16.ザナ
「父さん!」
ジャンがもう一度叫ぶと、炎の中からアランが転げ出た。服のあちこちが焼け焦げて、半裸も同然の格好になってはいるが、彼女自身に大きな怪我はない様子だった。アランはすぐに立ち上がると、頬についた煤を手首で拭いながら魔王に突進し、猛然と触手を刈り取り始めた。マルコとカラスもあとへ続くが、ジャンはそれが良策だとは思えなかった。
「一旦退いて、作戦を立て直した方がよくない?」ジャンは急いでウメコに言った。「あの魔王は、みんが知ってる魔王じゃないみたいだし、このまま戦うのは危険だよ」
「でも、隠れる場所なんてないわよ?」
ジャンは東の翼廊の扉を指差した。「あいつの図体なら、あの扉は潜れないと思う」
「だめよ」ウメコは首を振った。「この結界は入るだけじゃなく、出ることも出来ないの」
「なんだって、そんなことをしたの?」ジャンは眉をひそめて言った。
「腹ぺこの魔王を、外へ出すわけにはいかないでしょ?」
駐屯地の兵士や街の人間を食らい、際限なく巨大化する魔王の姿を思い浮かべ、ジャンは背筋をぞっと粟立てた。
「でも、あいつが魔法を使えるなら――もちろん、それだけの腕があればだけど、結界を壊して食事に行くことだってできるわ」ウメコは、すがめた目で魔王を見つめた。「あなたの言うとおりよ、ジャン。あいつは私たちが知ってる魔王じゃない。もちろん、ロッテが知っている魔王でもない。あの子は礼拝堂を封鎖して放っておけば、魔王は勝手に飢え死にするって言ってたけど、そんなことをしても、あの新種の魔王なら、どうにか出口を見つけて生き延びようとするでしょうね」ウメコはジャンに目を向けた。「一体、何が起こったのかしら?」
ジャンは、しばらく考えてから口を開いた。「魔族は、魔物に他人の魂を植え付けることができるって、もう話したかな?」
「ロッテも、そんなようなことを言ってたわね」ウメコは思い出しながら言った。「坊ちゃまのように、魂を植え付けられた魔物がどうとか?」
ジャンはうなずいた。「もしかすると、ザナは死ぬ間際になって、自分の魂を魔王に植え付けたのかも知れない。魔物が魔王から生まれたものなら、どっちもそんなに違いはないはずだし、そう言ったことも出来なくはないと思うんだ」
「あなたの言うことが正しければ、あの性悪女が魔王になったってことになるわよ」ウメコは顔をしかめた。「さっきの死んだふりみたいに、また妙なことを仕掛けてくるかも知れないわね」
ウメコの危惧は、すぐに現実となった。
「くそったれ!」カラスが大声で悪態をついた。不意に赤い光線が触手の一本を貫いて、彼の胸元に直撃したのだ。光線に射貫かれた触手はくたりと倒れ、蒸気と煙を上げる穴から、ちぎれて床へ落っこちた。
魔除けの光を失ったカラスは、背後を気にしながらジャンたちのそばへ逃げ戻り、まくし立てるように言った。「的になるぞ。身を隠せ!」
ジャンはぎょっとして側廊へ駆け込み、魔王と自分の間に石の柱を置いた。すぐにカラスがあとへ続き、少し遅れてウメコもやって来た。彼女は柱の陰に入るなり、両手を膝頭に置いてぜいぜいと息を切らした。どうやら魔法とは、ジャンが考えるほど楽なものではないらしい。
「大丈夫?」
ジャンがたずねると、ウメコは顔を上げて苦笑を返し、深呼吸を一つついてから兄に目を向けた。「真っ正面から魔法を受けるなんて、新しい趣味にでも目覚めたの?」
「あいつは呪文を唱える触手を、他の触手で隠してたんだ」カラスは渋い顔で言い訳した。「護符は?」
「品切れよ」ウメコは肩をすくめた。「私も魔力が底をついて、今は火花さえ出せそうにないわ。もうちょっと休めば、また一枚くらいは作れると思うけど」
カラスは舌打ちし、柱越しに戦況へ目を向けた。彼はぎょっと目を見開き、叫んだ。「マルコ、伏せろ!」
マルコはその場にうずくまり、わずかに遅れて彼が立っていた空間を、赤い光が貫いた。
「なんでわかったの?」ジャンは目をぱちくりさせた。
「マルコおじさんを睨んだまま、ぴくりとも動かない触手がいたんだ。魔王の足下にいると死角になって分からなかったが、ここからならよく見える」
ジャンも目を凝らして、無数にある触手の中から、呪文を唱えるものを探そうとした。しかし、彼の目に止まったのは、しょんぼりとうなだれる触手で、他よりもいくぶん細身のそれは、おそらくザナの体内から最初に現れたものだった。
ジャンの頭の中に、ある考えが閃いた。それは、あまりにも突拍子もない思い付きだったので、柱の陰から出て両の手の平を口の横にあてたところで、自分がひどく馬鹿に思えた。それでもジャンは、魔王に向かってこう叫んだ。「ザナ!」
うなだれていた触手が、びくりと身じろぎした。それでジャンは、自分の当てずっぽうが正しかったのだと気付いた。彼は触手に問いかけた。「君は、それでいいの?」
「ちょっと、何をやってるの?」ウメコがぎょっとしてジャンの腕を引っ張り、柱の陰に連れ戻そうとする。
「説得してるんだ」ジャンは短く答えてからウメコの手をふりほどき、さらに触手へ呼びかけた。「本当に、それでいいの。自分の身体を食べられ、魔法の力まで勝手に使われて、君は口惜しくないの?」
触手はのろのろと顔を上げるが、何も答えなかった。しかし、他の触手たちは、何やら戸惑った様子できょろきょろと辺りを見回したり、隣の触手にぶつかって互いに威嚇し合ったりと、すっかり統制を失っている。もっとも、困惑しているのは魔王ばかりではなかった。アランとマルコも、突然攻撃を中断した魔王にいぶかしげな視線をくれてから、結局、成り行きを見守ろうと決めたのか、大きく距離を取った。
ジャンは、魔王の魔王らしからぬ振る舞いの原因を、彼女の宿主にあると考えていた。ジャンの知る限りでは、十年前にアランたちが倒した魔王と、目の前にいる魔王の違いは、その一点に尽きるからだ。あるいは、ザナ自身がこの魔王に憑依しているのではないかとも疑ったが、最初の触手の振る舞いを思い出した今、その考えが間違いであるとわかっていた。死体を見て驚き、それを目の前で魔王にむさぼられる様を恐れ、嘆いた触手には、魔王本体とは明らかに別個の意思があった。つまりザナの魂は、魔王そのものではなく、彼女の付属物である触手にのみ宿っていたのだ。しかし父やクシャロが言うように、本来の魔王が強大な力を持つだけの愚かな生物だとすれば、これまで見せた魔法の技術や狡猾さと言ったものは、おそらくザナの魂から引き出されたものだ。それは裏を返せば、彼女が何らかの形でザナの影響を受けている証拠でもあった。
そこでジャンは、うまくザナの部分に働きかければ、彼女たちの関係に何かしらの混乱を引き起こせるのではないかと考えた。そして、それは実際うまく行っているように思えた。ただし、この状況がいつまでも続くとは限らない。アランとマルコが攻撃を再開すれば、あるいは魔王の生存本能がザナの干渉を退け、再び自身への支配力を取り戻すかも知れなかった。となれば、ここはもう一押しが必要だった。
「ねえ、ザナ」ジャンは、もう一度、触手に呼びかけた。「君たち魔族が、どれくらい魔王のことを尊敬しているかは知らないけど、君はほんのちょっと前まで魔王の主人だったんだよ。だって、君のおなかにいる間、彼女は君が望むように魔物を作ってたんだからね。それなのに、今は立場がすっかり入れ替わってる。君は、このまま魔王の奴隷でいるつもりなの?」
ザナが宿る触手は何も答えなかった。ただ、ジャンの真意を探るかのように、じっと彼を――目はないが――見つめるばかりだ。ジャンは、さらに続けた。「もし君が、その怪物から解放されたいと思うなら、僕たちはそれを手伝えると思う。君はただ、僕たちの邪魔をさせないように、そいつを抑えてくれればいいんだ」
もちろん、ザナを魔王の支配から救うには、魔王を殺すしかない。しかし、それは同時に、魔王の一部となってしまったザナをも殺すことになる。つまりジャンは、自分を殺すために手を貸せとザナに頼んでいるのだ。ザナは、それをどう受け取るだろう。馬鹿げた提案か、あるいは尊厳を取り戻すための、千載一遇の機会ととらえるか。
「できるよね?」ジャンは冷たく選択を迫った。
束の間を置いて、ザナが宿る触手は絶叫し、隣り合った触手に激しく咬みついた。黒い血しぶきがあがり、咬まれた触手は気のふれた笑い声を上げて、さらに別の触手に食らいつき、魔王の背中の上で、触手同士の凄惨な共食いが始まった。互いが互いを噛みちぎり、触手は枯葉のように次々と床に落ちて、そこらをのたうち回った。
「驚いたな」カラスも柱の陰から出てきた。彼はぽかんと魔王を見つめ、そしてジャンに目を向けた。「こうなると、わかっててやったのか?」
「まさか」ジャンは首を振った。「僕だってびっくりだよ」
魔王は自滅の一途をたどっていた。もちろん、触手は食いちぎられる端から次々と再生を繰り返すが、新たに生えた触手もまた同士討ちに加わり、混乱が収まる気配はない。そして、とうとう再生力も底をついたのか、満身創痍でぐったりと垂れ下がる触手を一本だけ残し、魔王はほぼ丸裸となった。
アランは、もはやナメクジのように這いずる事しかできなくなった魔王の正面に立ち、剣を上段に構えた。すると魔王は、思いも寄らない行動に出た。腹足をくねらせてアランに背を向けるなり、礼拝堂の出口へ向かって一目散に逃げ出したのだ。誰もがあ然とする中、アランは逃る魔王の背に向け、冷然と剣を振り下ろした。見えない斬撃が魔王を両断し、戦いはあっけなく終わった。
「忙しいのは、これからよ」束の間を置いて、ウメコが口を開いた。彼女は紙片と木炭を取り出し、新たな護符を書きはじめた。
「そんなことして大丈夫なの?」ジャンは、また彼女が魔力を失って、へたり込むのではないかと心配になった。
「これは結界を解くための護符で、魔力はほとんど使わないの」あっさりと護符を書き上げたウメコは、いまだに構えを解かないアランに声を掛けた。「さっさと逃げましょう。こいつが前の魔王と一緒なら、すぐに礼拝堂一杯にふくれ上がるわよ。魔王の死骸で溺れるなんて、まっぴらごめんだわ」
しかし、アランは首を振った。「まだだ」
前の討伐でアランが命を失ったのは、まさにこの直後だと言う。彼女が慎重になるのも、当然と言えば当然だった。しかし二つに分かたれた魔王は、どちらも自身が流すどす黒い血の海の中で、あらわになった灰色の内臓を脈打たせるのみだ。その命がつきるのも、時間の問題に見えた。みなが固唾をのんで見守っていると、触手が無いほうの片割れが、びくりと身じろぎした。ほどなく、その内臓のすき間から、真っ黒な肉塊が押し出され、床に転げ落ちた。それは長さが五フィートほどの卵形で、先端の細い部分には十文字の深い溝が刻まれていた。
「宝石じゃないんだ」ジャンは、少しがっかりしながらつぶやいた。
「なんか言った?」ウメコがいぶかしげに訊き返す。
「なんでもない」
肉塊が、不気味に蠕動を始めた。その先端が、十文字の溝からゆっくりとめくれあがって花弁のように開き、皺やひだが複雑に入り組んだ、てらてら光るピンク色の組織をのぞかせた。次いで肉塊は、痙攣を起こしたようにぶるぶると震え、激しく収縮した。その動きに合わせ、ピンク色のひだの間に丸い穴が開き、そこから粘液にまみれた、人のようなものが押し出された。肉塊はしばらく、あえぐように蠕動していたが、間もなく動きを止め、ついにはしなびて、乾燥したイチジクにそっくりな、皺くちゃの塊になった。
肉塊から現れたものは、一見して裸の少女のように見えた。しかし、頭に生えているのは髪の毛ではなく、魔王の背中に生えていた触手のミニチュアで、尾骨の辺りからも、大人の腕ほどの太さがある触手が、尻尾のように一本、生えている。それらを見れば、彼女が人外であり、魔王に関わる何かであることは明らかだった。
少女は床に両手をつき、粘液をしたたらせながらゆっくりと立ち上がった。髪の毛代わりの触手の下には、ザナが生み出した蜘蛛の魔物とそっくり同じ顔があり、胸には幼い顔立ちに似合わぬ大きな乳房もあった。すると、これは魔物なのだろうか?
少女は尻尾をくねらせながら、自分の顔に触れ、胸をまさぐり、下腹部を撫でてから「ああ」と嘆息した。そして、ふっくらとしたつやのある唇にほのかな笑みを浮かべ、ジャンをたれ気味の目で見つめた。
「あなたには感謝してるわ」と、少女は言った。「私に、これができるって、気付かせてくれたんだもの」
「なんのこと?」ジャンは、用心深くたずねた。
「あら」少女はくすくすと笑った。「魔王様と私、どちらが本当の主人か、教えてくれたのはあなたよ。もう忘れたの?」
ジャンは、自分がへまをしでかしたのではないかと思い始めた。彼はつばを飲み込み、覚悟を決めてたずねた。「ザナ?」
「そうよ」名を呼ばれた少女は、満面の笑みで答えた。「でも、もう前の私じゃないの」
つまりは、そう言うことだった。ザナと魔王の関係に介入し、その天秤の片方を不用意に押したせいで、ジャンは一度殺した敵を甦らせてしまったのだ。
ザナは、自分を産み落とした方の魔王の半身をふと見てから、その肉に尻尾の触手を突き立てた。魔王は熾火でも押し付けられたように、激しく身をよじって抵抗した。
「ねえ、魔王様」ザナは、悶える魔王の半身を、蔑むような目で見て言った。「あなただって、私を食べたのよ。自分が食べられる番になったからって、そんなにいやがるのは見苦しいと思わない?」
その言葉に諭されたわけでもないのだろうが、魔王の片割れは動きを弱め、微かな痙攣を断続的に繰り返すだけとなった。そして魔王は、表皮を皺だらけにしながらしぼみ、しまいには干からびて、自分の血だまりの上に浮かぶ散り散りの黒い破片となった。
「魔王を、食べた?」ジャンがつぶやくと、ザナはぎょっとする彼に微笑みかけ、傷だらけの触手をだらりと垂らすもう一方の片割れにも触手を突き立てた。魔王の片割れはびくりと身じろぎするが、それ以上の抵抗はしなかった。
ジャンの耳に、ふと奇妙な音が届いた。それは複雑な和音からなるハミングの合唱のようだが、その出所を探り当てる前に、アランがザナへ向かって突進した。ザナは右手をつき出し、指先から赤い光線を放ってそれを迎え撃つ。アランは輝く刃で光線を弾き、一気に間合いを詰めてから、ザナの胸元目がけて剣を突き出した。
ザナは半身になり、仰け反るようにしてその一撃をからくも回避するが、大きく態勢を崩した。アランは強く床を踏んで突進を止め、身体をひねり、ザナのがら空きの首を狙って剣を横様に払った。もはや、ザナにそれをよける術はなかった。彼女はむなしく左腕を上げて首をかばうが、少女の細腕で剣王の剣を防げるはずがない――と、アランの剣は金属の澄んだ音を立て、あっさりと弾かれた。
あ然とするアランに、ザナはあざけるような笑みを向けた。そして彼女の腕は皮膚の内側から割け、左右それぞれに三本の黒い蜘蛛の脚が飛び出した。
ザナは自身の身の丈よりも長い蜘蛛脚を大きく広げ、それでアランにつかみ掛かった。アランは大きく後方へ跳躍し、蜘蛛脚の抱擁を逃れるが、ザナは魔王から引き抜いた尻尾を床すれすれに払い、着地寸前のアランの脚をすくい上げた。アランは派手に尻もちを突いて、小さくうめいた。そこへザナが突進し、節のある脚の一本を鞭のように振り降ろした。
あわやと言うところへ、体形に似合わぬ敏捷さでマルコが駆け付け、斜めに振り上げた剣で蜘蛛脚を叩き切った。彼は剣をすぐさま返して残りの五本の脚を始末し、さらに真っ向からザナへ斬りかかる。しかしザナは、彼女の頭を叩き割ろうとする刃に尻尾の触手で噛みつき、その攻撃を防いだ。マルコと触手は互いに剣を奪おうと力比べを始め、その隙に立ち直ったアランが脇へ回り込み、触手を横合いから両断した。
ザナは後退して間合いを取り、斬り落とされて半分になった尻尾を見て、鼻筋に皺を浮かべた。「ひどいことをするわね。これ、気に入ってたのよ?」
しかし、彼女のぼやきをよそに、尻尾は傷口から泡立つように肉が盛り上がり、たちまち朱色の口がぽかりと開いて、元の長さと形を取り戻した。マルコに斬られた蜘蛛脚も肩口の根元から抜け落ちて、新たに生えそろう。
「化け物め」アランは剣を構えて言った。
「まあ」ザナは言って、不満げに唇を尖らせた。「女の子をつかまえて化け物だなんて、あんまりだわ」
「女の子って齢でもないでしょ」ウメコはふんと鼻を鳴らして言った。それが耳に届いたかどうかはわからないが、ザナは笑みを浮かべ「でも、そうね」と続けた。「私はもう魔王を超えた存在なんだから、あなたたち当たり前の人間には、そう見えても仕方が無いのかしら」
「魔王を超えた?」アランは眉を吊り上げた。
「そうよ」ザナは自分の胸に手をあってて言った。「剣王に討たれた魔王は、魂のない不完全な生き物だった。でも、私は違う。私は無限の生命力と魔力を持つ魔王の身体に、私という魂を宿した完全な生物になったの。もう、誰も私を殺すことは出来ないわ。剣王も、時間さえもね」
カラスが、ふとジャンに目を向けた。「あいつ、様を付け忘れてるぞ?」
「たぶん、わざとじゃないかな」ジャンは、アランとザナのやり取りに注意を向けながら答えた。
「時間はともかく」と、アランが言った。「剣王は、もう二度も魔王を殺している。三度目が無いと言い切れるのか?」
「おかしなことを言うのね」ザナは馬鹿にするように鼻を鳴らした。「剣王が魔王を倒したのは一度きりよ。それに、彼は王都だわ。いくら剣を振り回しても、ここまでは届かないでしょうね」
「しかし、そいつを真っ二つにしたのは私だ」アランは、ザナに尻尾を突き立てられた、魔王の片割れを切っ先で示した。ザナは魔王をちらりと見てからアランに目を戻し、いぶかしげに片方の眉を吊り上げた。
「なあ、アラン」マルコが口を挟んだ。「どう見ても、そいつはまだ死んでないし、得点に入れるのはまずいんじゃないか?」
「半分は死んでいる」アランは言い張った。「一匹と半分なら、二匹に繰り上げても構わないだろう」
ザナは笑い出した。腹を抱え、身体をくの字に折ってけらけらと笑った。ひとしきり笑って、彼女は言った。「お前が、剣王?」
アランはため息をつき、剣を構え直した。「自己紹介は、もういいだろう。そろそろ始めようか?」
「そうね」ザナは、再び尻尾を魔王の片割れに突き立てた。「お互いに見た目は変わってしまったけど、魔王と剣王なら殺し合わなきゃ」
アランは一気に間合いを詰め、剣を振り降ろした。対してザナは蜘蛛脚を掲げ、その攻撃を受け止めようとする。ジャンは、それを失策だと考えた。大抵のものを真っ二つにする剣王の剣を、葦のように細い蜘蛛脚で防げるはずがないからだ。しかし予想に反し、蜘蛛脚はあっさりとアランの剣を弾いた。
「どうして?」ジャンは目をぱちくりさせた。
「たぶん、魔法だろう」と、カラス。
「でも、マルコおじさんは、あの蜘蛛脚をばらばらにしたんだよ?」
「その前に、あいつは一度、アランの剣を防いだわ」と、ウメコ。「私の魔除けは魔法を防ぐけど、同じように武器を防ぐ魔法があるの。ただ、それは長ったらしい呪文を唱えなきゃいけないし、攻撃を一度受けると消えてしまうものなの」
しかし、ザナは嵐のように蜘蛛脚を振り回し、もう何度もアランの剣と打ち交わしている。ジャンはそれを指さし、首を傾げてウメコを見た。
「ええ、わかってる」ウメコは唇をへの字に曲げた。「あいつはどうにかして、魔法の欠点を補ってるに違いないわ」
ジャンの耳が、再びハミングの合唱をとらえた。彼はきょろきょろと辺りを見回し、それがザナから発せられていることを突き止めた。「この音はなんだろう」
「音?」ウメコがきょとんとしてたずねた。ジャンが説明すると、ウメコは目をすがめてザナを見つめ、束の間を置いてから、ぶつぶつと悪態をつき始めた。
「ジネットおばさんに聞かれたら、晩飯を抜かれるぞ」カラスがたしなめた。
「あんたが告げ口しなきゃいいことだわ」ウメコは兄にべっと舌を出して見せてから、ジャンに目を向けた。「これは呪文よ」
「僕にはハミングにしか聞こえないけど?」
「あいつは頭の触手一本一本に、秘密文字を一音ずつ発声させてるの。それが、ハミングの合唱に聞こえるってわけ。普通の魔法使いは口が一つしか無いから、一つの呪文を唱えるにはそれなりの時間が必要になるけど、たくさん口がある彼女なら一瞬で魔法を完成させられるわ」
「そんなこと、できるの?」
「護符と同じ理屈よ」ウメコは肩をすくめた。「紙の上なら、いっぺんに何文字でも並べることができでしょ?」
しかし、からくりを見破ったとしても、状況は何も変わらなかった。アランの剣は役に立たず、未だザナの肌に一筋の傷も与えることができない。マルコも加勢に入り、背後から斬りつけるが結果は同じだった。
対してザナの蜘蛛脚は剣呑な武器だった。横なぎに払われた一撃を、垂直に置いた剣の腹で受け止めたアランが、その勢いを殺しきれず床の上を三フィートあまりも滑った。そんな攻撃を、六本の脚で方々から繰り出して来るのだ。
カラスがやにわにマントを脱ぎ、それを妹に放り投げた。マントの下は、彼が以前、王宮の壁をよじ登ってジャンを救いに来たときに着ていた、錆色の服だった。
「どうするつもり?」ウメコがたずねた。
カラスは腰に差した片刃の短剣を引き抜いた。「旦那に加勢する」
「剣が効かないのよ。あんたが加わったところで、大して変わりないわ」
「そりゃあ、どうかな」カラスは鼻を鳴らした。「手数が増えれば、あいつはそれだけ多く呪文を唱えることになる。魔法だって無限に使える訳じゃないからな。いずれ魔力も底をつくことになるだろう。そうなれば、あとは普通の魔王と同じように、端から切り刻んでやればいい」
「でも、ザナは言ってたよ」ジャンは口を挟んだ。「魔王は無限の生命力と魔力を持つって?」
「はったりよ」ウメコは断言した。「少なくとも生命力の方は、無限なんかじゃなかったわ。魔力だけ例外だなんて、ちょっと考えられないわね」
「そもそも、魔力ってなんなの?」ジャンはたずねた。
「また、難しい質問をするわね」ウメコは眉をひそめた。「あまり正確じゃないけど、私たちの身体を水車小屋だとすれば、魔力は川の水なの。水が滞りなく流れれば、水車は粉を挽いたり色々な仕事をするわ。でも、水はほかにも使い道があるでしょ。例えば畑にまいて作物を育てるとか、お茶を淹れるとか?」
ジャンはうなずき、ウメコは説明を続けた。「魔法って言うのは、その水車を回す以外の仕事を、魔力にさせる技術なの。もちろん、そのためにはじゅうぶんな水量が必要になるわ。小川から、じゃぶじゃぶ水をくみ上げてたら、いずれ川は涸れて水車も止まってしまう」
「さっきの君みたいに?」
「そうね」ウメコは苦笑してうなずいた。
ジャンは、ふと首を傾げた。「水をくみ上げるには、柄杓がいるよね。それか、バケツ?」
「この子、弟子にしてみようかしら」ウメコは兄を見て言った。
「アランから息子を取り上げるのか?」
「そうね。止めとくわ」ウメコは肩をすくめてから、ジャンに目を戻した。「魔力をくみ上げる器は魂なの。それが柄杓かバケツか匙なのかは、その人の素養次第ってことになるわね」彼女は束の間考えてから付け加えた。「ザナは、前の魔王に魂がないって言ってたけど、それなら今の魔王と違って魔法を使ってこなかったのも納得だわ」ウメコは兄に目を向けた。「加勢に行くのはいいけど、ぜったいに手を止めちゃだめよ。あいつに鎧の魔法を使わせ続けるの」
「どうして?」と、ジャン。
「鎧の魔法を使ってる限り、彼女は他の魔法を使えないからよ」
「でも、ザナには口がたくさんあるんだよ。全部の口で一個の呪文を唱えるのをやめて、それぞれの口で違う呪文を唱えれば、いっぺんにたくさんの魔法を扱えるんじゃないかな?」
「面白いことを考えるわね」ウメコは目をぱちくりさせた。「でも、二冊の本に書かれている文字を、ごちゃまぜにして一冊の本に仕立てても、それは意味のある物語にはならないでしょ? 少なくとも、護符でそれをやろうとしたら、うまくいかなかったわ」
「試したことがあるのか」カラスはくすりと笑った。
「とにかく」ウメコはじろりと兄をにらんだ。「あいつに他の魔法を使わせたら、魔除けの無いあんたは丸焦げになるわよ。絶対に、その隙を与えないことね」
「心配してくれるのか?」カラスは意外そうに言った。
「身内が生きたまま燃やされる姿を楽しめるほど、私はイカれちゃいないの」ウメコは鼻を鳴らした。
カラスはにやりと笑みを残し、戦場へ駆けて行った。
どうにか攻略の糸口は見えた。ただ、ひたすら斬り続けるのみと言う、まったく変わり映えのしない作戦だが、それはザナの魔力を削ぐだけでなく、赤い光線や爆発する火の玉のような、危険な魔法を封じることにもなるのだ。
とは言え、戦況はかんばしいものではなかった。魔法を使えない魔法使いと、剣を使えない剣士の対決ともなれば、互いに決め手を欠いて事態は膠着しそうなものだが、生憎とザナには蜘蛛の脚があった。今はアランも、どうにかその攻撃をしのいでいるが、小さな少女の身体で、いつまでも持ちこたえられるものではない。そしてザナも、アランをもっとも与し易い相手と見ているのか、伸縮自在の尻尾を少しずつ繰り出しながら前進し、マルコやカラスを半ば無視して彼女ばかりを執拗に攻め立てている。猛攻を一人で受けるアランは、じりじりと後退を強いられており、これではザナの魔力が尽きるよりも先に、アランの体力が尽きてしまいかねない。
ウメコは、ザナの言葉をはったりだと決め付けたが、ジャンの考えは違っていた。無限は大袈裟だとしても、真っ二つにされてもしぶとく生き続ける生命力を見れば、魔力の方も相当にあると見るべきだ。
ジャンは首を振って自分の考えを否定した。無限と有限は違う。その間には厳然とした壁がある。ジャンには無限に見えたとしても、ザナは自身の限界を自覚しているはずだった。
攻勢にあるザナは前進を続け、彼女と魔王を繋ぐ尻尾は、もう二〇フィートほどになっていた。ジャンは、やにわに自分のスカートに魔族の短剣を突き立て、それを引き裂いて膝丈ほどにした。
「なにをしてるの?」ウメコがぎょっとしてたずねてきた。
「ちょっと、試したいことがあるんだ」ジャンは曖昧に答え、スカートの切れ端を放り投げると、柱の陰を飛び出した。
「ジャン、戻りなさい!」
ウメコの声が追い掛けてきた。ジャンはそれに耳を貸さず、全力で走り続けた。すぐに赤い光が閃き、彼は自分が魔法を受けたのだと気付いた。ザナを見れば、彼女は焦りの表情を浮かべ、身体をひねって右の蜘蛛脚の一本をこちらへ向けている。
「ジャン!」アランが叫び、その蜘蛛脚を叩き切った。マルコとカラスも激しく斬り付け、ザナの脇腹と背中に深い傷を作った。ザナはたまらず鎧の魔法を唱え直し、魔王ゆずりの再生力で傷を塞いだ。その間にもジャンは駆け続け、ついに魔王の半身のそばにたどり着いた。彼は魔族の短剣を床に置くと、両手につばを吐いてから、魔王の身体に頭を突っ込むザナの尻尾を脇に抱え、両手でそれをしっかりと握った。しっぽはなめし革のような感触で、思っていたよりも硬く、かすかに脈を打っていた。
「放せ!」ザナが叫んだ。腕の中で、尻尾が激しくのたうち回った。ジャンは脇をきつく締めて尻尾の動きを押さえ込み、魔王の半身に片足を掛け、渾身の力を込めてそれを引っ張った。
尻尾は湿った音を立てて魔王の身体から引っこ抜け、唐突にザナのハミングが止んだ。ジャンは勢い余ってひっくり返り、頭を床へ強かに打ち付けた。彼は慌てて起き上がり、見ればザナと目が合った。彼女の乳房の間からは、アランの剣の切っ先が飛び出していた。ザナはくたりとその場へくずおれ、床に倒れふした。
「魔王を超えたと言っていた割に、ずいぶんあっけないな」マルコがぽつりとつぶやいた。
「違うよ、おじさん」ジャンは言って立ち上がると、床に置いた魔族の短剣を拾い上げた。「たぶん、それは魔物なんだ」
マルコはいぶかしげに片方の眉を吊り上げた。
「最初に父さんが心臓を狙ったとき、彼女はそれを避けたよね。真っ二つにされても死なない魔王にしては、ちょっと用心がすぎると思ったんだ」ジャンは頭の後ろをさすりながら言った。そこには大きなこぶが出来ていた。
「それを言うなら、鎧の魔法もそうだな」と、カラス。「斬られようが突かれようが死なないなら、身を守ったりしないで、あの光線を撃ちまくっていたはずさ」
「そうなってたら、我々に勝ち目はなかったかも知れないな」アランは言って、息子をじろりとにらみ、小言を言おうと口を開きかけた。
「お説教なら、あとでちゃんと聞くよ」ジャンはため息をついた。「それよりここを出ない?」
「ジャンの言う通りよ」ウメコがやって来て、結界破りの護符を引っ張り出した。「死んだ魔王がどうなったか覚えてるでしょ?」
「どうなるんだ?」マルコがたずねた。
「窯の中のパン生地みたいに、ぶくぶく膨れて辺りにある物を何もかも飲み込んでしまうそうだよ」
ジャンが説明するとマルコは身震いして、剣の切っ先で出口を示した。「みんなはどうか知らんが、私はさっさと町へ戻って一杯引っ掛けたい気分なんだ」
アランは魔王の半身を束の間見つめてから、肩をすくめて言った。「そうだな」
しかし、だらりと垂れ下がるばかりだった傷だらけの触手が、やにわに鎌首をもたげ、ジャンに顔を向けて呪文を唱え始めた。マルコがジャンに飛び付き、触手が放った赤い光線は、彼の背中に当たって魔除けの光をはぎ取った。触手はさらに新たな呪文を唱えるが、アランの見えない斬撃で根元から断ち切られ、魔法が完成することはなかった。しかし、魔王はすぐさま新たな触手を、一本生やした。それはジャンの腕よりも細く、なんとも貧弱に見えるが、呪文を唱える口は付いていた。
ジャンの頭の中の、様々な切れっ端が繋がり、一つの答えを導きだした。彼は魔族の短剣から宝石を取り外し、伯父を押し退けて魔王に飛びかかった。触手はすでに呪文を唱え始めていたが、ジャンは構わず魔王の身体に短剣を突き立てた。触手は一瞬、身じろぎするが、呪文が途絶えることはなかった。そして魔法は完成し、ほんの二フィートしか離れていないジャンに向かって炎の矢が放たれた。
魔法は一瞬でかき消えた。ジャンは魔除けの光に包まれ、彼の右肩にはウメコの手が置かれていた。
「その程度の魔法なら、あと二発は受けられるわよ」ウメコはにやりと笑って言った。「試してみる? その時間があればだけど」
触手は絶叫した。しかし、それが恐怖ではなく、怨嗟から生まれたものだと言うことに、ジャンは気が付いた。彼は冷然と短剣を引き抜いた。絶叫はぷつりと途絶え、ジャンの手の中の短剣には、はたせるかな緑色の宝石がはまっていた。触手はくずおれ、魔王の半身は沸騰するように泡立ち始めた。
「みんな、出口へ走って!」ウメコは叫ぶなり、真っ先に駆け出した。全員が彼女へ続き、出口の前に彼らが集まると、ウメコは結界破りの護符を床に押し付けた。さざ波が床と壁を覆い、唐突に蜘蛛脚の魔物がジャンの目の前に現れた。アランの剣が素早く伸びて魔物の心臓を貫くが、礼拝堂の中には同じ魔物があふれかえっていた。彼女たちは泡立つ魔王の屍を見付けるなり、ジャンたちには目もくれず、ふらふらとそちらへ向かって歩いて行った。魔王の亡骸は膨張を続け、次々と魔物たちを飲み込んだ。
誰かがぐいとジャンの手を引いた。
「さっさとずらかるわよ」ウメコが言った。ジャンはウメコに手を引かれながら礼拝堂を飛び出した。
礼拝堂の外は、空が白んでいた。門へ向けて駆ける途中、肩越しに振り返ると、入口の前には、まだカラスとマルコの姿があって、彼らは二人掛かりで扉を閉めているところだった。
「おい、お前たち」
門の外へ出たところで、彼らは一人の兵士に呼び止められた。彼はアランの抜き身の剣を見るなり、ぎょっとして反射的に自分の剣に手を掛けた。
「私たちは、クァンタン様の友人です」ジャンは急いで言った。「彼を訪ねてきたところ、突然魔物が現れ、彼からここへ避難するように言われました」ジャンは父に目を向けた。「アラン、剣をしまってください」
アランはうなずき、剣を背中の鞘に収めた。兵士は安堵のため息をついて、剣の柄から手を外した。「お嬢様」と、彼は気まずそうにジャンから視線をそらし、咳払いした。「あいにくとドレスはありませんが、今のそれよりはましな服を用意します。どうか、指揮所までご一緒ください」
ジャンは、遅れてやって来たカラスに状況を説明した。彼は肩をすくめ、ジャンの耳元に口を寄せた。「そんな格好でいたら、クァンタンが卒倒するぞ」
その時、礼拝堂からばきばきと木材の割れる音が響いた。全員が一斉にそちらを見ると、二階の窓の戸板が破れ、魔王の黒い肉片がこぼれ落ちてきた。肉片は地面に落ちると、ひからびて磯に張り付く海藻のようになった。
「あれは、なんだ?」兵士が目を丸くしてつぶやいた。
「あとで説明するよ」カラスが言った。「とにかく、ここを離れよう」




