22.レオン
クシャロは自分のベッドに放り出していた杖を引っ掴み、宝石がはまった杖の頭をシェリに向けて構えた。
「待って。シェリには、君が僕の友だちだってことを教えてあるんだ。そんなこと、しなくても大丈夫」
ジャンが急いで言うと、彼の膝の上のシェリも、こくりと一つ頷いた。
「だから、あなた寝ている、殺すはやめました」
それでもクシャロは構えを解かず、用心深くシェリを見据えていた。
「とにかく、お互いに相手を殺しそこなったんだから、おあいこってことにしない?」ジャンは提案した。
クシャロはジャンとシェリを交互に見つめ、ずいぶん経ってから長々とため息をつき、杖を降ろした。「わかりました。でも、兵隊さんたちには絶対に見られないようにしてください。小さくなったとは言え、仲間を殺した怪物がいるのを見たら、彼らがどんな行動に出るか知れたもんじゃないです」
「怪物、違います」と、シェリ。
「そうですね」クシャロはにっと笑って、右手を差し出した。「ジャンの友だちでした。そして、ジャンがクシャロの友だちなら、あなたもクシャロの友だちでいいでしょう」
シェリはうなずき、クシャロの人差し指を両手で掴んだ。ひとまず友人同士が殺し合う事態を避けられ、ジャンは安堵のため息を落とし、耳の中のシェリを二度、こつこつと叩いた。
「聞いてたわ」と、ウメコ。「あの子ったら、何を考えてるのかしら」
それは、ジャンも知りたかった。
「それにしても、あれだけ完ぺきに燃やしたのに、どうして生きてるんですか?」クシャロはシェリをしげしげと眺めて言った。「さすがに、ちょっと縮んだようですが」
「シェリは、すごくしぶといんだ」ジャンは端折って言った。
「まあ、いいです。とにかく、それをやっつけてしまいましょう」クシャロはジャンの手の中にあるチュニックを指差した。
「でも」ジャンはチュニックを手渡しながら、怪訝に思ってたずねた。「道具もないのに、どうやって繕うの?」
クシャロはにやりと笑い、杖を振った。何もない空中に小さな箱が現れ、それはジャンのベッドの上に落っこちた。クシャロは杖を置き、ベッドに腰を降ろして箱を開けた。ジャンが覗き込むと、その中には針と、色とりどりの糸と、いくつかの端切れが詰まっていた。
クシャロは手早く針に糸を通し、穴に布をあててそれを縫い始めた。さすがの手際だが、ジャンには一つ疑問に思うことがあった。「魔法では直せないの?」
「もちろん、できますよ」クシャロは手を休めず答えた。「でも、こっちでやる方が好きなんです」
修繕はあっと言う間に終わり、シェリは再びジャンの懐に収まった。ほどなく朝食が運び込まれ、それを片付けてから外へ出ると、辺りはまだ薄暗く、天候は相変わらずの雨だった。他のテントはすっかり片付けられ、兵士たちは整列を終えていた。ジャンとクシャロは雨を避けて馬車へ駆け込み、まもなくそれは動き出した。
時折、ウメコからの連絡が、耳の中のシェリを通して入った。彼女は、みんなが隊列の最後尾にいることや、ベルンの街道警備隊の助けが期待できないことを伝えてきた。カラスとカトリーヌが探った情報によれば、ロゼ軍の一部はいまだにベルン周辺に展開していて、街道警備隊と小競り合いをしているのだと言う。明らかに、ジャンを誘拐した部隊から目をそらすための陽動作戦だった。
部隊は休憩を挟みながら行軍を続け、半日ほど過ぎたところであっさりと国境を越えた。もっとも、そこには線が引かれているわけでも、関所のようなものがあるわけでもなく、ただ古びた道標が道の脇にぽつりと立っているだけだった。
部隊が、コズヴィルとロズヴィルを結ぶ街道へたどり着いた頃には、すっかり日が暮れていた。それでも行軍が止む気配はなく、ジャンがいぶかしく思っていると、間もなく彼らは簡易な建物が並ぶ宿営地に入った。
「こんなものを造って、街道警備隊に咎められたりしないの?」ジャンは馬車の窓の外から見える、あちこちでかがり火が焚かれた宿営地の様子を指して、向かいの席に座るクシャロにたずねた。
「クシャロも詳しくは知りませんけど、ロズヴィル街道は何代か前のロゼ伯爵が築いた道路なんで、街道警備隊が出しゃばるいわれはないんだと思います。まあ、私有地みたいなものですからね」
ジャンはうなずいた。街道で軍事行動を許されているのは街道警備隊と王だけであり、それは帝国時代の法律で定められているのだとアランは言っていた。となれば、その法はおそらく、帝国時代に作られた街道にだけ適用されるものなのだろう。
ほどなく馬車は止まり、ジャンたちは宿舎の一つに通された。外観は木造のみすぼらしい造りだが、中は昨夜のテントと同様に絨毯が敷かれ、テーブルとベッドに加え、ソファやごてごてと装飾が施されたチェストまであった。すぐに兵の糧食ではない豪華な食事が運び込まれ、ジャンとクシャロはそれを平らげると、特に示し合わせもせず二人でそこらを物色し始めた。
「おやおや」真っ先にチェストの蓋を開けたクシャロは中を覗き込んで声をあげた。「ジャン、ちょっと見てください」
ソファの柔らかさを念入りに確かめていたジャンは、言われるままクシャロの横に立ち、チェストの中を覗き込んだ。そこには目が痛くなるほどカラフルな、男物の貴族風の服が数点収められていた。試しに銀糸で縁取りがなされた水色の服を手に取ってみれば、どう言うわけかジャンにぴったりのサイズだった。
「まさか、これを着てこいってこと?」ジャンはげんなりして言った。
「こんな風に用意してあるってことは、きっとそうです」
ジャンは水色の服を丸めてチェストに放り込んだ。「僕は今の服でいい。君がせっかく繕ってくれたんだし、何もかもレオンの思い通りになるのもしゃくだからね」
馬車や昨夜のテント、陽動の部隊、宿舎に置かれた調度品に着替えまで。どうやらレオンは周到に準備を整えて、ジャンを捕らえたようだ。そもそも、なんだって彼はジャンの身体の大きさまで知っているのだろう。
不意に胸元がもぞもぞして、襟からシェリが顔を覗かせた。「それいらないは、シェリが食べる、いいですか?」
ジャンは少しだけ迷ってから首を振った。「後で弁償しろって言われても嫌だから、やめておこう」
「残念」シェリは引っ込んだ。
ジャンの頭にある疑いが持ち上がった。ひょっとして、彼女が着せられた服を食べてしまうのは、仕方がなくではなく単に好物だからではないか?
翌朝、部隊は宿営地を出て、再び街道を進み始めた。雨はあがり、しつこく残っていた灰色の雲も、昼頃にはすっかり消えて快晴となった。
ジャンは車中でクシャロとたわいのないおしゃべりを交わしていたが、胸の内には気掛かりを一つ抱えていた。昨日以来、ウメコからの連絡が途絶えていたのだ。クシャロは彼らを拘束するようなことはしていないと言っていたが、この部隊はクシャロが率いているわけではなさそうだし、彼女のあずかり知らないところで何かが行われていないとも限らない。
しばらく経って、部隊が休憩のために足を止めると、クシャロは馬車を降りて近くの兵士に声を掛けてから、どこかへ立ち去った。おそらくプライベートな用事ができたに違いない。ジャンは、馬車の側に立つ見張りの兵士を横目に見ながら、小声でシェリに話し掛けた。
「みんなの様子が知りたいんだ。ウメコが聞いてる音を僕に送ってくれないかな」
それができることはわかっていた。昨日の朝、スイが勝手にジャンの元へ戻ってきたせいで騒動になった時、ウメコは「聞いてたわ」と言っていたのだ。こっちの音が向こうに届くのなら、逆もまた然りだろう。ほどなく、シェリが詰まった方の耳から、リュートの伴奏に乗って歌声が聞こえてきた。それがカラスの声であることに、ジャンはすぐに気付いた。驚いたことにカラスの歌は、アベルやカトリーヌほどではないが、実に見事なものだった。
「こりゃあ、驚いた」演奏が終わるなり、ジローが言った。「あんた、そんな特技もあったんだね」
「宴席なんかで芸人を呼ぶことがあるだろう?」と、カラス。「それのふりをして、盗みに入ろうとする屋敷へ上がらせてもらうんだ。すると、大して怪しまれずに下見ができるって寸法さ」
「芸人のふりってことは、楽器も使えるのかい?」
「まあ、それなりにな。もっとも、子供の時分から今まで一度も触ってないから、期待はするなよ」
「なあに、ちょいと練習すれば勘も取り戻せるってもんさ」ジローは請け合った。「しかし、こうなると、この一座でどれくらい儲かるか試してみたくなるね」
束の間があって、再びジローが言う。「アランはどうなんだい。カトリーヌとアベルがプロ並みだってことはわかってるし、さっきはマルコの旦那とウメコも、この目つきの悪い泥棒に負けないくらい歌が上手だって証明して見せたからね」
「俺も、旦那が歌ってるところは見たことないな」カラスが言う。
「止めておけ」マルコが不吉な声で言った。「彼が女の子になった以外、何も変わってないんだとしたら、きっと後悔することになるぞ」
音痴だとは聞いていたが、そこまでひどいのだろうか?
「さすがに、それは大袈裟だろう」アランがいささか傷付いたような声で抗議した。
「まあ、聴いてみればわかるさ」ジローが伴奏を始めた。
「警告はしたからな」
マルコが言い捨ててすぐさま、とんでもない騒音がジャンの耳を叩いた。声は可愛らしいのだが、調子っぱずれと言う生易しい程度ではない上に、声量が恐ろしく大きく、まるで猛烈な嵐の中へ不意に突っ込んだような衝撃だった。
「シェリ、やめて!」ジャンが叫ぶと、それはぴたりと止んだ。
「どうかしたんですか?」扉を開け、今しも馬車に乗り込もうとしていたクシャロが、ぎょっとして言った。
ジャンはくらくらする頭で、急いで言い訳を考えた。シェリの力で、仲間たちを盗聴していたなどとは言わない方がいいだろう。「シェリに噛まれたんだ。多分、お腹が減ってるんだと思う」
「噛む?」クシャロは目をぱちくりさせた。
「ほら、ノミがどうとか言ってたのを覚えてる? あれは、目に見えないくらい小さなシェリが、僕を齧ってたせいなんだ。彼女はそうやって、僕の身体の表面をまんべんなく食べて、今の大きさになったってわけさ」
クシャロはしばらく、まじまじとジャンを見つめてから言った。「一体、どこまで大きくなれるんですか」
「さあ?」ジャンは答えながら身の丈三〇フィートのシェリを想像して、少しばかり怖くなった。
「それにしても」クシャロが椅子に腰を降ろして言った。「小さな女の子に全身をねぶらせるなんて、感心しない趣味を持ってますね」
「僕が頼んだわけじゃないよ」ジャンは慌てて言った。
「まあまあ」クシャロはくすくす笑った。「誰にも言いませんから、安心してください」
まもなく馬車が動き出した。ジャンは彼女の誤解を解こうと、あれこれ考えたが、どうにも言い訳めいた文句しか思い浮かばず、結局あきらめた。もちろん、クシャロも本気でそう思っているわけではないだろうから、余計な弁解はやぶ蛇になりかねない。
ともかく、みんなが無事であることはわかった。しかし、彼らの陽気な態度は、おそらく警戒の目をそらすための偽装であり、連絡を寄越してこないのは、それが出来ないからなのだろう。あるいは不意に事態が動き出す可能性もあり、ジャンは神経をとがらせて、その時に備えた。
しかし、何事もなく一日が過ぎて、部隊は翌朝にロズヴィルへ到着した。彼らのほとんどは、その門前に留め置かれたが、ジャンたちを載せた馬車は、隊長と数名の兵に伴われてその城壁の中へと足を進めた。
ロズヴィルは美しい都市だった。分厚い城壁に囲まれている様は、王都やトレボー、ベルンと同様だが、中は輝くような白い石造りの瀟洒な建物が建ち並び、驚くべきことにその多くにガラス窓がはまっていた。道行く人々は凝った意匠の服を身にまとい、そこかしこで談笑したり、通りに置かれたテーブルに着いて、朝食やお茶を楽しんでいる。あくせくと駆けたり、人口の多い都市でありがちな、口論や殴り合いと言った激しいコミュニケーションを交わす者も見当たらない。馬車は、その光景をジャンに見せびらかすように、通りをゆっくり進み続け、ずいぶん経ってから、街の建物の中でも一際美しい屋敷の門前で止まった。隊長は二人の部下に命じてジャンを護らせ、残りの部下を待たせて屋敷の中へ足を踏み入れた。彼らは二階へ昇ると一つの部屋の前で足を止め、ジャンはその扉に閂錠が付いているのを目ざとく見て取った。
「ひとまずクシャロは、ここでお別れです」
「マリユスに会えるかな。それと、レオンにも?」
「今から、それを聞きに行くつもりです。ジャンはここで、大人しく閉じ込められててください」
身も蓋もない言い方だった。
「わかったよ」
ジャンが言って肩をすくめると、隊長が扉を開け中へ入るよう促した。ジャンが部屋へ足を踏み入れ、豪奢な室内をぐるりと見回している間に背後で扉が閉じられ、がちゃりと閂錠が掛けられた。
ジャンはカトリーヌにさらわれた時のことを、ふと思い出しながら、ガラスのはまった窓へ歩み寄り、それを開け放った。もっとも、それは逃げたり助けを呼んだりするためではなく、室内の熱気を追い出すことが目的だった。外は昨日から引き続き快晴だったから、窓を閉め切っていれば、いずれオーブンのウズラよろしく蒸し焼きになってしまうだろう。それに――と、ジャンは地面を見下ろす。高さはおよそ一五フィートほどもあり、飛び降りるのは不可能だ。ましてや辺りには、周囲を警戒する兵士の姿もある。カラスの真似をして壁を伝い降りでもしたら、たちまち見付かってしまうに違いない。
ジャンはベッドへ向かい、仰向けに寝転がってから、シェリに話し掛けようとして思いとどまった。盗み聞きをされたり、あるいは覗き見られていないとも限らないのだ。彼は口元を手で隠し小声で言った。「シェリ。顔は出さないで、そのまま聞いて」
「はい」耳の中のシェリが答えた。
「もしレオンと話が出来るようなら、その時は君にやってもらいたいことがあるんだ」
ジャンは自分が考えている作戦について、委細を説明した。
「シェリ、任せるは、よいことです」シェリは乗り気のようだ。友人を武器として扱うことに後ろめたさを感じていたジャンは、その言葉に少しばかり安堵した。
それからしばらく経ち、どこからか鐘の音が聞こえて来た。窓から差す日差しの様子からして、おそらく正午を告げるものだろう。ほどなく、部屋の扉がノックされ、ジャンはベッドに寝転がったまま、それに応えた。「どうぞ」
扉が開き、部屋へ入って来た人物を見るなり、ジャンはぎょっとしてベッドから飛び起きた。
「よお、小僧」男はにやりと笑って言った。
「ジャンを怖がらせないでください、ユーゴ」密偵の背後に立っていたクシャロが言った。「彼と彼の仲間は、あなたを小鬼かなにかのように恐れているんです」
ユーゴが鼻を鳴らした。「こいつが、そんなたまか?」
ジャンは目をすがめて密偵をにらみ付けた。「メーン公爵から、ロゼ伯爵に乗り換えたの?」
「正確に言うと、未来のロゼ伯爵だな」ユーゴは微かにしかめっ面を作った。「そのレオンから、お前を連れてこいと言われて迎えに来た。俺としては後ろ手に縛り上げて、背中を小突きながら歩かせたいところだが、お前の希望はどうなんだ?」
「素直に付いて行くよ」ジャンは肩をすくめた。
「そりゃあ、残念」ユーゴは小さく首を振ってから、優雅にお辞儀をして扉の外を指し示した。「さあ、殿下。こちらにございます」
いっそ「苦しゅうない」と言ってやろうかと思ったが、ジャンは無言で部屋を出た。クシャロが先頭に立って歩き、ジャンのすぐ背後にユーゴが付いた。間もなくクシャロが足を止め、目の前の扉をノックした。「レオンさん、殿下を連れてきましたよ」
扉の向こうから声が返って来た。「どうぞ、勝手に入ってださい」
クシャロが扉を開け、中へ入るようジャンを促した。そこは、どうやら書斎のようで、窓のある部屋の左手には大きな机が置かれ、対面する壁は一面が本棚になっていた。正面の壁際には長ソファがあり、そこにはバラの紋織があるえんじ色の貴族服を着た赤毛の青年が、木鉢と匙を持って座っている。整った目鼻立ちで、優れた職人が彫り上げた石像のような容姿だ。ソファの肘掛には、剣帯が付いたままの剣が無造作に立て掛けられていて、それが装飾らしいものを一切排した、実用的なものであることにジャンは気付いた。
青年の側らには、彼とソファを分け合って座るマリユスがいた。透けるような白い薄衣をまとった少年は、虚ろな笑みを浮かべ、青年の首に手を回し、その頬や首筋にキスをくれたりしている。しかし、何よりもジャンの目を引いたのは、彼の両脚にはまったガラスの義足だった。クシャロが言った「不都合」とは、おそらくこれのことだろう。
「ようこそ、殿下」青年は言った。「ご覧の通り、マリユスに食事を与えているところなので、このままで失礼しますよ」
「おかまいなく、レオン卿」ジャンは、レオンの長ソファと斜向かいに置かれた一人掛けのソファを見付けて、勝手にそこへ腰を下ろした。
「ただのレオンで結構です」レオンは木鉢から粥を一匙すくい、マリユスの口元へ運んだ。「ほら、マリユス。あーんしてください」
マリユスは素直に口を開け、粥が乗った匙をねぶってから、再び保護者の青年にべたべた甘え始める。
「ずいぶん懐かれてるね?」ジャンはマリユスを見つめながら言った。
「ええ」レオンは弛んだ顔で言った。「彼がどう言う状態か、ご存知ですか?」
ジャンはうなずいた。「魂が抜けて、空っぽなんだ。そのせいで、赤ん坊みたいになってる」
「その通りです」レオンはにこりと微笑んだ。マリユスは、匙を持った青年の指にしゃぶりついていた。それは赤ん坊が口寂しさからする行為には見えず、何やらなまめかしい雰囲気があり、ジャンはひどく居心地の悪い気分になった。
「もちろん」レオンは指をしゃぶらせながら、うっとりとマリユスを見つめた。「空っぽではない公爵閣下は崇敬に値する人物ですが、今のこのマリユスも私はなかなかに気に入っているんです。ただ、彼はこのように、とても情熱的なのが困りものでして」
「レオンさん」クシャロが不吉な声で言った。「坊ちゃまに手出ししたら、承知しませんからね」
「わかってますよ、クシャロ。もちろん彼には、一切不埒は働いていません。それでも始終、彼の誘惑に耐え続ける私の気持ちもわかってもらいたいものです」
「わかりたくもない」クシャロはふんと鼻を鳴らした。
「つれないことを言いますね」レオンは指しゃぶりを止めさせ、マリユスの食事を再開した。粥を食べ終わるとマリユスは、ひとつ大きなあくびをしてから、ソファの上で猫のように身体を丸め、寝息を立てはじめた。
「彼の足はどうしたの?」ジャンは、マリユスのガラスの義足に視線を落として言った。
「事故があったのです」レオンが答えた。「マリユスが六歳の頃、母親と一緒に馬車でメヌの城下街へ向かう途中のことでした。何の前触れもなく馬が暴れ出し、彼らを乗せた馬車が横転したのです。二人は路上に投げ出され、倒れた車体はマリユスの膝から下と、彼の母親の頭を押し潰しました」
傷ましい事故の様子を聞いて、ジャンは思わず顔をしかめた。「ひどい」
「まったくです」レオンはうなずいた。「しかも、その事故はマリユスの六人の兄が仕組んだものだったのです。マリユスはその事実を突き止め、傷が癒えるなり兄たちを、一人ずつ事故や病気に見せかけて皆殺しにしました」
「なんだってマリユスのお兄さんたちは、そんなことをしようなんて思ったんだろう?」
「公爵位の継承レースのためです。なんと言ってもマリユスは四歳で軍馬を乗りこなし、六歳になってからは剣や学問においても兄たちをしのぐほどでしたので、先の公爵も彼にはずいぶんと目を掛けていました。兄君たちが弟を煙たく思っていたとしても、不思議はないでしょう?」
ジャンは頷いた。ポーレットの蔵書には、そう言った類のお話がごまんとある。
「もっともマリユスが不具を抱えてからは、セドリック様も息子を厭い、極力人目に触れさせないようにしました。そうして、彼が平々凡々で注目に値しない人物であるように触れ回り、新しい後継者を望むようになったのです」レオンは、ほとんど我知らずと言った様子で、マリユスの頭を撫でながら言った。
「そして、弟が生まれた」と、ジャン。
「よく、ご存じで」レオンはうなずいた。「ジュールは、マリユスにひけを取らない優秀な少年で、賢く、愛らしく、父親に似ず優しい心根があり、兄にとても懐いていました。しかし、自分の存在が兄を脅かしていると気付き、出奔して今では行方が知れません」
「僕が聞いた話だと、一昨年に事故死したことになってるよ?」
レオンは眉間に皺を寄せた。「背格好の似た少年の死体を探すのは、なかなか骨が折れました」
「あなたが、それを偽装したの?」
「いえ。それを企んだのはマリユスとジュールの二人で、私がやったことはただの雑用です」
ジャンは首を捻って、出入口の扉に寄りかかるユーゴに目を向けた。
「殿下がお察しの通りさ」ユーゴはそれだけ言って、肩をすくめた。
密偵であれば、隠ぺい工作などお手の物だろう。もちろん彼は、六人の兄の殺害にも関わっているに違いない。ジャンはレオンに向き直って言った。「公爵家の内情に、ずいぶん詳しいんだね」
「十二の頃からつい最近まで、メヌの城で厄介になっていたんです。体裁上は人質としてですが、未来のメーン公爵の知己を得ることが重要だと父は考えていましたので、私はマリユスの従者を務めていました。そんなわけで公爵家の家中の事情に、少しばかり明るくなったと言うわけです」レオンは、ふと眉を寄せて続けた。「しかし魔族が差し出した、マリユスにそっくりな魔物の女の子を、セドリック様が自分のお気に入りにして間もなく、父は私をロズヴィルへ送り返しました。彼は密かに本物のマリユスを逃がし、匿うつもりでいたので、私がメヌにいるのは都合が悪いと考えたのでしょう」
ジャンはうなずいた。ロゼ伯爵の企みが万が一にも明るみに出れば、人質のレオンの身に危険がおよびかねない。伯爵が事前に手を打つのは当然のことだろう。
「聞きたいことがあるんだ」と、ジャン。
「なんでしょう」レオンは首を傾げた。
「あなたが、マリユスの正当な権利を取り戻そうとしない理由さ。少なくともロゼ伯爵は、いずれマリユスにそれを返そうと思っているからこそ、彼を匿ってたはずなんだ。でも、クシャロに聞く限りだと、あなたはマリユスの身の安全以上に関心はないってことになっている」
「その通りです」レオンは認めた。「私は、このマリユスが手元にありさえすれば、他のことなどどうでもよいのです。むしろ、公爵家などと言うくび木から、彼を解放したいとさえ思っています。母親を失い、不具となり、父親に疎まれ、自分を慕ってくれた弟さえ遠くへ追いやらなければならなくなったのは、それもこれも彼が、メーン公爵家の跡取りだったためですからね」
ジャンは、こっそりため息を漏らした。魔族を排除し、マリユスの手に公爵位を返すことこそ、彼を守ることに繋がるのだとレオンを説得するつもりでいたのだが、当のレオンはマリユスと公爵家の縁を断ち、彼をなんでもない普通の少年にすることで、それを成すつもりでいたのだ。これでは交渉の余地など、まったく無いではないか。
「こうしてマリユスは、伯爵様の人形として大切に愛でられながら、いつまでも幸せに暮らしましたとさ。めでたし、めでたし」
ジャンが締めくくると、レオンは二、三度短く拍手をして微笑んだ。「ハッピーエンドは大好きなんです。もちろん、このお話では殿下の見せ場も用意してありますので、ご安心ください。あなたには友人のために、その身を捧げていただきます。なんと言っても、自己犠牲は感動を呼びますからね」
「駄作だね」ジャンは、ばっさりと切り捨てた。
「手厳しい」レオンは苦笑した。
「お涙ちょうだいが嫌いってわけじゃない。でも、僕の家の本棚には、もっと面白いお話がたくさんあるんだ」ジャンはソファから立ち上がり、襟元に手を突っ込んでシェリを引っ張り出した。「どうせなら、いくらかましな話になるように、手伝ってあげるよ」
そう言うなり、ジャンはシェリをレオン目がけて投げ付けた。シェリは空中で膜状に広がりレオンに襲いかかるが、青年は肘掛に立てかけてあった剣を引っ掴むなり、部屋の真ん中にまで転がってその攻撃を間一髪かわした。
「これは、何だ?」
ソファの背もたれにべたりと張り付き、白煙を上げてそこを溶かしながら人型に戻るシェリを見つめ、レオンは低い声でつぶやいた。シェリには、出来るだけ自分の力を見せびらかし、レオンを脅かすように言ってある。無防備に立ち尽くし、彼女を見つめる青年を見ると、どうやら作戦はうまくいっているようだ。
ジャンは、素早くユーゴとクシャロに目をやった。密偵は扉に背を預けたまま動こうとせず、暴力沙汰が苦手なクシャロはこちらに背を向け、しっかりと両耳を押さえている。ジャンの読みが正しければ、彼らが邪魔をしてくることはない。彼はレオンの背にこっそり忍び寄ってから、いきなり青年を羽交い絞めにした。ところがレオンは身を捻り、あっさり拘束を解いた上にジャンの腕を取り、床へうつ伏せに押し倒してから、その背をどしんと左足で踏みつけて、彼の動きを封じた。そうしている間にも、シェリは大穴の開いたソファから跳躍し、再びレオンに襲い掛かる。レオンは剣を鞘から抜き放つなり、空中のシェリ目がけ横様に払ってこれを退けるが、刃に断たれ真っ二つになったシェリは、落ちた床の上で水玉のように変形し、合体してあっさりと人型に戻った。斬撃が彼女に痛手を与えないことは明らかだった。間髪を入れず、シェリは髪の毛を模した触腕を、レオンの顔目がけて矢のように素早く突き出した。レオンは剣を振ってそれを斬り払おうとするが、触腕は不意に軌道を変えて天井に張り付き、シェリの身体を一気に空中へ運び上げた。シェリは一旦、天井に張り付くと、そこを蹴ってレオンの真上から三度目の攻撃を試みた。触腕を斬り損ね、剣を空振ったレオンは隙だらけに見えたが、彼は強引に剣を引き戻し、刃ではなく平たい剣の腹でシェリを打ち据えた。少女はくるくる回転しながら窓の方へ飛び、ガラスを突き破って屋敷の外へと消え去った。
ジャンは両手を床に付き、身体を持ち上げようとした。しかし、レオンは彼の背中へ馬乗りになってそれを阻み、右腕を取ってぐいと肩の辺りにまで押し上げた。ジャンは苦痛に呻き、ひとまず抵抗をやめた。
「なんとも剣呑な武器ですね」レオンは、シェリが穴を開けたソファに目を向けて言った。
「彼女は武器じゃない」ジャンは訂正した。「友だちだ」
「それは失敬」レオンは、くすりと笑った。「いずれにしても、残念です。私としては、殿下にすすんでこの役を引き受けていただきたかったのですが、どうやらお気に召さなかったと見える」
「だから、マリユスの身の上話を明かして、同情を引こうとしたってこと?」
「まあ、それもありますが、実を言えば、この会談は、私個人の好奇心を満たすためにしつらえたもので、私の興味はもっぱら殿下にあったのです」
「だとしたら、さぞかしがっかりしただろうね」
「まさか」レオンは短く笑って否定した。「聞いた話に違わず愛らしいお顔を拝見できて、じゅうぶん満足していますよ。ただ、もっとよくあなたを知るためにも、もう少しお時間をいただきたいのです」レオンの吐息が耳に触れた。「今夜、私のベッドへご一緒いただければ嬉しいのですが?」
ジャンはクシャロの言葉をふと思い出し、背筋を粟立てた。彼女は、こう言ったのだ。
「レオンさんは、ジャンのように可愛らしい少年が大好きなんです」
どうやら、それは冗談ではなかったらしい。
「シェリ!」
ジャンが叫ぶと、彼の耳から飛び出したシェリの欠片は、すぐ近くにあったレオンの口の中へ飛び込んだ。束の間を置いてレオンが目を丸く見開き、ジャンから手を離して自分の喉を押さえた。その隙にジャンはレオンの身体の下から這い出し、彼が取り落とした剣を引っ掴んでマリユスが寝息を立てるソファの前に立った。
「何をしたんだ?」ユーゴは床の上で悶える主人を見つめながら、のんびりと言った。
「シェリが、彼の喉を塞いでるんだ」ジャンは剣の切っ先を密偵に向けながら言った。どう言うわけか彼は、ジャンを捕まえようという素振りも見せない。
ユーゴは片方の眉をつりあげた。「シェリ?」
「さっき、窓の外へ飛んで行った黄色い小さな生き物です」クシャロが答えた。彼女は首を傾げた。「でも、彼女は屋敷の外から、どうやってレオンさんを苦しめてるんですか?」
「僕の耳の中に、もっと小さなシェリが隠れてたんだ。今はレオンの口の中だけど」ジャンは首を傾げてユーゴとクシャロを見つめた。「僕を捕まえないの?」
「今のところ、俺たちにそうする理由はないんでね」ユーゴは肩をすくめた。
「本当は、わかってるんですよね?」クシャロは面白がるような目でジャンを見つめ返した。
ジャンはため息をつき、剣を放り出してソファに腰を降ろした。彼は、ひとつ頷いた。「君は、僕たちがこうすることを期待してたんだね?」
「そうです」クシャロは認め、肩をすくめた。「まさか、ジャン一人でやってのけるとは思ってもみませんでしたけど」
「ジャン、ひとりないです」ガラスの割れた窓から、シェリがひょこりと顔を覗かせて言った。どうやら、壁を這い上ってきたようだ。
クシャロはくすりと笑った。「そうでしたね」
「ありがとう、シェリ」ジャンは言って、ぐったりと床に伏せるレオンを指差した。「そろそろ、止めてくれる? 僕は、彼に死なれたくないんだ」
シェリがこくりと頷いた途端、レオンはびくりと身を震わせ、激しく咳き込んだ。束の間を置いて、彼は上半身を起こし、喉をさすりながら言った。「今のは?」
「説明は面倒だから端折るけど」ジャンは窓辺から駆け寄って来たシェリを拾い上げ、チュニックの襟元に押し込みながら言った。「今、あなたの命は僕の手の内にある。もし僕がひとつ手を振れば、さっき以上の苦しみを与えることだってできるんだ」
「可愛らしい顔で、ずいぶんと恐ろしいことを言うんですね」レオンはその場であぐらをかき、小さく首を振った。
「でも、事実だ」
「そのようです」レオンは、クシャロとユーゴをちらりと見て言った。「彼らも、どうやら私の味方ではないようですし、ここは降参するしか無いでしょう」
「そもそも、ベルンのお屋敷から坊ちゃまを誘拐しておいて、どうしてクシャロたちがあなたの手助けをするなんて思えるのかが不思議です。まったく、どれだけ面の皮が厚いのやら」クシャロは言って、ふんと鼻を鳴らした。
「ザナに捕まるより、ずっとましだったと思いますが?」レオンは悪びれた様子もなく言った。
「そうだとしても、もっと他にやりようがなかったの?」ジャンはため息をついた。「おかげで僕たちは、彼女とマリユスにいいようにこき使われることになった」
レオンは首を傾げた。
「マリユスはクシャロが作った魔物の身体で、一度はベルンを逃げ出したのに、僕たちを捕まえてからわざわざお屋敷に戻ってきたんだ。それは、僕たちにあなたを殺させて、自分の身体を取り戻そうと考えたからさ。もちろん――」
マリユスの顔が間近にあることに気付き、ジャンは思わず言葉切った。マリユスは笑みを浮かべ、ぼんやりした目をジャンに向けてくる。ぎょっとして身を退くと、彼はさらに顔を近付け、ジャンに覆いかぶさった。ソファに押し倒される格好になってジャンが戸惑っていると、マリユスは彼の首に腕をからめて抱き付き、何度も頬にキスをし始めた。
「ねえ、マリユス。今、大事な話を――」不意に耳たぶを吸われ、背筋がざわざわと粟立った。思わず押し退けようとして、寸前にマリユスがガラスの義足を着けていたことを思い出す。乱暴にして怪我などされてはたまったものではない。ジャンはレオンに目を向けた。「ちょっと、彼をどうにかして」
「私としては、もうしばらく眺めていたいところです」レオンは微笑むだけで、動こうとはしなかった。
シェリに命じて、もう一度彼の喉を塞いでやろうとも思ったが、マリユスが耳の穴に舌を突っ込んできたので、それどころではなくなった。
「仕方ないですね」クシャロはくすくす笑いながら、胸元に手を突っ込んで緑色の宝石を取り出した。彼女は少年たちが絡み合うソファに歩み寄り、マリユスの背に宝石を置いてからそれを手の平で押さえ、短く呪文をつぶやいた。次いで手をよけると、宝石は影も形もなかった。
ふとマリユスが身を離し、身体の下にいるジャンの顔を、きょとんとした様子で見つめ、言った。「ジャン。そんなところで、なにやってるの?」




