゴは舌打ちをした。見習い魔法使いである彼の真の主人のおかげで、彼は符術に関する知識をいくらかは持っている。そして、議場の扉越しに聞き耳を立てていたから、クセが魔法を使えることも知っていた。

「屋敷へ戻る。まさか、あいつが公爵奪還の計画を王様に告げ口することもないだろうが、お前は念のために王宮を見張っていてくれ」

 部下はうなずき、姿を消した。ユーゴは悪態を一つ吐いてから、急いで――それでも老婆らしい足取りを忘れずに屋敷へ戻った。

かしら」部下の一人が、青ざめた顔で駆け寄ってきた。

「わかってる」ユーゴはうなずき、すぐに二階へ駆け上がった。

「女の部屋は、手前から二つ目です」部下の声が追い掛けてきた。ユーゴが言われた部屋の扉を開け放ち、中を覗きこむと、そこには優雅にお茶を嗜むクセの姿があった。

 クセはユーゴを見るなり、眉間にしわを寄せた。「ノックくらいしたらどうなの。なんで、よりにもよって、あなたみたいに無礼な使用人が生き残ってるわけ?」

「悪かったな」ユーゴは鼻を鳴らした。

「驚いた」クセは目をぱちくりさせた。「あなた、あのごろつきなの?」

 ユーゴはずかずかと部屋へ踏み込み、クセの真正面の椅子に腰を降ろした。クセは使っていないカップにお茶を注ぎ、それをユーゴの前に置いた。その右手には白い包帯がぞんざいに巻かれてあった。

「ユーゴだ」カップを受け取り、ユーゴは短く自己紹介した。

「私はクセよ」

「知ってる」ユーゴは魔族をじろじろ眺めた。改めて見ると、ぞっとするほどきれいな女だった。カップを付ける赤い唇に笑みを浮かべているが、その目はまったく笑っていない。「部下から、お前さんが魔法で姿を消したと報告を受けた。なんで、またぞろここにいる?」

「誰かに覗かれながら、服を着替える趣味はないの」クセはカップを置いた。「それに、どうしたって着替えが必要でしょ? 私とスイにあてがわれた部屋を、王宮の人たちが探ろうって考える前に、あれやこれやを取りに行ったってわけ」

「一人で王宮へ忍び込んだって言うのか?」ユーゴはぎょっとしてたずねた。

「ええ。でも、あなたも言ったように、私には魔法が使えるの。ありがたいことに、ジャンがスイを連れて王宮を歩き回ってくれたおかげで、彼女の目を通して転移先に使えそうな場所もわかってたし、大して危険なこともなかったわ」

 王女の目を通して云々なる意味もわからなかったが、何より耳馴染のない単語が気になった。「転移?」

「ある場所から、ある場所へ、人や物を移動させる魔法よ。でも、何もない空中から私が現れたりしたら、騒ぎになるでしょう? その点、あの図書室は人気ひとけもなくてぴったりだったわ」

 ユーゴは、ふと思い付いた。「地下牢へは転移できるか?」

 クセはしかめっ面をした。「もっと、あちこち調べたかったんだけど、誰かさんがブルネ公爵の暗殺なんてしてくれたせいで、私たちは部屋に閉じ込められてしまったの。どこだかわからない場所への転移は、さすがに無理よ」

 そうなると、地下牢には当たり前の方法で忍び込むしかなさそうだ。ユーゴはカップのお茶を飲み干し、立ち上がった。

「次に忘れ物を思い出した時は、一言声を掛けてくれ」

「ええ、そうするわ」クセは殊勝にうなずいた。「あなたも急に気を変えて、私を置いて行こうなんて考えないでちょうだい」

「わかった」ユーゴはクセの部屋を出て、考え考え一階へと向かった。つまりクセは、王宮の地下牢へ潜入するためにユーゴの力が必要だったから、彼の計画に乗ったのだ。しかし、彼女の言うメーン公爵への用事とやらは、彼の救出後では間に合わないのだろうか。なぜユーゴがそれをするのを待たず、自ら地下牢へ忍び込もうなどと考えるのだろう。

 エントランスへ戻ったユーゴはてきぱきと部下に指示を飛ばし、自身は再び階段の裏の部屋へ戻って老婆の変装を解いた。そこは書斎だったが、今は半ば物置と化している。彼は壁際の長ソファから、ぞんざいに積まれた荷物を払って床へ落とし、その上へ横になった。ひどく傷が痛んだ。おそらく今夜は熱が出るだろう。もちろん、ナイフに毒でも塗られていれば、すでに彼はこと切れていたはずだから、その程度で済んだのはもっけの幸いだった。ともかく、王宮の連中はすでに態勢を立て直しており、彼の潜入を簡単に許すとは思えない。今は傷の回復とあわせ、機会を待つしかなかった。

 翌日の午後になって、部下がひどく戸惑った様子で、ある報告を持ってきた。明日、ジャンの立太子を記念してパレードを行うとのふれがあり、街はお祭気分で浮かれ騒いでいると言うのだ。

「罠ですかね?」

 部下の問いに、ユーゴは腕を組み考え込んだ。シャルルがそんなことをする意図を、彼はさっぱり掴めなかった。魔族に――もちろん、ユーゴにも――狙われているジャンを、馬車に乗せて市中を引き回すなど、襲ってくれと言っているようなものだ。もちろん、パレードともなれば経路の警備は厳重なものとなるだろう。しかし、それに人手が割かれれば、王宮への潜入は容易くなる。あるいは、ユーゴが公爵の奪還を企んでいることに気付いているとするなら、部下が疑うように罠の可能性もあった。

 ユーゴは小さく頭を振った。熱のせいでどうにも頭が働かず、ともかく彼は警備計画を入手するよう部下に命じ、傷の回復に専念することにした。そうして一夜が明け、彼は再びクセの部屋を訪れた。

「今度はノックを忘れなかったようね」

 黒い異国の服を着た女が、笑顔で彼を出迎えた。ユーゴは潜入の準備をするよう彼女に告げる。するとクセは、小さく肩をすくめて言った。「いつでも行けるわ。正直、待ちくたびれてたところよ」

「結構だ」ユーゴはうなずいた。「転移の魔法を頼む」

「図書室でいいの?」

「礼拝堂なら申し分ねえが、できるか?」

「どうかしら」クセは首を傾げた。「広さはじゅうぶんだけど、あそこは明かり取りの窓が無いせいで、昼間から蝋燭が灯されてたの。使用人が、それを取り替えに来て、転移してきた私たちを偶然見付ける可能性だってあるわよ?」

「使用人なら対処のしようもあるさ」ユーゴは親指で喉をかき切る仕草をして見せた。「それよりも、下手に廊下を歩き回って、カトリーヌの部下に見付かる方が厄介だ」

 女スパイの名を口にした途端、クセは苦虫をかみ潰したような顔になって、包帯の巻かれた右手に左手をあてがった。「姿を消す魔法もあるけど?」

「それは、公爵を助け出したあとに使おう。あの親父は、俺たちのようにこそこそ動き回るのが苦手なんだ。それに、魔法だって無限に使えるわけじゃねえんだろ。少なくとも知り合いの魔法使いは、そう言ってたぜ?」

「そうね」クセは、ふと苦笑を浮かべてから、一枚の護符を取り出した。「私に、しっかりしがみつきなさい。転移の範囲は出来る限り体積を小さくしなきゃいけないの。さもないと、転移先の質量に弾かれて痛い目を見ることになるわよ」

 女の言うことはさっぱり理解できなかったが、ユーゴは言われた通りクセをしっかりとかき抱いた。そして、魔族の女がどこからか取り出した護符を自分の胸に押し付けると、途端に周囲の世界は虹色の光に包まれ、あらゆる方向の景色が歪み、どろどろとシチューのように溶けて混じり合った。それが不意に消えて元通りになると、そこはもう、きらびやかな王宮の礼拝堂だった。今のはなんだと問う前に、ユーゴは自分が祭壇の前の床から三フィートほど高い空中にいることに気付いた。落下の衝撃を受けても無様に転ばなかったのは、幼い頃から叩き込まれた訓練の賜物だった。しかし、異常はそれだけではなかった。

「くそっ」きんと鳴る耳を押さえてユーゴは小さく毒づいた。以前、洋上の船から急いで逃げ出す際に、射かけられた矢をかわすため、深く海中へ潜ったことがあった。これは、それとよく似た感覚だった。クセを見ると、彼女も耳を押さえて不快感に顔を歪めていた。

 あれこれ聞きたいことはあったが、ユーゴは仕事に取り掛かった。今のところ礼拝堂の中に人影は無いが、クセが危惧したように、使用人なり誰なりが現れないとも限らない。もちろん、彼女にも言ったように対処する方法はあるが、それでもわざわざ面倒ごとを待ち受けることも無いだろう。

 ユーゴはアルシヨン像の脇を抜けて、礼拝堂のちょうど真ん中あたりに向かい、そこにしゃがみ込んで三フィート四方ほどの床石の縁にナイフを押し込んだ。かちりと音がしてから床石はあっさりと持ち上がり、その裏側は一辺が蝶番で固定された黒っぽい鉄扉になっていた。鉄扉の下には急な階段の続く穴がぽかりと開いており、ユーゴは顎をしゃくってクセにそれを降りるよう促した。

 穴の中へ女の姿が消えるのを見て、ユーゴも後へ続く。頭の上で床石に見せかけた鉄扉を閉めると、途端に辺りは暗闇に包まれた。爪先で探り探り階段を降りきり、彼はポケットから松脂をしみ込ませた麻縄の輪を取り出し、手早く火打石と鋼で、ほぐした先端に火花を落とす。火縄はたちまちオレンジ色の炎を上げ、あたりをぱっと照らした。

 そこは、天井がアーチ形をした幅が四、五フィートほどの狭い通路で、方角的には祭壇の真下へと伸びている。クセが片方の眉を吊り上げてユーゴを見つめ、無言で説明を求めてきた。

「王宮の水道設備さ。と言っても、一〇年前の魔物騒ぎで水源が壊れて以来、ずっと使われちゃいないがね。俺たちが入ってきたのは点検口で、ここがまだ生きてた頃は掃除やなんかで、人が出入りするのに使われていたらしい」

「だったら、わざわざ魔法なんて使わずに、城の取水口から侵入すればよかったんじゃない?」

「生憎と、それは塞がれてるんだ。しかし、水道は城のあちこちに繋がってるから、入り込んでしまえば誰にも見られずに、どこへなりと好きな場所へ行けるって寸法さ。もちろん、地下牢にもな」

「なるほど」クセはうなずいた。「でも、どうしてあなたがこれを知ってるわけ?」

「ちょっと前に、見付けたのを思い出したんだ」ユーゴは曖昧に答えてから、先に立って歩き出した。別の任務で王宮へ潜入する際、偶然に発見したものだが、わざわざ詳しく説明するようなことでもないだろう。

 彼らは迷路のように入り組んだ水道を進み、一時間ほど歩き回ったところで足を止める。そこの壁には、三フィートほどの半円形の穴が、床に接して開いていた。

「これは?」腰を屈めて、穴を覗き込みながらクセがたずねた。

「取水口だ。水が必要な区画の真下には貯水升があって、こう言った穴から水を引き込むんだ。あとは、井戸と同じ要領で汲み上げる」

「わざわざ足を止めたんだから、この先が地下牢なんでしょうけど、そこでどうして大量の水が必要になるのかしら?」

「水を張った樽の中へ、頭から逆さまに突っ込んでやると、こっちの聞きたいことを素直にしゃべろうって気になる人間は多いんだ」

「ああ」クセはうなずいた。「それならわかるわ」

「問題は、これだ」ユーゴは取水口に目を落とし、ため息をついた。そこには太さが一インチはあろうかと言う鉄格子がはまっていた。「前にこれと同じ鉄格子を破った時は、半日ばかり掛かったんだ。まさか、ここまで厳重だとは思わなかったぜ」

「そうじゃなかったら、礼拝堂の秘密の入口に見張りの一人もいたんじゃない?」

 ユーゴはしかめっ面をして見せた。「違ぇねえや」

「ともかく私の出番ってことね」クセは胸の間から護符を一枚取り出した。

「こいつを、どうにかできるのか?」

「まあ、見てて」

 クセは護符をひらりと放り出した。それは吸い込まれるように取水口の鉄格子に張り付き、ふと消え去っる。直後、鉄格子はたちまち赤さびて、ぼそりと崩れ落ちた。ユーゴが目をぱちくりさせると、クセはにやりと笑ってみせた。

「こりゃあ、俺もちょっとは役に立つところを見せねえとな」ユーゴは障害が消えた取水口に滑り込んだ。見上げれば、ざっと一五フィートほどの縦穴があった。

「どうなの?」クセがたずねた。

「合図をする。ちょっと待て」ユーゴは火縄を口に咥えると、両手両脚を突っ張って縦穴を昇った。天辺へたどり着くと、そこは木製の蓋で塞がれていた。聞き耳を立てて外の様子をうかがい、人の気配がないことを確認してから背中で蓋を押し開ける。蓋はあっさりと開くが、何やら上に乗っていたらしく、それは床に落ちてかこんと大きな音を立てた。ユーゴは顔をしかめて縦穴から飛び出し、腰の鞘からナイフを抜いて素早く辺りを見回す。

 部屋の広さは、ざっと二〇フィート四方。正面に鉄扉、床の上にはロープに繋がれた木桶が転がっていた。ロープは天井に伸び、そこにある滑車を通って、その先は床の上に巻かれて置いてあった。鉄扉をにらみ付けるが、不審な物音を聞きつけた誰かが飛び込んでくる様子は無い。

 改めて縦穴に目を向けると、それは高さが三フィートほどの井筒に囲われていた。すると、このロープ付きの木桶は釣瓶と言うわけか。

 ユーゴは火縄を繰り出し、ナイフで数インチ切り取って、炎を分けてから短い方の火縄を桶に放り込んで縦穴に投げ下ろした。そして、穴の底に向かって声を掛ける。「ロープを降ろした。もやい結びはわかるか?」

 少し間を置いて、声が返って来た。「大丈夫よ。上げてちょうだい」

 滑車に掛かったロープに体重を掛けて引き上げる。ほどなく井筒の上にクセが顔を見せ、女は重力を感じさせない動きで床に飛び降りた。「いい手際ね」

「ありがとよ」ユーゴは言って、鉄扉に手を掛けた。思い切って押し開けるが、その先の通路には鉄格子が並ぶばかりで、牢番らしき者の姿はなかった。壁にはいがらっぽい臭いを立てる松明が何本か焚かれていたから、用済みになった火縄の先端を切り落として床で燃え尽きるに任せた。

「ちょっと不用心過ぎやしない?」クセが眉をひそめて言った。

「ああ」ユーゴはナイフをしまってから顎を撫でて、にやにやと笑った。「部下を使って見張りを買収したんだ」

「いつ?」

「昨日の丸一日を、何もしないでいるわけがないだろ。もっとも、金貨がきちんと効果をあげるかは、こうやって見るまではわからなかったがな」

 クセはまじまじとユーゴを見つめた。「それだけ自由に大金をばらまけるなら、セドリックだってお金の力でどうにか出来たんじゃない?」

「まさか」ユーゴはしかめっ面をしてみせた。「金なんて人を迷わせるだけで、支配までできるもんじゃねえんだ。過信するとろくな目にあわねえぞ」

「金言ね」クセはふふと笑った。

「よせやい」ユーゴは鼻を鳴らした。「さっさと、あのグズを拾って引きあげようぜ。あんただって、こんな臭い場所に長居はしたくねえだろ?」

「そうね」クセは頷いた。女はふと眉間にしわを寄せた。「でも、格子を破る護符はもうないの」

 すると、あの取水口を破ったのは、まさにそれだったのだろう。

「そこはまかせてくれ。鍵穴がある扉なら、大抵はなんとかなる」

 二人は牢を一つずつ覗き込みながら、鉄格子が並ぶ通路を進んだ。ほとんどの牢は空っぽだったから、メーン公爵はすぐに見つかった。貴族の男はみすぼらしい寝台に横たわり、小さく身体を丸めていたが、二人に気付くなり寝台を飛び降り、歩み寄って鉄格子を両手で掴んだ。「おお、ユーゴ。それに、クセまで」

 きつい尋問の一つも受けて、ぼろぼろになっているかと思いきや、意外に元気そうだ。もちろん、実際に痛めつけるよりも、自分が受ける未来の責苦を想像させる方が、どんな拷問よりもずっと効果が高いのは確かだから、おそらくはそのために放置されているのだろう。もっとも、それの効果は想像力のある人間に限られる。ユーゴが知る限り、この男にそんなものは備わっていない。

「助けに来たわよ、セドリック」クセはスカートをたくし上げ、太ももに結わえた鞘から短剣を抜き放った。それは、なんとも奇妙な武器で、柄から切っ先まで一つの金属を打って造られており、刃はうねうねと波打ち、その中央には六角形の穴が開いている。

 メーン公爵は女の言葉に笑みを浮かべるが、クセはやにわに手を伸ばして彼の胸ぐらをつかみ、激しく鉄格子に引き寄せ、例の偽物の笑顔で言った。「さあ、お家へ帰りましょうね」

 公爵はさっと青ざめ、じたばたともがきはじめた。

「あきれた」クセはため息をもらした。「あなた、仮にも皇帝になろうとした男なのよ?」

「たのむ」公爵は懇願した。ぴちゃぴちゃと音がして、彼の足下に水溜りが出来た。「やめてくれ」

 二人の奇妙な様子を見て、ユーゴは混乱した。一体、彼らは何を話している? しかし、何かまずいことが起こっているのは確かだ。もちろん、公爵の手下としては、身体を張ってでもクセの無礼を止めるなり咎めるなりしなければならないところだが、生憎と彼の本当の主人は別にいる。ユーゴはこっそりナイフを取り出し、鉄格子を挟む二人からじりじりと距離を取り始めた。

「やめてくれ?」クセは嘲るように言った。「これは、あなたが望んだことよ」

「気が変わったのだ」

「そうでしょうとも」クセは言って、まったく何の予兆も無しに、刃を公爵の胸に押し込んだ。公爵はげっと奇妙な声を上げ、ぎょろりと目を見開く。クセはふふと小さく笑い声をあげた。「でも、手遅れよ」

 クセが胸ぐらを掴んでいた手で突き放すと、公爵は胸に開いた穴から血を吹き出しながら、仰向けに倒れ込んだ。クセは血まみれの短剣はそのままに、空いた方の手をおもむろに胸元へ突っ込んで、護符を一枚取り出す。それを見たユーゴは踵を返し、井戸の部屋向かって駆け出した。数ヤードを走ってから不意に床を転がったのは、計算ではなく純然たる勘だった。直後に頭上を炎の矢が通り抜け、それは彼が目指す鉄扉に当たって爆ぜた。ユーゴは起き上がり様、手の平に隠していたナイフをクセの顔へ目がけて投げつける。クセは短剣を振るい、危ういところでユーゴのナイフを叩き落とす。その直後、彼女の顔の横に二本の腕が伸びた。クセは巻き付いてくる腕をかわしてから、ぐるりと身体を回し、水平に短剣を振って背後の襲撃者に斬り掛かった。覆面の男は飛び退いてクセの攻撃をかわし、湾曲した刃のナイフを構える。

「ちょっと分が悪いわね」クセは苦笑を浮かべ、胸元から護符を一枚取り出した。

「魔法だ」ユーゴは二本目のナイフを取り出しながら、部下に警告した。

 覆面は頷き、じりじりと後退してクセから距離を取った。しかし、クセは護符を胸に押し当て、虹色の光に覆われ、煙のように消え失せた。わずかに遅れ、ユーゴの背後から、ごうと音を立てて風が吹いた。それが収まると、覆面の男はナイフを一振りして手品のようにそれを消し去り、言った。「今のは?」

「たぶん、転移の魔法だろう。どうやら、まんまと逃げられたらしい」

かしららしくもない」

「ほっとけ」ユーゴは鼻を鳴らした。獲物のジャンを二度も取り逃がしている実績を思えば、むしろこの結果の方が()()()とも言える。

「これから、どうしますか?」覆面の男は、牢の中に転がるメーン公爵の死体に目を落として言った。

「ここから逃げる」

「ごもっとも」

 二人は当たり前の出口から地下牢を出て、王宮を脱出した。途中、カトリーヌの部下と思しい人間が、貴族や使用人のふりをして、周囲の警戒にあたっているのを見付けたが、ユーゴも覆面も彼らの目をあっさりと欺いた。潜入の素人であるクセがいなければ、わざわざ地下水道など通る必要も無い。

 隠れ家へ戻るなり、ユーゴは早速部下に命令を下した。「ジャンと、やつの仲間から目を離すな。動きがあれば、逐一報告しろ」

 覆面の部下はこくりと頷いた。

「クセも、メヌの魔族たちも、どう言うわけか剣王の息子を、躍起になって捕まえようとしているんだ。坊ちゃんをメヌへ連れ戻すなら、彼以上の交渉材料はねえからな。しかし、今は見守るだけだ。下手に捕まえようとするんじゃねえぞ。殿下のまわりにいる連中は化け物だ。やつらの裏をかくには、それなりの仕掛けがいる」

「わかっています」部下は言って、ふと首を傾げた。「頭は?」

「ベルンへ戻って、坊ちゃんにこの件を報告する。できれば、指示の一つももらいたいところだな。さすがに、この事態は俺たちの手に余る」

「そうですね」覆面は顎に拳を当てて束の間考え込んだ。彼はふと思い出したように口を開いた。「勝手ながら、他の連中は屋敷を引き払わせました。今はロズヴィルへ向かっているはずです」

「悪くない判断だ」ユーゴは部下をほめた。

「頭なら、そうすると思いました」

「おべんちゃらはいい。やるべきことをやろう」

「もちろん、そのつもりです」覆面は屋敷を出て姿を消し、ユーゴは一人残された。あるいは、とも思い二階のクセの部屋を覗いてみたが、そこに誰かがいた痕跡はさっぱりと消え去っていた。今頃、彼女はまんまとしてやったと思っているのかも知れないが、実を言えばメーン公爵の死は、ユーゴの望むところでもあった。これでマリユスは晴れてメーン公爵となり、いよいよメヌにいる偽物と対峙することができるからだ。もしクセが、もう少し正直者であったなら、彼女との協力関係はもう少し続いていたかも知れない。メヌの魔族を快く思っていないと言う点において、彼らが手を結ぶ理由はじゅうぶんにあった。

 ユーゴは頭を振り、その考えを追い払った。今、やるべきは王都を脱出し、ベルンへ向かうことだ。彼は例の書斎へ入り、手早く変装を終えて屋敷を後にした。

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