21.小さな援軍
馬車の窓から流れる景色を眺めながら、ジャンはむっつりと押し黙っていた。滑らかな布が張られた椅子は柔らかく、車輪がでこぼこした地面を踏む振動をよく抑えてくれるので、座り心地は荷馬車の比ではない。その上、頭上には屋根があり、ちょっと前からぱらつき始めた雨を防いでくれている。このように、まったく申し分のない乗り物ではあるが、虜囚の身とあれば、今の状況を素直に喜べるはずもなかった。唯一の武装である魔族の短剣は取り上げられ、監視が付き、しかも見張り役の彼女はジャンの最も新しい友人であるシェリを殺そうとしたのに、悪びれる様子もない。
「まだ怒ってるんですか?」と、ジャンの真向いの席に座るクシャロが言った。もちろん、ジャンは答えなかった。おしゃべりを楽しむ気分には、到底なれなかった。
「そりゃあ、色々と行き違いはありましたけど、これからしばらくは道連れなんですから、ちょっとくらい機嫌を戻してくれたっていいじゃないですか」
ジャンは窓枠に肘をのせ、物憂い様子で外の景色を眺め続けた。クシャロは口をつぐみ、沈黙が続いた。そして、ずいぶん長いこと経ってから、彼女は言った。「ごめんなさい」
ジャンは窓の外を見るのをやめ、クシャロに目を向けた。彼女はしょんぼりとうなだれていた。その様子を見て、ジャンはため息をついた。怒りを持続させるにはエネルギーが必要だし、そもそもクシャロを嫌いになることなど、彼には不可能だった。「僕の方こそ、ちょっと意地悪だった。ごめんよ」
クシャロは顔を上げ、目をぱちくりさせた。
「結局、シェリは無事だったわけだし、君だって楽しくてそうしたわけじゃないんだよね?」
クシャロはうなずいた。
「だったら、もういいよ」
「ええと」クシャロは言葉を選ぶように、何度か口を開け閉めしてから、ようやく言った。「ありがとう」
「みんなはどうしてるの?」
「自分の馬と馬車でついて来てます」クシャロは袖口で目元を拭って言った。「もちろん監視は付けているし、武器も取り上げたままですけど、少なくとも縛り上げたりはしてません」
「そっか」ジャンはうなずいた。
仲間が自由でいると言うことは、彼らが自身らを脅威と見なされないよう、クシャロやロゼの兵たちに諾々と従っているからだ。もちろん、そうするのは、ジャンの救出の機会をうかがっているからに違いない。
「でも、よくわからないな」ジャンは首を傾げた。せっかく仲直りできたのであれば、彼女から情報を引き出せるか試してみた方がいいだろう。「僕たちが向かってるのは、ロズヴィルなんだよね?」
「それが、何か?」
「ひょっとして君らの言う主様が、ロズヴィルで僕を待ってるとか?」
「いえいえ」クシャロは苦笑いを浮かべた。「クシャロとしては主様の望みも大事なんですが、坊ちゃまの身柄を預かってくれているレオンさんの言い付けも、ないがしろには出来ないんです」
つまり、これを指示したのは、やはりロゼ伯爵の息子のレオンだと言うことか。
「伯爵の息子さんが、僕になんの用事があるんだろう」ジャンはしばらく考える振りをしてから、ぱっと両手を挙げてみせた。「さっぱりわかんないや」
「レオンさんは、ジャンのように可愛らしい少年が大好きなんです」クシャロは真顔で言った。
ジャンは束の間を置いてから彼女の言葉の意味に思い当たり、ぎょっとして息を飲んだ。「まさか」ふと、ダミアンの笑顔が脳裏に浮かんだ。
「冗談です」クシャロはにやにや笑いを浮かべた。
「たちの悪いって頭に付けてよ」ジャンはため息をついた。
「そっちこそ、何も知らないふりは止めたらどうですか。ジャンが賢い王子様だってことは、クシャロはとっくに気付いてるんです」
ジャンは肩をすくめた。「レオンは僕の身柄と引き換えに、君以外の魔族と何かの取引をするつもりなんだ。たぶん彼が欲しいのは、マリユスそっくりの魔物が握っている、メーン公爵家の支配権じゃないかな」
「おっと」クシャロは目を丸くした。「それは、ちょっと予想外の答えです」
「不正解?」
「一部はともかく、むしろ大正解です。特に、偽坊ちゃまの件は」クシャロは苦笑いを浮かべた。「やっぱりジャンは、千里眼の魔法を使えるんじゃないんですか?」
「魔法なんて必要ないよ」ジャンは肩をすくめた。「君が、あんなにひどい目に遭っても、僕の事をザナに教えなかった理由を考えると、魔族の中に対立のようなものがあるんだと気付いたんだ。そして、君の陣営にマリユスがいるのなら、ザナの方にも同じくらい重要な人物が必要になるわけで、それならマリユスそっくりな魔物を作って据えるのが、一番手っ取り早いって結論になった」ジャンはふと思い付いて訂正した。「むしろ、マリユスのそっくりさんを作ったせいで、魔族の中に対立が生まれたって言った方がいいのかな」
クシャロは眉間に皺を寄せた。「まったく、その通りなんで、正直気味が悪いくらいです」
「それでも、よくわからないことがいくつかあるんだ」
「何がですか?」クシャロは首を傾げた。
「まず、君たちがベルンへやってきた時期さ。ウメコは君をベルンで出来た最初の友だちだと言っていたから、君たちは彼女が来るよりも前からベルンに住んでいたはずだよね?」
クシャロはくすりと笑った。「ウメコが偏屈すぎて、クシャロと坊ちゃまが越してくるまで、一人も友だちができなかったとは考えないんですか?」
「偏屈かどうかは別にして、僕は彼女が好きだよ」ジャンはにこりと笑って言った。「それで?」
「正解です」クシャロはうなずいた。「クシャロたちがベルンへ移り住んだのは、ウメコが来る一月ほど前です」
ジャンはうなずいた。「ウメコはベルンへ来て、一年くらいとも言っていたんだ。そして君たちがベルンへ引っ越した目的が、対立する魔族たちの目から逃れるためだとしたら、偽マリユスも一年以上前からいたことになる。でも、マリユスのお父さんは、息子の命を狙う魔族たちと手を切ろうともしなかった。ひょっとしたら、息子がすり替わってることにまったく気付いていなかったのかも知れないけど、彼がそこまで間抜けだとは思えなくって」
「そう難しく考えなくてもいいですよ」クシャロは肩をすくめた。「実は、公爵さんは坊ちゃまが嫌いで、できることなら他の跡継ぎが欲しいと考えてたんです。そこへイゼルの使節団のふりをした姉さま方があらわれて、もっとましな跡継ぎを用意できると言ったので、公爵さんはそれに飛び付きました。新しい坊ちゃまは父親に従順で、しかも魔物はどうしたって女の身体にしか作れませんから、公爵さんは彼女を大層気に入り、本物の坊ちゃまには見向きもしなくなりました」そこまで言って、クシャロはふと顔をしかめた。
ジャンはいぶかしげに彼女を見つめ、束の間を置いて彼女が浮かべる嫌悪の表情の意味に気付いた。マリユスは自分を男だと言い張っていたが、誰もが美少女と見紛うほど愛らしい顔立ちをしていた。そして、蜘蛛の怪物と化す直前に見た彼の身体は、紛れもなく少女のものだった。ジャンは胃がねじれるような不快感を覚えた。「まさか」
クシャロはうなずいた。「おかげで姉さま方は、公爵さんに取り入ることに成功しましたが、彼の関心が、また本物の坊ちゃまに戻らないとも考えて、坊ちゃまを始末することを思い付いたってわけです。ほんと、ひどい話しですよね?」
「ひどいなんてもんじゃないよ」ジャンは憤慨して言った。
「ロゼ伯爵もジャンと同じ感想を持ったみたいで、坊ちゃまをメヌから逃がすことに手を貸してくれたんです。もちろん、あのお屋敷も、彼が用意してくれたものです」
ジャンは腕を組んでうなった。偽マリユスを用意した目的が、単にマリユスの権力を掠め取るだけではなく、セドリックを籠絡するためでもあったとは、まったく予想外だった。そして意外なのは、ロゼ伯爵の行動だ。「伯爵は親分のやることなら、なんでも賛成すると思ってたんだけど、そうでもないんだね?」
「彼だって、自分で考える頭くらいはありますよ。なにより坊ちゃまを死なせれば、公爵家の血を絶やすことになりますからね。それは、結局のところ公爵さんの不利益になるわけですから、伯爵さんとしては例え親分に逆らうことになっても、そうならないように手を打つのが自分の義務だと考えてるみたいです」
それはもう、いっそ友情や尊敬と言うよりも、愛なのではないかとジャンは思った。「レオンはどうなの?」
「彼も似たり寄ったりですね」クシャロは肩をすくめた。「ただ、レオンさんが大好きなのは、坊ちゃまなんです」
「親子二代で、メーン公爵家に惚れ込んでるんだ?」
「ええ」クシャロは小さくため息をついた。「ほんと、あきれるくらいに」
「もちろん彼は僕と引き換えに、マリユスに公爵位を取り返してあげるつもりなんだよね?」
クシャロは顔の前で人差し指を振った。どう言うわけか、彼女は少し嬉しそうだった。「不正解」
ジャンは首を傾げた。
「レオンさんの関心は、坊ちゃまの身の安全にしか向いていません。姉さま方が、偽坊ちゃまを使って何をやろうと、知ったことじゃないって感じです」
「でも――」ふと、背中にむずがゆさを覚えてジャンは言葉を切った。何か、小さな虫にでも咬まれたような感覚だったが、それはすぐに消えた。「レオンがそんなにマリユスのことを好きなら、ベルンなんかじゃなく、自分の手元に置きたいって考えそうだけど?」
「ジャンにしては、ずいぶんおたんちんなことを言いますね。ベルンへ来る前のザナは、ロズヴィルにいたんですよ。それとも、駐屯地の人から何も聞かずにベルンを発ったんですか?」
もちろん、それは承知の上だ。ロゼ伯爵が、ザナを我がロズヴィルの美しき女司祭などと呼んでいたことも、ちゃんとギャバン大佐から聞いている。「ザナは気楽に屋敷を訪れるほど、伯爵家の人たちと仲が良かったわけじゃないんだよね?」
「もちろんです」クシャロはうなずいた。「ただ、彼女の本来の仕事はロゼ伯爵の監視でしたから、お屋敷も見張られてたと考えた方がいいでしょうね」
「監視?」
「前の公爵さんは伯爵さんを信頼していたので、姉さま方にしてみれば、あまり知られたくないことを、たくさん知ってたんです」
ザナは魔物と知覚を共有する魔法を持っていたから、誰かを見張るには適任だろう。使用人に化けた魔物を、屋敷へ送り込むだけでいいのだ。
「そのザナがベルンへ行くことになって、伯爵はずいぶん慌てただろうね」
クシャロはうなずいた。「ザナが来る前日になって、伯爵さんの使いの方が坊ちゃまの屋敷に来ました。坊ちゃまを逃がすことができたのは、本当にぎりぎりのタイミングだったんです」
「でも、どうして魔物の身体なんかで?」
「坊ちゃまの人間の身体は、あちこち逃げ回るのに不都合があったんです」
「不都合?」
「彼が父親に嫌われたのも、そのせいなんですが」クシャロは、ふとため息を落としてから小さく首を振った。「まあ、会えばわかります」
ジャンはいぶかしげにクシャロを見つめた。しかし、クシャロは、それ以上、語ろうとはしなかった。ジャンは質問を変えることにした。「マリユスは、いつから魔物の身体を借りてたの?」
クシャロは首を傾げた。質問の意図を量りかねているようだ。
「ウメコが知ってるマリユスは、不都合の無い魔物の方だったんだ。彼女の店に行ったとき時、ウメコはマリユスがいることを不思議に思ってなかったからね。つまり彼は、ベルンを逃げ出すずっと前から魔物の姿だったってことになる。だとしたら、それは何のために?」
クシャロはジャンをじっと見つめ、ずいぶん経ってから口を開いた。「坊ちゃまが、自分の身体の不都合に悩まされず、人並に暮らせるようにするためです。もちろん、逃げるためと言うのも嘘ではないんですが、まあ、そっちはたまたまそうなったってだけですね」
「人間の身体は、ずっとお屋敷にあったんだね?」
「ええ」クシャロはうなずいた。「子供たちがいた部屋を覚えてますか? ジャンたちが来る前、あそこは人間の坊ちゃまの部屋でした。魂が無いと、彼は赤ん坊みたいになるんです」
すると、子供たちに貸し与えたと言う玩具は、現役の品だったと言うことか。
「そして、その伯爵のお使いが、人間のマリユスをロズヴィルへ連れて行ったわけか。ザナがいなければ、そっちのほうが安全だろうからね」
「まあ、そんなところです」クシャロはうなずいた。
「もう一つわからないのは、マリユスが――」再び、背中にちくちくする感触があった。ジャンは身体をもぞもぞ動かしながら、クシャロにしかめっ面を見せた。「ねえ。この馬車って、ノミでも住んでるの?」
クシャロはきょとんとして首を傾げた。「賓客を乗せる馬車に、そんなもの飼ってたりしないと思いますけど。自分で持ってきた子じゃないんですか?」
「そりゃあ、何日も水浴びしてないけど、昨日まではなんでもなかったんだ」
かと言って、ザヒの塔もノミが巣くうほど不潔には見えなかった。
クシャロはひくひくと鼻をうごめかせた。彼女は首を傾げ、席をジャンの隣りに移動して、再びにおいを嗅ぎはじめた。「なるほど。確かに、ちょっと臭います」
ジャンは少々傷付いた。
「でも、久しぶりに男の子の匂いを嗅ぐと、どきどきしますね」クシャロは言って、にやりと笑った。「むさくるしい兵隊とはぜんぜん違います」
「ちょっと」ジャンはぎょっとして、クシャロから身を離した。
「冗談です」クシャロはにやにや笑いを浮かべた。
「たちの悪い、ね」ジャンは再び窓の外へ視線をくれた。
しばらく経って、馬車は北へ伸びる石畳の道を外れ、右に折れて間道へと入った。地理に疎いジャンではあるが、ロゼ伯爵領が東にあることは知っていたので、隊が急いでリュネ領を離れようとしていることはわかった。ベルンの街道警備隊は、すっかりとは言わないまでも、その機能を取り戻している。もたもたして不法行為が露見することを恐れているのだろう。
外は次第に暗くなり、間もなく馬車は動きを止めて、部隊は野営の準備に入った。兵士たちは手際よくいくつものテントを設え、そのうち特に立派な一基をジャンとクシャロが使うよう告げた。
「いいのかな」テントの中に通されたジャンは、中を見回してつぶやいた。絨毯が敷かれ、中央にはテーブルと椅子があり、さらには小さいながらも二人分のベッドまで置いてある。
「王子様なんですから、これくらい当然です」クシャロは、まるで自分の手柄のように言った。彼女は思い出したように付け加えた。「他のみなさんにも、ここほどじゃないですけど、じゅうぶん快適な寝床を用意してます」
「ありがとう」ジャンはうなずいて言った。
しばらく経って夕食が運ばれてきた。テーブルに並んだのは、豆のスープと分厚いベーコンのステーキ、それに数枚のビスケットだった。どうやら兵の糧食のようだが、なかなかに美味だ。
「食事だけはどうしようもないですね」クシャロは言って、口をへの字に曲げた。
「さすがに厨房は持って来れないからね」ジャンは笑いながら言った。「でも、美味しいよ?」
「まあ、味についてはクシャロも文句ありません」
食事を片付け、特にやることもなくテントの屋根を叩く雨音を聞いていると、ジャンはふと、あることに気付いた。「僕を捕まえろって、いつレオンから指示を受けたの?」
クシャロは礼拝堂でザナを殺した後、大事な用があると言って姿を消した。それはおそらく、魔物から抜き取ったマリユスの魂を安全な場所へ運ぶか、あるいは本人の元へ返すつもりだったのだろう。いずれにせよ、その目的地はロズヴィルに違いなかった。しかし、ベルンからロズヴィルまでは三日の道程がある。彼女がロズヴィルにたどり着き、レオンの指示を受けて戻って来たとすれば、おそらく一週間近く掛かるはずだが、実際に彼女と再会したのはわずか二日後だ。
「みなさんと別れた、すぐ後です」と、クシャロ。「正確にはレオンさんじゃなくて、指示をくれたのは、この部隊の隊長さんなんですけどね。ともかく隊長さんは、みなさんがベルンに入ったことを把握してましたから、彼らはベルンから出る街道を封鎖して、みなさんを捕まえるつもりでいました」
「彼らは、僕らがザナに捕まるかも知れないって考えてなかったのかな?」
クシャロは肩をすくめた。「そうなれば、ザナはジャンをメヌへ送ろうとしますから、そこを捕まえればいいことになります」
「まあ、実際は魔王になった彼女に殺されかけたんだけどね」
「だから、放っておけって言ったじゃないですか」
「そうもいかなかったんだ」ジャンはため息をついた。「ともかく君は、僕たちが塔へ行くことを隊長に教えて、彼らが見当違いの場所にいることを気付かせたってことだね。そして、今に至る?」
クシャロはこくりとうなずいた。
「僕としてはロズヴィルに行って、マリユスに会いたいと思ってたから渡りに船なんだけど」ジャンは腕組みをして顔をしかめた。「その後、どうやって逃げ出すか考えてなかった」
「そんなことを言って」クシャロが不審の目を向けてくる。「本当は、クシャロたちをびっくりさせる何かを、考えてるんじゃないですか?」
「そうだとして、僕が教えると思う?」ジャンはにやりと笑ってから、ふとその笑みを消して背中を掻こうと手を伸ばした。
「またノミですか?」クシャロは首を傾げてたずねた。
ジャンは立ち上がって身体を捻り、ちくちくする場所へ指先を届けようと奮闘した。クシャロも椅子を立ち、ジャンの背後に回り込んでから、少し驚いた様子で声を上げた。「おやまあ」
「なに?」
「背中に穴が開いてます」
背中の肌にクシャロの指先を感じて、ジャンは彼女の言う通りであることに気付いた。かゆみは、まさにその場所から発していたのだが、今はもう収まっている。
「どこかに引っ掛けたのかな」ジャンは首を捻った。そんな記憶はなかった。
「繕ってあげましょうか?」クシャロは親切に申し出た。もちろん、マリユスの屋敷で家政婦をしていた彼女なら、それくらい容易いことだろう。
「ありがとう。でも、マントを羽織ればわからないし、このままでいいよ」
「ジャンは、もう少し身なりに注意を払うべきです」クシャロは言い張った。「伯爵さんのご子息に会おうって言うのに、穴の開いた服を着ていたんじゃ失礼ですよ」
旅に汚れた町民の服なのに、穴の一個や二個など大した事ではないように思えたが、逆らっても益は無さそうだった。「それじゃあ、明日で良いかな? 実を言うと昨日まで熱を出して寝込んでたから、今日はそろそろ休みたいんだ」
「病み上がりならそうだと、早くに言ってください」クシャロは目を三角にして言った。
「ごめんよ」
「謝ってる暇に、さっさとベッドへ行く」クシャロはベッドを指さした。
ジャンは素直に従い、ベッドへ潜り込んだ。
「まったく、寝てる間にいたずらしてやろうと思ってたのに、がっかりです」ぶつぶつ言うクシャロの声が聞こえた。
「ちょっと」ジャンは慌てて身を起こした。
「冗談です」クシャロはにやりと笑って見せてから、蝋燭を吹き消した。テントの中の灯りは、わずかに布を透かして見える外のかがり火だけになった。それを負って立つクシャロの影が、もぞもぞと服を脱ぎ始めるのを見て、ジャンは慌てて毛布を引っ被った。衣擦れの音にどぎまぎしていると、クシャロが自分のベッドへ潜り込む音が聞こえた。
「おやすみなさい、ジャン」と、クシャロの声が聞こえた。
「おやすみ」ジャンは応え、固く目を閉じた。
寝る前に、そんなことがあったせいか、ジャンはひどく気まずい夢を見る羽目になった。彼は、ふわふわとした雲のような白いシーツの上に全裸で横たわっていた。その身体に、これまた裸のクシャロが絡みついている。彼女は無邪気に微笑みながらジャンの体中をまさぐっており、もし目覚めていればひどく不道徳に思えるこの行為を、なぜかジャンは当たり前のことのように受け入れていた。ところが、いつのまにかクシャロはナディアに変わり、彼女はジャンの唇に自分の唇を重ね、それが離れるとスイの顔に変わっていた。悪戯っぽく微笑む少女は狂気の笑みを浮かべる魔物のザナに姿を変え、蜂蜜のように溶けてシェリになり、それがポーレットになったところでジャンはベッドから跳ね起きた。ひどい罪悪感に顔をしかめ、再び眠りに就こう横たわった時だった。
「ジャン」
耳元で声が響き、彼は思わず飛び起きて声を上げた。「誰?」
クシャロのベッドの方から毛布の擦れる音がして、ほどなく眠たげな彼女の声がした。「どうかしたんですか?」
「声がしたんだ」
「声?」クシャロはたずねた。束の間を置いて、彼女は再び口を開いた。「きっと夢でも見たんでしょう」
ジャンは夢の中の彼女を思い出し、またもや罪悪感にさいなまれた。「うん。たぶん、そうだね。起こしてごめんよ」
「気にしないでください」あくびの音が聞こえた。「おやすみなさい」
「おやすみ」
すぐに寝息が聞えてきて、ジャンも毛布へ潜り込んだ。
「声、大きい出す、よくありません」
また、例の声が聞こえた。よくよく考えてみれば、それは聞き覚えのある声だった。「シェリ?」ジャンは、ほとんど息だけを吐きだすようにして、声の主に問いかけた。
「はい」と、声は答えた。「シェリ、ジャンの耳にいます」
シェリの声が聞こえた耳の穴に指を触れると、確かにそこには何かが詰まっていた。
「昨日、病気のジャンを診る、離れてもできるように、小さい、小さいシェリくっつけました。でも、小さいは話せないから、大きくなるは栄養が、必要。ジャン、少し食べました。ごめんなさい」
ジャンはため息をついた。すると、背中に覚えたあの感触は、ノミではなくシェリにかじられていたのか。たぶん、服に開いた穴も彼女の仕業だろう。「いいよ、気にしないで」
「でも、食べ過ぎました」
食べ過ぎた? ジャンがたずねるよりも先に、チュニックの胸元から何かがもぞもぞと這い出し、薄明かりの中、ジャンの目の前に身の丈一フィートほどの、小さなシェリが現れた。羽根でも生えていれば、おとぎ話に出てくる妖精のようだ。しかし、「小さい、小さい」状態から、ここまで育つには、一体どれほどの栄養が必要だったのだろう。
「ねえ」ジャンは少々心配になってたずねた。「まさか、僕のどこかの肉がごっそり無くなってるなんて事はないよね?」
「大丈夫」シェリは請け合った。「体中、ちょっとずつ食べました。痛いこと、ないです」
それで合点が行った。夢の中で覚えた全身を撫で回される感触は、シェリが食事のためにジャンの身体を這いまわっていたせいなのだ。もう、二度としないでくれと頼む前に、シェリは物騒なことを言い出した。
「でも、これだけ大きいは、あいつ殺せます」シェリはクシャロの方を指さした。
「だめだよ」ジャンは急いで言った。「彼女は友だちなんだ。それよりも、僕とクシャロの話は聞いてた?」
小さなシェリはうなずいた。
「君の大きさなら、誰にも気付かれずに外を歩けるよね。なんとか、父さんたちのテントを見付けて、彼らに僕がクシャロから聞き出した話を伝えてほしいんだ。それと、うまく説得できればレオンを味方にできるんじゃないかって、僕が考えてることも」
ジャンとしては信用と言う点において、魔族よりも自分たちに優位があることを訴えるつもりだった。魔族たちにとって、本物のマリユスは厄介な火種でしかなく、取引に応じたとしても彼女たちが約束をたがえる可能性は高い。対してジャンたちはマリユスの友人であり、二度も魔族を退けた実績があるのだ。問題があるとすれば、マリユス自身がジャンたちの庇護を拒む可能性があると言うことだ。多くを語らなかったが、彼は魔族に頼らなければならない理由があり、彼女らと敵対するジャンたちとは相いれないのだと言う。そうであったとしても、ここは一度、仕切り直すべきだろう。まずは偽マリユスを排除して、本物のマリユスをスタートラインに立たせる。その上でなら、ジャンはいくらでも彼との競争に応じるつもりだった。
「わかりました」シェリはもう一度うなずき、ベッドから飛び降りた。彼女は出口へ向かう途中で、ふと振り返った。「耳のシェリ、置いて行きます。いつでも連絡、シェリできる」
ジャンがうなずくと、シェリはテントの垂れ幕をくぐって姿を消した。しばらくまんじりともせず待っていると、ようやく連絡が来た。
「ジャン」ウメコの声だった。「聞こえてたら、耳の中のシェリを二回叩いて。声は出さないようにね?」
シェリは、一体どうやってウメコの声を届けているのだろうと不思議に思いながらも、ジャンは言われた通り、指先で耳に詰まったシェリを叩いた。
「話は聞いたわ。こっちは監視がきつくて、タケゾーもカトリーヌもお手上げなの。もし、ロゼ領へ入るまでに手を打てなかったら、あなたの作戦で行こうってことになってる」
ジャンは再び、こつこつとシェリを叩いた。
「でも、この状況なら余計な事をしないで、あなたの作戦に乗るのが一番ましかも知れないわね。説得に失敗したとしても、魔法でロゼ伯爵のお屋敷を吹っ飛ばして、その隙に逃げ出すことだってできるんだもの」
ジャンは一度だけシェリを叩いた。いいえのつもりだが、伝わるだろうか。
「わかってるわよ。もちろん、その時は人間の坊ちゃんを巻き込まないように気を付けるから、心配しないで」
ジャンは、ほっと安堵のため息をついた。
「ともかく、私たちがお互いに連絡できるってことを、ロッテに勘付かれないようにね。それじゃあ、おやすみ」
ジャンは二度、シェリを叩いてから仰向けになって、テントの屋根を見つめた。予想外の援軍の登場に、彼は少し興奮していた。もちろんジャンも、レオンが説得に応じない可能性があることを承知している。しかし、今ここで逃げ出したりすれば、だだっぴろい平原で兵隊たちと追いかけっこをする羽目になるのは目に見えていた。それよりはロズヴィルまでおとなしく付いて行き、頃合いを見計らって牢を破るほうが、逃げ切れる可能性ははるかに高いだろう。何より、こちらにはその手のプロが二人もいる。そして、シェリが現れたことで、もっと効果的な手段も見えてきた。
シェリは、あの大きさでもクシャロを殺せると言った。つまり、いざとなれば、会談の場でレオンを殺すことも可能なのだ。もちろん、本当に殺すわけではない。ただ、そうできると言うことを、彼に伝えられればよいのだ。
ジャンとしては、伯爵親子にはマリユスを旗印にして、偽物に支配されたメーン公爵家と対決してもらう必要があった。公爵の一の子分だったロゼ伯爵が、こっちのマリユスこそ本物だと言って公爵家奪還を唱えれば、将軍派の貴族たちはこぞって彼らに付くだろう。そして、マリユスに手を貸すようシャルルを説得できれば、アルシヨンのほぼ全土を偽マリユスの敵とすることもできるのだ。
しかし、そのためにはシェリの存在を、ロズヴィルまで隠し通す必要があった。クシャロやロゼの兵隊たちは、半透明の小さな少女に恐ろしい力があることを知っているから、きっと彼女を再び殺そうとするだろう。もちろんシェリは、ほんの一欠けらからでもよみがえることができる。しかし、ジャンたちの手元に恐ろしい武器があると知られれば、周囲に無用な警戒を招きかねない。そもそもレオンには、本来ジャンと会う義理など無いのだから、彼に嫌われるような要素は一つでも減らすべきだ。
つらつらと考え事をしているうちに、眠気を催したジャンは目を閉じた。今のところシェリは、仲間たちの元にいる。クシャロにべったり監視されているジャンより、発見される危険性は低いだろう。ジャンはひとまず心配事を追いやり、眠りに落ちた。そして、朝はあっと言う間に訪れた。
「ジャン、起きてください」
揺り起こされて、ジャンは目を覚ました。目をこすりながら身体を起こすと、すでに身支度を整えたクシャロがベッドの脇に立っている。そして、彼女は言った。「とりあえず、脱ぎましょうか?」
「ええ?」
ぎょっとするジャンを見て、クシャロはにやりと笑った。「朝食の前に、服の穴を繕ってしまいましょう」
ああ、そう言うことかとうなずき、ジャンはチュニックの裾に手を掛けた。
「ジャン」と、ウメコの声が響いた。
何事かと怪訝に思うが、目の前にクシャロがいては返事も出来ない。しかし、脱いだ服の中からシェリが落っこちて、自分の膝の上に収まるのを見て、彼女の用件に察しがついた。クシャロが息を飲んだ。そしてウメコの声が、今さらのように言った。
「シェリがいなくなったの。ひょっとして、そっちに行ってる?」




