17.クァンタン
ベルンから東へ向かう道を、ジャンはさえない気分を持て余しながら、とぼとぼと馬を進めていた。一昨日から昨日に掛けて、魔王と徹夜で渡り合ったせいで昼夜がひっくり返り、ひどく眠かったところへ朝からの冷たい雨である。気が滅入るのも当然だった。せめてベルンでもう一泊できていれば、多少はましだったのだろうが、あまりのんびりもしていられない事はわかっていた。
ジャンはくしゃみを一つして、少し離れた場所で馬を進めるカトリーヌに目をやった。眉間に皺を寄せ、むっつりと黙りこくる彼女も、ジャンの気うつの原因の一つだった。
「あんまりだわ!」
礼拝堂をあとにして、指揮所兼ギャバン大佐邸へやって来たジャンの姿を見て、放ったカトリーヌの第一声が、それだった。
「そのドレス、仕立てるのにいくら掛かったと思ってるの?」
「ごめんなさい、ジョゼット」ジャンはジュスティーヌの口調で平謝りした。「とにかく全速力で走る必要があって、どうしてもスカートが邪魔だったのです」
柱の陰から魔王のそばまで走る間に、もたもたしていれば、ザナの光線で身体に大穴を開けられていたかも知れないのだ。布きれにかまけている余裕など、その時のジャンにはなかった。
「だったら脱げばよかったのよ」カトリーヌはぷりぷりして言った。ジャンは、ぎょっとして彼女を見つめた。
「まあまあ、お嬢さん」ジローがとりなした。「まずはジュスティーヌ嬢に、いそいで着替えてもらった方がいいんじゃないかな。さもないと、ここにいる紳士諸君には目の毒だ」
一行をギャバン大佐の執務室にまで案内してくれた兵士は、膝丈のドレスと言う斬新な格好の令嬢と、それに食って掛かる女中と言う図を前に、目を白黒させていた。
「彼女に限らず、他のご婦人方も、どうにかしたほうがよさそうですね」執務室の机についたギャバン大佐が、苦笑を浮かべて言った。確かに、アランの服も焼け焦げて、もはや衣服としての機能を果たしていないし、ウメコの魔法使いのローブはねずみ色に薄汚れ、しみだらけで薬草の匂いを放っていた。
「私のは元からこうだから、放っといてくれていいわよ」ウメコは言った。「どっちにしたって、着替えは持ってきてないし」
「こちらで準備しましょう」大佐が親切に申し出た。
「ありがとう。でも、ローブ以外を着るつもりはないの」
「せめて、格好だけでもらしくしておかないと、魔法使いに見えないからな」カラスがにやにや笑いながら言い、ウメコはそんな兄をねめ付けた。
ギャバン大佐はアランに目を向けた。
「着替えはあとだ」アランは言った。「今は、状況を知りたい」
しかし、ギャバン大佐は穏やかに微笑みながら、断固として首を振った。束の間のにらみ合いの末、アランは観念してため息をついた。
「みんなの荷物を、こっちに持ってきてあるんだ。案内するよ」ジローは出口へ向かい、扉の前で立ち止まって振り返り、カトリーヌに目を向けた。「お嬢様の着替えは手伝わないのかい? 着付けだけなら私にもできるけど、衣装箱を引っかき回すのは、ちょいと気が引けるからね」
「そうね」カトリーヌはため息をついた。
「子供たちはどうしたの?」執務室を出たジャンは、ジローについて廊下を歩きながら、彼にたずねた。
「まだ、お屋敷だよ。避難してきた人たちの中に、彼らの身元を知っている人がいたんだ。兵隊さんたちも手伝って、明日にはみんな親元へ帰される事になってね」
「よかった」ジャンはほっとため息をついた。「お別れを言う時間があればいいんだけど」
「それくらいは作ろう」アランは約束した。「一時とは言え、彼らも旅の仲間だったんだ」
「そうだね」ジャンはうなずいた。彼は、ふと気付いた。「父さんの服って魔界のものだよね?」
アランはうなずいた。
「換えなんてあるの?」
「魔王を倒して魔界から逃げ出す時、カラスが三着ほど盗んできてくれたんだ。しかし一着は擦り切れて、どうにも繕えなくなってしまったし、もう一着はこの有様だ」
「最後の一着だね」
「そうだな」アランはうなずいた。「さっさと魔界へ行って、買うか盗むかしなければ、私は着るものが無くなってしまう」
「普通の服を着ようとは思わないの?」
「こっちの女の子の服は、剣を振り回すのに向かないんだ」アランは肩をすくめた。「それに、長いことこれを着ていたせいか、他の服はどうもしっくりこない」
「パレードの時に着ていたドレスは似合ってたよ?」
「冬場なら、もう一度着てやってもいいぞ」アランは鼻を鳴らして言った。
「暑いよね、ドレスって」ジャンは顔をしかめて同意する。
「今は涼しそうだが?」アランはにやりと笑い返し、カトリーヌに睨まれて笑顔を引っ込めた。
ジャンはある事実に気が付き、はっと息を飲んだ。「ちょっと待って」
アランはいぶかしげに首を傾げた。
「それじゃあ父さんは、十年間ずっと同じ服を着てたってこと?」
「洗濯はしている」アランは渋い顔をした。
「そうじゃなくて、普通は袖が詰まったりするよね?」
「そうだな」アランはうなずいた。「しかし、この身体は齢を取らないようなんだ」
「どうして?」ジャンはあ然として父を見つめた。
「私にわかるはずがないだろう」アランは肩をすくめた。
間もなくジローが扉の前で足を止め、彼らはその部屋に入った。客間のようだが、今はベッドの上にまで雑然と荷物が置かれ、その用を果たしていない。
アランは自分の荷物から、今まで着ていたものと、色も形もそっくり同じ服を引っ張り出して、さっさとそれに着替えた。やはり、下着を着けようとしない彼女を見て、ジャンは眉を吊り上げるが、文句を付ける前に、ジローが口を開いた。
「とりあえず、そのナイフは私が預かっておくよ。着付の最中に振り回されたら、危なっかしくて仕方がないからね」
礼拝堂からここへ来るまで、ジャンは魔族の短剣をずっと右手に携えていた。さすがに抜き身のまま、懐へ押し込む気にならなかったからだ。
「鞘になりそうなものはないかな。それと――」ジャンは短剣をジローに手渡してから、コルセットの胸元に押し込んでいた緑色の宝石を取り出した。「これをしまっておける、小袋があればいいんだけど」
「あとで何か探してみるよ」ジローは短剣を腰のベルトに挿み込みながら請け合った。
「ねえ」カトリーヌが言った。「おしゃべりはやめて、さっさとすませましょう?」
着替えを終え、執務室に戻ると、一行を案内した兵士の姿はすでになく、面子は仲間たちとギャバン大佐だけになっていた。応接用のソファの間に置かれたテーブルの上には、いつの間にか大きなかごが置いてあって、その中には野菜やソーセージをガレットの生地で巻いたような食べ物が、どっさりと盛られていた。それを見たジャンは、昨日の夕食を食べ損ねていたことを思い出した。
ジャンが入ってきたのを見て大佐が席を立ち、背後の窓の戸板を開け放った。ぱっと朝日が差し込み、部屋の中を明るく照らす。大佐は、その光の中のジャンをしげしげと眺め、ほおと息を落とし、言った。「輝くようではないですか」
今度のドレスは光沢のある青で、アランがパレードの時に着ていたものと、よく似ていた。しかし、ひらひらのレースは控え目で、こちらの方がずっと大人っぽい仕立てになっている。
「カトリーヌの変装技術のおかげです」ジャンは言って、女スパイに目を向けた。彼女は膨れっ面でそっぽを向いた。まだ、ジャンがドレスに施した改造の件で、腹を立てているようだ。
ギャバン大佐は、その様子を見てくすりと笑うが、間もなく笑顔を引っ込め、執務机の向こうから出てくると、ジャンの前に立ち、「殿下」と硬い表情を向けてきた。そして彼は言った。「今度の件については、申し開きのしようもございません。父と私は街道警備隊の規律を破り、あまつさえ王国に弓引く輩の手助けをしました。どのような処罰も、受ける覚悟は出来ております」
「えーと」ジャンは伯父に目を向けた。「僕に、そんな権限なんてあるの?」
「法的には微妙なところだな」と、マルコ。「シャルルがあとで異議でも付ければ問題になるかもしれないが、彼ならむしろ、面倒ごとを引き受けてくれて助かったと、礼を言うんじゃないか?」
「大佐はその面倒ごとを、僕に押し付けようとしてるんだね」ジャンはため息まじりに言ってから、神妙に沙汰を待つ大佐に目を向けた。「証拠はありますか?」
大佐はきょとんとした。
「証拠もないのに、誰かを告発するなんてできません」そう言って、ジャンはちらりとカトリーヌを盗み見た。彼女は何気なく自分の胸元に手をやっていた。つまりリュネ公爵は、その証拠を暖炉ではなく、机の抽斗に放り込んでいたと言うわけだ。
「しかし殿下。何が行われたかは、私自身が承知しております」大佐は食い下がった。
「みんなが納得する証拠もないのに、あなたを罰して、駐屯地の人たちに恨まれろって言うんですか?」ジャンはしかめっ面をしてみせた。「そんなの、僕はごめんです」
「殿下」大佐は首を振った。「誰に恨まれようと、あるいは嫌われようと、為政者は法に従わなければなりません」
「あのね、大佐」彼の頑固な態度に、少しいらいらしてきたジャンは、ぞんざいな口調で言った。「生憎と僕は、ちょっと前まで平民として暮らしてたから、偉い人たちの難しい法律の事なんて知った事じゃないんだ。でも、この件については僕の言い分の方が正しいと思うよ?」
「まあ、法に従えというのなら、告発には証拠が必要だな」マルコは苦笑を浮かべて口を挟んだ。
「でも」と、ジャン。「それは見つかりっこないんで、僕があなたたちを処罰するなんて、出来ないってことになる」
「それは、どう言う意味ですか?」ギャバン大佐は戸惑った様子でたずねた。
「証拠が見付かったら僕たちにとって、なんの得にもならないってことさ」ジャンは肩をすくめた。「僕が、それであなたと、あなたのお父さんのリュネ公爵を告発して処罰すれば、シャルルおじさんは味方の貴族を失うし、連隊長がいなくなった駐屯地もしばらくは混乱する。それで喜ぶのは、あなたの言う王国へ弓引く輩じゃないかな?」
「ジャンの言うとおりだ」アランが口を挟んだ。「我々は、いくつかの証拠から、彼らがそう遠くないうちに、王都を目指して進軍すると予測している。その時になってベルンがごたごたしていたら、反乱軍にとってトレボーまでの道のりは、ちょっとしたハイキングでしかなくなるだろう」
「おっしゃりようは、ごもっともです」大佐は渋い顔でうなずいた。
「もちろん、あなたが故意に反乱に手を貸していたのなら、話は別よ」と、カトリーヌ。「別の敵に利するからと言って、目の前の敵の心臓にナイフを突き立てるのを、ためらったりはしないわ」
大佐はカトリーヌに目をくれ、たじろいだ様子でうなずいた。
「あらまあ」カトリーヌはくすりと笑った。「安心して。あなたが積極的にシャルルを裏切った証拠は本当にないの」彼女はすぐに笑顔を引っ込め、眉間に微かなしわを浮かべた。「でも、リュネ公爵まで無罪放免ってわけにはいかないわね。街道警備隊が混乱状態に陥ったのは、大佐が幽閉されている間に、公爵が連隊長の印章を勝手に使ったせいなの。たぶん、ザナの求めに応じてなんでしょうけど、彼がしぶしぶ従っていたようには思えないわ」
大佐はカトリーヌを、じっと見つめてから口を開いた。「あなたは、どこまで知っているのですか?」
「なにも」カトリーヌは肩をすくめた。「ジャンが言ったように、証拠はないことになってるの」
「それで?」と、カラス。「結局、どう始末を付けさせるんだ」
「ニルスには、自発的に公爵位を退いてもらおう」と、マルコ。
「しかし、マルコ」大佐は首を振った。「父にとって公爵の肩書きは、自分が立派な人間だと思える数少ない拠り所なのです。彼が素直に、それを手放すとは思えません」
「ずいぶん辛辣な父親評だね」と、ジロー。
「他意はありませんよ。単なる事実ですから」
「こう言うのはどうかな」ジャンは考え考え言った。「リュネ公爵は、今回の事件でたくさんの臣民を失って、ひどく心を傷めてるはずなんだ。そのせいで彼は病気になって、公爵の責務を負うのが難しくなった」
ギャバン大佐は考え込み、しばらく経って口を開いた。「駐屯地付きの医者に、診断書をでっちあげさせましょう」
「ついでに僕が心配してたって、公爵に伝えてくれるかな?」
「承知しました」大佐は神妙にうなずいた。
「なるほど」カラスはにやりと笑って言った。「自分の権威の使い方を、どこで覚えたんだ?」
「前に、ジネットおばさんがやってるのを見た事があるんだ」ジャンは肩をすくめた。「偉い人の思いやりって、場合によっては罵ったり叱りつけたりするよりも、相手を怖がらせる事があるみたいだね」
「後ろ暗いところがあるやつほど、特に効果的なんだ」マルコがうなずきながら言った。彼は大佐に目を向けた。「パトリック、家督はお前が継げ」
大佐は首を振り、きっぱりとこう言った。「次の公爵は兄上です」
「もちろん、オクタヴィアンがそうしたいのなら、それでも構わんさ」マルコは肩をすくめた。「しかし、以前に会った彼は、コゼッタン伯爵と言う地位すら自分には不相応だと考えていた。その上、公爵位まで押し付けようとしたら、どこかの山の中に逃げ込んで、下手くそな詩を書きながら余生を送ろうと決断するかも知れんぞ」
大佐は苦笑を浮かべた。「兄上の作品を、読んだことがあるんですか?」
「まあな」マルコは渋い顔でうなずいた。「すると彼は、今も相変わらず詩歌に生きているわけか」
「はい」大佐はうなずいた。「実を言えば、兄の領地の管理は私が行っているようなもので、彼自身は自分の屋敷で創作に明け暮れています。ただ、彼が出版した詩集の売れ行きはなかなかのもので、領地の財政も、その収入におおいに与っているのです」
「あれが売れるのか?」マルコは目を見開いた。
「なにやら謎めいた予言集として読まれているようなので、出来の良し悪しについては別なのでしょう」
「だったら大佐、なおさらあんたが公爵になるべきじゃないか?」と、カラス。「芸術家に、俗世の瑣末ごとを押し付けるのは酷ってもんだ。特に、それが金を生む芸術家なら?」
「私には、そんなことちっとも言ってくれやしないじゃないか」ジローはぶつぶつこぼした。
「お前は芸術家の前に、興行主でもあるだろ?」
ジローは考え込み、しばらくして口を開いた。「それもそうだね」
「僕は何をしたらいいの?」ジャンは伯父にたずねた。「サインが必要ならさっさと済ませて、あれをおなかに入れたいんだけど」彼はテーブルの上の料理を指さした。「みんな忘れてるかも知れないけど、僕たちは昨日の朝食のあとから、何も食べてないんだ」
「どうぞ、みなさんも召し上がってください」ギャバン大佐は笑いながらテーブルに歩み寄り、一風変わったガレットを手に取って、一口頬張った。「忙しい時の定番なんです。これなら片手が空くので、食べながらでも仕事ができますからね」
「ずっと言ってくれないんじゃないかと思った」マルコも大佐に真似てガレットにかぶりついた。彼はもぐもぐやりながらアランに目を向けた。「この手の書類は、あんたの方が得意だろう?」
「そうだな」アランはガレットを片手に大佐の執務机について、抽斗から白紙を取り出した。
「バターのしみを付けたりするなよ、旦那?」カラスはソファにどっかと座り込み、料理に手を伸ばしながら言った。
「うまそうなにおい付きの文書と言うのも、なかなか乙なものだぞ」アランはにこりともせず、ペンを取って書類を作り始めた。
カトリーヌとウメコもソファへ腰を降ろし、それぞれガレットを手に取り一口食べてから、少し驚いた様子で互いに目を見合わせた。ジャンも相伴にあずかろうとするが、アランに向けるギャバン大佐の、いぶかしげな視線に気付いた彼は、食事を後回しにして説明することにした。「彼女は、僕の父さんなんです」
しばらくの間を置いてから、大佐は聞き返した。「今、なんと?」
「信じられないとは思うけど」ジローもテーブルに歩み寄り、料理に手を伸ばしながら言った。「彼女は先の王ジャン=アラン陛下で、ジャン皇太子殿下の父親であり、魔王討伐を成し遂げた英雄、剣王アランでもあるのさ。とりあえず、魔王がいまわの際に掛けた呪いのせいで、こんな姿になってるとでも思ってくれれば、話を進めやすいんだけどね?」
「わかりました」大佐はまじまじとアランを見つめてから、はっと息を飲んで彼女にお辞儀した。「陛下」
「そう言うのはいい」アランは紙に目を落としたまま言った。「他の連中に吹聴して回る必要もないぞ。説明が面倒だ」
「お互いに情報交換が必要だな」と、カラス。「今回の件は、どうにもわからないことだらけだし、大佐も長らく幽閉されてたのなら、最近のニュースに疎いだろう?」
「剣王の正体が先王陛下だと言う話は、去年の議会で耳にしましたが」大佐はちらりとアランを見て続けた。「まさか、可憐な少女になっているとは思いもよりませんでした」
「アベルが戻るのを待とう。全員がそろってからの方が、二度手間にならずにすむ」マルコが言った。「彼はどこにいるんだ?」
「魔物の生き残りがいないか、クァンタンと一緒に市街区の見回りに行っています。みなさんが来られるより前に受けた報告では、それも終えて、こちらへ向かっているとのことでした」
「街の被害はどうだったの?」ウメコがたずねた。
「今のところ死者は、市民と兵士、合わせて六〇余名との報告を受けています。もちろん、事態が落ち着いて詳しい情報が入ってくれば、数字はもう少し増えるでしょう。負傷者に関しては、まったく把握できておりません」
「ディボーでは一〇〇人以上が殺されたんだ」と、マルコ。「礼拝堂に集まっていた魔物の数から考えると、本来の被害はもっと大きかったかも知れん」
大佐は眉間に皺を寄せた。「ディボーの事件を聞いて、外からの侵入を警戒していたのですが、まさか魔物が市民に紛れているとは思いもよりませんでした」
「ちょっといい?」思い付いたジャンは、口を挟んだ。「ザナは魔物が見聞きしたり感じたりしたことを、自分の事のように感じる魔法を使って街を見張ってたらしいんだ。同じようにディボーを見張っていた魔族が、たまたま見かけた剣王の息子を、その魔物で捕まえようとして、あの事件を起こしたって考えられないかな」
「それはないわ」と、カトリーヌ。「クセは、あなたの顔を知らなかったのよ?」
「あ、そっか」ジャンは思い出した。前のメーン公爵は、魔族との取引を有利に進める材料として、密偵のユーゴにジャンをさらわせようとしたのだ。それは魔族が、剣王の息子の顔を知らないからこその企みだった。しかし、マルコとシャルルが、クセの目の前でジャンの正体を明かしてしまった事で、その計画も台無しになった。
「それに、ここで魔物を暴れさせたのは魔族ではなく、その腹に飼われていた魔王の欠片だ」アランが指摘した。「ディボーの魔物が誰かを捕らえるために現れたのだとすれば、彼女たちは本能ではなく、何者かの意図で殺戮を働いたことになる。それは災害ではなく、大量殺人だ」
「問題はそこじゃないよ」と、ジロー。「魔物がジャンのナイフ以外でも、本性を現して暴れだす事があるってわかったんだからね。隣人が、ある日突然魔物になって、襲いかかってくるなんて悪夢でしかないだろ?」
「当たり前の人間と、人間に化けた魔物を見分ける方法があればいいんだがな」マルコは渋面を作った。彼は大佐に目を向けた。「落ち着いたら、街の人たちに聞き取りをしてみてくれ。何か、手掛かりがつかめるかも知れん」
「わかりました」大佐はうなずいた。
執務室の扉がノックされた。
「入れ」大佐が言うと扉が開き、武装したままのクァンタンと、相変わらず使用人の格好のアベルが顔をのぞかせた。二人は執務室に入るなり、そろって敬礼した。
「バンコ中尉」ギャバン大佐は敬礼を返して言った。「貴官の協力に感謝する」
「義務を果たしただけです、大佐」アベルは殊勝に答えた。
次いで大佐は、クァンタンに目を向けた。「コンスタン伍長、君の隊の活躍はジュスティーヌ嬢から聞き及んでいる。苦労をかけた」
「私も義務を果たしたまでです、大佐。あなたがご無事で何よりでした」クァンタンは答えてから、つらつらと報告を始めた。それによれば、彼らが見回った市街区への被害はほとんど無く、生き残りの魔物も見掛けなかったとのことだった。「私が市街区へ駆け付けて間もなく、それまで暴れていた魔物たちが、我々には目もくれず、一斉に駐屯地へ向かって走り出したのです。被害が少なかったのは、おそらくそのためでしょう」
「魔物が人間を襲うのは、母親の魔王がそう望むからだ。それは、お前も聞いただろう」と、アラン。
クァンタンはうなずいた。
「しかし」と、カラス。「俺たちに散々痛めつけられた魔王は、殺戮本能をひとまず脇へ置いて、娘の魔物たちを食らって、ちょいと手強くなろうとしたのさ。実際、礼拝堂に残っていた魔物を平らげたあいつは、荷馬車くらいの大きさになって、俺たちは苦戦する羽目にあった」
「街から集まってきた魔物たちは、どうしたんだ?」
「我が妹の魔法で一網打尽にしたよ」
クァンタンはウメコに目を向けた。ウメコはガレットを頬張りながら、彼に向かって親指を立てて見せた。
「さもないと、納屋くらいになってたかもな」
「少しばかり大げさに言ってないか?」クァンタンはぎょっとして言った。
「さあて?」カラスは肩をすくめた。「魔王は、俺たちの理解を超えた怪物なんだ。実際はどうなっていたかなんて、神々のみぞ知るってところだろう」
クァンタンは、気ぜわしげにジャンへ目を向けた。その視線の意味を、ジャンはすぐに理解した。
「大佐」と、ジャンは言った。「クァンタンと、少し話をしてもよろしいでしょうか?」
「もちろんです、お嬢様」
大佐の許しを得て、ジャンはクァンタンに笑顔を向けた。伍長はうつむき、ジャンと目を合わせようとしなかった。
「クァンタン」
「はい、ジュスティーヌ」
「あなたは、友情にかけて私を守ると誓いましたね?」
「はい」
「でも、あなたは私を魔王の前に放り出して、街を救いに向かいました」
「おっしゃる通りです」クァンタンは叱られた子供のように、神妙に答えた。
「たぶん、当たり前の娘であれば腹を立てて、あなたをなじるべきなのでしょうけど、それよりもあなたのように誠実な兵士と友人である事を、私は誇りに思えてしまうのです」
クァンタンは顔を上げ、目を丸くしてジャンを見つめた。
「みなさんは、ご無事ですか?」ジャンはたずねた。
「ボッブとブノア以外は、私も含めて全員無傷です。二人は獄舎の女性たちを守ろうとして、軽い怪我を負いました。無許可の街娼として収監されていた少女の一人が、突然魔物に姿を変えたとのことです。同じ牢にいた女性が襲われ大怪我を負いましたが、幸い命に別状はありません」
「よかった」ジャンは心の底から、そう言った。彼は、ふと気付いてたずねた。「あなたは、ちっとも取り繕ったりしないんですね。ずっと心配してました、とか?」
「それは、一通り叱られたあとに、たずねるつもりでした」クァンタンは真面目な顔で言うと、ジャンに歩み寄り、彼の手を取った。「あなたの身を案じておりました、ジュスティーヌ。あなたがまた、並々ならぬ勇気を発揮してはいないかと」
「それは――」魔王に突進し、ザナの尻尾を引き抜いたことは黙っていた方がよさそうだ。「もう、あんなことは二度としないと、約束しましたから」ジャンは嘘をつき、にこりと微笑んだ。アランとマルコがそろってため息をつき、ウメコはくすりと笑ったが、ジャンは気付かないふりをした。
「それでも、あなたがまた皇太子殿下の身代わりとなり、旅を続ける限り、私の心配が絶えることはないでしょう」クァンタンは言った。
「ごめんなさい、クァンタン。でも、それは私の果たすべき務めなのです」
「わかっています」クァンタンはうなずいた。「いつ、ベルンを発つのですか?」
「明日の朝だ」マルコが代わりに答えた。「少々、急ぎの旅なんでな」
ジャンはため息をついた。もっとゆっくりできたらいいのにとも思うが、彼らには無視できない諸々の約束があるのだ。
「務めを終えた後、またベルンへ戻っていただけますか?」クァンタンは熱のこもった眼差しで、ジャンを見つめてたずねた。「その時、どうしても聞いていただきたい話があるのです。とても大切な話が」
求婚者が群れを成して追い掛けてくるぞ――と言うカトリーヌの警告が、ジャンの頭を過った。彼は、半ば反射的にこう答えていた。「それは、できません」
クァンタンは顔をゆがめ、束の間言葉に詰まってから、ようやく「なぜ?」とたずねた。
さて、困ったぞ。これが今生の別れになる理由を、なんとかひねり出さなければ。ただしそれは、このお人好しの愛すべき伍長が、自分の心臓に剣を突き立てたくなるようなものであってはならない。ジャンは一度目を閉じ、素早く筋書きを立ててから口を開いた。「ジュスティーヌは、髪を切ったその日に、この世を去ったのです」
クァンタンは、はっと息を飲んで目を見開いた。
「皇太子殿下の身代わりとなりうる人間がいることを、反逆者たちに知られないためには、そうするしかありませんでした」
「しかし、務めから解放されれば、あなたはまたジュスティーヌに戻れるのではないのですか?」
ジャンは首を振った。「この騒乱を鎮め、皇太子殿下が再び世に姿を現した時、殿下の影である私は、この国から姿を消さなければなりません。さもなければ、私を利用して殿下の地位を奪おうと企む者が、必ずや現れることでしょう。見た目は王子そっくりなのに、中身はか弱い小娘なのですから、私は傀儡とするのに都合が良いのです」ジャンは言葉を切り、クァンタンに笑みを向けた。「務めを終えた後、私は自らの命を絶つつもりでいました。自分を新たな騒乱の種としないためには、それが唯一の方法に思えたからです」
クァンタンは息を飲み、青ざめた。
「でも、私はこのベルンで素晴らしい友人と出会い、この命が惜しくなりました。国のためと容易い手段を採るより、例えジュスティーヌとしてではなくとも、どこか遠い地で生き抜いて彼を思い続けたい。今は、そう願っています」
するとクァンタンは、人目もはばからず、ぼろぼろと涙を流し始めた。彼の手が、ジャンの手を強く握りしめた。
「泣かないでください、クァンタン。あなたが見ている今の私は、ジュスティーヌではありません。この国の皇太子です。彼のために、あなたが涙を流す理由など、何もないのですから」
「とてもそうは見えません」クァンタンは涙を流しながら、顔をくしゃくしゃにして笑みを浮かべた。
「ええ、よくわかっています」ジャンは苦笑を返した。「でもジャン王子は追っ手の目を欺くため、ヴォルマデ男爵の姪と言う、ありもしない人物に姿を借りているのですから、王子らしく見えなくても仕方がありません。そうでしょう?」
「はい。本当に、見事な変装です、殿下」クァンタンはうなずき、ジャンの手を放して一歩退いた。「私も、あなたを誇りに思います。どうか、あなたの旅が無事でありますように」
「ありがとう、クァンタン」
クァンタンは顔に涙のあとを残したまま、ジャンに敬礼を送った。次いで彼はギャバン大佐に目を向け、無言で彼の指示を待った。
大佐はひとつうなずいた。「伍長、今日はもう結構だ。下がって休んでくれ」
クァンタンは敬礼し、それからジャンに一度も目を向けることなく執務室を出て行った。
('17/7/8)一部修正




