11.蜘蛛
「坊ちゃまみたいな人のことを、そこつ者って言うんですよ。知ってましたか?」シャルロットが言った。マリユスは女中に向かって、べっと舌を出して見せた。
ジャンは苦々しい思いで二人を見つめた。「なにもかも嘘だったんだね」
「そうでもないよ」マリユスは肩をすくめて言った。「僕がついた嘘は、ジュールって名前と父親の職業くらいさ」
「まだ、ありますよ。シャルロットは使用人ではありませんし、本当の名前はクシャロです」
「それは君の嘘で、僕の嘘じゃないよね?」マリユスは眉をひそめて言った。
「でも、クシャロをみなさんに紹介したのは、坊ちゃまです」クシャロは言い張った。
「人さらいは?」ジャンはたずねた。そもそもの出会いからして、あまりにも出来すぎているように思えた。
「あいつらは本物だよ。クシャロに言って、僕を彼らに売り飛ばさせたんだ。トレボーへ着くまでの間に、君たちと出会えるかは博打だったけど、おかげで警戒されずに仲間に加われた」マリユスはにっと笑って言った。
ジャンは目をぱちくりさせた。「なんだって、そんな無茶を」訊いておきながら、彼はすぐその答えに思い至った。「そっか、僕を捕まえるためだね」
マリユスは片目を閉じて見せた。
「ちなみに坊ちゃまは、銀貨七枚で売れました。買い手がゴロツキにしては、悪くない値段です」クシャロは自慢するように言った。
「おじさんが作ったキャベツは、二〇〇個かそこらで銀貨七〇枚だったよ」と、ジャン。
「僕の価値は、せいぜいキャベツ二〇個分ってこと?」マリユスは傷付いた顔をした。
「一リーヴルあたりの価値で言うと、キャベツの方がお高いですね」と、クシャロ。
「おじさんのキャベツは特別なんだ」ジャンは胸を張って言った。
すると、それまで黙って様子を見ていたジローが言った。「君たちは一応、敵同士ってことになってるんじゃなかったかい?」
ジャンとマリユスとクシャロは顔を見合わせた。
「どうも調子が狂うね?」ジャンは言った。
「うん」マリユスはしかめっ面で同意した。彼はクシャロに目を向けた。「僕はともかく、君はジャンと仲良くしちゃだめじゃないか。彼は剣王の息子なんだよ?」
クシャロは肩をすくめた。「姉様たちは仇討ちに熱心ですけど、前の魔王様が亡くなられたとき、クシャロはまだ小さかったので、復讐とやらにはどうもぴんとこないんです。でも、主様はジャンを欲しがってますし、彼にはクシャロを拾ってくれたご恩がありますから、それには報いないといけません」彼女はジャンに目を向けて、にっと白い歯を見せた。「あなたが嫌いでやってるわけじゃないんですよ。クシャロはむしろ、ジャンが大好きです」
「ありがとう」ジャンは苦笑いを浮かべた。「やっぱり、君は魔族だったんだね?」
「やっぱり?」マリユスは顔をしかめてクシャロを見た。「人をそこつ者だとか言っておいて、君も正体を見抜かれてるじゃないか」
「イゼルの人間かって聞かれたときは、さすがにぎょっとしましたけど、クシャロは坊ちゃまと違って、ちゃんと誤魔化しましたよ」クシャロはジャンに目を向けた。「そうですよね?」
ジャンは渋い顔をした。「お尻を見せるとかなんとか言われて、気をそらされたんだ」
「色仕掛けに負けたってこと?」マリユスはあきれた様子で言った。
クシャロはうなずいた。「クシャロみたいな不器量に惑わされるなんて、ジャンは物好きな人です」
「前にも言ったけど、君はきれいだよ」と、ジャン。彼はすぐに付け加えた。「一杯食わされた言い訳じゃないけどさ」
クシャロはにやっと笑った。
「ねえ、君たち」ジローが小さく首を振りながら口を挟んだ。「もう、つまらない追いかけっこはやめて、これまで通り仲良くしたらどうだい?」
「そうもいかないんだ、ジロー」マリユスは苦笑いを浮かべた。「僕にはどうしても、魔族の力を借りなきゃいけない理由があるし、クシャロはともかく魔族は剣王の血筋を憎んでる。たぶん、彼らは互いのどっちかが滅びるまで、復讐をやめないと思うよ」彼はジャンに目を向けた。「そんなわけで、約束は守れそうにないや。ごめんよ」
「約束?」ジャンは聞き返した。
「ぜんぶ片付いたら、世直しの旅に出ようって、アランたちと話し合ったよね」
「ああ、そうだったね」ジャンはうなずいた。「でも、そんな風に、決め付けることはないんじゃないかな?」
今は互いの都合で敵対しているが、ジャンとマリユスははもう友だちなのだ。全てにけりが付いて、彼らを縛るものが無くなれば、きっと何もかもうまくいくだろう。少なくとも、ジャンはそう確信していた。しかし、マリユスは首を振る。
「僕たちが勝てば君は魔族のものになってしまうし、君たちが勝てば僕は二度と旅には出られなくなる。だから、どうあっても無理なんだ」
ジャンが、どう言う意味かと問う前に、マリユスはクシャロに目を向けた。クシャロはうなずき、もぞもぞとスカートをたくし上げた。白い脚が見えてジャンはぎょっとするが、彼はすぐ別のものに目を奪われた。
クシャロは腿の内側に結わえた革の鞘から、波打つ刀身を持つ短剣を引き抜いた。その刃の中央には、六角形の小さなが穴がぽかりと空いている。
ジャンは思わず胸元に手をやった。布越しに、硬い感触があった。それはクセの短剣で、女中の服にはベルトがないから、代わりにそこへ突っ込んで持ち歩いていたのだ。
マリユスはクシャロに手を差し出し、クシャロは短剣の柄をその上に置いた。ジャンは、それが意味するところに気付いた。ジローも同様で、彼は素早くジャンの身体に腕を回し、半ば抱えるようにして書斎の入口に向かって退いた。ジローに引きずられながら、ジャンは手を伸ばして「やめて」と叫んだ。しかし、ジュールは短剣の切っ先を自分の胸に当て、ためらうことなくそれを押し込んだ。
クシャロはひっと悲鳴を上げて、マリユスに背を向けた。どうやら暴力が苦手と言うのは、嘘ではなかったようだ。ジローは扉に取り付くが、それは押しても引いてもがたがた揺れるばかりで、一向に開こうとしなかった。
「ジャン」マリユスが、少しだけしかめっ面をしてから、ジャンに微笑みかけた。そして、彼は言った。「またね」
笑顔で「おやすみ」と言ったスイの姿が、マリユスに重なって見えた。しかし、二人が最後に口にした言葉の意味は、まったく違うものだった。あの時のスイは、自分が死ぬことを知らなかった。しかしマリユスは、自分が死なないことを確信しているようだった。
マリユスは一気に短剣を引き抜いた。スイの時と同じように、傷口からは一滴の血もこぼれなかった。マリユスは恍惚の表情を浮かべ、その身体からは例の枯れ枝を踏み折るような音が聞こえ始めた。
クシャロは振り返り、青い顔でマリユスの手から短剣を取り上げた。その刃には、やはり緑色の宝石がはまっていた。彼女は再びスカートをたくし上げ、鞘に短剣を戻してからジャンに目を向けた。「もちろん坊ちゃまには、あなたを殺さないよう命令してあります。でも、だからってあなたが、素直に捕まってくれるとは思ってません。そうですよね?」
ジャンはうなずいた。
「つまり、これからクシャロの苦手な切った張ったが始まるわけで、そんなのを見るのはごめんですから、クシャロはこれにて退散します」彼女は言って、書棚と反対側にある壁の扉へ向かって歩き出した。
「クシャロ」ジャンは彼女の背中に呼びかけた。
扉の取っ手に手を掛けたところで、クシャロは振り向いた。
「マリユスは、生きてるんだよね?」
ジャンがたずねると、クシャロはうなずいた。そうして、彼女はふと考えてから言った。「ウメコの店に街道警備隊を寄越したのは、クシャロではなく他の姉様です。坊ちゃまをやっつけることができたら、急いでみなさんを助けに行った方がいいですよ。ジャンの居場所を白状させるために、どんなことをするか知れたものじゃありませんから」
「なんで、そんなことを教えてくれるの?」ジャンはいぶかしげにたずねた。
「ウメコは友だちでしたし、マルコおじさんや可愛いアランも嫌いじゃないからです。それと、クシャロをきれいと言ってくれた、お礼でもあります」クシャロは白い歯をにっと見せ、それから不意に気遣わしげな表情を浮かべた。「クシャロがここにいたってこと、姉様には内緒ですよ?」
ジャンがうなずくと、クシャロはほっとため息をついてから、お辞儀をくれ、部屋を出て、ばたんと扉を閉めた。ジャンは、クシャロが出て行った扉に駆け寄り、取っ手に手を掛けてみた。案の定、扉は開かなかった。ジャンは、ホールへ続く扉を調べるジローの側に戻ってたずねた。「開きそう?」
「何か細工がしてあるんだけど、たぶん外せると思うよ」ジローは扉と壁のすき間を覗き込みながら言った。「マリユスを見ててくれるかい。もし、おかしな素振りを見せたら、教えておくれ」
ジャンはうなずき、うつろな笑みを浮かべるマリユスに目をやった。すでに、彼の変化は始まっていた。まず、ローブが内側からびりびりと引き裂かれ、まばらに剛毛の生えた二対の黒い節足が脇腹から飛び出した。続いてマリユスはぱちりと瞬きをして、その途端、彼の目は赤いガラス玉のようになり、こめかみの辺りにも一回り小さな単眼が四つ、皮膚を破って飛び出した。ずらりと並んだそれは、蜘蛛の目にそっくりだった。机の上に投げ出された彼の両腕は一フィートあまりも伸び、その指先から首と脇腹の辺りまで、真っ黒い甲殻が見る間に覆っていった。
「よし、これだ」ジローがつぶやき、かちりと音がした。彼は扉を押し開き、書斎を飛び出した。しかし、ジャンはその場に立ちつくし、ぽかんと口を開けて、マリユスの変わり果てた姿を眺めていた。それは確かに異様だったが、ジャンの目を奪ったのは別の事実だった。ジローが駆け寄ってきて、強引にジャンの手を引き、彼を書斎から引っ張り出した。ホールの真ん中辺りに来たところで足を止め、ジローは叱りつけるように言った。「あんな風に魔物の前で突っ立ってるなんて、頭でもおかしくなったのかい?」
「ごめんよ」ジャンは目をぱちくりさせてから、マリユスを指さした。「でも彼は、もう一つ僕たちに嘘をついてたんだ」
引き裂かれてぼろと化したローブは、もはや衣服としての機能を果たしておらず、マリユスの胸はすっかりあらわになって、そこにはささやかながらも形の良い乳房が付いていた。それを見てジローは小さく首を振り、ジャンに目を向けた。「だからって女の子の胸を、じろじろ見るのは感心しないね」
「わかってるよ」ジャンは顔を赤くして言った。
マリユスが赤い目をジャンに向け、けらけらと笑い声をあげた。ジローは抜刀し、マリユスを見据えながら素早く言った。「アベルを連れてきておくれ。さすがに、私ひとりじゃ魔物は手に余る」
ジャンがうなずこうとしたとき、マリユスが動いた。彼女は椅子から立ち上がると、節足と化した両手で机の天板をつかみ、おもむろにそれを頭上に持ち上げた。ごとごとと抽斗が抜け落ち、中身を辺りにまき散らすが、マリユスは気にも掛けず、抱え上げた机をジャンたちへ向けて投げ付けた。ジャンとジローは床を転がり、低い軌道で突進してくる机を避けた。机はホールの床に落ち、ごろごろ転がってから書斎の入口と反対側にある壁に当たり、ばらばらに壊れた。ジャンは床の上で顔を起こし、机の残骸を見て眉をひそめた。クシャロはジャンを殺さないように命令したと言っていたが、これを見る限り疑わしく思えた。
束の間をおいて、書斎からマリユスが悠然と歩み出て来た。彼女はこれまでジャンが見た他の魔物と違い、大きさも見掛けも人とさほど変わりなかった。何より、裸の胸から膝下を除く下半身は甲殻に覆われておらず、白い肌の少女のままで、目のやり場に困るほどだった。
マリユスは書斎を出たところで足を止め、地面に這いつくばるジャンを見つけると、けらけらと笑い声を上げながら、彼に歩み寄った。ジローは飛び起きてマリユスに突進し、素早く剣を振るった。しかしマリユスは彼の攻撃を、甲殻におおわれた右腕であっさりと受け流し、すぐさま反撃に転じた。三対の腕で間髪なく繰り出される攻撃を受け、ジローはたちまち防戦一方となった。ジャンはあわてて立ち上がり、援軍を呼ぶために食堂の扉を抜け、厨房へ駆け込んだ。勝手口の扉ががたがたと揺れているのを見て、彼は扉に掛かった閂錠を引き抜いた。すぐさま扉が開いてアベルが顔を見せた。「助かりました。締め出されて困ってたんです」
ジャンは一瞬、息を吸い込んでから、短く言った。「魔物が出た」
アベルは委細も聞かず、剣を抜き放ちながら駆け出した。ジャンもすぐにあとを追い、彼らはホールへと戻った。六本の腕を振り回すマリユスと、その攻撃を必死でしのぐジローを見て、アベルはすぐさま加勢に入った。アベルは鋭い気合いを吐いて、マリユスの頭を狙って剣を振り降ろし、マリユスは交叉した前肢でそれを受け止めた。甲殻にぶつかった剣がぱっと火花を散らし、攻撃を弾かれたアベルは、その反動で二、三歩たたらを踏んで後ずさった。マリユスは三対の腕を広げて、アベルに反撃を加えようとする。しかし、甲殻のない部分を狙って横合いから突き出されたジローの剣を見て、彼女は素早く飛びずさり、その攻撃をかわした。
「ジュール?」アベルは、剣を構えたまま魔物の顔を見て、今さらのように言った。
「シャルロットは魔族で、ジュールは彼女が操る魔物だったんだ」ジローが説明した。「魔物が人間に化けられるって言ってなかったっけ?」
「初耳です」うねうねと節足をうごめかすマリユスを見据えながら、アベルは言った。「ジャン、子供たちのところへ行ってください。騒ぎを聞きつけて、部屋を出てくると危険です」
「部屋はどこ?」ジャンは素早くたずねた。
「階段を上って、廊下の一番奥です」
ジャンはうなずき、階段へ向かって駆け出した。マリユスはジャンが動いたのを見て、地面に這いつくばり、おしりを彼に向けた。マリユスの尾骨の辺りには、子供の頭ほどの細長い玉子型をした袋状の器官が付いていて、彼女はその先端から透明な液体を噴き出した。それは空中で無数の細い糸に姿を変え、驚いて足を止めたジャンの目前に、べったりと張り付いた。ジャンがもう一歩、足を踏み出していれば、このねばねばした繊維に絡め捕られていたところだ。しかしマリユスは、糸が不発と見るや素早く向きを換え、かさかさと這いながらジャンに迫った。アベルとジローが彼女の進路に立ちはだかり、素早く剣を振るって牽制した。這いつくばったマリユスは、前肢しか攻防に使えない様子で、二人の攻撃を捌くので手一杯になった。その隙に、ジャンは階段を駆け昇った。階段を昇り終えると、四つ並んだ扉の一つが開き、男の子が怪訝そうな顔をのぞかせた。
「部屋に戻って!」ジャンの剣幕に驚いた男の子は、びっくりして部屋に引っ込んだ。ジャンは子供部屋に飛び込んで、息を整えてから子供たちを見回して言った。「悪い人が、僕たちを捕まえに来たんだ。今、アベルとジローがやっつけようとしているから、邪魔にならないように、ここに隠れてて。約束できる?」
子供たちは神妙にうなずいた。ジャンは部屋を飛び出し、玄関ホールの上にあるテラスに向かった。下を覗き込むと、戦況はあまり芳しいものではなかった。マリユスは八本の脚で床を走り、跳躍し、時には壁に張り付いて、アベルとジローを翻弄している。彼らには、明らかに手助けが必要だった。しかし、剣の覚えもないジャンが加勢に入ったところで、邪魔になるのは目に見えている。彼はテラスを離れ、廊下の一番手前にある扉を開けた。そこは客間のようで、ベッドが一台と、一人掛けのソファが置いてあった。ジャンは重たいソファを抱え上げ、部屋を出てテラスに戻った。わずかな間にも、状況は悪化していた。ジローは蜘蛛の糸に絡め取られ、床の上で釣り上げられた魚のようにもがき、アベルは身動きの取れない彼を守りながら、一人でマリユスの猛攻をしのいでいる。しかし、ジャンにとって好都合だったのは、アベルを殴り倒そうと躍起になって、マリユスがすっかり足を止めていたことだった。ジャンは、この好機を逃すまいとソファを頭の上に抱え上げ、テラスの手すり越しに、それを放り投げた。ソファは緩い弧を描いてマリユスの頭上に落下し、彼女は重たい家具に押し潰されてぎゃっと悲鳴を上げた。その隙にアベルはジローの襟首を引っ掴み、彼を玄関ホールの隅まで引きずって行ってから、剣を突っ込んで絡まった糸を断ち切った。ジローは立ち上がり、べたべたとまとわりつく糸に難儀しながらも、どうにか剣を構え直した。
痛手から立ち直ったマリユスが、二階のジャンをいら立たしげに睨み付けた。彼女は大きく跳躍し、テラスの床に前肢を掛けた。
「ジャン、逃げてください!」アベルが叫んだ。
ジローも階段に向かって駆けるが、六本の腕を駆使してよじ登ってきたマリユスの上半身は、すでに手すりを乗り越えようとしていた。ジャンは襟元から、彼の唯一の武器であるクセの短剣を引き抜いて、覆っていた布を急いではぎ取った。ジャンは、アランが魔物を倒すとき、必ず彼女たちの心臓を貫いていたことを思い出し、マリユスの小さな乳房の間に狙いを定めた。彼女が友人だったことを思い出したのは、肋骨を擦る刃の振動を、握り締めた柄に感じた時だった。
マリユスの息を飲む音が聞こえた。見ると彼女は戸惑うような表情を浮かべていて、はっきりとこう言った。「ジャン?」
ジャンは目を見開き、彼女を見つめた。しかし、マリユスの顔には再び、熱に浮かされたようなうつろな笑みが戻った。彼女は六本の腕を広げてジャンを捕らえようとするが、ジャンは歯を食いしばり、マリユスの胸を左手で突いて短剣を引き抜いた。マリユスの胸の傷口から魔物の黒い血が噴き出し、ジャンの顔を汚した。マリユスはぐらりと背後に傾ぎ、ホールの床へ落下して、それっきり動かなくなった。
ジャンは短剣についた魔物の血をスカートの裾で拭い、白布を拾ってのろのろと階段を降りた。下で待っていたジローが、気遣うように彼の肩を抱いて身体を支えた。アベルが剣を構えたまま、用心深くマリユスの屍に歩み寄り、彼の首筋に触れて脈が無いことを確かめてから、剣を鞘に収めた。ジャンはジローに支えられながら、マリユスの側まで行って、その場にしゃがみ込んだ。
マリユスは、顔に笑みを張り付かせたまま息絶えていた。もちろん、これがマリユスなどではないことを、ジャンは承知している。それでも一瞬、正気にかえった彼女の顔を思い出し、ジャンははらわたを抉られるような喪失感と、罪悪感を覚えていた。しかし、今はくよくよしている暇などなかった。ジャンはマリユスの褐色の髪をそっと撫でてから立ち上がり、アベルに言った。「クシャロが言ってたんだ。おじさんたちを捕まえたのは、自分とは別の魔族だって」
「クシャロ?」アベルはいぶかしげに聞き返した。
「シャルロットは偽名なんだ。もちろん、ジュールもね。彼の本当の名前はマリユス」
「メーン公爵の?」アベルは息を飲んで、マリユスの亡骸に素早く目を向けた。
ジャンはうなずいた。「僕たちが知っているジュールは、マリユスに似せて作った魔物の身体に、彼の魂を植え付けたものなんだ。僕の婚約者も同じだった。違うのは、人間のスイは魔物になる前に殺されていたけど、マリユスはまだどこかで生きているってことかな」
「公爵は一体、なんのつもりでこんなことを?」アベルはつぶやき、小さく首を振った。「今は、それどころではありませんね。クシャロの言うことが嘘でなければ、ベルンの街道警備隊は連隊長のギャバン大佐ではなく、魔族に指揮されていることになります。急いでマルコたちを救い出さなければ」
「カラスとカトリーヌを待った方がよくないかい?」ジローは異論をとなえた。
「できればそうしたいところですが、こちらから二人に連絡を取る術はありませんし、我々だけでなんとかするしかないでしょう」
「具体的に、どんな作戦で行くんだい?」ジローはたずねた。
「ちょっと、僕に考えがあるんだ」と、ジャン。彼は眉間に皺を寄せ、魔物の血で真っ黒に染まった自分の格好を眺めてから言った。「でも、その前に着替えなきゃ」
アベルは渋い顔でうなずいた。「急いだ方がいいですよ。さもないと、おかしな異名を付けられかねません」
自身が黒騎士の異名をとる、アベルならではの助言だった。ジャンは、自分ならどんな異名を付けられるだろうと考え、ふとつぶやいた。「黒王子とか?」
ジローはジャンの格好をしげしげと眺めてから言った。「いや、これなら黒女中がぴったりだね」
「着替えはどこ?」ジャンは急いで言った。




