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プリンセスコード  作者: 烏屋マイニ
魔界の王国
25/46

10.ジュール

 タケゾー? 聞き覚えのない名前を耳にして、ウメコの視線を追ったジャンは、その先に苦笑を浮かべるカラスを見つけた。

「ちょっと近くを通ったから、妹の顔でも見ていこうと思ってな」カラスは言ってウメコの反応を待つが、険しい表情のまま何も応えない彼女を見て、肩をすくめた。「どうやら、邪魔だったようだな」

「私を邪魔にしたのはあんたじゃないか」ウメコの声は、ますます剣呑なものになった。「三年前、レーヌで私に一杯食わして、アランと二人でどこかへ行ってしまったのは誰さ。私だって、アランを手伝いたかったんだよ?」

 するとマルコの背後から、アランが姿を現して言った。「あの時のことは、悪かったと思っている」

 ウメコは信じられないものでも見たかのように、目を丸くしてしばらくアランの顔を見つめたあと、満面に笑みを浮かべて彼女に駆け寄り、ひょいと抱き上げてその場でくるくる回りながら言った。「ああ、アラン。あなた、三年前とぜんぜん変わってないのね。元気にしてた?」

「まあな」ウメコに抱きしめられ、アランは目を白黒させながら答えた。

「再会を喜び合うのはあとにしよう」マルコが言った。「明日の朝には出発するから、荷物をまとめておいてくれ。長い旅になるぞ」

「ねえ、旦那さん。あなたが誰だか知らないけど、私にそんな命令――」ウメコは言って、言葉を切ってからマルコをしげしげと眺めた。少し経って、彼女ははっと息を飲んだ。「マルコおじさん?」

「そうとも」マルコはにやりと笑った。

「なんだって、そんな格好しているの?」ウメコはアランを床に降ろしながら、いぶかしげにたずねた。

「少しばかり身をやつしているんだ」マルコは肩をすくめた。

 ウメコは笑ってマルコの首にしがみつくと、彼の頬に音を立ててキスをした。

「しかし、腰を落ち着けたのなら、手紙くらい寄越してくれてもよかったんじゃないか。最後に連絡をもらったのは、五年も前だ。あの頃はまだ、老師のところだったか?」

「ごめんね」ウメコは苦笑して頭を掻いた。「ここへ越してきて店を開いてから、まだ一年にもなってないの。それまでは、レーヌでタケゾーに騙されてから、二人を追い掛けるのに忙しかったし」

「女一人で旅をしてたのか」マルコは眉をひそめた。

「こんな薄汚い女、どうこうしようなんて輩はいないわよ」ウメコはにやりと笑って言った。「まあ、ぜんぜんいないってわけじゃなかったけど、みんな後悔させてやったわ」

「魔法で?」ジローが勢い込んで訊いた。

 ウメコは首を振った。「棒っきれで二、三発ぶん殴っただけよ」

 シャルロットがひっと声を上げた。ウメコは女中を見て「ごめんね」と謝った。

「なんだか、私が持っていた印象とだいぶ違うね?」ジローはつぶやき、小さく首を振った。ウメコは彼を見つめ、首を傾げた。「あなた、誰?」

「こいつはジローだ」カラスが言った。「吟遊詩人で、お前のファンらしい」

「それは光栄ね」ウメコはジローに向かってにっと笑った。「よろしく、ジロー」

「物語だと、あんたは強力な魔法を操る、可憐な美少女ってことになってるんだけど?」と、ジロー。

「ああ」ウメコは同情するように、ジローを見てうなずいた。「確かに、あのお話の私は、まったくの別人よね。でも、現実なんてこんなもんよ」

「ねえ、ちょっと」ジュールが口を挟んだ。「お話ってなに。それに、魔法使い?」

「剣王の英雄譚は聞いたことあるんだろう?」と、カラス。

 ジュールはこくりとうなずいた。

「剣王の仲間に、符術師の少女がいたのを覚えているか。それは、俺の妹のことなんだ」カラスが説明した。

 ジュールは目を丸くしてウメコを見つめた。彼はカラスに向き直ってたずねた。「なんかの冗談だよね?」

「まあ、信じられないのもわかる」カラスはにやりと笑った。「こいつはどう見ても美少女じゃないからな」

「えーと」ジュールは戸惑った様子でウメコを見て言った。「僕は、そんなに悪くないと思ってるんだけど?」

「ありがとう」ウメコは、にっと笑って見せた。

 ジャンもジュールに同意見で、ウメコを美少女とする表現は、あながち誇張ではないと思っていた。広いおでこと太い眉は、なんとも愛くるしいし、兄によく似た鋭い目つきも、よくよく見れば彼女に異国的エキゾチックな雰囲気を加える効果になっている。

「タケゾーは、なんて言われてたっけ?」ウメコは首を傾げた。

「音もなく歩き、瞬く間もなく敵を殺し、巧妙に隠された罠を見抜く、不可思議な技を操る少年を仲間に加えた剣王は、いよいよ暗黒の地へと足を踏み入れたのです」ジローが節を付けて言った。

「そう、それだ」ウメコはジローを指さして言った。

「タケゾーって?」ジュールはたずねた。

「家族が呼ぶ名前なんだ」カラスは肩をすくめた。「カラスと言うのは商売用の名前でね。まあ、屋号みたいなもんさ」

「やれやれ」シャルロットがつぶやいた。「風変わりなみなさんだとは思ってましたが、まさか物語の登場人物までいらっしゃるなんて、もう風変わりを通り越して嘘くさいです」

「まったくだ」アランが同意して言った。

 ジャンは、「父さんが言わないでよ」と言う言葉を、懸命に飲み込んだ。救世の英雄である剣王が、小さな女の子になったなどと言い出せば、眉唾どころか正気を疑われかねない。

「ねえ、マルコおじさん」ウメコが言った。「さっき、旅がどうのって言ってたけど?」

 マルコはうなずいた。「我々は今、魔界にあるイゼルと言う国へ向かっている。ここへ来たのはザヒ老師が、お前を旅に同行させろと言ったからだ。そして、お前を拾ったら塔へ来いとも言っていた。場所を知っているそうだな?」

「うん」ウメコはうなずいた。「ここへ越してきたのは、師匠に塔を管理するように言われたからなの。彼、魔界でやることがあるから、手が回らないんだって言ってたわ」そう言って、彼女はにんまりと微笑んだ。「そして私は雑用の代わりに、この店を開く資金を彼からせしめてやったってわけ」

「そんなに大変な仕事なのか?」マルコは眉をひそめた。

「まさか」ウメコは肩をすくめた。「二、三ヶ月に一度、塔を訪れて、結界魔法を掛けなおすだけだから、大したことじゃないわよ。でも、アランを探す旅をあきらめるんだから、それくらいの報酬はもらわなくっちゃね」彼女は店内をぐるりと見回して、口をへの字に曲げた。「まあ、当分は休業することになるわけだけど」

「すまんな」マルコは謝った。

「気にしないで」ウメコは首を振った。「どうせ師匠が戻ったら、またアランとタケゾーを追い掛けるつもりだったしね。すぐに準備するから、ちょっと待ってて」そう言って、ウメコは奥の扉へ引っ込んだ。しばらく経って戻ってきた彼女は、左手に大きなカバンを提げ、右手に六フィートほどもある木の棒を持っていた。つるつるに磨き上げられたその棒は真っ直ぐで、ザヒが持っていた魔法の杖とは様子が異なっていた。

「そんな格好でいいのか?」マルコはいぶかしげにウメコを眺めまわした。

「去年まで、ずっとこれで旅をしてたんだから大丈夫」ウメコは請け合った。「それより、さっさと行きましょう?」

 出入口に一番近いジローが、一つうなずいてから扉を開けた。しかし彼は、一歩外へ踏み出したところで立ち止まり、ゆっくりと両手を挙げた。ジローは首をひねって肩越しに言った。「お客さんだよ」

 ジローが後ずさると、剣の切っ先が一本、彼の喉元を追い掛けてきた。剣の持ち主は、兜と胸当てを身に着けた大柄な兵士だった。門番の伍長とそっくりな装備からして、街道警備隊の兵士だとわかった。出入口の前に立ちふさがる兵士は剣を降ろし、肩越しに背後を指して言った。「全員、表へ出るんだ」

 不意にウメコが鞄を放りだし、兵士に突進して鋭い気合いとともに棒を突き出した。棒の先端は兵士の胸当てに当たって割れ鐘のような音を立て、兵士は二、三歩たたらを踏んでから、仰向けにどうと倒れ込んだ。

 ウメコは素早く扉を閉ざし、閂錠を掛けた。わずかに遅れて扉ががたがたと揺すられ、次いで激しく叩かれた。さらに、扉の向こうから怒気のまじった声が聞こえてきた。「ここを開けろ!」

 マルコはウメコに目を向けた。「裏口はあるか?」

「屋上に繋がる階段がある」ウメコはうなずいて言った。「ここはトレボーと同じ城塞都市だから、古い建物には抜け道が必ずあるんだ。でも、実際に使えるかわからないよ?」

 マルコはうなずいた。その時、外から別の声が上がった。「やめんか、ジミー!」

 乱暴なノックがやみ、もぐもぐと言い訳するような声が聞こえた。「しかし、軍曹――」

「いいから、お前はさがれ!」

 扉の向こうでは束の間の沈黙があり、それから軍曹と呼ばれた声が言った。「部下が失礼をしました、閣下」

 マルコは肩をすくめてから応えた。「私が誰か知っているようだな、軍曹?」

「はい、ヴェルネサン伯爵」

 カラスが小さく首を振り、「やれやれ」と呟いた。マルコは彼に渋面を向けてから、口早に命じた。「ウメコと二人で抜け道を調べてきてくれ」

 兄妹はうなずき、そろって店の奥へ姿を消した。マルコはそれを見送ってから、扉に向き直った。「私になんの用だ。街道警備隊の世話になる覚えはないぞ」

「しかし閣下には、皇太子殿下誘拐の嫌疑が掛けられております」

 マルコは眉をひそめて、扉の向こうへ言った。「何か誤解があるようだ。私は王子の誘拐などしておらん」

「お話があれば、駐屯地でギャバン大佐がうかがいます。どうか、我々にご同行いただけないでしょうか?」

 マルコは何も答えなかった。しばらく経って、カラスとウメコが戻り、カラスは険しい顔で首を振った。マルコは小さく舌打ちして、扉の向こうに言った。「軍曹、少し時間をくれ」

「わかりました」

 マルコはみんなに向き直った。

「階段はあきらめた方がいい」と、カラス。「二階の住人が踊り場を物置にしていたんだ。俺とウメコはともかく、他のみんながあれを通り抜けるのは難しいだろう」

「馬鹿でかいタンスや椅子が、登り口を塞いでるんだ」ウメコが補足した。「よじ登ったり隙間を潜り抜けたりしてたんじゃ、外の連中に追い付かれるからね」

 マルコはジローに目を向けた。「外には何人いた?」

「ウメコが吹っ飛ばしたやつも含めて、六人だったかな」

 マルコは、しばらく考え込んでからうなずいた。「チームを三つに分けよう。カラス、お前は抜け道から脱出して、カトリーヌと合流してくれ。私とウメコとアランの三人は、一暴れして連中の気を引く。その間にジローは、ジュールと彼の使用人たちを連れて屋敷へ戻るんだ。アベルと合流したら、ジャンを連れて――」

「今、ジャンって言った?」ウメコがぱっと笑みを浮かべ、勢い込んでたずねた。「もちろん、あの小っちゃいジャンだよね?」

「今はそれほど小っちゃくない。あとで会わせるから、邪魔しないでくれ」マルコは渋い顔で言った。彼はジローに目を戻した。「ともかく、お前たちは全速力でクタンヘ向かってくれ。もし街道を進むのが危険なら、違う道を案内してやって欲しい」

 それでジャンは、トレボーから王都までの、道なき道を歩いた日ことを思い出した。あの時はユーゴたち将軍派の密偵の目から逃れるために、ジローが一行の案内を買って出たのだ。

「けど、旦那たちはどうするんだい?」ジローはたずねた。

「適当に暴れたら降参する。街道警備隊と本気で事を構えるわけにはいかないからな。そのうち、カラスとカトリーヌが助けに来てくれるだろう」マルコはカラスに目を向け、カラスは無言でうなずき返した。マルコは続けた。「駐屯地の牢屋を抜け出したら、我々は塔へ向かい、用事を済ませてからクタンヘ向かう」彼はジュールに目を向けた。「我々が町を出たら、折を見て子供たちを、駐屯地へ送り届けてやってくれ」

「わかった」ジュールはうなずいた。

「作戦はこんなところだ。お嬢さん方、くれぐれも彼らを殺すなよ?」マルコは釘を刺し、アランとウメコは神妙にうなずいた。

「よし、始めよう」マルコは抜刀し、店の扉を開けた。扉の前にいた軍曹は、彼の剣を見てぎょっとするが、すぐに敬礼の姿勢をとった。

「悪いな、軍曹」マルコは言った。「大人しく捕まって、手柄をくれてやりたいところだが、そうもいかないんだ」

 軍曹はうなずき、大股に数歩さがってから包囲の列に加わると、剣を抜き大音声で部下に命じた。「構え!」

 兵士たちは、ばらばらと剣を抜き放った。マルコは悠然と前に進み出た。すぐ後から抜刀したアランと、棒を構えたウメコが店を飛び出し、戦いが始まった。

 ジャンがふと見ると、シャルロットは顔面蒼白で、今にも卒倒しそうになっていた。ジャンは彼女の肩に手を回し、言った。「目と耳を塞いでるといいよ。いざとなったら、僕が担いで逃げるから」

 シャルロットはうなずき、ぎゅっと目を閉じ両手で耳を塞いだ。ジャンは彼女を支えながら、出入口の横の壁に張り付いて、戦いの様子をうかがった。ジュールとジローも出入口を挟んで反対側の壁に取り付いた。

「しくじるなよ」カラスは言い残すと、ジャンたちの返事を待たずに店の奥へ姿を消した。

 街道警備隊の六人の兵士は、ジャンの目から見ても手練れであることがわかった。しかも彼らは統制がとれており、アランが最も手強い相手と見るや、軍曹が素早く指示を飛ばして、彼女に三人を当てた。そして自身は部下の一人と組んで、マルコを攻め立てた。しかし、戦況は膠着した。もちろん、それはマルコが狙って作り上げた状況だった。アランはまるで稽古でも付けているかのように、三人の攻撃を軽々といなし続けているし、マルコは決定打をわざと何度も見送っている。彼らが手加減していることは、明らかだった。ウメコの場合、それはもっとあからさまだった。彼女が相手にするのは、部隊の中でも特に大柄な兵士で、それは店の入口でウメコの不意打ちを食らい、不様にひっくり返ったあの兵士だった。小柄なウメコと比べると、彼はまるで巨人のようだが、ウメコは彼の攻撃をやすやすとかわし、流し、受け止めた。彼女は数合を撃ち交わしてから、不意に攻勢に転じた。棒の真ん中付近を両手で持って、両端で目にも留まらない打突を繰り返し、兵士はその猛攻にたじたじとなった。ところが、彼女は優勢をあっさりと放りだし、大きく飛びずさって間合いを取ると、棒をくるくる回してから、それを右の小脇に挟み、不敵にも相手に向かって左手で手招きした。挑発された兵士は雄叫びを上げ、ウメコに打ち掛かった。

「あの人、魔法使いだよね」ジュールがウメコの戦いぶりを見ながら、あきれた様子でつぶやいた。

「符術師じゃなかった?」

「どっちも同じものだよ。声で呪文を唱えるか、紙に書いたものを使うかの違いはあるけど、あれじゃ符術師と言うより棒術師だ」

 ともかく、逃げ出すなら今をおいて他になかった。ジャンはしゃがみ込んでシャルロットの両脚に左腕を回すと、彼女の身体を肩に担ぎ上げ、素早くジローとジュールに目配せした。真っ先に飛び出したのはジュールだった。彼は店の横の路地に飛び込み、あとに続くジャンたちに手招きした。ジローと、シャルロットを担いだジャンは彼の後を追った。彼らは、細い路地を何度も折れて突っ走り、間もなく屋敷の前を通る大きな通りに出た。彼らはは急いで門を抜け、屋敷に駆け込んだ。ジュールは玄関の扉に閂錠を掛け、それから扉に背中を預けて床に座り込み、ぜえぜえと息をついた。ジャンもシャルロットを床に降ろし、その場にぺたりと座り込んだ。女性を一人抱え、しかもスカートを穿いて全力疾走するのは、さすがに大仕事だった。

「やれやれ、どうにか逃げられたね」ジローも肩を上下させながら言った。

 間もなく騒ぎを聞きつけたのか、アベルが顔を見せた。彼は玄関ホールの上にあるテラスから、ジャンたちをいぶかしげに見てたずねた。「何事ですか?」

「街道警備隊が、おじさんを捕まえに来たんだ」ジャンが言った。

 アベルは息を飲んで階段を駆け降りてきた。

「おじさんには僕を誘拐した容疑が掛けられていて、彼は僕たちを逃がしたあと、わざと捕まる気でいるみたいだった。それと、僕とジローとアベルの三人で、先にクタンへ行けって言ってた」ジャンは思い出して付け加えた。「全速力で」

「助けに行かなくていいんですか?」アベルは眉をひそめて言った。

「それは、カラスとカトリーヌの仕事だよ」ジローが言った。

「子供たちは?」

「ほとぼりが冷めた頃に、僕が駐屯地へ連れて行く」と、ジュール。

 アベルは少し考えてから、口を開いた。「ともかく、馬の準備をしましょう」

「厨房の勝手口から出れば、厩舎は目の前です。シャルロットが案内します」シャルロットは言って、食堂へ向かった。

 ジローが、女中のあとをついて行くアベルの背中に言った。「そっちは任せていいかい?」

 アベルとシャルロットは食堂の扉の前で足を止め、振り返っていぶかしげにジローを見た。

「ちょっと、クタンまでの道のりを調べておこうと思ってね」ジローはジュールに目を向けた。「この辺りの地図はあるかな?」

「書斎にあるよ」ジュールは、玄関ホールに面した扉の一つを指さした。

「わかりました。こちらが片付いたら顔を出します」アベルは言い残して、シャルロットと一緒に食堂の扉の向こうへ立ち去った。

「ジャン、君も来ておくれ。万が一のことがあったら、君はひとりでクタンヘ行かなきゃならないからね」ジローは言った。

 ジャンはぎょっとするが、すぐにうなずいた。もちろん、そんな事態は避けなければならないが、備えずにいれば、さらに悪い事態に繋がることはあきらかだった。

「よし、さっさと始めよう」ジローは言って、ジュールに目を向けた。ジュールはうなずき、立ち上がって書斎に向かった。

 書斎の扉を開けて最初に目についたのは、大きなガラス窓と、それを背に置かれた黒っぽい木材の重厚な机だった。向かって右手には抽斗付きの書棚が設えられ、左手には隣室へ通じる扉があった。ジュールは書棚の抽斗から丸められた黄色っぽい紙を引っ張りだし、椅子に座るとそれを机に広げて四隅に石の文鎮を置き、紙上の一点を指さした。「ここがベルン」

 ジャンが地図を覗き込むと、ジュールが示す場所には都市の表象が描かれ、そこから街道をあらわす線が三本伸びていた。それらの一本は南のコズヴィルへ、もう一本は北東のロズヴィル、残る一本は北西のルナヴィルと言う町へと続いている。ルナヴィルからは東へ伸びる街道が伸びており、それはロズヴィルの北にある、波が描かれた空豆のような形の輪を取り囲む道に繋がっていた。

「湖があるんだね」ジャンは空豆型の輪を指さした。ロズヴィルの対岸にはクタンがあり、二つの町は湖を横切る線で結ばれていた。「ロズヴィルからは船が出てるの?」

 ジローはうなずいた。「でも、ベア湖はよく荒れるから、往々にして転覆の危険があるんだ。クタンへ行くとするなら、よっぽどの急ぎじゃない限り、湖を西か東に回って行く方がいいだろうね」

「今は、そのよっぽどの時じゃないかな」ジャンは言った。

「まさか、ロズヴィルを通るつもりでいるの?」ジュールはぎょっとして言った。「でも、ロズヴィルはロゼの首都なんだ」ジュールは地図の上のロズヴィルを指で叩いた。「君やマルコおじさんの考えだと、メーン公爵はロゼで伯爵の代わりに軍隊の指揮を執っているわけだから、もし彼がいるとしたらロズヴィルのはずだよ。船でクタンへ行こうとすれば、捕まえてくださいって言うようなものじゃないかな?」

「メーン公爵じゃなくて、マリユス」ジャンは地図を見ながら訂正した。

「そっか、息子の方だね。公爵は捕まってるんだっけ」

「ルナヴィル経由でベア湖を西回りするルートなら、ロゼ伯爵の領地を通らなくてすむよ」ジローは地図をなぞりながら言った。

「でも、それだとリュネ公爵の領地を何日も歩くことになる。公爵が伯爵の味方をしてるのなら、どっちを行っても同じじゃないかな?」ジャンは指摘した。

「それでも、ロズヴィルへ行くよりは安全だと思うけどね」ジローは腕組みして考え込んだ。

 ジャンは首を振った。「ねえ、思い出してみて。ロゼの兵隊たちが捜しているのは、太った農民風の男と金髪の少年なんだ。でも、アベルは太ってないし、今の僕は到底男の子には見えないから、ロズヴィルにいても、あまり注目を集めないと思うんだ。それに、ジローが湖を西回りでクタンへ行ってくれれば、いい目くらましになるんじゃないかな」

「私をおとりにしようってことかい? そりゃあ、なかなか面白いアイディアだね」ジローは感心した様子で言った。

「ちっとも面白くない」ジュールは渋い顔をジャンに向けた。「メーン公爵が、君の変装の可能性を考えてないって、本気で思ってるの? いくらなんでも無茶すぎるよ」

 その時、シャルロットがノックもせずに、書斎に入ってきた。彼女はマリユスの隣に立って、地図をのぞき込んでから主人に目を向けた。「今は、何を話し合ってるんですか?」

「ジャンが、無茶なことを言って聞かないんだ」ジュールはむすっとした顔のまま、腕組みをしてった。

「坊ちゃま」シャルロットは小さく首を振った。「ちゃんと説明してください。それじゃあ、五、六歳の子供並みの語彙しかないように見えます」

 ジュールは眉をひそめてから言い直した。「ジャンは、ロズヴィルを通ってクタンヘ行こうとしてるんだ。でも、そこにはジャンをつけ狙うメーン公爵がいると、僕は睨んでる。公爵は、ロゼ伯爵の兵隊を拝借して、ジャンを捜し回っているし、ウメコの店の外で待ち構えていた街道警備隊も、彼の息が掛かってるとしたら、そんな影響力を発揮できる場所は、ロズヴィルしかないんだ。これが、どんなに危険なことか、君だってわかるだろ?」

 シャルロットは、ため息を一つ落として言った。「坊ちゃま。それは無茶ではなく、馬鹿げてると言うべきです」彼女はジャンに目を向けた。「王子様は、聡明で見た目も素晴らしい完璧な人間と言う、シャルロットの印象を返してください。敵の首領が待ち構えている町へ、のこのこ乗り込むなんて馬鹿者のやることです」

「僕はまだ、王子になって日が浅いんだ。あまり、参考にはしない方がいいよ」ジャンは肩をすくめた。「でも、僕だって、考えなしに言ってるわけじゃない。おじさんがクタンヘ急ぐように言ったのは、僕を守るためだけじゃなくて、ベルンの街道警備隊がマリユスの言いなりになってることを、向こうの駐屯地に伝えるためでもあるんだ。もたもたしてたらメーン公爵の連合軍が王都へ向けて侵攻するかも知れないし、今は無茶でも馬鹿げててもやるしかないよ」

 ジュールは難しい顔をして考え込み、しばらく経ってから口を開いた。「だったら、僕も一緒に行くよ。アランやみんながいないんじゃ、危なっかしくてしょうがないもの」

「ありがとう」ジャンは笑顔で言って、小さく首を振った。「でも、君は連れて行けない」

「どうして。見習いでも、僕の魔法が役に立つことは知ってるよね?」

「そうだね。ジュールが一緒に来てくれれば、ものすごく心強いよ。でも、それはできない」ジャンは笑顔を消して、ジュールを真っ直ぐに見た。「君が、本当にジュールなら別だけど」

「何を言ってるの?」ジュールはきょとんとして、ジャンを見つめ返した。

 ジャンは、とぼける彼に構わず言った。「最初に引っ掛かったのは、僕たちが丘の上からロゼ伯爵の部隊を見付けた時なんだ。あの時、君はあんな距離から、旗印がロゼ伯爵のものだって見抜いてみせた。僕とカラスは、あれと同じくらいの距離から、君をさらった人さらいが、どんなものを身に着けていたかを見ることができたのに、君が紋章の形を説明するまで、そうだとはわからなかったんだ。つまり君は、最初っからあれがロゼ伯爵の紋章だとわかっていたってことになる」

 ジュールは肩をすくめただけで、何も言わなかった。

「もちろん君が、僕たちより目がよかったってだけのことかも知れない。でも、その日の夜、君はまた妙な事をしたんだ」

 ジュールは首を傾げた。「なんだっけ?」

「ユーゴの名前が出たとき、君はそれを誰かとたずねたよね。でも、マリユスの名前が出たときは、何も聞かなかった」

「興味をひかれなかっただけだよ」ジュールは肩をすくめた。「それに、あれは込み入った話だったし、正直なところ、今はあまり覚えてないんだ」

「そうなの?」ジャンは首を傾げた。「でも、彼がメーン公爵の息子だって、よく覚えてたね。あの時、ジローがさらっと漏らしただけの話なのに?」

「ああ、それなら覚えてるよ」と、ジロー。「私はこう言ったんだ。『マリユス君は父親がクーデターを起こす何日も前に、この計画を立てていたってことにならないかい?』ってね」

 ジャンは驚いてジローを見た。「そこまで細かく覚えてるの?」

「私は吟遊詩人だよ」ジローは思い出させた。「見聞きしたことをほいほい忘れてたんじゃ、商売あがったりさ」

 ジャンはジュールに目を戻した。「きっと、興味をひかれなかったって言うのは、本当のことなんだろうね。だって、君はマリユスのことをよく知っていたから、わざわざ聞くまでもなかったんだ。だから、今のメーン公爵がマリユスだってことも知っていた。旅の間中、僕たちがずっと秘密にしてきた事を?」

「僕、そんなこと言ったっけ?」ジュールは首を傾げた。

 すると、ジローが言った。「君やマルコおじさんの考えだと、メーン公爵はロゼで伯爵の代わりに軍隊の指揮を執っているわけだから、もし彼がいるとしたらロズヴィルのはずだよ」彼は肩すくめてジュールに目を向けた。「合ってるかい?」

「ちょっと言い間違えただけじゃないか」ジュールは唇を尖らせた。

「でもね、マリユス」と、ジャン。「僕が訂正したのに、君はもう二回もその間違い(・・・)を繰り返したんだ。もちろん、自分が当たり前だって思っていることを、わざと間違えて言うのはすごく難しいことだからね。一たす二を五だなんて言うと、自分が馬鹿みたいに思えるもの。違う?」

 ジュールは、ただ困ったような笑みを浮かべて黙っていた。ジャンは内心、自分の言ったことがすべて邪推で、ジュールはやっぱりジュールなのだと願った。しかし魔法使いの少年は、椅子の背もたれに身を預け、天井を見上げて心底がっかりした様子で言った。

「あーあ。これで僕の旅も、おしまいか」

(12/25)誤字修正

('17/1/24)誤字修正

('17/5/9)誤字修正

('17/10/16)誤字修正

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