8.ベルンの町
丘の稜線にへばり付く、空豆のような形の夕陽が、ベルンの防壁をオレンジ色に染め上げていた。ジャンはその光景に、ふと見覚えがあるような気がして、あれこれ考えた挙げ句、カトリーヌに誘拐された日のことを思い出した。あの時に見た王都も、やはり夕陽を受けてオレンジ色に染まっていた。
ベルンは巨大な城塞都市だった。防壁に守られたその姿は、ジャンに既視感を覚えさせるほど、王都やトレボーのそれとよく似ているが、二つの都市と明らかに異なる点もあった。それは、コズヴィルと同じように、街が防壁の外へあふれ出していることだ。つまり、それだけたくさんの人が、この一個の都市に寄り集まっていると言うことになる。王都でのパレードでも人の多さに驚かされたが、ことによるとベルンに住む人たちは、その何倍にも及ぶのかも知れない。
「大都市だね」ジャンはつぶやいた。
「そうだな」ジャンとくつわを並べて進むアランが、うなずいて言った。
「向こうまで、どのくらいあるんだろう」
ジャンが誰とはなしにたずねると、ジュールが馬を寄せてきて言った。「ここからなら、一〇マイルちょっとってところかな」
「着くのは明日の昼くらいかな」ジャンは言った。
本来のペースであれば、彼らは今日の日没前にはベルンへ到着しているはずだった。しかし、ロゼ伯爵の兵隊がジャンを捜しているとわかった今は、用心をしてカラスが前方を偵察しながら、のろのろと進んでいる。
「僕としては、ゆっくり行ってくれた方が嬉しいな」ジュールは、ため息まじりに言った。「だって、ベルンへ着いたら、みんなとお別れだし」
「今からしょんぼりしてても、しょうがないよ?」ジャンは言って、ジュールに笑顔を向けた。もちろん彼にも、別れを惜しむ気持ちはある。しかし、ジャンの旅は危険と隣り合わせだし、そんなことに無関係なジュールを巻き込むわけにはいかなった。それでもジャンが望めば、彼は危険を承知の上で、一緒に行くと言ってくれるかも知れない――ジャンは頭を振って、その考えを追い払った。大切な友人を失うのは、もうこりごりだ。
「もしもだよ」と、ジュール。「君たちのごたごたがぜんぶ片付いて、僕の魔法の修行が終わったら、またみんなで旅をするのはどうかな。もちろん、君はお忍びで?」
それは、なんともわくわくするアイディアだった。
「世直しの旅でもする?」ジャンはにやりと笑って言った。
「いいね」ジュールは笑い返した。「諸国を漫遊して、民を苦しめる悪い貴族や代官を、僕たちが懲らしめるんだ」
「最後に僕が王子の身分を明かすと、悪人たちが観念して一斉にひれ伏すんだね?」
「そうそう、そんな感じ」
少年たちは顔を見合わせて笑い合った。
「ずいぶん楽しそうだな?」偵察を終えて戻ってきたカラスが、三人の前で馬を止めて言った。
「お前にも役を一つくれてやろう」アランは真顔で言った。「悪政を布く諸侯の城に忍び込んで、不正の証拠を探るんだ」
カラスは、意味がわからないと言った様子で首を傾げるが、ジュールが新しい旅の計画について説明すると、彼は愉快そうに笑ってから言った。「そりゃあ、面白そうだな」
「僕も、カラスにぴったりの役だと思うよ」ジャンは言って、ジュールに目を向けた。「彼は以前、一〇〇フィートの壁を登って、誘拐された僕を助けに来てくれたことがあるんだ」
「あれは、せいぜい三〇フィートだ」カラスは訂正した。
「僕じゃ一〇フィートだって無理だ」ジュールは小さく首を振った。「なんだって、そんなことができるの?」
「正直な商売はしていなかった、と言っただろう?」カラスはにやりと笑った。「金持ちの屋敷に忍び込むつもりなら、壁くらいは登れないとな」
ジュールは、まじまじとカラスを見つめた。
「おしゃべりはこのくらいにして、野営の準備を始めておいてくれ。俺は、マルコおじさんに偵察の結果を報告してくる」
野営を布いた一行は、夕食を終えて、あとは寝るばかりとなった。たき火を囲んで、つらつらと翌日のことなどを話し合っていると、アベルが口を開いた。「ロゼ伯爵がジャンを捜しているのはわかりましたが、リュネ公爵はどうなんでしょう。彼も自分の軍を動かしていると思いますか?」
「それは、ないだろう」カラスは言った。「昨日の兵隊たちの口振りからすると、動いているのはロゼ軍だけのようだ」
「そうね」カトリーヌはうなずいた。「私たちが相手にした少佐は、ベッソンとか言う大佐と張り合っている様子だったし、もし他国の軍も競って動いているなら、そんな余裕はないはずよ」
「どうしてロゼ伯爵は、リュネ公爵にジャンの捜索を求めないのでしょう?」アベルは首をひねった。「佐官まで引っ張り出して捜索を行っているとなれば、人手が足りていないのは明らかなはずです」
「それは、リュネ公爵が国王派だからだ」マルコは言った。「彼に自分の会派を、あからさまに裏切るようにし向けるには、たぶん借金の帳消し以上の報酬と、なんらかの保証が必要になるだろう」
「見てみぬふりは、裏切りじゃないんだ?」と、ジュール。
「おかしな話しに思えるだろうが、何もしないことが重要なんだ」マルコは苦笑しながら言った。「そうすればリュネ公爵は、この件で国王へ申し開きをする時に、ロゼ伯爵の追い掛けている相手が、皇太子殿下だったとは知らなかったと答えられるだろう。自分は騙されたのであり、悪いのはロゼ伯爵だ――ともな。もちろん、公爵がロゼ伯爵かメーン公爵からの手紙を、暖炉ではなく机の引き出しの中にしまい込んでいない限りは、だが」
「しかし、昨晩の話で、リュネ公爵はメーン公爵の連合軍に加わるつもりでいると予想していましたが、それはあなたの言う、あからさまな裏切りになるのではありませんか?」アベルは指摘した。
「もちろんだ」マルコは認めた。「おそらくリュネ公爵は、そのタイミングを計っているところだ。もしメーン公爵の陣営が不利だとわかれば、彼は目障りな債権者をやっつけようと考えるし、そうでなければ、いよいよシャルルを裏切るつもりでいるに違いない。そして、情勢はシャルルにとって、まずい方向に動きつつある」
そう言ってマルコは、ジュールにちらりと目をくれた。もちろんジャンは、その意味を理解していた。前のメーン公爵はすでにユーゴの手で暗殺され、その爵位は息子のマリユスに継承されている。シャルルや彼の密偵組織は、その事実をひた隠しにしており、もし公然となれば首魁のクーデター未遂によって衰えた将軍派の勢力も、新公爵を推し立てて息を吹き返すだろう。もちろん、いつまでも隠しおおせることではないが、少なくとも今、それを誰かの前で明かすわけにはいかなかった。
「ベルン子爵も、父親の意向に沿って動いていると考えてよいのでしょうか?」と、アベル。
マルコはうなずいた。「パトリックとは、私が隠遁生活へ入る前に何度か会ったことがあるんだ。有能で、とても誠実な青年だった。もっとも街道警備隊の中佐が、無能であるはずもないが」
「今は大佐です」アベルは訂正した。
「そうか、出世したんだな」マルコはにこりと笑みを浮かべた。「ともかくパトリックは、父親と兄に対して恐ろしく忠実なんだ。彼がその欠点を克服していない限り、父親の考えに逆らったりはしないだろう」
「なるほど」アベルはつぶやいて、何やら考え込んだ。
「もちろん、親父と長男の方も顔見知りなんだろうな?」と、カラス。
マルコはうなずいた。「父親のニルスは、あまり友だち付き合いをしたくなるような男じゃない。自分を賢いと思って他人を見下すきらいがあるし、かと思えば力のある相手にはへいこらするわかりやすい小物だ。長男のオクタヴィアンは、ごく平凡な男で、私が知る限りでは、コゼッタン伯爵という自分の爵位を、重荷に思っているようだった」
「なあ、旦那」カラスは小さく首を振った。「ベルンへ足を踏み入れた途端、また誰かに名前を呼ばれたりしないだろうな? あんたが一緒だと、ラッパを吹き鳴らしながら歩いている気分になるんだ。三人組の英雄的行動の方が、まだ可愛く見えるぜ」
「貴族がうろついている場所に近付かなければ、特に問題はないさ」マルコは肩をすくめた。
「マルコ」アベルが、ふと顔を上げて言った。「これは私の考えすぎかも知れませんが、ギャバン大佐――つまり、ベルン子爵は、本当に父親の意向で動いているのでしょうか?」
マルコは、いぶかしげに友人を見つめた。
「本来であれば街道警備隊は、ロゼ伯爵の部隊がやっていたような事を見過ごしたりはしません。街道での軍事行動を許されているのは、王が招集した軍と街道警備隊だけだからです」
「どうして?」ジャンは、隣のアランにこっそりたずねた。
「帝国時代に造られた街道は皇帝の領地であり、誰のものでもないからだ。その点で言えば、街道警備隊はアルシヨンではなく、帝国に属していると考えることもできる」
「帝国はもうないよ?」ジャンは指摘した。
「しかし、法律はまだ生きている」
ジャンは思い出し、うなずいた。以前、シャルルはそれを論拠として、マルコに皇帝になることを冗談めかして勧めていたのだ。
「少しばかり間違っているぞ」マルコは言った。「王が街道での軍事行動を許されているのは、彼の軍における地位が大将だからだ。もちろん、将軍職は王位と共に継承されるものだから、実際的には王の権利と言えなくはないが、法律上は別物として扱われる」
「そう言えば、そうでしたね」アベルは目をぱちくりさせた。
「話の腰を折って悪かったな」マルコは苦笑した。「それで?」
アベルはうなずいた。「みなさんは、コズヴィルからここへ来るまで、警邏隊と一度も出会わなかったことに気付いてましたか?」
マルコは、はっと息を飲んだ。「お前さんの言いたいことがわかったぞ。リュネ公爵は、まだ言い逃れをできる状況だが、息子の方はそうじゃない。彼が意図的に警邏任務を怠けている事が知られれば、告発を受け連隊長の地位を失うことになるだろう。もし彼が、それも辞さない覚悟で動いているのであれば、日和見を決め込もうとしている父の意にそむいて、過度に将軍派へ肩入れしていることになる」
「まさに、その通りです」アベルはうなずいた。「あるいは我々が、ベルンへ足を踏み入れた瞬間、街道警備隊の兵に取り押さえられることもあり得ます」
「なんだか私には、あの町が虎の穴に見えてきたんだけど、気のせいかな?」と、ジロー。
「しかし、ベルンを素通りするわけには行かないぞ」カラスが言った。「ザヒはウメコを連れて行けと言ったんだ。あのじいさんが意味も無く、そんなことを指示するわけがないからな。それに――」カラスは、すでに寝床で寝息を立てている子供たちに、ちらりと目をやった。「こいつらをイゼルまで、連れて行くわけにはいかないだろう?」
「今、ウメコって言った?」ジュールが聞き返した。
カラスはうなずいた。「知ってるのか?」
「ある薬屋の女主人が、同じ名前なんだ」ジュールは思い出すように、宙を見つめながら言った。「齢は十九で、背丈は僕よりも低い。黒髪を頭の後ろで括って、馬の尻尾みたいに垂らしている。着ているものはいつも薄汚れたローブで、美人なんだけど目つきが怖い」
「美人かどうかは別にして、そりゃあ間違いなく我が妹だ」カラスは言った。
「三年前、レーヌで会った時と、あまり印象が変わっていないぞ」アランがつぶやいた。
「私は六歳の頃の彼女しか知らないが、その頃から同じようだな」マルコは苦笑を浮かべて言った。
「ねえ」ジローが言った。「私だって、彼女に会うのを楽しみにしている一人だけど、その前に心配事の方を片付けてくれないもんかね。それともベルンで、かごの鳥にされたいのかい?」
「心配しないで、ジロー」カトリーヌが言った。みんなが女スパイに注目した。「とてもいい方法があるの」カトリーヌは悪戯っぽく微笑み、人差し指を立てて見せた。
翌朝、ジャンは憮然とした表情で御者台に座っていた。彼の隣で手綱をとるのは、女中の格好をしたカトリーヌだ。マルコは馬上にあり、議場で着ていた貴族の服を身に着けている。髪はぴたりと撫でつけ、どう言うわけか立派な口ひげをたくわえていた。
「ねえ」ジャンは、馬車の横で馬を進めるジュールを、じろりとにらみつけた。「そんなに、じろじろ見ないでくれる?」
「でも」ジャンの抗議にも関わらず、ジュールは彼から目を離せずにいた。「本当にきれいなんだもの」
「言わないで」ジャンは言って歯を食いしばって言った。
「マリーにそっくりだな」マルコが言った。アランは、こくこくとうなずいた。彼女もジュールと同じく、ジャンに目を釘付けにされていた。
ジャンは、カトリーヌに借りた赤いドレスを着ていた。髪を結いあげ――長さが足りない分は金髪の束を足して――淡く化粧までしているから、今の彼は誰よりも淑女らしい淑女に見えた。カトリーヌの作戦は、ごく単純なもので、ジャンとマルコを変装で別人に仕立て上げると言うものだ。今のマルコは、どこにあるかもわからない男爵領の領主であり、ジャンは彼の姪で、カトリーヌはその使用人と言う役回りだった。
「ジュスティーヌ様」カトリーヌが馬車の手綱を操りながら、偽名で呼びかけてきた。「笑顔」
ジャンは反射的に、あるかなしかの微笑みを取り繕った。前方から、馬に乗った二人連れの男がやってきて、ジャンをちらちらと見ながらすれ違った。通り過ぎた彼らの会話が、ジャンの耳に飛び込んできた。
「すごい美人だったな」
「ああ。どこのお姫さまだろう?」
「さあな。けど、なんだってあんな、みすぼらしい馬車に乗ってるんだ?」
ジャンは胸の中で毒づいた。もちろん、カトリーヌのアイディアを最初に聞いたとき、ジャンは強く反対した。彼には、性別までごまかす必要性を、まったく感じられなかったからだ。しかし、カトリーヌの言い分を聞いて、結局うなずくしかなかった。
「あなた、王子なのよ。男の子の貴族の格好じゃ、変装にならないわ」
一行は街道を進み、昼を回ったところでベルンの門前にたどり着いた。それは本来の防壁の門ではなく、防壁からあふれ出してできた新市街を守るための、防塁に設えられた門だった。門の脇には兜と胸当てを身に着け、槍を手にした若い男の兵士が二人立っていて、一行が来ると門の前に立ちはだかり、身振りで停まるよう合図した。
「やあ、こんにちは。今日もまた、いい天気だね」カラスが兵士の一人に愛想良く声を掛け、彼の階級章を読んで付け加えた。「伍長さん」
「涼しい頃が懐かしい程度にはね」伍長は、太陽をうらめしげに見やってから言った。「ベルンへは商売に?」
「いや、ちょっと親戚を訪ねに来ただけさ」
伍長は一行をじろじろと眺め、首をひねった。彼はカラスに目を戻して言った。「こう言うことを聞いては失礼に当たるかも知れないが、ずいぶん変った取り合わせだな?」
「いや、伍長さんが不思議に思うのも仕方がないよ」カラスは苦笑を浮かべた。「そこの立派な御仁はヴォルマデ男爵で、御者台に座っておられる美しいお嬢さんは彼の姪御さんなんだ。強盗団に襲われているところを、お救い差し上げたのはよかったんだけど、お嬢さんが乗っていた馬車は壊されるし、馬や荷を奪われ、使用人で生き残ったのも、お嬢さんの隣りで手綱を握ってる彼女だけでね」
すると伍長は、同情を込めた眼差しをジャンに向けてきた。「お嬢様。何か私で、お役に立てることはございませんか?」
ジャンは困ったような顔を伍長に向け、わずかに首を傾げた。彼は、腹を立てていた。女性用の下着を穿かされる恥ずかしさだとか、コルセットで締め上げられる苦しさだとか、スカートの蒸し暑さと言った耐え難い苦労を知りもせず、伍長はジャンのことを、きれいで可哀想な女の子だとのんきに思い込み、すっかり騙されている。もちろん、このハンサムな青年に、なんの落ち度もないことはわかっているが、それでもジャンは少しばかり彼に、意地悪をしたい気持ちになった。さて、どうしてくれようかと考えていると、彼女の表情を勝手に読んで、勘違いした伍長は言った。「私はクァンタンと申します、お嬢様」
「ありがとうございます、クァンタン様」ジャンは、名前を聞けて嬉しいと言う様子で、ぱっと笑みを浮かべた。「確かに恐ろしいこともありましたけど、今はみなさんが親切にしてくださるので、なにも不自由はしておりません。でも、あなたのお心遣いはとても嬉しく思います」
ジャンは最後に、浮かべた笑みの中へわずかに憂いを加えた。鏡を見て練習したわけではないから、うまく出来たかどうかはわからなかったが、ともかく結果は彼が望んだとおりになった。
伍長は天啓でも受けたかのように、はっと息を飲んでジャンを見つめた。ジャンには彼の心の声が聞こえるようだった。きっとクァンタン青年は、なんて健気な姫君だろう――と感動しているに違いない。そして次は、美しい姫の名前を知りたいと考えるはずだ。事実、彼の目は、それを求めていた。ジャンが口を開き掛けると、マルコが素晴らしいタイミングで咳払いした。伯父を見ると、彼は恐ろしい顔で伍長を睨んでいた。ジャンは悲しそうに首を振った。伍長は失意の表情を浮かべながらも、しかめっ面のマルコにお辞儀をくれてから素直に引き下がった。
「あー、伍長さん?」カラスは呼びかけて、伍長の注意を自分に戻した。「その強盗団は、どうやら人さらいもやっていたようで、ベルンの近隣で誘拐されたと言う、子供たちも連れていたんだ。なんとか、彼らを親元へ返してやりたいんだが、どうすればいいだろう?」
伍長は未練がましくジャンを一瞥してから、カラスに向き直った。「それなら、駐屯地へ連れて行くといいだろう。入口の歩哨に用件を言えば、いいように取り計らってくれるはずだ。場所はわかるか?」
「ええ、もちろん」カラスは言って、眉間に皺を寄せた。「けど、街の北端でしょう? ここから歩いてたんじゃ、夕刻になってしまう」カラスは思案気に言って、マントの下から賄賂の硬貨を数枚を取り出し、伍長に手渡そうとした。しかし、伍長は首を振って受け取ろうとしない。
「悪いな。そう言うのは、受け取ってはいけないきまりなんだ」彼は苦笑いをカラスに見せてから、仲間の兵士に目を向けた。「バジル、荷を調べてくれ」
バジルと呼ばれた兵士はうなずき、一頭の馬の荷を降ろして念入りに調べ始めた。それでジャンは、カラスが伍長に賄賂を渡そうとした意味を理解した。もしバジルが全部の積み荷を調べるつもりでいるなら、どれほど時間が掛かるか知れたものではない。
ジャンは、マルコの目を盗むように、そっとハンカチを取り出した。それはカトリーヌが用意してくれた小道具の一つで、ジュスティーヌと言う名前の刺繍がしてある。ジャンは伍長の注意をひこうと、彼にちらりと目をくれた。伍長と目が合った。ジャンは、しめしめと思いながら、さりげなくハンカチを地面に落とした。伍長ははっと息を飲み、すぐさま言った。「バジル、ちょっと考えてみたんだが」
バジルはいぶかしげに伍長を見た。
「人助けの手間を惜しまない商人が、やましいものを隠し持っているとは思えない。なにより高貴な方々を、お待たせするわけにはいかないだろう?」
バジルはうなずき、検査中だった馬の荷を元に戻した。伍長はカラスに目を向け、道をあけた。「手間を取らせてもうしわけなかった。さあ、通ってくれ」
カラスは伍長にお辞儀をしてから馬に乗り、みんなに合図をして先へ進んだ。門を抜けてすぐに、ジャンは振り返って効果のほどを確かめた。伍長は門の向こうに立ちつくし、ハンカチを握りしめた拳を胸に当て、ジャンに熱のこもった視線を送っていた。何もかも思い通りになって、ジャンは少しだけ気を良くした。
一行は、漆喰塗りの家屋が整然と建ち並ぶ新市街の通りをしばらく歩き、防壁の巨大な門をくぐった。それを抜けた先の通りは市街地で、その街並みはトレボーと同じく石積みの建物だった。建物の屋上には胸壁やアーチ橋も設えられていたから、ジャンはまたもや既視感にとらわれた。通り過ぎる路地を覗き込めば、ダミアンたちの姿が見えるようだ。
「ちょっと、やり過ぎじゃ無い?」不意にカトリーヌが、声をひそめて言った。
「なにが?」ジャンはきょとんとして言った。
「ほどほどにしないとベルンを出るときに、ジュスティーヌの求婚者が群れを成して追い掛けてくるわよ」
ジャンはぎょっとした。「まさか?」
「少なくとも、あの伍長はもう、あなたの崇拝者よ」カトリーヌは眉間に皺を寄せて言った。「あんな振る舞いをどこで覚えたの。あたしが知る限り、あなたは淑女らしい淑女と会ったことなんて無いはずだわ」
「そうでもないよ」ジャンは指折り数えながら言った。「スイと、クセと、ジネットおばさんと、たぶんポーレットもかな。あと、君もね」
「あらまあ」カトリーヌは目をぱちくりさせた。「ありがとう」
「でも本当は、ポーレットの本にあったお話の、登場人物の真似をしただけなんだ。健気で思いやりがあって、何度もひどい不幸に遭いながらも、決してくじけないお姫さま」
「なるほどね」カトリーヌは苦笑を浮かべた。
「おじさんも迫真の演技だったね」
カトリーヌは首を振った。「あれは多分、演技じゃないわ」
ジャンはいぶかしげに彼女を見た。
「あなたのお母さんに言い寄る軽薄な貴族の子弟たちにも、同じようにする彼を一度だけ見たことがあるの。たぶん、それを思い出したんじゃないかしら」カトリーヌはくすりと笑った。
「この後はどうするのかな?」ジャンはたずねた。
「聞いてみるわ」カトリーヌはうなずいてから、マルコと並んで先頭を行くカラスに呼びかけた。「ねえ、カラス」
カラスは馬の脚を弛めて馬車に並んだ。「なんだい、お嬢さん?」
「ジュスティーヌ様が、この後の予定を気にしていらっしゃるの」
カラスはしばらく考えてから、ジュールに目を向けた。「お前の家で、少し休ませてくれないか。もちろん、この人数で押しかけても平気ならだが?」
「もちろん」ジュールは二つ返事で引き受けた。「案内するから、ついてきて」
ジュールはしばらく街を進み続け、駐屯地のそれとよく似た、鉄柵に囲まれた敷地の前で馬を止めた。敷地の中には大きな屋敷があって、彼はそれを指して言った。「ここが、僕の家だよ」
「立派なお屋敷だね」ジャンは目を丸くして言った。
「両親の遺産の一部さ。ちょっと待ってて、今、門を開けるから」
「僕がやるよ」ジャンは御者台を降りようとしたが、カトリーヌに襟首をつかまれた。「その格好で、力仕事はやめてちょうだい」
ジュールはくすりと笑い、馬を下りて門を押し開けた。それは立派な見掛けながら少し錆びついているようで、きいきいと耳障りな音を立てた。門の向こうには芝生の敷かれた前庭が広がっていて、門から玄関まで白い石畳が続いていた。
「裏に厩舎があるんだ。厩務員は雇ってないから、馬の世話は自分たちでやってね。馬車は、玄関の脇にでも置いといて」ジュールは曖昧に指さしてから、馬を引いて屋敷の裏手へ姿を消した。マルコとカラスとアベルも馬を下り、彼のあとに続いた。カトリーヌはジローに手伝いを求め、ジュールに言われた場所へ馬車をとめてから、ジローと二人掛かりで馬を外し、荷馬と一緒に厩舎へ連れて行った。
ジャンは御者台の上にぽつんと残された。もちろん、お嬢様役の彼があれこれ働くわけには行かなかったから、ここで大人しく待つべきなのはわかっている。とは言え、馬のいない馬車に乗っているのは、どうにも居心地がわるい。ジャンは苦労しながら御者台を降りた。ところが、地面に足を置こうとした拍子にドレスの裾を踏み、彼は尻もちをついて小さく呻いた。子供たちが荷台から身を乗りだし、大丈夫かと聞いてくる。
「大したことないよ」ジャンは立ち上がり、お尻の砂を払いながら言った。「みんなが戻ってくるまで、芝生で遊んでようか?」
ジャンの提案に、子供たちは目を輝かせてうなずいた。ジャンは彼らが荷台から降りるのを手伝い、近くの芝生に座り込んでちょっとしたゲームを始めた。しばらく経って、玄関の扉がそっと開かれた。そこから顔をのぞかせたのは蜂蜜色の髪をした女中で、彼女は不審げな眼差しをジャンたちに向けてくる。
「あ、あなたたち、誰ですか」女中はうわずった声で訊いてきた。
「えーと」ジャンは少し考えてから言った。「ジュールの友だちです」
女中は息を飲み、玄関を飛び出した。彼女の手には箒が握られていた。「彼はどこ?」
「厩舎だけど、もうすぐ戻ってくると思いますよ」
女中は素早く屋敷の裏手へ続く方へ目をやった。間もなく、そちらから話し声が聞こえてきて、ジュールを先頭に仲間たちが姿を現した。ジュールを目にするなり、女中は叫んで駆け出した。「坊ちゃま!」
ジュールは笑顔で手を振った。「やあ、ただいま。シャルロット」
女中は箒を放りだし、ジュールに飛び付いた。それは、いっそ体当たりと言ってもいいような勢いだったから、ジュールは押し倒されてぎゃっと悲鳴を上げた。女中はジュールに取りすがりながら、わんわん泣き出した。
ジャンは何事かと、スカートの裾を持ち上げて、みんなの側へ駆け寄った。子供たちも、そのあとに続いた。ジュールは地面に横たわったまま、苦笑いを浮かべて言った。
「ようこそ、我が家へ」




