12.ベルン駐屯地
駐屯地へ潜入し、牢番を襲って鍵を奪い、マルコたちを解放する。これが、ジャンの考えた作戦だった。もちろん、ひどく雑なものであることは承知の上だ。しかし、使える駒と時間が限られている今は、ともかく行動することを最優先にしなければならなかった。
役回りとして、アベルはトレボーの駐屯地から送られてきた使者で、ジャンはその従者――と、なるはずだった。ところがジローは、その筋書きに異を唱えた。別の駐屯地からの使者と言う体で訪問すれば、それはより高い階級の人物の注目を集めることになり、ベルンの駐屯地を牛耳っている、魔族の目にとまる恐れもあると言うのが、彼の主張だ。
「要は、もっとプライベートな目的の訪問にすればいいのさ。下っ端の兵隊たちが、仲間内だけに留めておこうと思えるような、秘めやかな訪問にね」ジローはそう言うと、屋敷の裏の井戸端で水を滴らせるジャンに、布を放って寄越した。
「プライベート?」布を受け取ったジャンは、頭の水気をごしごし拭き取りながら聞き返した。今の彼は素っ裸で、魔物の血もきれいさっぱり洗い流してある。もう、黒女中と呼ばれる心配もなかった。
「ジュスティーヌ嬢には、厳格な父親の目を盗んでハンサムな伍長に会いに行くだけの、動機があるって事さ」
「あまり、よい考えとは思えません」アベルが難しい顔をして反対した。「マルコがヴォルマデ男爵を騙っていたと敵に知れたのですから、男爵の姪っ子とやらのジュスティーヌ嬢も、捕縛の対象となっているはずです。彼女の格好で駐屯地へ乗り込んだりすれば、ジャンまで捕まってしまうでしょう」
「そうはならないと思うよ」ジャンは身体を拭いた布を、腰に巻き付けながら言った。「たぶん、駐屯地を操ってる魔族は、おじさんがヴォルマデ男爵に変装してることを知らないんだ」
「なぜ、そんなことがわかるんですか?」アベルは、いぶかしげにたずねた。
「誰も僕を捕まえに来ないからさ」ジャンは肩をすくめて言った。「だって僕たちは、ここへ来るまで姿を隠そうともしなかったんだよ? ヴォルマデ男爵に連れがいることは、調べればすぐにわかることだし、僕を捕まえるつもりでいるなら、その中に僕が紛れてるかも知れないって普通は考えるはずだもの。でも、お屋敷に兵隊が踏み込んでくる気配がないってことは、そもそも駐屯地の魔族はヴォルマデ男爵のことを知らないんだと思う」ジャンは一つくしゃみをした。
「とりあえず、服を着ましょう」アベルは笑って言ってから、何かを思い出して息を飲んだ。「しかしドレスの着付けなど、誰が出来るんですか。それに、化粧も?」
ジャンも、そのことはすっかり失念していた。ベルンへ入る前はカトリーヌが手伝ってくれたが、彼女は今、ここにはいないのだ。
「私がなんとかするよ」ジローが名乗りを上げた。彼はジャンを見て言った。「下着くらいは自分で着られるだろう?」
ジャンはうなずき、自分の馬がいる馬房に向かった。着替えなどの馬に乗せていた荷は、そこに置いてあるのだ。しかし、すぐにジローは彼を引き止めた。「まさか恋人と会うのに、男物の下着を穿いていくつもりじゃないだろうね?」
ジャンはきょとんとした顔で振り返った。「前の下着は汚れて使えないよ?」
「新しいのを借りたらいいじゃないか」
ジャンは露骨に嫌な顔をした。「カトリーヌの断りもなしに?」
「それは、さすがに気まずいね」ジローは仮面の顎に指を当て、束の間考えてから言った。「クシャロのを借りたらいい。どうせ彼女は戻ってこないんだから、タンスから一枚失敬したところで、文句を言われる心配はないよ」
「結局、女性の下着をあさることになるんだね」ジャンはため息をついた。
「そう言うことだね。さあ、マルコたちが頭から魔物にかじられる前に、さっさと取り掛かろうじゃないか」
クシャロの部屋に場所を移し、彼らは変装を始めた。アベルはトレボーで着ていた従者の服に着替えた。ジャンは突貫でドレスを着付けられ、次いで髪を結い、それが終わるとジローは化粧に取り掛かった。
「一体、どこでそんなことを覚えたんですか?」ジャンの顔に手際よく粉を叩く吟遊詩人を見て、アベルが興味深げにたずねた。
「昔、高級娼館に雇われていたことがあってね。着付けも化粧も髪結いも、そこで叩き込まれたんだ」ジローは手を休めずに言った。彼は首を傾げてジャンに意地悪くたずねた。「なにをする場所か、説明したほうがいいかい?」
口紅を引かれていたジャンは、首を縦にも横にも振れなかった。
変装を終え馬に乗ったジャンとアベルは、ありったけの速度で町の北側にあると言う駐屯地へ向かった。ジローは子守兼、カラスやカトリーヌが戻ってきた場合の連絡役として、屋敷で留守番をしている。戦力と言う面では、彼も同行して欲しいところだったが、さすがに仮面の男が同行していれば、余計な注意を引きかねない。
駐屯地へたどり着いたときには、もう太陽は沈み、空の東半分は夜空に変わっていた。駐屯地の門前では二人の歩哨が、夜に備えてかがり火の燃える鉄かごを、長い鉤棒で門柱に掛けようとしているところだった。彼らは近付いてくる二頭の馬に気付き、作業の手を止めた。
ジャンたちは馬を降り、アベルが年配の兵士に用件を告げた。兵士は、夜の部分がどんどん増してゆく空を見上げて言った。
「今の時間ですと夜番の者と交替を終えて、こちらへ向かっている頃でしょう」
「いつごろ、お戻りになるのでしょう?」ジャンはたずねた。
「少し前に日没の鐘が鳴ったところですから、それほどは掛からないと思います」兵士は言葉を切り、束の間考えてから口を開いた。「伍長の兵舎へご案内しましょう。あちらなら、腰を降ろす場所くらいは用意できます」
「よろしいんですか?」
「構いません」年配の兵士はにこりと微笑んだ。「クァンタンの知り合いなら、あなた方がおかしな連中でないとわかります。あいつは、お人好しで少し抜けたところもありますが、どう言うわけか悪人には鼻が利くんです」兵士は相棒に目を向けた。「ここを頼む」
「はい、軍曹」若い兵士は敬礼をくれてから、かがり火を設置する作業に戻った。
年配の兵士はジャンたちに目を戻した。「馬に乗ってください、お嬢様。兵舎までは私が引いて行きます。たいした距離ではありませんが、ドレスで歩き回るのは骨が折れるでしょう」
ジャンたちは言われた通り騎乗し、軍曹の案内でクァンタンの兵舎までやってきた。それはジュールの屋敷とよく似た造りの建物で、トレボーの駐屯地もそうだが貴族の子弟が多い街道警備隊では、兵舎もこのように豪華なのだ。もちろん、これは誰か一人だけの屋敷ではなく、数人の兵士が共同生活を送るための屋敷だった。
軍曹は玄関の前に立ち、扉をノックした。すぐにジャンとさほど変わらない年頃の兵士が出て来て敬礼し、言った。「軍曹」
軍曹は敬礼を返してから口を開いた。「伍長に客だ。粗相の無いようにしてくれ」
「はい、軍曹」
軍曹は少年兵に一つ頷いて見せてから、ジャンたちにお辞儀をして元の持ち場へと戻って行った。
「レミと申します、お嬢様」少年はジャンを見て顔を赤くし、緊張した様子でお辞儀した。「どうぞ、中でお待ちください。馬を繋いだら、応接室までご案内いたします」
ジャンとアベルは、ひとまず玄関ホールへ通され、扉の脇に置かれたクッション付きの椅子に腰を降ろしてレミを待った。ホールは無人だったが、どこからか談笑する声が聞こえてくる。間もなく蝋燭を持ったレミが現れて、客人たちを応接室へと案内した。少年兵が蝋燭に火を灯して回ると、豪奢ではないが趣味のよい調度が並ぶ室内が、明るく照らし出された。
「すぐにお茶を用意しますので、どうぞおくつろぎください」レミは少し上ずった声で言うと、応接室を出て行った。
「思ったより簡単に潜り込めたね?」レミが去ったあと、ジャンは声をひそめてアベルに言った。
「しかし、勝手に屋敷を出ていけそうな雰囲気ではありません」アベルは玄関ホールへ続く扉をちらりと見て言った。「このまま伍長を待つしかないでしょう」
ジャンはうなずくが、伯父の身を思えば、いつ戻るかも知れないクァンタンを待ち続けるのは、ひどくもどかしかった。あるいは、アベルだけ捜索に向かわせてはどうかとも考えるが、お目付け役も無しに一人でいるジャンを見て、クァンタンが妙な期待を抱く恐れもある。
部屋の外で、何かが派手に割れる音が響いた。わずかに間を置いて、声が聞こえる。
「おい、レミ。大丈夫か?」
「あ、はい。すみません。隊長のお客さんに出すお茶を、落っことしちゃって」
笑い声が聞こえた。「相変わらず、そそっかしいやつだな。ここは俺が片付けておくから、さっさと代わりを持って行け」
「はい、ありがとうございます!」
ばたばたと足音がして、それは遠ざかって行った。それからしばらく経って扉が開き、顔を赤くしたレミが応接室に入ってきて、テーブルに茶器と菓子を並べた。彼はカトリーヌのカップに危なっかしい手つきでお茶を注いでから、アベルに目を向けた。「私は隊長を迎えに行って、全速力で戻るように伝えてきます。何かご用があれば、兵舎のものに声を掛けてください」
アベルはうなずき、レミが飛び出していくのを見届けてから、口を開いた。「ひとつ、質問があります」
「なに?」
「私に、身の証を立てる物を持ってくるように言ったのは、なぜです?」
「ジローが考えたのと、別な筋書きを考えてるんだ」
アベルは首をひねった。「彼の作戦では、うまくいかないと言うことですか?」
「そうじゃないけど、準備だけはしておこうと思って」
「なるほど」
それから三〇分も経たずに、クァンタンはレミを伴って応接室へ駆け込んできた。武装したままなのを見ると、屋敷に着いて真っ直ぐここへ来たようだ。彼はジャンの顔を見て、ぱっと笑みを浮かべた。「ジュスティーヌ様。また、お会いできてよかった」それから青年は、いぶかしげな表情でアベルに目を向けた。「この方は?」
ジャンはソファから腰を上げ、何気なく使用人のアベルだと紹介しそうになり、慌てて口をつぐんだ。カラスが、ジョゼット以外の使用人は全て強盗に殺されたと言っていたのを、すっかり忘れていたのだ。彼は急いで頭の中のを訂正した。「新しく雇い入れた使用人です。女中ひとりでは何かと不便ですから」
ジャンが目配せすると、アベルは丁寧なお辞儀をした。「アベルと申します」
「ようこそ、アベルさん」
クァンタンは笑顔で握手を求め、アベルはその手を握り返した。彼は最初に会った時にも、町民の格好をしていたアベルを見ているはずだが、どう言うわけか、まったく気付いていない様子だった。青年はふと笑顔を引っ込めて、真面目な顔をジャンに向けた。「それで、こんな時間に馬を飛ばしてまでいらっしゃったのは、どのような用件ですか。私との友情を深めるためだと思うほど、私はうぬぼれ屋ではありません」
ジャンはため息を落とした。「実は、伯父が病で倒れてしまったのです」
「なんですって?」クァンタンは目を丸くした。
「本当に急なことで、私も驚いております」ジャンは一呼吸置いてから話を続けた。ここからが、この筋書きの本題だった。「途方に暮れているところへ、私たちがお世話になっているお屋敷の方から、ウメコさんと言う腕の良い薬師を紹介していただきました。でも、さっそく店を訪れると彼女は不在で、近くの人たちにうかがえば、街道警備隊に捕らわれてしまったとか」
ジャンは言葉を切ってうつむき、逡巡するふりをしてから顔を上げ、再び口を開いた。「こんなことを申し上げて、厚かましい娘だと思われるかも知れません。でも、街道警備隊にいる知り合いは、あなたしかいないのです。どうか、あなたからしかるべき方に、ウメコさんを放免にするよう、お願いしていただけないでしょうか」
さて、クァンタンはどう答えるだろう。もし彼のジュスティーヌに対する好意が本物であれば、一も二もなく彼女の願いを聞き届けてくれるはずだ。さもなければ、面倒事はごめんだとばかりに、適当な言い訳を見付けて彼女を追っ払うに違いない。しかし、ジャンの予想はどちらもはずれた。
「レミ」クァンタンは部下に目を向けた。「小隊のみんなを集めて、兵舎の前に整列させてくれ」
「はい、隊長」レミは敬礼をひとつくれると、応接室を飛び出していった。
呆気にとられるジャンに、クァンタンは至極まじめな顔でたずねた。「伯父上が逗留されている、お屋敷の場所を教えてください。我々が必ずウメコさんを、そこまで連れて参ります」
ジャンは、問われるままマリユスの屋敷の場所を答えるが、それでようやくクァンタンの考えを察した。彼は自分の部下を率いて、獄舎を襲うつもりでいるのだ。「クァンタン様、いけません!」
しかし、クァンタンは首を振る。「今から上申を掛けていたのでは、許しが出るまでに何日掛かるか、わかったものではありません。あなたは伯父上の元でお待ちください」
もちろんジャンも、すぐすぐ放免の許可が下りるとは思っていなかった。ならばせめてと、ウメコとの面会を取り付けるつもりでいたのだ。もちろん、彼女の居場所を突き止めたあとは、牢番を襲って牢の鍵を手に入れ、ウメコを救い出し、彼女の魔法を頼りにアランとマルコも救出する手はずだったから、クァンタンがやろうとしていることと、さほど変わりはない。しかし、このお人好しの隊長を罪人にしないですむ点で言えば、結果は大いに違うのだ。
「隊長」武装したレミが、兜を脇に抱えて応接室にやって来て、クァンタンに敬礼した。「小隊、整列終わりました。いつでも行けます」
「わかった」クァンタンは言って、ジャンに背を向けると、レミが開けて待つ扉へ向かった。
「クァンタン様、待って」ジャンは、青年に歩み寄ろうとした。その拍子にテーブルに足を引っ掛け、上に乗っていたカップが床へ転げ落ちた。高価そうな食器が無残に砕けるのを見たジャンは、思わずその破片を拾おうと身を屈めた。
「いけません、お嬢様!」レミが慌てた様子で兜を放りだし、ジャンに駆けよった。陶器の鋭い破片で、ジュスティーヌが怪我をしないようにと思いやった行動のようだが、彼は不意の動きを避けきれなかったクァンタンにぶつかり、バランスを崩してつんのめった。伸ばした手が、身を屈めて下げたジャンの頭に触れた。ジャンの結い上げた金髪がずるりと落ちた。ジャンは慌てて頭を押さえ身を起こすが、時すでに遅し。彼は、ぽかんと見つめる青年と少年の兵士の視線を、ただ受け止めることしかできなかった。
長い沈黙のあと、金髪の束を手にしたレミが、ぽつりと言った。「可愛い」
クァンタンが、はっと息を飲んで部下の頭をぽかりと殴った。「この馬鹿者。淑女が髪をこのように短く切り、しかも今まで隠していたのだぞ。きっと深刻な理由があるに違いないのに、それを見て可愛いとは何事だ」
「申し訳ありません、隊長。でも、本当に可愛らしくて」レミは頭をさすりながら、涙目で言い訳した。
「とにかく、それを返すんだ」クァンタンは、ひどく狼狽えながらレミの持つ金髪を指差した。レミは言われたとおり、ジャンに金髪を差し出して言った。「ごめんなさい、お嬢様。悪気は無かったんです」
ジャンは引きつった笑みを浮かべて、変装の道具を受け取った。これを失った瞬間、女装がばれたかと肝を冷やしたが、どう言うわけか、この二人には、まだジャンがジュスティーヌに見えるようだ。その時、ジャンの頭に、あるアイディアが浮かんだ。
「聞いてください、クァンタン」ジャンは、わざと敬称を省いて呼びかけた。「この髪は、私がここを訪れた本当の理由と、無関係ではないのです」
クァンタンはいぶかしげにジャンを見つめた。
「まず、身分を偽っていたことをお詫びします」ジャンは覚悟を決めて語り出した。「実を申しますと、伯父はヴォルマデ男爵ではなく、ヴェルネサン伯爵で私の父なのです」
クァンタンは、ふと思案げな顔をした。「その名は、耳にしたことがあります。確か先日、王都でシャルル陛下とともに、先王陛下の御子を皇太子に推し立てた方です」
ジャンは驚いた。早馬か鳩かは知れないが、王都のニュースは、いつの間にかジャンたち一行を追い越していたようだ。
「それから間もなく、先王陛下がご帰還あそばされたとも聞きました」と、クァンタン。
「しかも先王陛下は、魔王を倒したあの剣王その人だと言うんです」レミが興奮した様子で言った。
ジャンはうなずいた。「はい。私と父は、その場に立ち会う栄誉にあずかりました」皇太子としてだけど――と、ジャンは胸の内で付け加えた。
クァンタンとレミは、目を丸くして顔を見合わせた。クァンタンはジャンに目を戻した。「すると陛下が、魔王の呪いで痛ましい姿に変わってしまったと言うのは?」
どうやら、ニュースは正確性を欠いて伝わっているようだ。
「先王陛下は魔王と相討ちになり、その魂のみがお戻りになられたのです。陛下の魂は、彼が魔王の居城から救い出した異国の姫君の身体を借りて、どうにか現世へ留め置かれております。つまり、今の先王陛下は美しい姫君の姿をしておいでです」
「なぜ、そのようなことに?」
「先王陛下に救われた姫君が、陛下とともに魔王を討ち果たした偉大な賢者様に、我が身を差し出してそうするよう願ったのだとうかがいました。陛下には、まだ果たさなければならない使命があり、そのためにはどうしても肉の身体が必要だったとか」
ジャンは、クァンタンに首を傾げて見せた。話を本題に戻したかった。察したクァンタンは質問攻めをやめた。
「でも、それらの出来事を、喜ばしく思わない者もおりました。彼らはこれまで、シャルル陛下の気弱さに付け込んで、権力をほしいままにしてきましたが、皇太子殿下が両陛下に加え、私の父の後ろ盾を得て立ったとなれば、それも終わります。そこで彼らは、密かに殿下を弑することを目論んだのです」
「まさか」クァンタンはぎょっとして言った。
「信じがたい話なのはわかります。でも、王都では陰謀と暗殺がはびこっており、父と共に殿下を推した国務卿のブルネ公爵でさえ、凶刃に倒れました。危険を察した父は秘かに殿下を逃し、追っ手の目を欺くため私に殿下の格好をさせ、自らも王都を脱出しました。私は殿下の従妹で年も近いので、背格好や顔立ちがよく似ていたのです。父の目論見通り、反逆者たちは私たちを追ってきました。私たちは、彼らの目を引き付けながらクタンヘ逃げ、モンルーズ辺境伯に保護を求めるつもりでいました」
ジャンは言葉を切って、二人の兵士の様子を見た。彼らは熱心にうなずき、ジャンのでまかせをまったく疑っていない。
「ところが反逆者たちは、父に皇太子誘拐の濡れ衣を着せ、殿下に化けた私もろとも捕らえようと考えたのです。そのために彼は街道警備隊に捕らえられ、今はこの駐屯地の獄中にあります。私は、父を救い出すため、あなたの名を借りて駐屯地に潜り込み、嘘の口実であなたから獄舎の場所を聞き出そうとしました。あなたの親切を利用しようとした私を、あなたはきっと快く思わないでしょう。でも、あえてもうしばらく、私に騙されていただけないでしょうか。虫のよい話であることは、わかっています。それでもどうか、今はあなたの好意にすがらせてください」
ジャンは頭を下げ、それからクァンタンを真っ直ぐに見据えた。クァンタンは笑顔だった。眉間に皺の一つも、寄せてよさそうなものだが、彼はにこやかにうなずくのみだった。
「なんだか、すごいですね」レミが感心した様子でため息をついた。「お嬢様を見てると、私は自分がちっぽけな子供に思えてしまいます」
「そんなことは、ありません。私こそ、まだまだ子供です」ジャンは謙遜した。「それに、あなたは兵士として働いているではありませんか。それは、とても立派な事だと思います」
「そうですか?」レミは嬉しそうに笑った。彼は、ふと思い付いた様子で言った。「そうそう。隊長が女の人に騙されるのは、これが初めてじゃないんです。たぶん、どこかすきだらけなんでしょうね。だから、お嬢様が気にすることないですよ」
クァンタンは、少年兵の頭をぽかりと叩いた。「こいつの言うことは本当ですが、私は神々の教えに従っているだけです。女神に賜った慈悲を、他者へ分け惜しむなかれ」
「アーメン」アベルが言った。「しかし、伍長。立派な心掛けだとは思いますが、部下を巻き込む前に、まずはジュスティーヌ様に証を求めるべきでしょう。隊の命を預かる長であれば、猜疑心ではなく責任感から?」そしてアベルは、懐から一通の封筒を取り出し、裏返して封蝋のある部分をクァンタンに示した。
「これは、レーヌ公爵の紋章ですね」クァンタンはつぶやき、はっと息を飲んだ。アベルは彼にうなずいて見せた。「トレボー駐屯地連隊長のカッセン大佐から、モンルーズ辺境伯に宛てた手紙です。私は、ヴェルネサン伯爵に同行し、この手紙をモンルーズ辺境伯のジャンヌ様に渡した後、ベアにて王国北東部防衛の任に当たれと命令を受けております」
「閣下」クァンタンは姿勢を正し、敬礼した。「改めて、お名前と階級をうかがってもよろしいですか」
「アベル・バンコ中尉です」アベルも背筋を伸ばし、完璧な敬礼を返した。彼はふと相好を崩して続ける。「と、申しましても、今はメダルや階級章は持ってきておりませんが」
「大佐の紋章だけで十分です」クァンタンは言って、呆気にとられてアベルを見つめるレミの頭を、ぽかりと叩いた。レミは慌てて敬礼した。
「しかし、そうとなれば私ではなく、ギャバン大佐に直接掛け合うべきではありませんか?」と、クァンタン。
「いえ。ジュスティーヌ様のお話にあった、皇太子殿下をつけ狙う連中は、どうやらギャバン大佐となんらかの繋がりがあるようなのです」
「まさか、そんな」クァンタンは絶句した。
「リュネ公爵の領地と街道を、叛逆者の一派であるロゼ伯爵の兵が我が物顔で歩き回り、彼らは公然と皇太子殿下を捜しております。本来であれば許される行為ではないと言うのに、ベルンの街道警備隊は警邏任務を故意に怠り、それを黙認しているように思えます」
クァンタンは押し黙った。しかし、その表情を見るに、心当たりがあることは明らかだった。
「従って、ヴェルネサン伯爵の救出は、極秘裏に行わねばなりません。少なくとも、我々がベルンを離れるまでは」
アベルが話し終えると、クァンタンは頷いた。「本来であれば上官の噂話など、恥ずべきことではありますが、近ごろの大佐の行動には、どうにも納得しがたい点があるのです」
アベルは片方の眉を吊り上げるが、口を挟まなかった。
「大佐は駐屯地内の礼拝堂に入り浸り、ほとんど姿を見せておりません。そうなったのは一月ほど前、こちらの教会へ若い女司祭が派遣されてきてからなので、二人の関係を邪推するものも現れています。駐屯地は、私の部隊も含めて一部の将兵で回っているような状態です。今日の門番も配置の命令が無く、我々が仕方なく担ったようなもので……」
「その司祭様のお名前は、ご存知ですか?」ジャンは口を挟んだ。
「はい。ザナ様と聞いております」
ジャンは考え込み、しばらくそうしてから顔を上げてクァンタンに言った。「クザナ、ではなく?」
クァンタンは、ふと首を傾げてから言った。「そうですね。クは、本当にささやかな発音でしたが、確かにそのように聞こえました」
ジャンの頭の中で、何かがかちりと噛み合った。「クァンタン、お願いしてもよろしいですか?」
「なんなりと」クァンタンは即答し、拳で胸を叩いた。
「まず、集まっている部隊のみなさまに、今の事情をお話しして解散するように命令してください。恐らく父は、皇太子殿下の居場所を聞き出すために捕らえられたのです。しかし、ここで騒ぎを起こして私たちが父を救いに来たことを敵に気取られれば、彼らがいつまでも父を生かしておくとは思えません」
クァンタンは神妙にうなずいた。
「それから、女性用の獄舎へ案内してください。先ほどお話したウメコさんと、他に父の連れが一人囚われているはずなので、まずは彼女たちを助け出したいのです」
「お任せください」クァンタンは請け合った。
ジャンは、青年の顔をじっと見つめてから言った。「私とアベルは、そこで非合法な手を使います。あなたはそのために、女に騙されて賊を駐屯地に引き入れた、間抜けとそしられることになるでしょう。それを承知で聞き入れてくださるのですか?」
「もちろんです」クァンタンはにっこりと微笑んで言った。
ジャンは、目をぱちくりさせた。
「それでこそ隊長です」レミはうなずき、ジャンに目を向けた。「お嬢様、ぜひ私たちにも手伝わせてください。隊長にだけいい格好させるなんて、あんまりです。もちろん、騒ぎになんてしませんから、安心してください。ただ、獄舎からお連れさんを助け出したあと、牢番たちが脱獄を知らせに走らないよう、彼らを抑えるために、いくらか人手がいると思うんです。さもないと、それこそ大騒ぎになりますよ」
「不法行為を企んでおいでなら、レミの助言を聞いて損はないでしょう」と、クァンタン。「彼は押し込み強盗の一味だったことがあるんです」
ジャンは目を丸くしてレミを見つめた。彼は、ジャンと大して齢も変わらず、純朴そうな顔立ちの普通の少年に見える。
「今と変わらず下っ端でしたけどね」レミは肩をすくめた。
「街道警備隊は、貴族の子弟ばかりかと思ってました」ジャンは正直に言った。
「ほとんどはそうですが、中には元農民や、彼のような更正した罪人もいます」アベルが説明した。「貴族は、幼い頃から様々な教育や軍事教練を受けているので、即戦力として採用されやすいと言うだけで、兵士となるのに特段の資格はないのです。もちろん、礼儀作法などは徹底的に叩き込まれますし、明らかに適正の無いものは他の職を勧められることになります」
レミはうなずいた。「訓練はきついです。でも、食事や寝床には困らないし、勉強までさせてもらえますから、泥棒やってるよりはぜんぜんいいですよ」
ジャンは、ふとブリスのことを思い出した。彼も、いずれはこの駐屯地へ送られ、レミと同じように街道の治安を担うことになるのだろうか。あの、にきびだらけの凶悪な顔からは、まるで想像がつかない。
「わかりました」ジャンは言った。「獄舎の制圧はお任せします」
「そうこなくっちゃ」レミはにっと笑って言った。
「そうと決まれば、さっそく出発しましょう」
クァンタンの言葉で、彼らは屋敷を出た。屋敷の前ではかがり火がたかれ、五人の武装した兵士が整列して彼らの隊長を待っていた。レミは兜に頭を押し込みながら、駆け足でその端に並んだ。隣りの兵士が、彼の頭を軽く小突いて曲がった兜を真っ直ぐにした。それは、クァンタンと一緒に門番を務めていた、バジルだった。
クァンタンは、最初にトレボー駐屯地の中尉を紹介した。部下たちが敬礼を送るのを見てから、伍長は事情と目的を話した。彼の部下たちは一切口を挟まず、うなずきもしなかったが、出発の号令を受けると機械のように整然と動き、行進を始めた。
駐屯地内は小さな町のように、いくつもの建物が立ち並んでいた。人影は無いが、通りのあちこちにかがり火が焚かれ、闇に乗じて動くことはほとんど不可能に思えた。間もなく、倉庫街の端までやって来ると、クァンタンは部隊を身振りで停止させ、レミを手招きで呼び付けた。レミは倉庫の影から顔を出し、その向こうをうかがってから、指を二本立てて見せた。クァンタンは隊列の先頭にいた二人に合図し、兵士たちは倉庫と倉庫のすき間を抜けて、どこかへ姿を消した。様子をうかがっていたレミが手の平を広げた。しばらく経って、彼はそれを握り拳に変えた。
クァンタンはジャンに目を向けて言った。「行きましょう。この先が獄舎です」
ジャンは、クァンタンとアベルに挟まれる格好で倉庫の角を折れ、今まで歩いて来たのと別の通りに入った。その先には石積みの建物があり、入口の前には談笑する二人の兵士がいた。彼らはジャンたちが近付いてくるのを見て会話を止め、クァンタンが目の前で足を止めるとなおざりに敬礼した。
「こんな時間に悪いが、面会を頼めるか。彼女にどうしてもと言われると、断りきれなくてね」
クァンタンが言うと、見張りの一人がジャンをじろじろと見て、にやりと笑った。「こんな美人のお願いを、断れるはずがないな」
見張りが腰に下げた鍵束に視線を落とした瞬間、彼の背後にクァンタンの部下がぬっと現れた。もう一人の見張りが気付き、あっと声を上げる。しかし、鍵束を持った見張りは首を太い腕で締め上げられ、たちまち気を失った。もう一人の見張りは剣の柄に手を掛けるが、クァンタンの別の部下が襟首を掴んで彼を引き倒し、地面の上に転がったところで顎をがつんと殴って気絶させた。クァンタンが隠れているレミの方へ向かって大きく手を振ると、残りの部下たちが駆け寄ってきてクァンタンの前に整列した。
「ブノワとボッブは、ここに残って見張りのふりをしろ。誰かが来ても中へは通すな。ランディとレイモンは、こいつらを縛り上げて連れてくるんだ」クァンタンはてきぱきと指示を下した。
「隊長」残れと言われた一人が言った。
「なんだ、ブノワ」と、クァンタン。
「中へ通すなと言っても、なんと言って追っ払えばいいんですか?」
「うちの隊長が使用中だと言えばいい」バジルが口を挟んだ。隊員たちはげらげら笑い、かがり火のせいでわかりにくかったが、クァンタンは顔を赤らめているように見えた。ジャンがきょとんとしていると、レミが訳知り顔で説明を始めた。「女性用の獄舎に入れられるのは、街角に立ってる人が多いんです。そんなわけで、夜間の外出許可が降りなかった隊員は――」
クァンタンは少年兵の背中を蹴りつけ、レミは地面へうつ伏せに倒れ込んだ。
「淑女の前で披露するような冗談じゃない」クァンタンは隊員たちをじろりと睨んだ。「行くぞ」彼は短く言うと、鍵束を拾って獄舎の扉を開け、中へ踏み込んだ。
部隊は廊下を進み、突き当りの扉を開けて中へ入った。そこは二〇フィート四方ほどの狭い部屋で、壁の一面が鉄格子になっており、その対面には背の高い棚が設えられていた。どうやら囚人たちの持ち物を保管する棚のようだが、アランとウメコの武器は見当たらなかった。部屋の片隅に机が置いてあって、そこには蝋燭の火を頼りに本を読みふける牢番が一人いた。彼はクァンタンを見るなりぎょっとして立ち上がると、素早く敬礼した。そばかすの目立つ、レミと同じ年頃の少年兵だった。
「鍵を出せ、ドニス」クァンタンは敬礼を返さずに言った。
「しかし、伍長。そんな命令は聞いておりません」
「今、私が命令した」クァンタンは剣の柄に手を掛けた。
ドニスは慌てて鍵を差し出した。
「バジル、彼を縛り上げろ」クァンタンは鍵を受け取りながら、指示を下した。「ドニスと見張りの二人は適当な牢に放り込んで閉じ込めておこう。レミ、お前は外の様子を見てきてくれ」
レミはうなずき、部屋を飛び出していった。彼の背を見送ってから、クァンタンは奪った鍵で鉄格子の扉を開け、ジャンに向かってうなずいた。ジャンとアベルはクァンタンの先導で、鉄格子の扉が立ち並ぶ廊下を歩いた。その後ろから、ドニスを引っ立てるバジルと、意識の無い見張りを引きずるランディとレイモンが続く。
廊下の壁には松明が掲げられていて、辺りは意外に明るかった。牢のいくつかには若い女がいて、いずれも肩をはだけ、胸を強調した扇情的な服を着ている。彼女たちは通り過ぎる男たちに熱のこもった視線を向けるが、彼らの目的が自分たちではないことに気付くと、興味を失ったように鼻を鳴らして寝台へ寝ころんだ。
ウメコとアランの牢はすぐに見つかった。彼女たちは一つの牢に押し込められており、薄汚れた寝台に並んで腰掛けていた。ジャンに気付いたアランは口を開き掛けたが、唇の前に人差し指を立てる息子を見て、ひとつうなずいてから口をつぐんだ。
「話しはアランから一通り聞いたわ」ウメコは言って、ジャンを頭のてっぺんから爪先までじろじろと眺めまわした。「ちょっと想像してたのと違う格好だけど、大きくなったわね。私のこと、覚えてる?」
「ぜんぜん覚えてません」ジャンは言って、やにわにスカートをたくし上げた。クァンタンたち男性陣はぎょっとして顔を背け、ジャンは太腿に紐で括りつけた短い剣を外して、格子の間からアランに手渡した。さらに彼は胸元に手を突っ込み、短冊状の紙束と細長い木炭を取り出して、それをウメコに渡した。
「準備がいいじゃない」ウメコはにやりと笑った。
「ジローに渡せって言われたんだ」ジャンは、クァンタンたちが背中を見せている隙に、声をひそめて素早く現状を説明した。彼女たちがうなずくのを見てから、ジャンはクァンタンに言った。「ここを開けてください」
クァンタンは振り向き、牢の鍵を開けた。小走りで牢番の部屋へ戻った彼らだが、部屋を出ようとしたところでウメコが言った。「護符を作るから、ちょっと時間をちょうだい」
ウメコはみんなの返事も聞かず、勝手に机について、ジャンが渡した短冊に木炭で何やら書き付け始める。興味を引かれたジャンが彼女の手元を覗き込むと、短冊の上には数個の正三角形を組み合わせた、不思議な模様が描かれていた。
「秘密文字よ。一つ一つが陰陽と四元素を表してるの」ウメコは説明しながら数枚の護符を書き上げると、立ち上がってベルト代わりに結わえた腰の縄に、それを挟み込んだ。「いいわ、行きましょう」
しかし、彼らが部屋を出る前に扉が開き、レミが強張った顔をのぞかせた。
「どうした?」異変を感じたクァンタンが、少年兵にたずねた。
「すみません、隊長」レミが部屋の中へ入ってくる。彼の首筋には、菱形の刃を持つ黒い短剣が突き付けられており、背後には黒髪で目付きの悪い男がいた。彼はジャンとアランを見て、ぎょっとしたように目を見開いた。「お前たち、何をやってるんだ?」
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