18.賢者の塔
カラスはソファを立つと、クァンタンが出て行った扉に歩み寄り、外の足音を聞いてから仲間たちにうなずいて見せた。ジャンはカラスが座っていたソファに腰を降ろし、大きくため息をついた。テーブルを挟んで向こう側に座るウメコが、何も言わずガレットを一つ、ジャンに差し出した。ジャンはありがたくそれを受け取った。
「なかなか面白い物語だったね」扉の脇に立つジローが、そう言ってジャンを褒めた。「流れはちょいと強引だったけど、それくらいの方が脚色のしがいがあるってもんだ」
どうやらジローは、クァンタンとジュスティーヌの悲恋を、物語に仕立てて自分の商売に役立てるつもりでいるようだ。しかし、ジャンが即興で立てた筋書は、彼が過去に読んだいくつかの物語から拝借したもので、おそらくジローが創作するまでもなく、似たり寄ったりのお話は、世界中にあふれているに違いない。
「商売の話しは後にしてくれ」と、マルコ。「みんなそろったことだし、ここで何が起こったのか考えてみよう」そう言って彼は、ギャバン大佐に目配せした。
大佐はうなずき、束の間を置いてから口を開いた。「一月ほど前、それまで駐屯地の教会堂をあずかっていた司祭が病で急死し、ロゼから代わりの司祭が送られることになりました。ザナが、ロゼ伯爵にともなわれてベルンへやって来たのは、その一週間後のことです。伯爵の言によれば、彼は議会へ出席するために王都へ向かう旅の途中であり、たまたま旅立ちの日が重なったザナを道連れにしたのだ、と。なるほど、女の一人旅は物騒ですから、そのような親切は実に神妙な行いだと、その時の私は単純に感心しました」
「つまり」と、マルコ。「親切以外の何かがあったんだな?」
大佐はうなずいた。「ロゼ伯爵と同じく、議会へ出席する準備のためにベルンの別邸を訪れていた父は、二人を屋敷へ食事に招き、ザナはその席で、ある提案を示しました。それは、ロゼ伯爵が持つリュネ公爵家への債権を、教会が全て買い上げるというものです」
カラスが口笛を吹いた。「そりゃあまた豪気な話だな」
「どう言うこと?」ジャンは首を傾げてたずねた。
「教会は税を免除されている代わりに、利殖行為を法で禁じられている」アランが説明した。「つまり、金貸しで利子を取ることは許されていない」
「お金を貸すこと自体は禁じられていないんだね」
アランはうなずいた。「しかし、大抵は普通の金貸しが見向きもしないような貧しい人たちが相手で、貸し付ける額もわずかなんだ。リュネ公爵のような大名の借金ともなれば、その額は相当なものになるだろうから、教会は大きな負担を強いられることになる」
「対してリュネ公爵は、莫大な利子の支払から解放されるわけだ」と、マルコ。「その代償はなんだ?」
「議会への出席を見送ることよ」カトリーヌが代わりに答え、大佐はぎょっとして彼女に目を向けた。カトリーヌは大佐に片目を閉じて見せてから、さらに続けた。「でも、それを求めたのは教会じゃなくて、メーン公爵なの」
「ちょいと話がこんがらがってないかい?」ジローが首をひねった。
「ええ」大佐は認めた。「実を言えば、公爵の要求が書かれた手紙を持っていたのは、ロゼ伯爵なのです。つまり、あの場で我々は、まったく異なる二つの取引を同時に進めていたことになります。表向きは、ですが」
「なるほど。そりゃあ、ややこしくもなるね」ジローは納得した様子でうなずいた。
「しかし、なぜ欠席なのですか?」アベルがたずねた。「むしろ議会に出て、自分を皇帝にする議案に賛成しろと言いそうなものですが」
「いや、そこまで望めば、ニルスも二の足を踏んだだろう。自分の会派をあからさまに裏切る度胸など、やつにあるとは思えないからな」マルコは言って、しかめっ面を見せた。「それでもリュネ公爵の欠席は、日和見を決め込んでいた議員たちに、少なからず影響を与えたはずだ。つまらない男だが、公爵にはかわりないからな」
「ブルネ公爵の暗殺は、蛇足だったってことか?」カラスがたずねた。
「あれはあれで必要だったんだ。もちろん、国王派議員の切り崩しの意味もあるが、それよりも国務卿の座に、シャルルの息が掛かった男を置いておくわけにはいかなかったんだろう。いずれにせよ、ジャンを担ぎ出していなければ、メーン公爵はいまごろ皇帝の冠を頭に載せて、玉座の上にふんぞり返っていたに違いない」
マルコの言うメーン公爵は前の公爵の事だろうが、ジャンはマリユスがそうする姿を想像し、あまり似合わないなと、ぼんやり考えた。
「しかし、話がうますぎるな」カラスは考え込んだ。しばらくして、彼は大佐に言った。「あんたが、あの魔女を本物の司祭と考えた理由はなんだ?」
「彼女が教会からの紹介状を、我々に示したからです。それに、ロゼ伯爵は彼女のことを、我がロズヴィルの美しき女司祭などと称していました。しかし考えてみれば、どんな書類でも偽造は可能ですし、ザナとロゼ伯爵がぐるだとしたら、どちらもあてにはなりません」
「もしそうなら、どこかの地面に本物の司祭が埋まってることも考えられるね」と、ジロー。
「紹介状を見せてくれ」
カラスが言うと、大佐は一つうなずいてからアランに目を向けた。「上から二段目の抽斗です」
アランは袖斗を漁り、数枚の書類に目を通してから一枚を残すと、それを手の甲で軽く叩きながら、大佐にいぶかしげな視線をくれた。「なぜ、お前がこれを持っている?」
「父から諸々の事務を任されていますので」大佐は肩をすくめた。
「あんた、兄貴だけじゃなく、親父の秘書もやってたのか?」机に歩み寄り、アランから書類を受け取ったカラスは、あきれた様子で言ってから書類に目を通した。「俺には本物に見えるな」
「私にも見せて」と、カトリーヌ。カラスはソファに歩み寄り、彼女に書類を手渡した。カトリーヌは目を凝らして書類の隅々に目を通してから、ひとつうなずいた。「本物よ。ちゃんと教会の印章が押してあるし、文面や筆致に不自然なところもないから、別の書類を改ざんしたわけでもなさそうだわ」
「決まりだな」カラスはうなずいた。「どうやったかは知らないが、魔族はメーン公爵だけでなく、教会も抱き込んだんだ」
「あまり聞きたくない結論ですね」大佐が渋い顔で言った。
「大佐と同意見です」と、アベル。
「あんたら北部の人間なら、そう思うかも知れないな」カラスは笑って言った。彼はカトリーヌに目を向けた。「リュネ公爵は利子の支払いをまぬがれ、メーン公爵は議会の票を得た。それじゃあ教会は、どんな対価を受け取ったんだ?」
「わからないわ」カトリーヌは首を振った。「メーン公爵の手紙には、見返りを支払うのは自分の友人だとしか書かれてなかったの。それが教会だとわかったのは、大佐の話を聞いてからよ」
「お前の組織は、この動きを掴んでなかったのか?」
「ええ」カトリーヌは苦々しい顔でうなずいた。「教会にも部下を送ってるんだけど、魔族が潜り込んでるだとか、メーン公爵と接触していたなんて話は聞いたこともないわ」
「まあ、彼らも簡単に、尻尾を掴まれるようなまねはしないだろう」マルコが言った。
「メーン公爵と付き合いがあるって知られたら、何かまずいことでもあるの?」ジャンはたずねた。
「前に、マノン婆さんの旦那が亡くなった時、トレボーの神父さんを村へ呼んだことがあっただろう?」
「うん」ジャンはうなずいた。「普段はパン屋さんをやってるって言ってたね」
「あまり七柱神教に熱心ではない南部にも、そうやって当たり前のように司祭がいるんだから、教会に関わる人間は、王国中のどこにでもいると言うことになる。そんな風に、諸侯が支配する領地の境界を越えて、全土的な組織網を持つ集団は、他に王国政府くらいしかないんだ」
マルコが言わんとすることを、ジャンは理解した。カトリーヌは各地へ密偵を送り込み、諜報網を育てようとしているが、教会はすでに、それよりも広範なものを持っているのだ。南部はともかく、信仰に厚い人たちの多い北部であれば、その影響力は計り知れないものになる。
「教会は、これまで世俗の勢力に対して中立を貫いて来たから、諸侯も領内での彼らの活動に特段の注意を払うようなことはなかった。しかし、その前提が崩れたとしたら、もはや今まで通りと言うわけにはいかなくなる。それは教会にとって、大きな痛手になるだろう」
「それだけの危険を負ってもなお、得難い利益があるってことか」カラスはつぶやいた。
「魔族が教会を犠牲にして、欲しいものを手に入れようとしてるだけなのかも知れないわよ?」と、カトリーヌ。
「その方が、ずっとありそうな話だな」カラスはうなずいた。「しかし、俺が教会と言う組織をよくわかってないせいか、裏に何かあるように思えて仕方がないんだ」
「そうね」カトリーヌは眉間に深い皺を刻んだ。「私たちも全てを把握しているわけじゃないの。たぶん、当の教会にも全容を知ってる人はいないんじゃないかしら」
「教会には信仰と言う明確な目的がある」アランが言った。「そう言った組織は、全体の有り様を知る指導者を必要としない場合があるんだ。代わりに組織を構成する個々が、自ら統率のとれた動きをする」
「ミツバチみたいに?」と、ジャン。
「あれは女王蜂がいるじゃないか」ジローが指摘した。
ジャンは首を振った。「村のドナルドおじいさんはミツバチを飼ってるんだけど、彼が言うには女王蜂はただ巣の中にいて卵を産むだけで、働き蜂に何かを命令してるわけじゃないそうだよ」
マルコが咳払いした。
「なるほど」アランがくすりと笑った。何事かとジャンが目を向けると、彼女は片目を閉じて説明した。「養蜂には領主の許可が必要なんだ。そして、蜂蜜税の支払いが課せられる」
するとドナルドおじいさんは、無許可で養蜂を営んでいるわけだ。
「今のは聞かなかったことにして」ジャンは急いで言った。
「それにしても」カラスが、ふと何かを思い付いた様子で大佐に目を向けた。「なんだって、あんたやリュネ公爵はあっさり捕まったりしたんだ?」
「順を追って話します」大佐は微かに顔をしかめて言った。「ともかく父は、メーン公爵の申し出を受け入れることに決め、ザナが出した新しい借用書にサインしました。そしてロゼ伯爵は、たまたま持っていた古い借用書を我々に返しました」
「用意がいいことだね」ジローが鼻を鳴らした。「二人が示し合わせてたのは明白じゃないか」
大佐はうなずいた。「そして父は、自分を借金地獄から救ってくれた若く美しい女司祭にひどく興味を持ち、ルナヴィルにある屋敷には帰らず、ここの別邸にこもって毎晩のようにザナを呼びつけるようになりました」
マルコは眉をひそめた。「父親の不道徳を、諫めようとは思わなかったのか?」
「手が回らなかったのです」大佐は肩をすくめた。「ちょうどその頃、トレボーの騎士からディボーの事件について報告を受け、私はコズヴィルや近隣の村々の防衛を手配するのに忙殺されていました。そんなわけで、それらが一段落ついたところに、父の方から至急の用件とやらで屋敷に呼ばれた時は、まさに苦言を吐くよい機会だと考えました。しかし、そこで私を待っていたのは、父ではなくザナでした。私が父の居場所をたずねると、ザナは私を彼の寝室へと案内しました。そこには同じ顔をした十三人の少女と、彼女たちのもてなしを受けて、すっかり骨抜きにされた父の姿がありました。リュネには新しい公爵が必要な頃合いではないかと私が考えていると、ザナは少女の一人を呼びよせ、彼女が魔物であることを明かしました。もちろん私は、くだらない冗談だと笑い飛ばしましたが、少女が目の前で蜘蛛の化け物に変わるのを見て、考えを改めました」
「ひょっとして」ジローが口を挟んだ。「その時のザナは、これと同じものを使ってなかったかい?」そう言って彼は、ジャンから預かっていた魔族の短剣をベルトから引き抜き、大佐に見せた。
「いえ」大佐は首を振った。「ザナは、ただ少女の肩に手を置いただけです。不思議な道具も、あるいは呪文の一つさえ唱えませんでした。それは何ですか。確か、礼拝堂では殿下がお持ちでしたよね?」
「本当は、クセって言う別の魔族の持ち物なんだ」と、ジャン。「僕たちは、人間に化けた魔物を元の姿に戻す道具だと考えてたんだけど、それは間違いなのかも知れない」
大佐は短剣にいぶかしげな目を向け、首を傾げた。「なんとも奇妙な形をしていますね」
「それについては、後で考えるとしよう」と、マルコ。「先を続けてくれ」
大佐はうなずき、再び口を開いた。「ザナは自分が魔王の力を受け継ぐ魔族であり、魔王のように魔物を自在に操れるのだと言いました。もちろん、それは父の命が、彼女の手の内にあると言う意味でもあります。しかし、私は常に剣を携えるようにしていましたから、まさに今が、その習慣を役立てる時だと考えました」彼は自分の言葉を強調するように、腰に下げた剣の柄を軽く叩いて見せた。「ところが、ザナの心臓に剣を突き立てるよりも前に、そこかしこに潜んでいた兵士が姿を現し、剣を構えて私を取り囲んだのです。私が彼らに何事かとたずねると、ザナは勝ち誇った様子で代わりに答えました。すでに士官の半分が味方となり、駐屯地は自分の手の内にあるのだ、と。そしてザナは、私も彼らにならうべきだと言いましたが、私はその申し出を断り、彼女は私が心変わりするまで、礼拝堂に閉じ込めておくようにと兵たちに命じたのです」
「かくして駐屯地は機能不全を起こし、ロゼ伯爵の軍が、我が物顔で街道を歩き回るようになった、と言うわけだね」ジローはしめくくり、それからふと首を傾げた。「けど、なんだってザナは、あんたを生かしておいたんだ。殺して手下の士官を昇進させた方が手っ取り早そうなものだけど?」
「父が私に対する人質であったように、私は彼女になびかない士官たちへの人質だったようです。それと――」大佐は言葉を切って、ソファに並んで座るカトリーヌとウメコにちらりと目をやり、一つ咳払いをしてから続けた。「ザナは男性に、他の使いみちも求めていました。彼女が父の誘いを受けていたのは、なにも陰謀のためばかりではなかったのです」
「なるほど」ジローは深く聞こうとしなかった。「もう一つわからないのは、どうして最初からそうしなかったかってことなんだ。だって、屋敷に閉じ込めてしまえば、公爵は当然、議会を欠席せざるをえないだろ。わざわざ、あやしげな取引を持ち掛けた意味が、通らなくないかい?」
「ザナが駐屯地をおさえられたのは、士官たちを手懐けることができたからだ」アランが言った。「そのために駐屯地は、命令や報告と言った情報の流れを歪められ、ザナの意のままになったのだろう。しかし、その準備が整う前に行動を起こしていれば、彼女は失敗していたに違いない」
「そう言えば」と、ジャン。「クァンタンが言ってたんだけど、大佐は閉じ込められてたんじゃなくて、ザナに会うために礼拝堂へ入り浸ってるって噂になってたみたいだよ」
「どおりで誰も、助けに来てくれなかったわけですね」大佐は苦笑して、小さく首を振った。
カラスが、ふと思いついたように口を開いた。「ことによると彼女が持ちかけた取引は、リュネ公爵をたらし込むための、単なる口実だったのかも知れないな」
「つまりザナは、はなから駐屯地を乗っ取るつもりだったと言うのですか?」大佐は眉間に皺を寄せて言った。
「まあな」カラスは肩をすくめた。「ここからロズヴィルまでは、三日の道のりがあるんだ。前の司祭が死んでから、たった一週間でザナがやってくるのは、そう言うことじゃないか?」
カラスが言ったことを頭の中で計算したジャンは、ザナが司祭の死のニュースと、ほとんど入れ違いでロズヴィルを発ったことに気付いた。つまり、彼女はベルンの司祭が死に、自分が後任に選ばれることを、あらかじめ知っていたことになる。
「しかし、何のために?」大佐は困惑した様子でたずねた。
「狙いは王都だろう」アランが答えた。「我々は、マリユスがロゼとリュネの連合軍を組織して、街道を南下するつもりでいると考えていたんだ。実際にそれを最初に企んだのは彼の父親のようだが、息子が引き継いだのだとすれば、我々にとっての結果はどちらも同じだ」
「それで合点が行きました」大佐はうなずいた。「確かに、ロズヴィルから王都へ向けて軍を動かすとなれば、ベルンは大きな障害となります。ザナは父を押さえることで、駐屯地の無力化とリュネ軍の指揮権を、一度に手に入れようと目論んだわけですね?」
アランはうなずく。
「ザナは死に、ベルンはその機能を取り戻しました。これで王都の危機は、ひとまず回避されたと考えてよいのでしょうか?」大佐はたずねた。
「まだ、そうとも言えないわ」カトリーヌが言った。「メーン本国は、相変わらず戦争の準備を続けているし、彼らが王都以外のどこかを襲うつもりでいるって証拠も見付かっていないの」
「部隊の位置は掴めたのか?」と、カラス。
「まだ絞り込めてないけど、メーン領南部にいるのは間違いないわね。彼らはフランドル王国を経由して、海路で武器や兵糧や兵士をマセリの港に集めてたの。私たちが物資の追跡に手間取ったのは、そのせいよ」
「この反乱にフランドルが一枚噛んでるとするなら、新旧のメーン公爵が王都を狙うのは、彼らの野望のためと言うより、フランドル側の思惑かも知れんな」マルコは腕組みしてうなってから、甥に目を向けた。「お前が知ってるかどうかはわからんが、アルシヨンとフランドルは、もう百年以上もいがみ合ってるんだ。これまで何度も戦争をやっているし、そもそもメーン公爵家に世襲で将軍職が与えられるようになったのは、彼の領地がフランドルと国境を接しているからでもある」
「その将軍様が、敵国と通じてたんじゃ世話ないね」ジローは鼻を鳴らして言った。
「それだけの見返りがあるんだろう。もちろん、フランドルとメーンの双方にな」
「そっちはシャルルに任せよう」と、アラン。「あとは、ロゼ軍が破れかぶれの動きに出ることも考えられるが、その場合はお前とカッセン大佐で、すり潰してしまえばいい」アランは言って、束の間考え込んでから再び口を開いた。「問題はマリユスだ。彼は今、どこにいる?」
「あの屋敷の裏庭だよ」ジローが言った。「私とアベルとジャンの三人で埋めたんだ。急いでたから、そんなに深い穴は掘れなかったけどね」
「ねえ、ジロー」と、ジャン。「あれはもう、マリユスじゃないよ」
「もちろん、わかってるよ」そう言って、ジローは一堂をぐるりと見回した。「いくつかはしょるけど、みんなが捕まったあとで屋敷に逃げ帰ってから、ジャンはジュール君たちの正体を見抜き、二人は観念してそれを認めた。そして魔族のクシャロは、マリユス君を例の短剣で刺して蜘蛛の怪物に変身させ、我々を襲わせたんだ。私らは三人掛かりで魔物のマリユス君をやっつけたけど、ジャンが言うところによれば我々が知ってるマリユス君は、魔物に彼の魂を植え付けた偽物で、人間の彼は今もどこかで生きてるらしい」
カトリーヌが、ふと何かを思い出したような顔になって、ジャンに目を向けた。「あなた、ロズヴィルでマリユスに会うって言ってなかった?」
アランとマルコが同時に口を開き掛け、カトリーヌは右手を挙げ、「あとにして」と二人に言ってから、ジャンに向き直った。「人間の彼は、ロズヴィルにいるのね?」
「ぼくは、そう考えてる」ジャンは肩をすくめた。「でも、マリユスは待ち合わせ場所を指定しなかったし、そもそもちゃんと約束したわけでもないんだ」
「それなら、どうしてそんな結論になったの?」
さて、どう説明したものかと、ジャンは考えた。人間のマリユスがロズヴィルにいると言う彼の予想は、ひどくあやふやな論拠の上になりたっていたからだ。それを裏付ける証拠は断片ばかりで、爪の先ほどの思い違いで崩壊しかねない。
「関係のないことに聞こえるかも知れないけど」ジャンは断ってから説明を始めた。「一つは、ザナとマリユスが、互いに協力し合ってたわけじゃないってことなんだ。もし彼らが手を組んでいれば、ザナがおじさんだけを捕まえるなんて、意味のないことをするはずがないからね」
カトリーヌはうなずいた。彼女はマルコに目を向けた。「礼拝堂では忙しくて聞けなかったけど、ザナはあなたにジャンの居場所をたずねたのよね?」
「ああ」マルコはうなずいた。「しかし、私が口を割らないと分かるなり、どう言うわけかあっさりあきらめたんだ」
「きっと旦那にも、別な使いみちを見付けたのさ」カラスがにやにや笑って言った。
「勘弁してくれ」マルコは渋い顔をした。
カトリーヌはジャンに向き直った。「それで?」
「その事に気付いて、マリユスが人買いにさらわれたふりをしてたのは僕を捕まえるためじゃなく、ザナから逃げるためだったんじゃないかって考えてみたんだ。人買いなら親切心よりも、必要にせまられて積み荷を隠そうとするだろうから、マリユスにとっては都合が良かったってわけさ」
「ちょっと待て」カラスが口を挟んだ。「お前の言う通りだとして、それならマリユスはなぜ俺たちに合流して、わざわざベルンへ戻ったりしたんだ?」
「それは本人に聞いてみないとわからないけど」ジャンはしかめっ面をして見せた。「僕を捕まえて、ザナの陣営との取引に使おうと考えたのかも知れない」
「陣営?」マルコが怪訝そうにたずねた。
ジャンはうなずいた。「ザナとクシャロは同じ魔族なのに、互いを尊重しているようには見えなかったからね。僕たちが国王派だとか将軍派だとか言っていがみ合ってるのなら、魔族にだってそれがあったっておかしくないもの」
「なるほど」ジローは仮面のあごをなでながらつぶやいた。「魔族も一枚岩じゃないってことか」
「そうじゃなかったら」ジャンは続けた。「僕たちに、ザナをやっつけてもらいたかったのかも知れない。なんと言っても、僕たちには王都でクセを追っ払った実績があるからね」
「我々は、魔族退治を専門にしているわけじゃないんだがな」マルコがため息まじりに言った。彼は何かを思い付いた様子で続けた。「マリユスはどうやってそれを知ったんだ?」
「ユーゴじゃないかな? もしそうなら、彼が僕を追い掛け回すのを中断してた理由にもなるしね。たぶん彼は、マリユスをベルンから逃がすのに忙しかったんだ」
「ねえ」と、カトリーヌ。「メーン公爵家と魔族が協力関係にあるのなら、派閥争いの一方に公爵家の当主がいるのは、ちょっとおかしくない? さもないと、マリユスと対等な立場の誰かが、もう一方にいないと釣り合わないわ」
それは、まさしくジャンの考えの核心だった。彼は言った「公爵の位を継いだのが、マリユス以外の誰かだとしたらどうかな?」
カラスがはっと息を飲んだ。彼はカトリーヌに素早く目を向ける。「マリユスと継承権を争うような、兄弟なり従兄弟なりはいないのか?」
カトリーヌは首を振った。「彼の兄弟は全員死んでるし、親戚はたくさんいるけど、彼らはみんな公爵家に忠誠を誓ってるの。人質として、家族をメヌに送ってさえいるわ」
「ありそうに思えたんだがな」カラスは頭を掻きながらつぶやいた。「だったら、マリユスから遺産をかすめ取ったのは誰なんだ?」
「そんなに難しい話じゃないよ」と、ジャン。「マリユスが二人いるってだけで」
「どう言うこと?」カトリーヌはいぶかしげに訊き返した。
「シャルルおじさんが、ロロを僕の替え玉にしたみたいにマリユスにも替え玉がいて、メーン公爵として家来たちに命令してるのは、僕たちが知らない方のマリユスなんだ」
全員があぜんとする中、ジャンは構わず続けた。「ロロと違うのは、マリユスの替え玉には、かつらが必要がないってことかな。魔族なら、本人が鏡を見ても気付かないくらい、そっくりな替え玉を作れるからね。そして、ザナは魔物を自分の身体のように操っていたし、他の魔族も同じことが出来るとしたら、今のメーン公爵領は魔族にすっかり操られてると考えていいと思う。もちろん、そうなるとマリユスは偽物に殺されないように、メーン領を逃げ出さなきゃいけなくなる。そうして彼がやって来たのが、ベルンなんだ」
誰もが黙りこくってジャンの言ったことを考え始めた。しばらく経って、カラスがカトリーヌに目を向け口を開いた。「ちょいと消化不良気味だが、辻褄は合ってるぞ」
「そうかも知れないけど――」カトリーヌは首を振った。「ええ、そうね。ジャンの言うことが正しいなら、色々なことに説明がつくわ。でも、どうして私たちの友人のマリユスが本物で、もう一人のマリユスが偽物だとわかるの?」
「僕がジュールの正体を見抜けたのは、彼がうっかり自分をメーン公爵だと口を滑らせたからなんだ。もし彼が偽物なら、そんな失敗はしなかったと思うよ」ジャンは言って、首を傾げた。「でも、彼も魔物だったわけだから、偽物と言えばそうだよね」
「それは、どうでもいいことよ。中身がマリユスなら、器が魔物でも獣でも本物と言って構わないわ」カトリーヌはジャンを真っ直ぐに見つめて言った。「でも、どうしてロズヴィルなの?」
ジャンはうなずいた。「マリユスが潜伏先にベルンを選んだのは、そのためなんだ。ロゼ伯爵はザナの味方のように振る舞ってたけど、それはたぶん見せかけで、実はこっそりマリユスを守ってたんだと思う。ここからロズヴィルまで三日しか離れてないのなら、もしマリユスに何かあってもすぐに助けを寄越せるし、国王派貴族の領内なら偽マリユスの目も届きにくいだろうからね。それに、ジュールの身の上話が嘘だとしたら、あのお屋敷の本当の持ち主も彼の言う通りじゃないってことになる」
「ロゼ伯爵が、資金面も含めてマリユスの逃亡生活を支援してたってことね」カトリーヌはうなずいた。「そして人間の彼も、伯爵が匿っている?」
「たぶん、そう言うことだと思う」ジャンは再びうなずいた。「ロゼ伯爵が前のメーン公爵の――」ジャンは不意に言葉を切った。「ねえ、前とか現とか、ちょっとややこしくない?」
「名前で呼ぶといいわ」カトリーヌは笑って言った。「前の公爵は、セドリック・シセよ」
ジャンはうなずき、話を続けた。「ロゼ伯爵がセドリックを崇拝しているなら、彼の跡継ぎのことだって大切に思ってるはずなんだ。それに、僕たちの知る魔物のマリユスに本人の魂が植え付けられてたのなら、人間の方は魂がないわけで、そんな人間がどうなるかは知らないけど、きっとまともな状態じゃないと思う。そうなれば、彼を保護する人は絶対に必要になる」
「たぶん、あなたの考える通りよ」ウメコがかごの中のガレットに手を伸ばして言った。ジャンが数えた限り、彼女はもう三つもそれを食べている。「昔に読んだ魔法の研究書に、魂を失った生き物についての記述があるの。それによると人間の場合は、思考のようなものをまったく失って、他人の手を借りないと飲み食いさえできなくなってしまうそうよ」
「今のロゼ伯爵は、王都で自分の骨をくっつけるのに忙しいはずだ」カラスが言った。「それなら、マリユスのお守りは誰がやっている?」
「伯爵は名代として、息子のレオンをロズヴィルへ置いて行ったの」カトリーヌが言った。「誰と言うなら、彼しかいないわ」
「まさか、またぞろ旦那の友だちじゃないだろうな?」カラスはマルコに目を向けた。
「ロゼ伯爵とは、家族を紹介されるほど仲がいいわけじゃないんだ」マルコはあごの肉を撫でながら言った。「それに、私が隠遁生活に入る前のレオンは、まだ十歳かそこらの子供だった」彼はカトリーヌに目を向けた。「彼に見張りは付けてないのか?」
「残念だけど」カトリーヌは肩をすくめた。「ロズヴィルにいる部下の報告だと、レオンは父親の屋敷にずっと閉じこもってるの。しかも屋敷を兵士で固めて、出入りする人間を厳しく制限しているから、直接顔を見られるほどに近付くのは、ほとんど無理みたい」
「リュネ公爵みたいに幽閉されてるわけじゃないのか?」カラスがたずねた。
「いいえ」カトリーヌは首を振った。「同じ報告にもあったけど、屋敷の給仕を捕まえて中の様子を聞くと、彼は普通に食堂で毎日の食事を摂っているそうよ。でも、そこでは一切仕事の話はしないらしいから、何かを隠しているのは間違いないわね」
「探るだけ無駄だと言われてるみたいだな」と、カラス。
カトリーヌは無言のまま、渋い顔でうなずいた。
「それで、私らはこれからどうするんだい?」ジローがたずねた。
マルコは顎を撫でながら考え、間を置いて答えた。「まず、ザヒ老師の塔へ行く」彼はウメコに目を向けた。「ここから、どれくらいだ?」
「そうね」ウメコは口元を押さえ小さくげっぷをした。「失礼」彼女は謝ってから続けた。「東へ半日ってところかしら。朝に出れば、お昼過ぎには到着するわよ」
マルコはうなずいた。「塔で用事を済ませたあとは、陸路でクタンへ向かう。ジャンの身柄を餌に、レオンがマリユスの身の安全について、偽マリユスと交渉しようと企む可能性もあるからな。多少、遠回りをしてでもロズヴィルは避けるべきだ」
「でも――」
「でもは無しだ」マルコはぴしゃりと言って、ジャンの言葉を遮った。
「いっそ、ロズヴィルを攻め落としてはいかがですか?」大佐が提案した。「魔物が消えてから、最近はどこの都市も防備が甘くなっています。ましてや今の彼らは、ベルンがザナの手にあると考えているでしょうから、すっかり油断しきっているはずです」
アランは束の間考えてから、首を振った。「裏切り者の士官を処分して、下士官を昇進させるつもりでいるなら、それはやめておいた方がいい。新米士官に、いきなり本格的な戦場で指揮を執らせることになるからな。それよりもペイルとディポンへ部隊を走らせ、メーン領からの侵入へ備えるよう警告してくれ」
「先ほどカトリーヌ嬢は、メーン軍が南に集結していると言いませんでしたか?」大佐は片方の眉を吊り上げた。
「その読みに間違いはない」アランはうなずいた。「私とカッセン大佐も、北からの侵入はないと考えていたんだ。しかし、ベルンを抑えると言うことは、メーから西進する侵入経路を確保する意味にも取れる。その場合、メーン軍にとっての障害はディポンの街道警備隊とペイル伯爵だ。もしベルンが落ちていれば、ロゼ軍は背後を気にすることなくペイルを攻められるし、ディポンを落としたメーン軍のペイル領の通過を助けることができる」
「なるほど」大佐はうなずき、束の間考えてから口を開いた。「では、足の速い部隊を最短距離で向かわせるとしましょう。ベルンから現れた部隊がロゼ領を突っ切るのを見れば、よほどのぼんくらが指揮官でもない限り、まずいことが起きていると気付いて、殿下を探し回る部隊に別な任務を与えるに違いありません」
「悪くない」アランは大佐をほめた。「さっそく手配してくれ」
大佐は一つ敬礼をくれてから、足早に扉へと向かった。しかし彼はノブに手を掛けたところで、ふと思い出したように振り返って言った。「客間は、どこでもご自由にお使いください。みなさんには、そろそろベッドが必要でしょう」
「ありがとう、大佐」マルコが言った。「本当は一杯やりたいところだが、ひと眠りした後の方がよさそうだな。さもないとテーブルで寝ることになりそうだ」
「何か用意しておきましょう」大佐はにっこりと笑って言った。「では、おやすみなさい」彼は言い置いて執務室を出て行った。
「よし、少し休むとしよう」マルコは言って、じろりとジャンを睨んだ。「丸腰で魔王へ突撃した理由について聞きたいところだが、それは別の機会にしよう」
「それと、斬新なデザインのドレスを作ろうとしたいきさつについても、詳しく知りたいわね」カトリーヌが冷たい目で言った。
ジャンは父に目を向けた。彼女は表情のないお面のような顔をしていた。「お前は、もう少し思慮深い子供だと思っていたが、どうやら私の勘違いだったようだ。礼拝堂でしでかした無茶の言い訳について、ベッドの中でよく考えておけ」アランはカラスに目を向けた。「私は書類を仕上げてから休む。お前は彼を見張っててくれ。次はロバに跨がって、水車小屋に襲い掛かろうとするかも知れない」
さすがのジャンも、その物言いにはむっとしたが、反論するほど間抜けではなかった。
「私が見ておくわ」と、ウメコ。「久しぶりに、小さな坊やと話しをしたいの。それにタケゾーは、あれこれかぎ回りたいこともあるでしょ?」
「寝ずに働けってか?」カラスは苦笑して言った。「まあ、ここでのザナやマリユスの動きを、調べておいて損はないからな」彼はちらりとカトリーヌに目を向けた。女スパイは口元を押さえて、小さく欠伸をしてから「任せるわ」と言った。カラスは肩をすくめて執務室を出て行った。
ウメコはソファを立ち、無言でジャンを促した。ジャンは神妙に彼女のあとへ続いた。廊下へ出てしばらく歩いてから、ウメコが口を開いた。「あなた、ちょっと従順過ぎやしない?」
「何が?」ジャンはきょとんとして訊いた。
「アランの言い方に、腹は立たないのかってこと」
「ああ」ジャンはうなずいた。「もちろん、あんまりだとは思ったよ」
「だったら、一言言ってやればよかったのに」
ジャンは足を止め、怪訝に思いながらウメコを見つめ、たずねた。「君は父さんのことが好きなんでしょ。何年も旅をして追い掛けるくらい?」
「そうよ」ウメコは認めた。「英雄のアランも好きだったけど、今の女の子のアランの方がもっと好きなの。可愛いし、抱きしめるといい匂いがするから」
「それなら父さんの肩を持ちそうに思うんだけど?」
「それとこれとは別よ」ウメコはにっと笑ってみせた。彼女は笑顔を引っ込めて続けた。「他のみんなはよくわかってないみたいだけど、あなたがザナの尻尾を引っこ抜いて、あいつの正体を暴かなかったら危ないところだったわ。さもなきゃ私たちどころか、ベルンそのものが滅びてたかも知れないもの」
ジャンは目をぱちくりさせた。「それじゃあ、君は気付いてたんだね?」
「気付いたのは、ついさっきよ」ウメコは肩をすくめた。「あの魔女が、魔物を魔王に見せ掛けるなんて、おかしなことをした理由をずっと考えてたの。きっとあいつは、私たちに勝てないことをわかってたのね。たとえ尻尾から魔王の力を吸い上げてたとしても、限界はあるだろうし。だから、私たちが偽物を殺し、安心して礼拝堂を立ち去るのを待つつもりだった。あとは魔王が呼び付けた魔物たちを食べて傷を治し、万全の身体で逃げるなり町を襲うなりすればいいって寸法でしょ?」
ジャンはうなずいた。
「でも」ウメコは首を傾げた。「なんでザナは、最後にあなたを襲ったりしたのかしら。あんなことをしなければ、彼女の計画はうまくいってたかも知れないのに?」
「わからないや」ジャンは素直に言った。「これは本当に思い付きなんだけど、ひょっとすると計画を台無しにした僕に、ただ腹を立てただけなのかも知れない。しかも僕は、彼女が捜してる王子にはとても見えなかったからね」
「一番ばかばかしいけど、一番ありそうな理由でもあるわね」ウメコはにやりと笑って言った。彼女は続けた。「あの短剣にはまってる宝石は、ザナの魂ね?」
ジャンはまじまじとウメコを見つめた。「僕は、もう二度もあれが使われるのを見てるけど、君は初めてだよね。どうしてわかったの?」
「ヒントならあったわ」ウメコは肩をすくめた。「仮面の彼が言ってたでしょ。ロッテが、あの短剣で刺して坊ちゃんを怪物に変えたって。たぶん、あの子は坊ちゃんの魂を持って、急いでここを逃げ出すつもりだったんだわ。そこをザナに捕まった」
「どうして短剣なんかで、人間の魂を抜き差し出来るんだろう」
「仕組みはわからないけど、そう言う魔法があるのは確かよ」
「研究書だね?」
ウメコはうなずいた。「でも、短剣のことは書いてなかったわ。きっと誰かが、その魔法をもとに考え出したのね」彼女はため息を一つ落とした。「ねえ、ジャン。あなたは自分がやったことを、もうちょっと誇らしく思うべきよ」
「ありがとう。でも、君がわかってくれてるだけでじゅうぶんさ」ジャンは言って、大きな欠伸をした。「早くベッドを探そう。もう眠くってしかたないや」
雨はひどくなる一方だった。しかし、ジャンの目の前にあるのは平原の上を這うぬかるんだ道が続くばかりで、民家はおろか雨宿りができそうな立木すらない。もっとも、足を止めて馬から降りようものなら、たちまち眠りこけてしまいそうだから、それはむしろ彼にとって望ましい状況とも言える。
そもそもの失敗は、ギャバン大佐の執務室を出た後、少々長く寝すぎてしまったことだ。空いている客間を見付け、ウメコの手を借りながらどうにかドレスを脱ぎ、下着姿のままベッドに潜り込んで、目を覚ました時にはもう夕方近くだった。その後、仲間たちと一緒にマリユスの屋敷へと向かい、親元へ返されることとなった子供たちと、別れの挨拶をかわした。子供たちはジュールとシャルロットの姿がないことを残念がり、ジャンがドレス姿でないことにも不満を表明した。そして再会の折には、もう一度お姫様の格好をするようジャンに約束させ、彼らは街道警備隊が用意した馬車に乗って、それぞれの家路についた。
小さな旅の仲間たちとの別れをすませた一行は、ギャバン大佐の屋敷へ戻り、翌日の準備に取り掛かった。荷物に不足が無いかを調べ、街へ出てそれらの買い出しを終えるともう夜で、夕食を終えるなり大人たちは、地図を挟んで道行きの確認を始めた。ジャンは礼拝堂での無謀な行いを弁明する機会も与えられず、一人寝室へと追い立てられた。少しだけ仲間外れにされたような気分を味わいながら目を閉じるが、困ったことにまったく寝付けない。あきらめてベッドを抜け出し、廊下の燭台から火をとって部屋の蝋燭を灯してから、ベッドの上でポーレットの詩集を読み始めた。夜更けを過ぎた頃にアランがやってきて、息子が起きていることに少し驚き、「眠れないのか?」と、たずねた。
「うん」ジャンは本を脇へ置き、しかめっ面で答えた。「きっと、夕方まで寝てたせいだ」
「子守唄でも歌おうか?」アランが真顔で言った。
「遠慮するよ」
「そう言ってくれて安心した」アランはにやりと笑った。「マリーに言われたんだが、どうにも私は肝心なところで音をはずす癖があるらしい」
「僕もずっと前に、ポーレットから同じことを言われたよ」ジャンは口をへの字に曲げた。「母さんはどうだったの?」彼はふと思いついてたずねた。
「上手かった」アランは短く言って、首を傾げてから付け加えた。「おそらく、カトリーヌといい勝負だ」
コズヴィルの辻で、アベルと並んで披露した彼女の歌声は、実に見事なものだった。ジャンの母親の歌が、それに匹敵するものだとしたら、息子の音痴は紛れもなく父譲りと言うことになる。
「どうせなら、剣の才能も父さんに似たらよかったのに」ジャンはふくれっ面で言った。
「私は、今のままでいてくれた方が安心だがな」アランはジャンのベッドに腰を降ろして言った。「お前が戦う力を持ったら、今よりもっと無茶をするかも知れない」
じっと見つめてくるアランの目を見て、ジャンは彼女が心底息子を心配していることに気付いた。「心配かけて、ごめんなさい」
アランはうなずいた。「もちろん、理由があってやったことなんだろうが、今度から何かを始める前に、なるべく説明するようにしてくれ」
「わかった」ジャンは神妙にうなずき、アランは微笑んで小さな子供にするように、息子の頭を撫でた。
「明日は早い。眠れないにしても、せめて目を閉じていろ」
「やってみるよ」
言われた通り横になって目を閉じ、何度か寝返りを打ってからアランに揺り起こされる段になり、ようやく少しだけ眠れたのだと気付いた。窓を開けて外を見ると、東の地平がベリーのように赤く染まり、その上の空には黒っぽい筋雲が浮かんでいる。寝不足の頭で雨になるのかなと、ぼんやり考えながら食堂へ向かうと、案の定、マルコが雨に備えるよう仲間たちに警告した。食欲はなかったが、パンとチーズを口に押し込んで朝食を済ませ、みんなに続いて厩舎へ向かう頃にはしとしとと雨が降り出していた。一行は見送りのギャバン大佐に別れを告げ、ベルンを後にした。
実を言えば、ジャンは食事の時からカトリーヌの様子がおかしいことに気付いていた。話しかけるウメコに生返事を返すばかりで、それ以外はむっつりとふさぎ込んでいる。そして、ザヒ老師の塔を目指し、名もない道を行く今も、それは変わらない。原因は何かと考えれば、どうにも自分が台無しにしたドレスのことしか思いつかなかった。ジャンは思い切って彼女に馬を寄せた。
「ごめんなさい」
ジャンが謝ると、カトリーヌは我に返った様子で顔を上げた。そして彼女はジャンを見て、いぶかしげにたずねた。「何が?」
「ドレスをだめにしたこと」
カトリーヌは目をぱちくりさせてから、苦笑を浮かべた。「ああ」
「大事なドレスだったんだよね?」
「そうね」カトリーヌは肩をすくめた。「でも、ウメコから礼拝堂で何が起こったのかを聞いたの」
ジャンは、隊列の先頭でマルコが操る馬車へ目を向けた。その荷台にはウメコがいて、彼女は馬車に並べて馬を進めるアランやカラスと、降りしきる雨も気にせず談笑していた。ジャンが目を戻すと、カトリーヌは言った。「だから、もう怒ってないわ」
「それじゃ、なんだってずっと難しい顔をしてたの?」
カトリーヌはふと空を見上げ、次いで馬の背にため息を落としてからジャンに苦笑を向けた。「自分の力不足を思い知らされて、ちょっとしょげてただけよ」
「力不足?」
カトリーヌはうなずいた。「教会がメーン公爵と繋がっていたことを掴めてなかったし、メーン領がマリユスの偽物に支配されているかも知れないって言う可能性にも気付けなかったの。モランが聞いたら、鞭でお尻を引っ叩かれるかも知れないわね」
「まさか」ジャンはぎょっとして言った。あの穏やかそうな初老の侍従が、そんなことをするようにはどうしても思えなかった。
「ああ見えて、彼は厳しい先生なの」カトリーヌは言って、口をへの字に曲げた。彼女は、ふと首を傾げてジャンの顔を覗き込んだ。「大丈夫?」
「何が?」ジャンは言って、一つくしゃみをした。
「顔が赤いわ。熱でもあるんじゃないの?」
「どうかな」ジャンは首を傾げた。「なんなら、寒いくらいなんだけど?」
カトリーヌはしかめっ面でジャンを見つめた後、言った。「調子が悪かったら、早めに言うのよ?」
「わかった」ジャンは神妙にうなずいた。彼は道の先を見据えて言った。「塔まで、あとどのくらいなんだろう」
「ウメコはベルンから半日って言ったから、そろそろだと思うけど――」カトリーヌは言葉を切って、目を見開いた。ジャンも濡れた顔を拭ってから、カトリーヌが見つめる先に目をやった。
もう、ほとんど目の前と言ってもいい場所に、ゆるく弧を描く石積みの壁があった。それは、あまりにも唐突に現れたものだから、ジャンは自分がいつの間にか眠りこけて、夢を見ているのではないかと疑ったほどだ。しかし、先を行くウメコがこちらへ振り返って言った。
「着いたわ。これが師匠の塔よ」
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