19.コード
塔の根元にやって来たジャンは上空を見上げ、その先端を探ろうとした。しかし、雨のせいで視界が煙り、結局、それはかなわない。もっとも、基部の径は五〇フィートほどしかなかったから、さほど巨大なものでないことは、それとわかる。
外壁はありきたりな石積みに見えたが、よくよく見れば構成する石材の形は不揃いで、どうやら自然石のようだった。しかし、それらはぴったりと噛み合い、壁面には隙間一つ見当たらない。それだけで、この塔が人知を外れた物体であることをうかがい知れた。
一行の正面には、入口らしき両開きの大きな扉があった。間口は荷馬車がじゅうぶん通り抜けられそうなほどの広さと高さがあり、荷台を降りたウメコがその片方を引き開けながら、首だけで振り返って皆に言った。「厩舎はないの。馬も荷馬車も、そのまま中に入れてちょうだい」
ジャンも馬を降り、もう片方の扉に取り付いた。石とも粘土ともとれない奇妙な材質のそれは、見た目の大きさよりも軽く、きしみ一つ立てず滑らかに開いた。
扉の向こうは真っ暗で、馬たちは中に入ることをひどく嫌がった。ジャンが自分の馬に危険はないと言い聞かせ、彼女のはみを取って扉をくぐると、ようやく他の馬たちも後へ続いた。
一行が室内に踏み込むと、途端に辺りがぱっと明るくなった。ところが、柱も仕切りも窓もない円形のだだっ広い室内には、どこにも光源らしいものが見当たらない。ジャンはきょろきょろと辺りを見回し、ようやくドーム型の天井全体が、白っぽく輝いていることに気付いた。これが、魔法によるものであることは明らかだった。なんと言っても、ここは偉大な魔法使いの住居なのだ。蝋燭も松明も燃やさず明かりを作るくらい、どうと言うこともないのだろう。
しかし、どんなに素晴らしい魔法が秘められた場所であろうと、ここは厩舎ではない。馬たちに必要なのは魔法ではなく、寝藁と飼い葉と水なのだ。そのことを訴えるつもりでウメコに目を向けると、彼女は悪戯っぽく微笑みながら、部屋の片隅を指さした。ジャンがそちらへ目を向けると、ほんの数瞬前に見た時は何もなかったその場所に、寝藁と飼い葉桶と水桶が、こつ然と現れていた。
「手伝ってくれ」マルコが、馬を荷馬車の長柄から外しながら、誰にともなく呼び掛けた。近くにいたウメコが、すぐに手助けを買って出た。ジャンも手伝おうとするが、マルコは首を振った。
「今夜はここに泊まることになる。自分の馬から鞍と荷を降ろしておけ」
「用事が終わったら、すぐに出発するんじゃないの?」ジャンはたずねた。
「老師の用件に、どれほど時間が掛かるか知れないからな。それに今すぐここを発ったとしても、街道へたどり着くころには日が暮れてしまうだろう。雨の中の野宿は避けたい」
マルコの言葉を聞いた全員がうなずき、それぞれ自分の馬の世話を始めた。それが終わると、カトリーヌはため息をついてウメコに目を向けた。「着替える場所はある?」
「二階と三階に空き部屋があるわ。自分の荷物を持って付いて来て」ウメコは肩の上で手を振って、さっさと階段を昇り始めた。二階にたどり着くと、四つの扉がそれぞれ二つずつ、廊下を挟んで対面しているのが見えた。「男性陣は、ここを使ってちょうだい。着替えが終わったら四階へ集合して」
ジャンは仲間の顔を見回して、部屋が一つ足りないことに気付いた。身体はともかく中身が男のアランも含めれば、さらに一つ不足する。物問いたげにウメコを見ると彼女は昇りの階段に足を掛けていて、さも当然と言った様子でこう答えた。「ジャンとアランは三階よ」
するとカラスが歩み寄って来て、ジャンにカトリーヌの着替えが入った大きな鞄を差し出した。ジャンは黙ってそれを受け取り、すでに階段を昇り始めたウメコとカトリーヌを追い掛けた。
三階の間取りは、二階とまったく変わりなかった。ジャンが荷物を持ってカトリーヌが選んだ部屋の前まで来ると、彼女は手を挙げここまでで良いことを示してから、くすりと笑って言った。「王子様に荷物持ちをさせるなんて、ずいぶん贅沢なサービスね?」
ジャンが大仰なお辞儀をしてみせると、カトリーヌは愉快そうに笑いながら扉を開けて、部屋の中へ姿を消した。アランとウメコも早々に自分の部屋を決めていたので、ジャンは残った空き部屋へ入った。途端、やはり天井が白く輝き、室内を昼間のように照らし出す。部屋の広さはせいぜい一二フィート四方で、少々窮屈な感じを受けた。床も壁も、外壁と同じ自然石を組み合わせて造られており、そのくせどこも水面のように滑らかだ。入口と対面する奥の壁には、木戸のはまった申し訳程度の小さな窓があり、その下の床だけが一フィートほど高くなっている。ベッドが見当たらないので、おそらくそこが寝床なのだろう。振り返ると木製の扉の上部には釘が斜めに打ち込まれていて、ジャンはそれが濡れたマントを引っ掛けて吊るすのに都合がよいことを発見した。着替えなどが詰まったずた袋を寝床の段に置き、革の鞘に収められた短剣を剣帯ごと外してから、やはり寝床に放り出す。ぐずぐずに濡れた服とブーツを脱ぎ捨て、下履き一枚になってから、ほっとため息をつく。
ジャンの裸の胸には、革紐で首から下げた鹿革の小袋があった。剣帯や鞘もそうだが、いずれもジローがギャバン大佐の屋敷からくすねてきたものだ。そして小袋の中身は、あの緑の宝石だった。
ジャンの考えが正しければ、それはスイの魂で、魔族の短剣は人を魔物に変えるものでも、人に化けた魔物の正体を暴くものでもなく、魔物の体内に植え付けられた人間の魂を取り出すための道具だった。これが、ただの人間に対してふるわれても、普通の短剣と同じ効果しか及ぼさないことは、クシャロがザナを刺殺したことで明らかになっている。ところが、そのザナの体内から現れた魔王に、ジャンがこれを突き立てたとき、刃に開いた六角形の穴には、またもや緑の宝石がはまっていたのだ。
魔王には、確かに魂が宿っていた。それと言うのも彼女は魔法を使い、ウメコが言うところによれば、魔法には魂の存在が不可欠だからだ。そして、誰あろう魔王自身が、そこにザナの魂が宿っていることを告げていた。そして、魔王と魔物が本質的に同じものであるとするなら、今、短剣にはまっている宝石は、ザナの魂と言うことになる。もちろん、それを確かめるすべはない。しかし、これは、ある一つの可能性を示していた。
ジャンはくしゃみをした。どうにも寒気がおさまらない。今はつらつらと考え事をするよりも、身体を拭いて服を着るのが先決だった。彼はずた袋の口を開け、急いで乾いた服を引っ張り出した。
着替えを終え、ウメコの言い付け通りに四階へ向かうと、そこは真四角の広い部屋だった。片隅には暖炉があり、その前の床には二〇フィート四方ほどの絨毯が敷かれている。絨毯の上には長ソファが三つと、一人掛けのソファ二つが大理石のテーブルを囲むように置かれ、一人掛けソファの一つにはウメコが座っていた。そして彼女の膝の上には、なぜかアランが仏頂面で乗っており、ウメコは熱心に彼女の金髪に櫛を通していた。他の仲間たちは、まだ着替えの最中なのか姿は見えない。
「二人とも、着替えなかったの?」ジャンはいぶかしげにたずねた。それと言うもの彼女たちの服装が、ベルンを発った時とまったく変わっていなかったからだ。
「あら」ウメコはアランの髪を梳かしながらながら言った。「私は着替えたわよ。でも、持ってる服はみんな、これと大差ないの」
「私はこれしか持っていないからな」アランが言った。「それに、襟首が少しばかり濡れた程度だから、わざわざ着替える必要もないだろう」
「僕は全身ずぶ濡れだったけどね」ジャンは言って、長ソファの真ん中に腰を降ろした。「おじさんに言って、もっとちゃんとしたマントを買ってもらわなきゃ」
「だから裸足なのか?」アランは息子の足下を見て言った。
「まあね」ジャンは肩をすくめて言った。「暖炉があるなら、こっちにブーツを持ってきて乾かせばよかった」
暖炉の前に一晩も置いておけば、すっかりとまでは行かなくても、ある程度は乾燥させることも出来るだろう。ところが、ウメコは言った。
「この暖炉は偽物なの。炎があるように魔法で見せかけてるだけ」
「なんで、そんなことをするの?」ジャンは目をぱちくりさせてたずねた。
「暖炉があると、落ち着くでしょ?」ウメコはアランの髪を手に取り、うっとりとそれを眺めながら言った。「でも、ここは師匠の魔法で、いつも適当な室温に保たれてるから、わざわざ部屋を暖める必要はないってわけ」
しかしジャンは、照明はともかく室温の管理については、魔法よりも暖炉の方が適していると考えていた。暑い寒いは人それぞれだから、寒ければ暖炉の近くへ寄り、暑ければ離れると言った具合に、自分で調整できるからだ。
「もう、いいだろう」アランはウメコの膝から飛び降りた。ウメコは「あっ」と声を上げ、櫛をもった手を伸ばすが、結局あきらめた様子で肩をすくめ、ソファを立った。「何か、飲み物を取ってくるわ」
「手伝うよ」ジャンも腰を上げようとするが、ウメコは首を振ってそれを止めた。「大丈夫。手は足りてるから」
しかし、どう見ても彼女は一人だ。ジャンは首を傾げながらも、ウメコが階段を上るのを黙って見送った。彼女の魔手から逃れたアランはと言えば、暖炉の前に座り込み魔法の炎を興味深げに眺めている。ジャンはその様子を見守っていたが、彼女が炎の中に手を突っ込むのを見てぎょっとした。もちろん、偽物の炎は彼女の手を焦がしたりはせず、その代わり赤や青や緑の四角い光がモザイクのように入り乱れ、出し抜けに消え去った。
「壊してしまった」アランは、ばつの悪い顔を息子に向けて言った。
「たまたま魔法が切れただけさ」
「そうだといいんだが」アランはため息をついた。「あとでウメコに謝って直してもらおう」
ほどなくして階段の方から声が聞こえ、マルコたちが顔を見せた。彼らはソファを見付けると、めいめい腰を降ろした。マルコは甥っ子の横に座り、ジャンは彼のお尻につぶされないよう、ソファの端に移動した。カラスとジローは一人で長ソファを占領し、アベルは床に片膝をついて絨毯を調べ始めた。
「どうかしたの?」
ジャンがたずねると、アベルは首を傾げながら立ち上がり、ジローの隣に腰を降ろしてから答えた。「見たことのない織り方なので、少々気になったのです」
「タークの物に似ている気もするが、たぶん別物だな」カラスが言った。
「タークって?」ジャンはたずねた。初めて聞く地名だった。
「フランドルの南にある地方だ。そこで作られる絨毯は恐ろしく高価で、こんな風に床に敷いて使われることは、まずない。しかし、こいつはそれに遜色ない質だから、買い取るなら金貨を用意しなきゃならないだろうな」
ジャンはぎょっとして絨毯の上から足を浮かせた。確かに、素足で踏んだ感触はとても心地よかったが、高価なものだと知れば、足を置くのもはばかられる。もっとも、いつまでも足を上げたままではいられず、あきらめて絨毯の柔らかな毛足を堪能することにした。
「なんだか、ずいぶんともったいない空間の使い方をしてるわね」遅れてやって来たカトリーヌが、きょろきょろと辺りを見回しながら言った。「下の部屋は、あんなに窮屈なのに、ここはテニスができそうだわ」
「それは大げさだとしても、コートの半分は取れそうだな」マルコは笑って言った。「しかし、このソファやテーブル以外、何もないと言うのもおかしなもんだ。ずいぶん殺風景じゃないか」
「たぶん、急いで用意したんだよ」ジャンは言って、顔の横で指を振った。「魔法で?」
「つまり、普段は何もないがらんどうの部屋ってこと?」カトリーヌはカラスの横に腰を降ろして言った。
ジャンはうなずいた。「一階でも、瞬きする間に飼い葉や寝藁が現れたんだ。あれと同じ事だと思う」
「それで、我らが女主人はどこなの?」カトリーヌはたずねた。
「飲み物を取りに行くって、上に――」ジャンが階段の方へ目を向けると、たくさんのカップを載せた盆を持つ、奇妙な生き物が、そこから降りてくるところだった。それは一見して少女のような姿をしているが、褐色を帯びた半透明の身体をしており、まぎれもなく人間以外の何かだった。
「魔物?」素早くソファを立ったカトリーヌの手には、いつの間にかナイフが握られていた。他の仲間たちも立ち上がり、それぞれの武器を手にした。ジャンも遅ればせながらソファを立ち、魔族の短剣に手を伸ばす。
「魔物、違います」と、少女はたどたどしい口調で言った。彼女は武器を構える人たちに臆することもなく歩み寄り、手際よくテーブルの上にカップを並べて行く。それが終わると滑らかにお辞儀をしてみせた。「これはシェリ、言います。シェリは、みなさん、お世話します」
皆は戸惑った様子で互いに顔を見合わせた。それでも用心深く、シェリに武器を向けたままでいると、階段の方から声が上がった。「みんな、その物騒なものを引っ込めて」
ジャンが目を向けると、二本のガラス瓶を右の脇に抱え、左手に陶器の水差しを持ったウメコが階段を降りて来る。「彼女は、師匠が造ったホムンクルスよ」
「ホムンクルス?」ジャンはたずねた。
ウメコはテーブルに歩み寄り、水差しとガラス瓶を置いてから答えた。「人造人間って言えばわかるかしら。と言っても、彼女は目に見えないほど小さな生き物を集めて人間の形をさせてるだけで、人間とはまったく違う生き物なの」
「ウメコ」シェリが抗議するように言った。「シェリは、人間です」
「ええ、わかってるわ」ウメコは微笑み、シェリにうなずいて見せた。「私が言ってるのは身体の作りのことで、あなたの本質が人間じゃないって言ってるわけじゃないの」
シェリは首を傾げ、ウメコの言葉を吟味してからうなずいた。「それなら、いいです」
「可愛いでしょ?」ウメコは緩んだ顔を仲間たちに向けた。
「まあ、人好きのする容姿ではあるな」マルコは言って、剣を収めてからソファに座り直した。他の仲間たちもそれにならい、シェリはウメコが持ってきた瓶の中身を、全員のカップに注いで回った。ジャンは、この半透明の少女に興味を引かれ、かいがいしく働く彼女の様子を目で追った。
背格好からして、シェリはポーレットよりも、やや幼く見えた。もちろん、魔法で生み出された生物に、人間の年齢を適用できるはずもないから、あるいはジャンよりずっと年上かも知れないし、その逆の可能性もあった。彼女は大まかには人間と同じような姿をしていたが、半透明の身体は全般につるりとしていて、人体にあるべき特徴の多くが省かれていた。そのおかげで、彼女が衣服をまったく身に着けていないと言う事実にも、さほど気まずさを覚えずに済んだ。しかし、何より人間離れしていたのは、その髪と目だ。肩に掛かる程度の髪はキュウリのような房状の器官で、人間の毛髪のような繊維ではないし、アーモンド形の大きな黒い目には白目の部分がまったくない。
シェリが、ふとジャンに目を向けた。「何か?」
「何でもないよ」ジャンはあわてて首を振った。
「女の子をじろじろ見るのは感心しないね」ジローが小さく首を振りながら言った。「それが裸の女の子なら、なおさらだよ」
ウメコがぴしゃりと自分の額を平手で打った。「すっかり忘れてたわ。私も師匠も彼女に慣れてるから平気だけど、確かに身内以外には、ちょっとはしたなく見えるわね」
「しかし、なんだって素っ裸なんだ?」カラスがもっともな疑問を口にした。
「服を着せると食べてしまうのよ」と、ウメコ。
「食べる?」ジャンは目をぱちくりさせた。
「もちろん、私たちみたいに口で食べるんじゃないわよ。彼女は身体の表面で、少しずつ物を溶かして吸収するの。大抵の有機物は分解してしまうから、服もすぐぼろぼろになってしまうってわけ」
「有機物って?」
「大ざっぱに言って、燃やすと炭になる物よ」
ジャンはぎょっとしてシェリを見た。燃やして炭になる物は様々あり、その中には人間も含まれているのだ。しかし彼は、シェリが立つ絨毯も、また同様であることに気付いた。それでも彼女が歩いたあとに、穴が開いているようには見えないので、おそらく食べて良いものと悪いものの区別は付けられるのだろう。
シェリは首を傾げながらジャンに右手を伸ばし、彼の額に触れた。彼女の手は柔らかく、幸いなことに皮膚を溶かされるような感触はなかった。それはむしろ吸い付くように滑らかで、ひんやりと心地よかった。シェリは、しばらくジャンの顔を見つめてから言った。「熱、出てます。少し」
マルコはテーブルの上のカップに伸ばしかけていた手を止め、隣に座る甥っ子に目を向けた。火の消えた暖炉の前に座り込んでいたアランも、素早く立ち上がってジャンが座るソファに歩み寄る。
「いつからだ?」マルコはたずねた。
「たぶん今朝かな」ジャンはしかめっ面をして答えた。熱が出ているとわかった途端、急に具合が悪くなって来たように思えた。「てっきり雨に濡れたせいで、寒いのかと思ってた」
「部屋で休んでいた方がよさそうだな」アランが言った。
「待って」ジャンは慌てて言った。「老師に、どうしても聞きたいことがあるんだ」
アランとマルコは顔を見合わせた。
「風邪を治すには、寝るのが一番なんだがな」マルコはため息をついた。彼は甥っ子に目を向けた。「我々が代わりに聞くのではだめなのか?」
「聞き逃しがないようにしたいんだ。それには、僕が自分で質問した方がいいと思う」
アランはウメコに目を向けた。「ザヒを呼んでくれ。さっさと用件を済ませよう」
「それには及ばんよ」不意に声がして、見れば一人掛けのソファに白いローブを着た老人が座っていた。彼は気遣わしげにジャンへ目を向けた。「大丈夫かね」
「はい、老師」ジャンはうなずいた。
「ひとまず、こっちの用事から片付けさせてくれ」老賢者はアランに目を向けた。「少しばかり、まずいことになりつつある」
アランは首を傾げて先を促した。
「イゼルを支配するのは十二の氏族で、ゼエルはそのうちの一つの長だ。彼が国王でいられるのは、他の十一の氏族の長がそれを認めているからでしかない。ところが、そのうちの四氏族の中で、ゼエルへの支持を取り下げようとする声が上がり始めている」
「その辺りは、アルシヨンとの同盟話で片付いたんじゃないのか?」アランはいぶかしげにたずねた。
「もちろん、剣王の故国と兄弟国になると聞いて、大半の国民は諸手を挙げて喜んださ。おかげで、ゼエルの株も大いに上がった。しかし、外国の力を借りなければ国をまとめきれない王を、不甲斐ないと思う者も少なくない。加えてゼエルは、公然と王国を批判してはばからない魔王崇拝の狂信者たちを放置してきたから、口さがない連中は彼を臆病者呼ばわりしている」
「でも」と、カトリーヌ。「私が知る限りだと、イゼルが自力で国家としての体裁を維持するのは、とても難しい状況だったはずよ。国民の帰属意識は家族や部族の単位にとどまってるし、剣王の名声を借りて、彼らの忠誠心を集めるのは悪い考えじゃないわ。それに、民衆の中にはまだ、魔王に対する恐怖が根強く残っていて、魔王崇拝を完全には捨てきれない人も少なくないでしょ。もしゼエル陛下が、街角でわめく狂信者を片っ端から捕まえて回ったりしたら、彼らの不安を煽って、反対に狂信者たちを勢いづかせることになってたはずよ」
「どうして自分たちを苦しめる相手を、崇めたりするんだろう」ジャンは首をひねってつぶやいた。
「信仰の源とは畏れなのだ」と、ザヒ。「力のある恐ろしい相手だからこそ、怒らせないように努めようと考えるものではないかね?」彼はカトリーヌに向き直った。「どうやらお嬢さんは、私よりもこっちの情勢に詳しいようだ」
「そうあるように努力してるの」カトリーヌはにこりと笑って言った。
「では、それを見込んで頼みがある」
カトリーヌは首を傾げた。
「イゼルにいるお嬢さんの部下を、何人か貸してもらいたいのだ」
「嗅ぎ回りたいことでもあるの?」
ザヒはうなずいた。「実を言えば、お嬢さんが言ったことは、十二氏族の中でとっくに了解されていたことなのだ。ところが、ここ一月か二月の間に、手の平をひっくり返す連中がぞろぞろ出て来た。その心変わりがあまりにも急だから、私は彼らの裏で何者かが糸を引いているのではないかと疑っている」
「またぞろ魔族の仕業じゃないのか?」マルコがたずねた。
「十中八九、そう考えてよかろう」ザヒは言った。「アルシヨンでの騒ぎと氏族たちの離心が、ほぼ同時期に起こったことを偶然と捉えるか否かにもよるが?」
「偶然とは便利な言葉だが」マルコは渋い顔をした。「安易にそれを使って重大な兆しを見逃すと、大抵はあとで厄介事に巻き込まれる」
「まったく同意見だ」ザヒはうなずいた。「しかし、私一人では出来ることが限られるし、こそこそ嗅ぎ回るのはいささか苦手でな」彼はカラスに目を向けた。「お前がこっちにいてくれれば良かったんだが」
「イゼルへ帰るついでに、彼も連れて行ったらどうだい」ジローが提案した。「魔法で?」
「いや」ザヒは首を振った。「今、お前さんが見ている私は、ただの影でしかない。私自身はまだイゼルにあるから、カラスに魔法を掛けるのは不可能だ」
「だから、私の部下が必要なのね?」と、カトリーヌ。
「構わんかね?」ザヒはたずねた。
「もちろんよ」カトリーヌはうなずいた。「イゼルの王都で、誰でもいいから適当なアルシヨンの人間を捜して、その人にニシンの薫製についてたずねてちょうだい」
「ニシンは嫌いなのだ」ザヒはしかめっ面をした。
「ただの符牒よ」カトリーヌは笑った。「それで、もし彼か彼女が蜂蜜の話を返して来たら、私が手を貸すように言っていたと伝えればいいわ」
「やってみよう」ザヒはうなずき、次いでたずねた。「そっちの状況は?」
「おもしろく脚色してもいいかい?」ジローがリュートをかき鳴らした。
「いや」ザヒは首を振った。「端折るのは構わないが、余計な演出は無しだ」
ジローはため息を一つ落とし、王都を発ってから起きた出来事を、かいつまんで話した。
「教会とメーン領の乗っ取り、そしてイゼルとアルシヨン、二つの王国での反乱」ザヒはうなった。「魔族も、ずいぶんと手広く活動しているな?」
「そのリストに皇太子の暗殺未遂も加えてくれる?」カトリーヌは言った。「クセは、ジャンが剣王の息子だと知る前、彼とスイの成婚パレードの最中にスイを魔物に変身させて、彼女に自分の夫を食い殺させようと企んでたの」
ジャンはぎょっとしてカトリーヌを見つめた。「なんで話してくれなかったの?」
「話しても、あなたが怖がる以外に楽しいことなんて、何もないんだもの」カトリーヌは肩をすくめた。
「俺も初耳だ」カラスが口を挟んだ。「クセが、それを本気でやろうとしていたのなら、ちょいと妙な話になってくるぞ」
カトリーヌは束の間カラスを見つめてから、首を傾げてたずねた。「どう言うこと?」
「これまで魔族は、ずっと裏方だったんだ。クセにせよザナにせよ、メーン公爵への支援はしても、自分たちが表立って何かをすると言うようなことはしなかった。彼女たちは、魔族の存在が大っぴらになることを、避けていたふしがある」
「でも、魔族のことを私たちに明かしたのはクセ自身だし、ザナもギャバン大佐にそれを教えたのよ?」
「クセが議場にいた連中を、皆殺しにするつもりでいたとしたら?」
カトリーヌは息を飲んだ。
カラスは続けた。「ムカデの魔物が出口で通せん坊をしてたのは、要するにそう言うことだろう。そしてメーン公爵はユーゴに命じて、議場を逃げ出す貴族を殺させた。ザナの場合、ギャバン大佐はあの書斎に閉じ込められ、他に彼女の正体を知っているのは、その信奉者たちだけだった。つまり、どっちも俺たちが邪魔をしなければ、秘密は守られていたはずなんだ」
カトリーヌは険しい顔で考え込み、しばらく経ってから口を開いた。「お仕置きの種が、また一つ増えたみたいね」
「なんだって?」カラスはきょとんとして訊いた。
「気にしないで」カトリーヌはため息をついた。「議場でユーゴがつぶやいてたのを聞いたんだけど、彼は魔物を操るクセの能力を疑ってたの」
ジャンはジローに目を向けた。ジローはうなずき返し、カトリーヌを見て言った。「あのゴロツキの台詞は、こうだよ。すると、あの女が魔物を操れると言ったのは、嘘じゃなかったわけか」
カトリーヌは彼にうなずいて見せてから、カラスに向き直った。「あなたの言う通りよ、カラス。どうしてかはわからないけど、魔族は自分たちの存在や能力が、世間に知れ渡ることを避けているようね。そしてユーゴが彼女たちの力が実際にふるわれるところを、あの時まで目にしていなかったのだから、きっと魔族の存在はメーン公爵家の家中でも、限られた人間にしか明かされてなかったんだわ。でも、クセが自分の企み通りにジャンを暗殺すれば、何もかもみんなに知れ渡ることになってしまう。あなたが引っ掛かってるのは、そこね?」
その矛盾を解決する筋書きを、ジャンはたった一つしか思い浮かばなかった。彼は言った。「たぶん、順番の問題だよ」
カラスとカトリーヌが揃ってジャンに目を向けた。彼は続けた。「手始めに反乱や魔物の襲撃で、みんなの不安をあおっておいて、しまいに王都で祝い事を台無しにするような事件を起こせば、シャルルおじさんの権威はがた落ちになるし、王国は大混乱する」
カラスは首を振った。「ただ混乱を作り出すだけなら、魔物をアルシヨン全土に放てば済むことだ。わざわざメーン公爵や教会の力を借りるまでもない」
「そうだね」ジャンはうなずいた。「でも、魔界の王国の王女が魔物に姿を変えて、みんなの前で僕を殺し、その時クセが、自分の元締めをゼエル陛下だと言えば、たぶんアルシヨンとイゼルは戦争になると思うんだ。もちろん、死んだのは僕じゃなくてスイの方だけど、ひょっとしたら結果は同じになるかも知れない」彼はマルコに目を向けた。「僕たちが急がなきゃならない理由は、それだよね?」
マルコはうなずいた。「老師の話によれば、もうさほどの猶予もないだろう。もしイゼルで、スイの仇討ちを唱える声でも上がろうものなら、ゼエルはいよいよ自分が臆病者ではないことを、皆に示さなければならなくなる。好むと好まざるに関わりなくな」
「それだけじゃない」ジャンは言って、ぐるりとみなの顔を見渡した。「もし偽マリユスとフランドルが手を組んでるとしたら、アルシヨンはたぶん、同時に二つの外国と戦争をすることになるんだ。そうなったら、きっと魔物が何百匹いても、追い付かないくらい人が死ぬことになる。でも、それらが全部、魔族の陰謀だとわかってしまえば、みんなは少なくともイゼルとの戦争が無意味で、本当に戦うべき相手が別にあると気付いてしまうよね。だから魔族は、わざわざ回りくどいことをしてまで、自分たちが本当の黒幕だってことを隠そうとした――たぶん、そう言うことじゃないかな」
ジャンが話し終えると、室内はしんと静まりかえった。じんじんと耳鳴りがして、彼はいよいよ具合が悪くなってきたが、自分の部屋へ戻って寝ろと言われないよう、平気なふりを装った。ともかく、ザヒから聞きたいことを聞き出すまでの辛抱だ。
「幸いにも」マルコが口を開いた。「アルシヨンでは議会の一件で、魔族の脅威が知れ渡っている」彼は束の間考えてから言い直した。「知れ渡りつつある、と言った方がよさそうだな。パトリックのように議会を欠席していた貴族が、それを承知するまでにはもうしばらく掛かるだろう。ましてや市井の者にまで広がるには、さらに時間が必要だ。それでも、ジャンの言う魔族の企みの一端を、挫くことには成功したと考えていい。もっとも、それは我々の手柄と言うより、セドリックがへまを踏んだおかげだろうが?」
「そうね」カトリーヌはうなずいた。「ブルネ公爵の暗殺に、虎の子の傭兵を使うなんて馬鹿なことをしなければ、彼のクーデターは成功してたかも知れない。そうなれば、クセが魔物を呼び出して、自分の正体を明かすこともなかったはずだもの」カトリーヌは、はっと息を飲んだ。「ひょっとして国務卿の暗殺は、フランドルの差し金じゃないかしら?」
「あり得る話だ」マルコはうなずいた。「セドリックは皇帝の椅子を欲しがっていた。となれば、いずれ彼はアルシヨンだけでなく、フランドルとベザンにも自分の地位を認めさせなければならないからな」
ジャンはアランに目を向け、首を傾げて説明を求めた。
「アルシヨン、フランドル、ベザンの三王国は、帝国を支えた中心的な国家だったんだ」アランは言った。「法的にはアルシヨン一国でも皇帝の即位を決められるが、かつてそれをやった皇帝の在位期間は、たったの十日だった」
「なんでアルシヨンだけ、そんな特別扱いなの?」
「アルシヨン王が帝国の祖で、フランドルとベザンは彼の息子たちが建てた国だからだ」
ジャンが説明を受けている間にも、マルコは話しを続けていた。「もしフランドルが、皇帝位を認める見返りに国務卿の死を求めていたとすれば、セドリックはそれが最悪のタイミングだったとしても、切り札を使わざるを得なかっただろう。もっとも、そうすることで彼は、国内でのシャルルの影響力を、大いに削ぐことが出来るわけだから、むしろ一石二鳥と考えたかも知れない」
「それはみんな、本当に魔族の仕業と考えていいのかい?」ジローが言った。「もし私が事情を知らなかったら、みんなフランドルやセドリックの思惑で起こった出来事に見えてしまいそうだよ」
「それこそが、まさにジャンの言ったことが正しいと言う証左だろう」ザヒは言った。「こちらでも、ゼエルは魔族の存在について、まったく承知していなかった。つまりイゼルの魔族たちは、メーン公爵よりも周到な人物を、味方にしていると見るべきだ。こうなると、もはや敵失での得点を期待していてはいられない。私は、連中の尻尾を掴めるか、なんとか頑張ってみるつもりだ」
「我々は、できるだけ急いでイゼルへたどり着き、アルシヨンに二心がないことをゼエルに伝える」アランが言った。彼女は息子に目を向けた。「だからと言って、ロズヴィルを通るつもりはない」
「ベア湖はよく荒れるからな」ザヒはうなずいた。「回り道に見えるが、陸路を行く方が早い場合が多い」
そう言うことじゃないんだけどと思いながら、ジャンは肩をすくめた。「わかってるよ」
「それで、私に聞きたいこととはなんだね?」ザヒはたずねた。
ジャンはうなずき、魔族の短剣と宝石に関する自分の見解を、彼に伝えた。ザヒは考え込み、しばらく経ってから口を開いた。「なるほど」
「間違ってるかな?」
「おそらく、お前さんの考えで正解だろう。もっとも、私は魔族の魔法にそれほど詳しいわけではないから、断言は出来ないがね」
「それじゃあ、もし――」ジャンは言って、一度唇を引き結んだ。ここからが本題だった。彼は意を決して口を開いた。「もし、新しい身体を用意して、そこにスイの魂を植え付ければ、彼女を生き返らせることはできる?」
みなが一様に、ぎょっとした様子でジャンを見つめた。死者を蘇らせるなど、とんでもない考えだと言うことは、たずねた当の本人であるジャンも重々承知している。
ザヒは瞑目し、じっと考え込んだ。ずいぶん経ってから、彼はようやく口を開いた。「その可能性はある」しかし老賢者は、すぐに手の平をジャンに向け、彼の続く質問を遮った。「ただし、問題もある」
「どんな?」
「魂を抜き差しする魔法について、私がほとんど何も知らないと言うことだ。いくつかの文献に、それらしい魔法が大昔にあったことは記されているが、生憎とそれに必要な呪文や、係る制約と言った情報は失われている。魔族は、どうにかしてそれを取り戻すことができたようだが、もしお前さんが自分の望みを果たそうとするなら、彼らに取引を持ちかけなければならない。そして、お前さんが支払える対価は、自分の身柄しかないと言うことだ」
「そうなると、彼女たちの魂を操る魔法を、どうにかして自力で探し当てるしかないってことだね」ジャンは腕を組んでうなった。
「まだあるぞ」と、ザヒ。「代わりの肉体をどうやって用意するかだ。手っ取り早いのは、誰か適当な人間を犠牲にすることだが?」
「論外だよ」ジャンはしかめっ面を作って言った。
「ちょっといいかい?」ジローが口を挟んだ。「魂を宝石にして、それを他人に植え付るって、私が議事堂ででっち上げた話とそっくり同じじゃないか」
「お前さんが言った宝石は緑ではなく青だし、私は姫にアランの魂を植え付けたりはしていない」と、ザヒ。「大枠で合っているのは認めるがね」
「それじゃあ、父さんは本当に、異国のお姫様に魂を植え付けられてるってこと?」ジャンはたずねた。
「他に考えようがないとすれば、そう言うことになるな」ザヒの歯切れは悪かった。「しかし、誰がそれを、なぜ、どうやって為したのかはわからない。もちろん、姫君とやらの正体も」
「ぱっと見たところ、魔界の人たちによく似てるね?」ジローは首を傾げながらつぶやいた。「もちろん、私が知ってる魔界人は、数えるほどしかいないけど」
「実を言えば、人間かどうかも怪しいんだ」と、アラン。「なんと言っても、出自が魔王の腹の中だからな」
「そりゃあ、どう言うことだい?」ジローはぎょっとしてたずねた。
「言葉の通りさ」と、カラス。「旦那が魔王を真っ二つにした時、腹の中からエメラルドの棺が転がり出て来て、姫さんはその中に眠ってたんだ。旦那は、断末魔でのたうちまわる魔王から、彼女をかばって魔王に殺され、その直後に棺が煙のように消え失せて、目を覚ました姫さんは自分をアランだと言い張った。もちろん俺たちは何が何だかわからなかったが、それを信じる信じないを決める前に、急いでその場を逃げ出すしかなかった。魔王の死体が突然膨れ上がり、魔王の城を埋め尽くし始めたからだ。俺たちは次の日になって、もう一度、魔王城を訪れたが、からからに干からびた魔王の死骸があるばかりで、中はすっかりもぬけの殻だった。もちろん旦那の亡骸も、跡形もなく消えていた」
ジローは腕を組んで考え込んでいたが、しばらく経って口を開いた。「私が考えた話より、そっちの方がよっぽど突拍子もないね」
「でも、私が調べた限り、アランは普通の人間よ」ウメコが言った。しかし、彼女は束の間考えてから付け加えた。「ちょっと成長が遅い気もするけど」
アランは十年間、まったく変わりない姿をしていたのだ。それを「ちょっと」で片付けるのウメコの感覚は、いささかずれているようにジャンは思えた。
「わたしが調べれば、違う結論になったかも知れんぞ?」と、ザヒ。
「あら、だめよ」ウメコは言った。「中身はともかく、身体は小さな女の子なのよ。裸にひんむいて、台に乗せて、それをじろじろ眺めるなんて許せるわけがないわ」
ザヒは片方の眉を吊り上げた。「しかし、お前はそれをやったのだろう?」
「私はいいの」ウメコはふふんと鼻を鳴らした。「女の子同士なんだもの」
ザヒはため息を落としてから、みなを見渡した。「不公平だと思わんかね?」
「どうでしょう?」アベルが言った。「あなたがそれをやると、いささか不道徳に思えます」
「新たな発見を為そうとしている時に、いちいち旧態の倫理を持ち出していては、なんの進歩も得られなくなってしまうぞ」ザヒはぶつぶつ言った。
「主様」不意にシェリが口をはさみ、ジャンを指差した。「彼、必要。休む」
「おお、そうだったな」ザヒは魔法生物の少女にうなずいて見せてから、ジャンに目を向けた。「コードを探すのだ」
「コード?」ジャンは聞き返した。
「あらゆる生き物は、その身体を形作る設計図を自身が持っている。それは爪の一片、髪の一本、あるいは血の一滴に至るまで、全身のあらゆる場所に暗号として記録されているのだ。もし、王女の身体の一部でも手に入れられれば、彼女を生き返らせると言うお前の望みも叶うやも知れん」
ジャンはうなずいた。それがあるとすれば、まさにクセがスイを殺したその場所だろう。人間の彼女が死んでから、どれほど経つかは知れないが、それでも骨や髪の毛くらいは残っているはずだ。そのためには、まずスイの足取りを探る必要がある。そして、首尾よく遺体を発見できたとしても、今度はそれが本当にスイのものであるか否かを見分けなければならない。さらに、そのコードとやらを見付けたとして、そこからどうやってスイの身体を取り戻せばよいのだろう。
「私が探していた魔法は、その設計図から肉体を再生するものなのだ」と、アラン。「もっとも、あまりめぼしい情報は見つかっていないがな」
「手伝うよ」と、ジャン。「僕にもそれを探す理由ができた」
「私の場合、お前が気にしなければ、このままでも構わないんだが?」アランはくすりと笑って言った。
「僕は、どっちの父さんも好きだよ。そりゃあ、男の方の父さんには覚えがないけど、それでも中身が父さんなら、僕はきっと好きになると思う」そう言ってから、ジャンはふと気付いた。「でも、魔法が見つかったとして、父さんは自分のコードをどうやって用意するの。確か、父さんの死体はすっかり無くなってたんだよね?」
「コードは親から子へと受け継がれるのだ」ザヒが言った。「お前さんはアランとマリーから、それぞれ半分ずつコードを受け取っているわけだから、少なくともアランの半分は用意できたことになる。残りの半分は、彼の母親の親族から手に入れればよい。もちろん、本人の一部があれば、それにこしたことはないがね」
「それならゼエル陛下と彼の奥さんから、髪なり爪なりもらえれば、スイの身体を作り出せるんじゃないかな?」
「理論的にはそうだ」ザヒは認めた。「ただし、双子でもない限り、兄弟がそっくり同じ姿で生まれることは非常にまれだから、王女とそっくり同じ肉体を作り出せるかはわからない」
つまり、スイを取り戻すには、やはり彼女の亡骸を見つけ出す必要がありそうだ。
「それにしたって、肝心の魔法はどこにあるんだろうな」と、カラス。「俺と旦那が十年探しまわっても、手掛かり一つ見付けられなかったんだ」
「たぶん、それも魔族が知ってるよ」と、ジャン。
「どう言うことだ?」ザヒが片方の眉を吊り上げて訊いた。
「だって、身体を新しく作り直す魔法と、魂を他人へ移し替える魔法があるとしたら、それは一揃えになっていないとおかしいよね?」
ジローがぽんと手を打ち鳴らした。「不老不死だ。そうだろ?」
ジャンはうなずいた。「色んなお話に取り上げられる題材だからね。きっと昔の人たちもそれに憧れて、二つの魔法を作ったんじゃないかな。だから、それぞれの魔法を別々に探すんじゃなく、不老不死を実現するための魔法を探せば、僕たちは望みのものを手に入れられるかもしれない」
ザヒは目を丸くしてジャンを見つめ、しばらく経ってから笑い出した。そうして、ひとしきり笑ってから弟子に目を向けた。「なぜ魔法の専門家が二人も揃って、その可能性に気付けなかった?」
「きっと、ジャンが特別なのよ」ウメコは肩をすくめて言った。
ザヒはうなずき、ジャンに向き直った。「どうだろう。少し、我々と話をしないか?」
「主様」シェリが剣呑な眼差しで老賢者を睨んだ。
「わかっているとも」ザヒは無念そうに言って、ソファを立った。彼はぐるりと一同を見渡した。「私はそろそろ行くとしよう。こちらは私とお嬢さんの部下で目を光らせておくが、お前たちもできる限り急いでくれ」
「何度も同じことを言ってると、耄碌したと思われるぜ?」カラスが言った。
「だったら、もっと年寄りを労わったらどうだ」ザヒは鼻を鳴らして言ってから、シェリに目を向けた。「ジャンの面倒を見てやってくれ」
シェリがうなずくと、ザヒは色とりどりの光の欠片となって、出し抜けに消え去った。
ザヒがいた場所を、ジャンが目をぱちくりさせながら見つめた。不意に、シェリがジャンの身体とソファの間に腕を差し込み、彼をひょいと横抱きに抱え上げた。そして彼女は、ジャンが驚く間もなく、そのまま階段へと向かい歩き出した。
「ちょっと」我に返ったジャンは慌てて抗議した。「自分で歩けるよ」
「シェリは、面倒を見ます」ホムンクルスの少女は言い張り、構うことなく階段を降りはじめた。じたばたしてバランスを崩されてもまずいので、ジャンは素直にシェリの首にしがみついた。
客間がある三階へたどり着くと、シェリはジャンが自分の部屋を教える前に、その扉の前に立っていた。流石に両手がふさがっていては扉を開けられないだろうとジャンは考えたが、シェリの頭から垂れ下がる髪の毛まがいの房の一つがするすると伸び、器用に取っ手を掴んで扉を開けた。
「便利だね」ジャンがほめると、シェリはこくりと一つうなずいた。
部屋の中を見ると、出てきたときと様子が変わっていた。寝台代わりの石段に放置されていた荷物は床に移され、石段の上には藁布団が敷かれ、毛布まで用意されていた。おそらく、これも魔法の類だろうと、ジャンはいちいち驚くのをやめた。シェリはジャンを藁布団に寝かせ、身体の上にそっと毛布を掛けた。
「ありがとう、シェリ」
ジャンが礼を言うと、ホムンクルスの少女はうなずき、そのまま直立不動の姿勢で置物のように動かなくなった。しばらく経って、ジャンはたずねた。「なにしてるの?」
「ジャンの、面倒を見ています」
「ええと」ありがたい話だが、ベッドの脇にずっと立たれていては落ち着かない。「今は特に、何も困ってないよ」
「でも、主様、言いました。ジャンの面倒、見ます」シェリは頑なだった。
「わかったよ」ジャンはあきらめた。「それじゃあ、せめて座ってくれるかな?」
シェリはうなずき、素直に床へ座り込んでから、ジャンの額に手を当てた。ひんやりとした心地よい感触に、ジャンはほっとため息をついた。
束の間を置いて、シェリが口を開いた。「嘘です」
「え?」
「シェリは、子供を見る、初めては、気になります」
要するに、ジャンに興味があると言うことだろう。そして、主人の言いつけをだしに、好奇心を満たそうとしているわけか。
「僕も、君みたいな子は初めて見るよ」
「じろじろ見る、お互い様」シェリは生真面目な顔で言った。
「そうだね」ジャンは笑った。「それじゃあ、お互いのことがわかるように、何かおしゃべりしよう。横になってるだけだと退屈だろうし、それはきっと、僕にとって困ったことになると思うんだ」
シェリは、ひとつ瞬きをして、こくりとうなずいた。「ジャンの面倒、見ます」
「うん、ありがとう」ジャンは微笑んだ。シェリの表情は、まったく変わったように見えなかったが、それでも彼は、この少女が笑ったのだと思うことにした。
目を覚ましたザヒは、横たわった姿勢のまま周囲を見渡した。狭いが、真新しい木材の香りが立ち込める部屋。ここは――そうだ、ここはイゼルの王都にある宿屋だったな。彼はベッドの上で身を起こし、ぎゅっと目を閉じて目眩が消え去るのを待った。それは、何百マイルも意識を飛ばすと必ず起こる、後遺症のようなものだった。
ザヒはベッドを降り、何もない空中から杖を出し、それにすがって部屋を出た。廊下を抜けて階段を降りると、そこは居酒屋兼食堂になっていた。まだ日が高いせいか客の姿はなく、カウンターの向こうでは宿の主人が一人、売り物のビールを引っ掛けている。髪も瞳も褐色で、彼は明らかにアルシヨンの人間だった。
アルシヨンとイゼルは、未だ正式な国交を結んではいないが、熱心な商人たちは新たな市場を求め、とっくに国境を渡ってそれぞれの商売を始めていた。この宿の主人も同様で、経済が停滞する北部を見限り、この異国に商機を求めてやってきた口だと言う。
「世話になった」ザヒはカウンターの上に銀貨を一枚置いた。主人が目を丸くするのを見て、彼は素早く言った。「釣りは取っておいてくれ」
「ありがたく頂戴するよ、じいさん」主人はにやりと笑って、銀貨をポケットに収めた。
「ところで、一つ頼みがあるのだ」
「なんなりと」主人は愛想よく応じた。
「知り合いのお嬢さんに、イゼルの土産を買って行きたいのだが、おすすめはあるかね?」
「さあて」主人は腕を組み、首を傾げた。「工芸品はなかなかのものがそろってるぞ。こっちの民族衣装は色彩豊かで異国の雰囲気たっぷりだから、きっと喜ばれるだろう。あるいは、ちょいと値は張るが、絨毯も悪くない。高いとは言ってもタークのものほどじゃないし、質はそれと遜色ないからお買い得だと思うがね」
「イゼルの絨毯は、もう私が持ってるんだ。彼女に贈ってしまっては、我が家へ呼びつける口実が無くなってしまうだろう?」
「違いない」主人はうなずいた。
「民族衣装も悪くないが、彼女は王都の人間なんだ。向こうで着るには少々暑苦しいし、私としてはもう少し肌の見える服を着てもらいたいと思っている」
「あんたが正しいよ、じいさん」主人は熱心に同意した。
ザヒは考え、ふと思いついたように言った。「彼女はニシンの燻製が大好物なんだ」
主人は眉をひそめた。「そりゃあ、よした方がいい。いくら好物だからって、ニシンはあんまりだ。女の子の気を引くなら、なんと言っても甘いものさ。俺としちゃあ、蜂蜜がおすすめだけどね」
「なるほど」ザヒはうなずいた。「しかし、生憎と心当たりがないものでな。それを扱ってる店があれば、教えてくれるかね?」
「あんたは運がいい」主人はふと表情を消して言った。「俺は副業で蜂蜜を扱ってるんだ。見本があるから、試食していきなよ」彼は親指で肩越しに背後を示した。そこには厨房の入口があった。
ザヒはうなずき、カウンターを回って主人と一緒に厨房へ入った。店主が足を止め、振り返ったのでザヒは用件を切り出そうとした。しかし主人は人差し指を唇に当て、勝手口の扉を開け放ってから戸棚に置いてあった陶器の壺を手に取った。「ここらじゃ花が咲く季節が短いから、蜂蜜も貴重でね。しかし、質は抜群と来ている。どれ、何か器に盛ってやろう」彼は戸棚の他の場所から、がちゃがちゃとやかましい音を立てながら皿を何枚も取り出し始め、出し抜けに低い声で言った。「用件は?」
「あんたの上司に、何人か人手を貸してくれるよう頼んだんだ。少々、調べて欲しいことがあってな」
主人はうなずいた。「おっと、これがよさそうだな」
「いくつかの氏族が、ゼエルの王権に難癖を付けていることは知っているだろう。どうやら、その裏で魔族が糸を引いているようでな」
「王宮で魔物を暴れさせたとか言う女のことか?」主人は不要な皿を騒がしく戸棚にしまいながら言った。
ザヒはうなずいた。「最近では別の魔族が、ベルンで街道警備隊の駐屯地を乗っ取ろうとしていたようだ。それに失敗すると、今度はベルンをディボーの二の舞にしようとしたらしい」
「なるほど」主人は壺の蓋を開け、中に木の棒を突っ込んで黄金色の液体を取り出し、それを皿に垂らしてザヒに差し出した。「さあ、試してみてくれ」
ザヒは皿を受け取り、そこから指ですくった蜂蜜を一口なめて目を丸くした。「悪くない」
「だろう?」主人はにやりと笑って言った。
「気に入った。それをもらおう」
「あいよ」主人は戸棚の他の場所を開け、今度は小ぶりの壺をいくつも取り出して調理台に並べ始めた。
「なんだって、そうやかましくするのかね?」ザヒは首を傾げてたずねた。
「盗み聞きされないようにさ」主人は肩をすくめた。「騒音の中から、会話を拾い上げるのは難しいんだ」
「だったら、どうしてわざわざ勝手口の扉を開けたりしたんだ?」
主人は鼻を鳴らした。「生憎と、俺はあんたと違って魔法が使えないんでね。閉まってる扉の向こう側で聞き耳を立ててるやつがいたとしても、透視することはできないんだ」
「私が誰か知っているようだな?」
主人は何も言わず、小さな壺に蜂蜜を注いでから、その口にしっかりと封をした。「こんなもんかな」
「いくらだ?」
主人は目の玉の飛び出るような値段を言って、ザヒはいくらか値切ってから代金を支払った。そうして彼は勝手口から外へ出て、王宮を目指して歩き出した。
アルシヨン人たちは、わずか一年余りで、イゼルの王都の一角に彼らの街を作り上げていた。イゼル人の住居は、そのほとんどがテントで、隣り合う住居の間隔は大きく取られているのだが、アルシヨン人はむしろ身を寄せ合うように家々を建てたから、そのために狭い路地がいくつもでき、アルシヨン街はさながら迷路のようだった。
ザヒはいくつかの路地を抜けたところで、後を付けられていることに気付いた。短く呪文を唱えて知覚の糸を伸ばし、追跡者は少なくとも六人であることを確認する。いずれも武装し、その身のこなしから手練れであることがうかがい知れた。おそらく強盗の類いではないだろう。さて、と彼は足を止め、道にでも迷ったかのように周囲を見回した。人家が密集する中で派手な魔法は使えない。となれば、出来ることは一つだった。老賢者は不意に駆け出した。さらに呪文を唱え、緑色に輝く板を眼前に浮かび上がらせる。光の板の表面には白い光の線が縦横に走り、線と線の間を黄色い光点がいくつか動いていた。その数は五つ。はて、もう一人はどこだ?
それを探す暇はなかった。ザヒは光の地図を消すと、足を止めて振り返り、杖を突き出した。抜き身の剣を手に、こちらへ向かって駆けてくる黒服の男たちの姿が視界に入る。数は三。いずれも金髪で、イゼル人のように見えた。ザヒが呪文を唱えると、彼らの間に白い靄が立ちこめ、次の瞬間にはそれらが凝結し、たちまちいくつにも枝分かれする鋭い氷柱となった。三人の追っ手は氷柱に刺し貫かれ、悲鳴を上げる間もなく絶命した。
ザヒは再び駆け出した。ただの追いかけっこであれば、逃げ切る自信はあった。追跡者たちは、彼をよぼよぼの老人と見ているかも知れないが、ザヒの肉体は頑健そのもので、その証拠に今も息切れ一つなく駆け続けている。
辻へ来たところで、不意に左右の脇道から黒服の男が二人、剣を振りかざして飛び出してきた。しかし、彼らが剣を振り下ろすよりも早く、ザヒは左手に持った杖で一人の喉を突き、右手から撃ち出した青い火球で、もう一人の顔を黒焦げにした。喉笛を砕かれた男は吐血して地面に転がり、声もなく悶絶した。顔面を焼かれた男は煙を上げる顔を押さえながら悲鳴を上げて、いずこかへ走り去った。
追っ手は、あと一人。しかし、ザヒは彼の位置を見失っていた。おそらく相手は魔法使いだ。それも、賢者とうたわれたザヒの魔法を、かわすほどの腕前を持った魔法使いだった。
駆けるザヒの目の前に、黒いイゼルの民族衣装を着た幼い少女が、脇道からふらりと姿を現した。少女はザヒを見てぎょっと立ち止まり、ザヒも衝突寸前で足を止めた。「お嬢さん、すぐにここを離れた方がいい」
少女はきょとんと首を傾げた。事情を説明する前にザヒは背後に気配を感じ、振り向いてそちらへ杖を向けた。人影を見て彼は火球を投げつけるが、それは煙のようにかき消えた。それが魔法の幻影だと気付いた時には、もう少女は呪文を唱え終えていた。
「おっと」
ザヒが声を上げた瞬間、二人は地面からわき出した激しい炎に飲み込まれた。




