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プリンセスコード  作者: 烏屋マイニ
魔界の王国
20/46

5.コズヴィルの町

 コズヴィルに着いて最初に出くわしたのは、テント街だった。しかし、それらは旅路に設える仮の住居などではなく、ちゃんとした家を建てる手間や、建材の費用を惜しんだ結果、テントになったと言うだけのようである。そこには通りがあり、共同の井戸やトイレがあり、石蓋を被せた下水溝まで備えているのだから、紛れもなく街だと言えた。早朝だと言うのに人通りも多く、街道に面したテントの前では、地面に広げた帆布の上に商品を並べ、道行く人に覗いて行かないかと声を掛ける商売人たちもいる。活気にあふれるその様子は、かつて見たディボーの市場にも似て、手綱を握るジャンは心が浮き立つ気分を覚えた。

 ジャンが操る馬車の荷台には、五人の幼子とジローが乗っていて、ジローはリュートを奏で、子供たちは彼の演奏に合わせ、可愛らしい声で合唱していた。ジャンの隣りに座るジュールも、一緒になって少女のような歌声を響かせている。彼らは、ここへ来る道すがら、こんな調子でずっと歌い続けており、初夏の陽気と合わせて、ジャンの気分を華やがせる一因になっていた。

「君は歌わないの?」ジャンは馬車のすぐ横で、馬を進めるアランに、なんとはなしにたずねた。

「やめておく」アランは渋い顔で首を振った。「聞く分には楽しいが、自分で歌うのは苦手なんだ」

 それから間もなく、大きな辻に差し掛かったところで、ジローがリュートを弾く手を休めて言った。「ジャン、ちょいと馬車を停めてくれるかい?」

 ジャンは言われた通り、馬車を道の端に寄せた。ジローは近くを行くカトリーヌに呼びかけた。「ほら、お嬢さん。旅芸人が辻でやることは一つだよ」

「あのね、ジロー。あたしは――」カトリーヌは抗議しようと口を開きかけたが、ジローは再びリュートをかき鳴らし、子供たちは合唱を始めた。カトリーヌはあきらめた様子で首を振り、馬を降りて馬車の側に立った。結局のところ、ジュールや他の子供たちに、自分とジローを旅芸人だと偽って紹介したのは、彼女自身なのだ。

 カトリーヌは一つ息を吸い込んでから、子供たちに合わせて歌い出した。その澄んだソプラノの歌声を聴いて、ジャンは思わず息を飲んだ。彼に音楽の素養はほとんどなかったが、彼女の歌声が非凡であることはすぐにわかった。さらに、少し遅れてアベルがカトリーヌの隣りに立ち、優しげなバリトンで合唱に加わった。彼の歌声もまた、カトリーヌに負けず劣らず素晴らしいもので、馬車の周りにはたちまち聴衆の人垣が生まれた。

 そうして何曲か披露してからジローが立ち上がって、滑稽な仕草でお辞儀をすると、聴衆は即席の合唱団へ拍手喝采を送り、馬車の中へ次々とコインを放り込んだ。ジローは、ダチョウの羽根が付いた帽子を脱いで、子供たちに言った。「みんなで、この中にお金を集めてくれるかい。どのくらい稼げたのか、調べてみようじゃないか」

 子供たちは歓声を上げながらコインを拾い集め、言われたとおり帽子の中にそれを放り込んだ。ジャンはその様子を見ながら、ジローの髪が褐色であることに、今さらになって気付いた。

 ほどなく、帽子の中はきらきらのコインで一杯になり、ジャンはそれを覗き込んで言った。「大儲けだね?」

「まあね」ジローは誇らしげに胸を張った。「せっかく大きな町へ来ているのに、買い物もできない文無しってのは、ちょいと寂しいだろ? ほら、君たちの取り分だ。あとでお許しが出たら、お菓子でも買いに行くといいよ」ジローは子供たちに目を向け、帽子の中からコインを数枚つかみ出しては、彼らに手渡していった。子供たちは口々にありがとうと言ってから、みんなで頭を寄せ合って、互いに掌の上の稼ぎを見せびらかした。

「そら、ジュール。君の分だ」ジローはジャンの隣の少年にも、気前よく分け前を与えた。

「ありがとう」ジュールは、にっこり笑ってコインを受け取った。彼は手の中の硬貨をもてあそびながら、ジャンに目を向けた。「君も歌えばよかったのに」

 ジャンは首を振った。「ポーレットが言うには、僕の歌はひどく音程が外れてるそうなんだ。たぶん、みんなの邪魔になってただろうから、歌わなくて正解だったと思う」

「ポーレットって?」ジュールは首を傾げた。

「従妹だよ」

「可愛いの?」

「うん。まあ、そうだね」ジャンは曖昧に答えた。

 ジュールはジャンの耳元に口を寄せて、こそこそと訊いた。「アランよりも?」

 ジャンはちらりとアランを見てから答えた。「種類が違うから、比べようがないよ」

「へえ、なるほどね?」ジュールはにやにや笑いながら、ジャンを肘で突いた。

「ねえ、ジロー」カトリーヌが言った。「あたしの分は?」

「あのねえ、お嬢さん。ここで芸を披露したのは、子供たちのお小遣いを稼ぐためなんだよ?」

「そんなこと言って、まだ帽子の中身はたっぷりあるじゃない」

 ジローはぶつぶつこぼしながら帽子に手を突っ込むと、硬貨を一握りぞんざいに掴み取って、カトリーヌに差し出した。カトリーヌはにんまり笑って硬貨を受け取り、エプロンのポケットに放り込んだ。

 ジローはアベルに目を向け、ため息を落としてから帽子を差し出した。「平等を期すためには、あんたにも報酬を支払わなきゃいけないね」

「それには及びません」アベルは首を振った。「私はプロではないし、文無しでもありませんから」

「そうかい?」ジローはあっさりと帽子を引っ込めた。「しかし、見事な歌声だね。村でもあんたの歌は聴いたけど、まさかここまでとは思ってなかった」

「若い頃に、少しばかり声楽を学んだんです。武芸の方が性に合ってたので、止めてしまいましたが」

 ジュールはアベルをじっと見つめてから、ジャンに目を向けた。「彼って何者なの。なんだか、平民には見えないんだけど」

「そりゃあ、そうだよ」ジャンは言った。「彼は、男爵様なんだ」

「君のおじさんは平民なんだよね。どうして貴族なんかと友だちなの?」

「おじさんも昔は貴族だったらしいから、昔のつて(・・)で、そう言った人たちにも顔が利くんじゃないかな?」ジャンは慎重に嘘をついた。カトリーヌが、みんなの正体を知られないようにしているのだから、彼があっさりと素性を明かして、それを台無しにするわけにはいかなかった。

 そこへ一騎の騎馬が駆け寄ってきて、馬車の前で足を止めた。その馬上にいる灰色のマントに身を包んだ黒髪の男は、ジャンたちをぐるりと見回してから言った。「こんなところに立ち止まって、何をやってるんだ?」

「仕事だよ、カラス」ジローが言った。「ちょいと街のみなさんに、歌を披露していただけさ」

「いくらか稼げたのか?」

「まあ、ぼちぼちだね」ジローは巾着袋をマントの下から引っ張り出すと、口を開けて帽子の中身をせっせと詰め込んだ。

「すると、ここいらはまだ、不景気ってわけではなさそうだな」カラスはしばらく考え込んでから、ふと顔を上げた。「旦那が待ってる。さっさと行こう」

 再び馬車を進めてしばらく行くと、大きな門があり、その左右からは石積みの防壁が延びていた。トレボーほど立派ではないが、壁の高さは大人の背丈の倍ほどもあった。扉を大きく開けた門の手前には、マルコが操る幌馬車が停まっていた。ジャンが馬車を並べると、マルコはいぶかしげに甥っ子を見て言った。「何をしてたんだ?」

「ジローが興行を開いてたんだ」

「なるほど」マルコはジャンの馬車の荷台にいる、仮面の吟遊詩人へ目を向けた。「どうだった?」

「悪くなかったよ」ジローはコインが詰まった袋を鳴らして見せた。

 マルコはうなずき、手綱を揺らして馬車を進めた。門の横には槍を持った門番が立っていて、通り過ぎる一行をじろじろと見たが、何も言わなかった。

「なんで、街の中に防壁があるんだろう」馬車を進めながら、ジャンは首をひねった。

 ジュールが、いぶしげにジャンを見て首を傾げた。「コズヴィルは初めて?」

「うん」ジャンはうなずいた。「僕は南の方に住んでたし、そもそも村を出たのは、この旅が初めてなんだ」

「そっか」ジュールは納得した様子でうなずいた。「なんで街の中に防壁があるか、だね?」

 ジャンはうなずいた。

「この通りを見て、何か思わない?」

 ジュールが顎をしゃくって示した先は、二階建てで漆喰塗りの建物が、一繋がりの壁のように隙間無く建ち並んでいた。

「ずいぶん、窮屈そうだね?」

 ジュールはうなずいた。「さっき通ってきたテント街は、街の中じゃなくて外なんだ。防壁の中は、見ての通り新しい家を建てる隙間も無いから、新しくコズヴィルに来た人たちは、仕方なく街の外で暮らしてるってわけさ」

「なんで壁を拡げないんだろう」

「必要ないからじゃない?」ジュールは肩をすくめた。「魔物もいないのに、わざわざ壁を建てたって、時間とお金の無駄だしね」

 ジャンはディボーの惨劇を思い出したが、黙ってうなずいた。

 しばらく進んだところでマルコの幌馬車が止まり、ジャンは自分の馬車を、そのすぐ後ろに付けた。間もなく、カラスがやって来て言った。「ここから真っ直ぐ行った北門の外に、厩舎があるんだ。俺とアランで、みんなの馬をそこへ連れて行く。馬車を停める場所も同じだから、ジャンも旦那と一緒に付いてきてくれ。ジローは宿の手配を、カトリーヌとアベルは子供たちを頼む」

 そう言って彼が指さしたすぐ先には、旅人の姿を模った鉄看板が下がっていた。みんなはうなずき、それぞれの仕事に取り掛かった。ジュールは「また、あとでね」と言って馬車を降りた。ジャンはうなずき、ジローと子供たちが、荷台から降りるのを待って馬車を進めた。

 北門を抜けてすぐに馬場があり、その奥にいくつもの馬房を連ねた厩舎があった。馬場の端は町の防壁に接していて、そこは車溜まりなっていた。ジャンとマルコは、車溜まりの車列に自分らの馬車を加え、御者台を降りた。すぐに厩舎から数人の子供たちが駆け寄ってきて、カラスとアランが連れてきた馬と、馬車から外した馬車馬を馬房の方へ連れて行った。子供たちの中から、髪の短い少女が出てきてカラスに歩み寄り、ぺこりと頭を下げた。見たところ彼女は、ジャンと差して変わりない年頃に見えた。

「彼らのリーダーか?」カラスは訊いた。

「はい、旦那。ナディアと言います」

「俺はカラスだ」カラスは言って、少女の目の前に拳を突き出した。ナディアが手の平を差し出すと、銀貨が二枚、その上に落ちた。

「こんなに?」ナディアは目を丸くした。

「馬の数が多いからな」カラスは肩をすくめた。「俺たちが発つときになって、いい仕事が出来ているようなら、もう一枚払おう」

「任せてください」ナディアは銀貨を握りしめ、熱心にうなずいた。

 カラスは、ふと考えてから言った。「ベルンの街道警備隊から、警邏隊が来るのはいつかわかるか? ここへ来る途中で人さらいに襲われて、返り討ちにしてから二人ほどとっ捕まえたんだ。できれば、さっさと引き渡してしまいたい」

「それなら、街の真ん中から少し西へ向かったところに、彼らの詰所があります。十日ほど前から、騎士さんが四、五人常駐するようになったんで、旦那のお荷物もうまく処理してくれるはずです」

「わかった」カラスはうなずいた。「もう一つ、頼まれてくれるか?」

 ナディアは首を傾げた。

「どこかから、ロープを持ってきてくれ。二〇フィートもあればじゅうぶんだ」

「わかりました」ナディアは厩舎の方へ駆けて行った。

 カラスはマルコに目配せし、幌馬車から犯罪者たちを引きずり下ろして、地面に転がした。カラスは人さらいの一人のそばにしゃがみ込むと、髪の毛を掴んで顔を上げさせ、その鼻先に反りのある片刃の短剣を突きつけ言った。「逃げようなんて、考えるだけ無駄だぜ。もし馬鹿な真似をしたら、両足首の腱を切るからな」

 人さらいは、神妙にうなずいた。間もなくナディアがロープを持って戻ってくると、カラスは礼を言ってそれを受け取り、人さらいたちの足の拘束を解いて立たせた。カラスは二人の腰にしっかりとロープを巻き付け、その端をマルコに預けて言った。「旦那の方が、力も体重も俺より上だからな。こいつらが逃げ出そうとしても、不覚をとることはないだろう」

「任せろ」マルコは、丸いおなかをぽんと叩いて言った。

 カラスはナディアに目を向けた。「馬の方が一段落したら、宿へ来てくれ。俺が連れてる子供たちに、街を案内してやって欲しいんだ。なるべく安全な場所を?」

 カラスが宿の名前を告げると、ナディアは「わかりました」と一つ頷いてから、厩舎で働く仲間たちの元へ走って行った。

「彼女たちって、ここの従業員なの?」ジャンはカラスにたずねた。

「いや」カラスは首を振った。「この厩舎は、旅人が自由に使えるようにと領主が建てたもので、誰の持ち物と言うわけでもないんだ。掃除やら修理やらは、ここを使う人間がやるきまりだったが、いつの間にか孤児たちが集まってきて、小銭と引き換えにそれらの仕事を請け負うようになったってわけさ」彼は厩舎の中でせっせと働く子供たちを、しばらく見つめてから親指で背後を指した。「行こうか?」

 ジャンたちは防壁の中へ戻り、ナディアに教えられた街道警備隊の詰所へ向かった。その入り口には二頭の立派な馬が繋がれており、居酒屋を急拵えで改装したとおぼしき室内には、剣を帯びた二人の若い男がいて、何やら雑談を交わしていた。

「何か、ご用ですか?」一人が礼儀正しくたずねてきた。

「はい、騎士様」カラスが応じた。「道行きで人さらいをとっ捕まえたんですが、ここへ連れて行けばいいと耳にしたもので」

「そうでしたか。ご協力、感謝します」騎士は頭を下げた。彼は、もう一人の騎士に目を向けた。「軍曹、やつらを牢へ入れておけ」

「はい、中尉」軍曹は敬礼すると、マルコからロープを受け取り、人さらいたちを詰め所の奥へ連れて行った。

「すると、彼らが被害者ですか?」中尉は、ジャンとアランに目を向けた。ジャンは中尉の手が、腰に帯びた剣の柄を、さりげなく探ったことに気付いた。

「いえ、男の子の方は私の甥で、女の子はその目つきの悪い商人が雇った護衛の剣士です」マルコが説明した。「やつらが連れていた子供たちは今、我々の宿に保護しております」

「では、被害者の人数と身元の確認を行いたいので、宿まで――」中尉はふと言葉を切って、マルコの顔をまじまじと見つめた。「ヴェルネサン伯爵?」

「旦那」カラスが渋い顔をした。「あんたは、ジローにならって仮面を被った方がいいぜ」

「お前の人相だって、私のことは言えんぞ」マルコは苦笑して言った。「中尉は、お前を連中のライバル業者か何かと疑って、我々から子供たちを取り返すつもりでいたんだ」

「そりゃあ、申し訳なかったな」カラスは肩をすくめた。

 中尉は目を丸くして二人を交互に見つめた後、居ずまいを正してマルコに敬礼した。「閣下」

「中尉。申し訳ないが、我々は身分を隠して旅をしているんだ。かしこまった挨拶は抜きにしよう」

 マルコが言うと、中尉は敬礼を解いてうなずいた。

「ともかく、我々は子供たちを親元へ返してやろうと考えている。今のところわかっているのは、彼らがベルンから連れてこられたと言うことだけだ。あんたは、あの人さらいどもから、子供たちをどこでさらったのか、詳しいことを聞き出してほしい。我々は、子供たちをベルンへ連れて行って、駐屯地へ預けることにする。もし何か聞き出せたら、それはベルンに伝えてくれ」

「わかりました」中尉は神妙にうなずいた。

「頼む」マルコは言い置いて詰め所を出た。ジャンたちもすぐに後を追い、彼らは宿へと足を向けた。日も高くなった街の中は人や馬車がひっきりなしに往来し、テント街と同様、活気にあふれていた。しばらく歩いたところで、不意にカラスが言った。

「さっき、旦那が中尉に言ったことについて、まだ説明してなかったな」

「うん」ジャンは、きょろきょろと辺りを見回した。「それ、こんなところで話しても大丈夫なの?」

「こんなところだから、大丈夫なんだ。少なくとも今は、俺たちの会話に聞き耳を立てているやつはいないし、この街で他人の会話を盗み聞こうなんてやつは、間違いなくひどい災難に遭うことになっている」

「どうして?」ジャンはぎょっとしてたずねた。

「ここにはアルシヨンの各地から、いろんな連中が集まってくるんだ。中には後ろ暗いやつもいるから、他人の素性を探ろうとするやつは煙たがれるってわけさ。お前も気を付けろよ」

 ジャンは神妙にうなずいた。

「ともかく」カラスは言った。「俺たちは事情を知らない連中から、身分を隠すことにしている。ユーゴたちに、俺たちがどこにいて、どこを目指しているかを知られないようにするためだ。俺たちが何者かを知るやつが増えれば、それはユーゴたちの追跡の手掛かりになる」

 ジャンはうなずいた。「彼らのために、パンくずを置いて行くようなものだね」

「なんだそりゃ?」カラスはきょとんとした。

「そんなお話があるんだ。気にしないで」

 カラスがうなずいた。「ジュールや他の子供たちに、余計なことは話していないか?」

「ジュールがアベルを平民に見えないって言うから、彼はどこかの男爵で、おじさんは没落貴族だって話したよ」

「よし、それなら問題ない」カラスはうなずいた。「そもそもアベルは、この手の事に慣れていないだろうから、無理に違う役割を与えるよりは、そのままでいた方が不審に思われないだろうと言うことにしたんだ」

「僕だって、慣れてるわけじゃないんだけど?」ジャンは思い出させた。

「だが、うまくやっている。そうだろ?」カラスはにやりと笑って言った。「我々の旅の目的は、ベアのワインの買い付けと言うことになっているから、そのつもりでいろ」

「おじさんに、ぴったりの商売だね」

「自分で飲めないのは、辛いところだがな」マルコは肩をすくめた。

「それじゃあ、僕たちの目的地はベアってことになるの?」

「いや」カラスは首を振った。「クタンだ。あそこにはベアのワインを専門に扱う問屋があるからな」

 ジャンはうなずいた。「覚えておく」

 息子をじっと見つめていたアランが、ふと口を開いた。「彼に、密偵の技術を教え込んだのは誰だ?」

「私じゃないぞ」マルコは笑って言った。「彼は飲み込みも頭の回転も速いから、この旅で勝手に覚えたんだろう。きっと、手本に恵まれたんだ」

「このあと、どうするの。宿へ着いたらって意味だけど?」ジャンはたずねた。

「お前は、子供たちを連れて街を見物してくるといい。彼らが近くにいたんじゃ、うかつに内緒話もできないからな。ナディアが迎えに来たら出発してくれ」と、カラス。

「わかった」ジャンはうなずいた。「みんなは?」

「ジローとカトリーヌには、興行のついでに、この先の道行きについて情報を集めてもらう。あんな人さらいがのさばっているんだから、街道も安全とは言えないだろうからな。俺と旦那とアベルは、食糧やら何やらの買い出しだ」

「子供たちだけで街を歩かせるのは、さすがに危なくないか」マルコが眉をひそめて言った。「街道警備隊が詰所まで置いているんだ。街の治安は、相当悪いと言う意味だろう?」

「私が一緒だ。何かあっても対処できる」アランが言った。

「もめ事を解決する方法よりも、回避する方法を考えてくれないか?」マルコは渋い顔をした。「あまり、目立つようなまねはしたくない」

「ねえ、おじさん」ジャンは口を挟んだ。「ディボーで事件があった時、クレマンさんはベルンにも報せを送ったよね」

 マルコは甥っ子へ目を向け、うなずいた。

「たぶん詰所は、この町でディボーと同じことを、起こさないための備えじゃないかな。ナディアって子も、あれが置かれたのは十日ほど前だって言ってたし、時期的にぴったりだと思うんだ」

「なるほど」マルコはうなずいた。「そうだとしても、この街が物騒なことに変りはないんだ。用心は怠るなよ」

「わかった」ジャンは神妙にうなずいた。

 宿へ到着すると、みんなは一階の食堂で遅めの朝食をとっていた。ジャンたちも食卓に加わり、しばらく経ったところで、宿の入口にナディアが顔を覗かせた。カウンターの向こうにいた宿の主人が彼女に気付いて、あからさまに不快な表情を浮かべてから怒鳴り声をあげた。「おい、商売の邪魔だ。さっさとどっかへ失せろ!」

「すみません、ご主人」ナディアは頭を下げた。「でも、こちらに泊まっているカラスの旦那に、ご用を言い遣ってるんです」

 宿の主人はちらりとカラスを見てから小さく舌打ちし、ナディアに中へ入るよう顎をしゃくってみせた。ナディアはぺこぺこ頭を下げながら、睨み付ける主人の前を通り過ぎて、一行が着く大きなテーブルの側へやって来た。

「お前も一緒にどうだ、ナディア?」カラスが言った。

「ああ……いえ、もう食べてきたので大丈夫です」ナディアは、テーブルの上のかごに盛られたパンを、じっと見つめて言った。

 ジャンは立ち上がり、近くのテーブルから椅子を持ってきて、自分とアランの席の間にそれを置いた。「とりあえず、みんなの食事が終わるまで、座って待ったらどうかな。今日は一日、あちこち歩き回るつもりだから、僕たちはしっかり食べていこうと思ってるんだ」

「ありがとうございます、坊ちゃん」ナディアは頬を染めながら、促されるまま椅子に腰を降ろした。ジャンも席に戻って言った。「僕はジャンだよ。今日は案内、よろしくね」

「は、はい。お任せください」ナディアはぺこりと頭を下げた。

 右隣に座っていたジュールが、ジャンの耳元に口を寄せて囁いた。「ちょっと薄汚れてるけど、結構、可愛い子じゃないか」

 ジャンは肩をすくめてから、彼の耳元に囁き返した。「たぶん本物の女の子だから、優しくしても損はないよ」

 ジュールはにやっと笑ってから、右手を差し出した。「僕はジュール。よろしく、ナディア」

 ナディアは、ジャンの目の前でその手を握り返し、きょとんとした顔で言った。「どうして、男の子の名前を名乗ってるんですか?」

 ジュールはテーブルに突っ伏し、みんなは大笑いした。ジャンが、その理由を説明すると、ナディアは顔を真っ赤にして平謝りした。

「ああ、気にしないでいいよ。もう、いい加減慣れてきたし。あと、僕たちはどうやら同じ齢のようだから、かしこまった言い方はなしにしない?」ジュールは言って、目の前のかごからパンを一つ掴み出し、少女に差し出した。「お一つ、どうぞ」

「ありがとう、ジュール」ナディアは微笑み、パンを受け取って美味しそうにかぶりついた。

 食事が終わると、一行はそれぞれ街へ出た。出発の前にジャンは、ベルンからさらわれてきた子供たちとアランを、ナディアに紹介した。ナディアはアランが剣士だと聞いて目を丸くし、どうして小さな女の子が、そんな勇敢な仕事に就けるのかと訊いた。

「勇敢さに男女は関係ない」アランは答え、微かに笑みを浮かべた。「お前も、じゅうぶん勇敢だったと思うぞ。宿の主人の怒鳴り声にも負けなかった」

「あそこで引っ込んでたら、カラスさんに頼まれた仕事を果たせないし、そうなったらお金ももらえないもの」

「そうだな」アランはしかつめらしくうなずいた。

「それで、みんなは街へ出て何をしたいの?」ナディアはたずねた。

「買い物かな。みんな、ちょっとしたおこづかいを手に入れたんだ」と、ジャン。彼は子供たちに目を向けた。「何か、欲しいものある?」

 子供たちの口から飛び出したのは、「お菓子」と「おもちゃ」だった。

 ナディアは、しばらく考えてから口を開いた。「向こうに屋台店の通りがあるんだ。お菓子やおもちゃも売ってるし、値段も安い。人目も多いから悪さをする連中も少ないし、ちょうどいいかも」

「まかせるよ」ジャンは言った。彼はジュールに目を向けた。

「僕も、それでいい」ジュールは言って、当たり前のようにナディアの横に立ち、彼女の手を握って笑顔を見せた。「さあ、行こうか?」

 ナディアは顔を赤くしてうなずき、歩き出した。

「ずいぶん、積極的だな」アランは言って、ジャンに目を向けた。「お前はいいのか?」

「何が?」ジャンはきょとんとして聞いた。

「彼女だよ」アランは顎をしゃくってナディアを示した。「ジュールに取られるぞ」

「ああ」ジャンはうなずいた。「僕が彼女にちょっかいを出したら、ジュールに怒られそうな気がするんだ。二股を掛けるつもりかって」

「二股?」アランは首を傾げた。

「たぶん彼は、僕と君を恋人同士だと勘違いしてる」

「なぜ?」

「いつも一緒にいるから?」

 アランは渋い顔をした。「三フィートの約束は、そろそろ止めにしよう。このままでは、いつまでもお前に恋人ができない」

「お構いなく」ジャンは顔を赤くして言った。

 しばらく歩いて、彼らはナディアの言う屋台通りの口に到着した。そこは、これまで見たコズヴィルの、どんな場所よりもにぎやかで、とんでもなく人通りが多かった。ジャンは、その様子を見て慌てて言った。「僕たちで、小さい子の手を引こう。このままじゃ、みんなはぐれて迷子になる」

「そうだね」ナディアは同意した。「私とアランが男の子を連れて行くから、二人は女の子たちを頼める?」

「いいとも」ジュールは早速、両手で二人の女の子の手を取った。「両手に花だ。羨ましいだろ?」

 花と言われた女の子たちは、嬉しそうにきゃっきゃと笑った。ジャンも苦笑しながら、残った女の子の手を握った。小さな手が、ジャンの手をぎゅっと握り返してきた。

「通りを抜けた先に広場があるから、そこで落ち合おう」ナディアが言って、みんながうなずき、彼らは屋台を巡り歩いた。そして買い物が終わると、集合場所の広場のすみに寄り集まって、各々の戦利品を披露した。アランとナディアが連れていた男の子は、両手にあふれんばかりのお菓子とおもちゃを抱え、ジュールが連れていた女の子は、ずいぶんと高価そうな指輪と髪飾りをいくつも身に着けていた。聞けば、アランとナディアは屋台商と巧みに交渉して大いに値切り、ジュールは自分のおこづかいを惜しみなく与えて、女の子たちが欲しがるものを買ってあげたとのことだった。

「ごめんよ」ジャンは、大きな棒付き飴を一本きり持った、自分の連れの女の子に謝った。女の子は笑顔で首を振り、少し頬を染めてジャンの腕にしがみついた。その様子を見ていたジュールが、にやにや笑いながらジャンに歩み寄り、彼の耳元で囁いた。「ほら。これで、ちょっとかっこいいところを見せてやりなよ」

 ジュールは、ジャンの手に何かを忍ばせた。ジャンが手の中を見ると、それは赤いガラス玉がはまった指輪だった。ジャンは女の子の前にひざまずき、小さな手を取って彼女の指に指輪をはめた。それは、少しばかりゆるかったから、ジャンは気付かれ無いようにわずかに輪を潰して、女の子の指に大きさを合わせた。女の子は指輪のはまった手を顔の前にかざし、目を丸くしてしばらく眺めたあと、ジャンの首にしがみついて彼の頬にキスをした。それから彼女は他の子供たちの輪に加わり、みんなに新しい宝物を見せびらかし始めた。

「ありがとう、ジュール」ジャンは礼を言った。「でも、よかったの?」

「もちろん」ジュールは肩をすくめた。「君は、コズヴィルに来るのは初めてだって言ったから、買い物のコツもわからないだろうと思ってね。あらかじめ買っておいたのさ」

「友だち思いなんだね」ナディアはくすりと笑って言った。

 ジュールは何も言わず、にっと笑い返した。

「違うよね」と、ジャン。

 ジュールとナディアは、そろってきょとんとジャンを見つめた。

「本当は、ナディアにあげるつもりだったんでしょ?」

「私に?」ナディアは目を丸くした。

 ジュールは顔を赤くして、ジャンをじろりと睨んだ。「なんで、わかったの?」

「あの指輪、彼女にはちょっと大きかったからね。きっと、他の人にあげるつもりで買ったものだと気付いたんだ。それに、ここへ来るまでにナディアの手を握ってたから、指のサイズだってわかってただろうし?」

 ジュールは笑い出した。「君、千里眼の魔法でも使えるの?」

「まさか」ジャンは肩をすくめた。彼はナディアに目を向けた。「僕のへまのせいで、贈り物を受け取り損ねちゃったね。ごめんよ」

 ナディアは首を振った。彼女は頬を染めて、しばらくジュールを見つめてから、不意に抱きついて彼の頬にキスをした。

「君はすごいやつだね、ジュール」ジャンはくすりと笑って言った。「一個の指輪で、三人も喜ばせるんだから」

「四人だ」アランが訂正した。

「え?」

「指輪を買った本人が、一番喜んでいる」

「なるほど」顔を真っ赤にして棒立ちになったジュールを見て、ジャンは納得した。

 広場の向こう側がざわざわと騒がしくなった。目を向けると、数人の少年が肩をいからせて、こちらへ向かって歩いてくるのが見えた。全員、ジャンよりも二つか三つは年上で、先頭を歩くニキビだらけの少年は、大人とほとんど変わらない体格をしていた。

「ブリスだ」ナディアは目をすがめて、ニキビ面の少年を睨み付けた。

「誰なの?」ジャンは聞いた。

「ギャングだよ。私たちと同じ孤児だけど、真っ当に働く気なんて無くて、盗みや脅しで街の人たちから、お金をかすめ取って暮らしてる」ナディアは悲しげな目をジャンに向けた。「宿屋のご主人の態度、覚えてる? あいつらのせいで私たち孤児は、みんな同類だと思われてるんだ」ナディアは小さく首を振ってから、再びギャングたちへ目を向けた。「街道警備隊の詰所ができてからは、おとなしくしてたのに、どうして出て来たんだろう」

 ジャンは、アランに目を向けた。彼女はジャンに視線を返し、剣の柄を拳で叩いてうなずいた。マルコは、もめ事を避けろと言っていたが、今は逃げ出すわけにはいかない。彼らは幼子を五人も連れており、逃げ回るにはいささか不利だったからだ。

 ギャングの少年たちは、真っ直ぐジャンたちの側へやって来て、彼らをぐるりと取り囲んだ。ギャングたちは全員が剣を帯びており、そのせいか道行く大人たちも、面倒ごとはごめんだとばかりに、そっぽを向いて、そそくさと立ち去るか、遠巻きに見守るだけだった。

「よお、ナディア。ずいぶん、景気のよさそうな客を連れてるじゃないか」ブリスと呼ばれた少年は、にやにや笑いながら言った。

「あんたには関係ない」ナディアはみんなを庇うように、ブリスの前に立ちはだかった。ジャンは内心、舌打ちをした。彼としては手早く首領を片付けて、子分たちに降服をせまるつもりでいたのだ。しかし、ナディアはブリスの真正面に立っているので、アランが剣を振るえば彼女も巻き込む恐れがある。自分の客を守ろうとする態度は立派だが、これではうかつに手を出せない。

「関係ならあるさ」ブリスは鼻を鳴らした。「壁の中は、俺たちの縄張りなんだ。うろうろするんなら、それなりのものを出せよ」

 ナディアはポケットをまさぐり、カラスに貰った銀貨を二枚取り出すと、それをブリスに差し出した。

「こりゃあ、本物か?」ブリスは銀貨を顔の前にかざし、目を丸くした。

「それで全部だよ。お願いだから、もう行って」

「お前の客がもっと持ってるんじゃないか?」ブリスは銀貨を自分のポケットに納めて言った。「さっさと、そいつらのポケットを探れよ」

 ナディアは首を振った。「できないよ、そんなこと」

「あ?」ブリスはにやにや笑いを引っ込めた。「やれって言ってんだよ!」

 ブリスの怒鳴り声にナディアは首をすくめるが、それでも毅然と顔を上げ首を振った。

「それじゃあ、しようがねえな」ブリスは、ナディアの顎を乱暴に掴んで彼女を上向かせると、いやらしい笑みを浮かべて言った。「だったら、別なもので払ってもらおうか。どこか、静かな場所で?」

 ナディアはきょとんとした。

「これだから、おぼこはつまらねえんだ」ブリスは舌打ちし、彼の手下たちは下卑た笑い声を上げた。「街道警備隊が街の中をうろちょろしているせいで、こっちは何日も女を抱けてねえんだ。代わりに、お前のスカートの中身で我慢してやるって言ってんだよ」そしてブリスは、飢えたような目をジュールに向けた。「そっちのお嬢さんもまぜてやろうか? ナディアと違って、お前ならいい匂いがしそうだ」

「またか」ジュールはため息を落とした。

 ナディアは目を見開き、青ざめた。ようやく、ブリスが求めるものに気付いたのだ。ナディアは身をよじってギャングの手から逃れようとした。その拍子に彼女の肘がニキビ面の頬を打ち、怒ったブリスは少女の横っ面を拳で打ち据え、ナディアは地面へ横倒しになった。

 ジュールが歯をむき出し、しゅっと息を鳴らした。ブリスはナディアのそばにしゃがみ込んで髪を掴み、その頭を強引に引き起こした。ナディアは痛みに小さくうめいた。ブリスは歯を剥いて凄んだ。「なんだったら、ここでひん剥いてやってもいいんだぞ?」

 ジュールが怒りの形相で、ジャンにたずねた。「あいつら、皆殺しにしていいかな?」

 ジャンがぎょっとしていると、ジュールは彼が答えるのも待たず、右手の人さし指をブリスに向けた。次の瞬間、その指先から拳大の火球が飛び出し、それはブリスの脂ぎった黒髪をかすめ、彼の七フィートほど後ろの地面に当たり、弾けて雷のような炸裂音を響かせた。それを見て、ジュールは舌打ちした。「やっぱり、杖が無いと当てにくいや」

「魔法だ」手下の一人がつぶやいた。驚いて尻餅を突いたブリスの頭からは、白い煙がもくもくと立ち上っていた。ギャングたちは、全員がジュールに注目していた。ジャンはとっさにナディアへ駆け寄り、彼女を横抱きに抱え上げてから、ついでとばかりにブリスのニキビ面を蹴飛ばした。ブリスはぎゃっと叫び、もんどりを打って倒れた。ジャンは、怯えた様子でかたまっている子供たちのそばまで引き下がり、ナディアを降ろして彼女と子供たちを背に庇った。そして彼の前にアランとジュールが進み出て、肩を並べてギャングに立ちはだかった。

「くそっ!」ブリスは飛び起き、剣を引き抜いた。「なめたまねしやがって、無事で済むと思うなよ」

 手下たちも、リーダーにならい剣を抜くが、彼らは気もそぞろで、ちらちらとブリスの頭に目をやった。

「おい、ブリス」手下の一人が言った。「頭」

「あ?」ブリスはいら立たしげに手下をねめ付けた。

「燃えてる」

 わずかな間があって、自分に起きていることを悟ったブリスは剣を放りだし、意味のわからない言葉をわめきながら、炎上する頭を叩いて火を消そうとした。そこへ、アランが抜刀しながら悠然と歩み寄り、言った。「手伝ってやろう」

 ブリスがぎょっとする間もなく、アランは彼の頭に剣を振り下ろした。ただし、それは刃ではなく平たい腹だったから、ブリスは真っ二つになるかわりに白目を剥き、耳と鼻から血を流して地面にばったりと倒れ伏した。頭の炎は消えていた。

「さて」アランは手下たちをねめつけた。「死ぬか降参するか、選べ」

「選ばせるの?」ジュールが火球をもてあそびながら、不満げに言った。「問答無用で、みんな殺しちゃおうよ」

 手下たちは一斉に剣を放り出し、両手を挙げた。アランは小ばかにしたように鼻を鳴らしてから、意識のないブリスのそばにしゃがみ込み、彼のポケットをまさぐって、ナディアの銀貨を奪い返した。それから立ち上がって、遠巻きに様子を見ていた男に剣を突き付け言った。「そこの、お前」

 男はぎょっとして、自分の鼻を指さした。

「そう、お前だ」アランはうなずき、続いて命じた。「街道警備隊の詰所へ行って、人を呼んで来い。今すぐにだ!」

 男は全速力で走り去り、間もなく中尉と軍曹が駆けつけた。

「あなたたちは、この辺りの治安維持に、ずいぶんと貢献してますね」中尉はジャンとアランに笑い掛けた。「彼らには手を焼いていたんです。盗みに殺しに強――」彼は咳払いした。「ご婦人への狼藉など、大人のギャングよりもたちが悪い上に、神出鬼没でしたから」

「気にするな」アランは剣を鞘に収め、肩をすくめた。「市民の義務だ」

 ジャンは神妙に縄をもらうギャングたちを見つめてから、中尉に目を向けた。「彼らは、これからどうなるんですか?」

 中尉は、ふと考えてから口を開いた。「ベルンの駐屯地へ連れて行って、性根を叩き直してやります。四、五年もしごけば、真っ当な男になるでしょう。それでも見込みがなければ監獄送りです」

「どっちにしても、もうコズヴィルの人たちを困らせたりはしないんですね」

「それは保証します」中尉は請け合った。彼は軍曹に目を向けた。「連れて行け」

 二人の騎士はギャングたちを引っ立て、去って行った。

「すごい」頬を腫らしたナディアが、少し興奮した様子でつぶやいた。少女はころころと笑ってから、いきなりジャンに抱きついて彼の頬にキスをした。「あいつらをやっつけるなんて、信じられない!」

「ジャンばっかり、ずるいぞ」ジュールが抗議した。

 ナディアはまた笑い声をあげ、ジュールにしがみつき両方の頬に何度もキスをした。キスの雨が止むとジュールは、ふと首を傾げてから、やにわにナディアを横抱きにした。

「どうしたの?」ナディアは驚いてたずねた。

 ジュールは答えず、顔をしかめてしばらく踏ん張ってから、少女を降ろして大きく息を吐いた。彼はジャンを見て言った。「なんで、あんな風に彼女を抱いて、軽々走れるの?」

「野良仕事で鍛えてるからね」ジャンは腕を曲げて力こぶを作って見せた。彼は首を傾げてナディアを見た。「君は、もうちょっと食べた方がいいよ。カラスから、もう少しふんだくれないか試したらどうかな?」

 ナディアは、はっと息を飲んだ。「ブリスにお金を取られたままだった」

「心配ない。私が取り返した」アランはナディアに歩み寄り、拳を突き出した。ナディアが手の平を出すと、その上には銀貨の他に、いくつかの硬貨が落ちてきた。アランは首を傾げた。「増えたな?」

 ナディアは困った様子で笑みを浮かべ、みんなを見回した。

「もらっといて、いいんじゃないかな」と、ジャン。

「うん。それぐらいないと殴られ損だからね」ジュールも同意した。

 ナディアは手の上のコインに目を落とし、しばらく考えてからぱっと笑みを浮かべて言った。「ねえ、ひとつお願いがあるんだけど、いいかな?」

 ジャンたちは委細も聞かず、二つ返事で承諾した。そうして、みんなで再び屋台を巡り、たくさんの料理やお菓子を買い込むと、その足で厩舎へ向かった。ナディアは、やはり屋台で仕入れた帆布を、馬場の端にある芝生に広げ、ジャンたちの手も借りながら、その上にごちそうとお菓子を並べた。準備が終わると彼女は仲間たちを呼ばわり、集まった仲間たちをぐるりと見回してから、いたずらっぽい笑みを浮かべて言った。「今日は素晴らしい事があったよ」

 ナディアの仲間たちは、きょとんとしてリーダーの少女を見つめた。

「ここにいる友だちのおかげで、ブリスが捕まったんだ。もう、彼が帰ってくることはないから、びくびくしないで街を歩けるよ!」

 ナディアの仲間たちは互いに顔を見合わせてから、大きな歓声をあげて抱き合ったり飛び跳ねたりした。

「それと、今日はたくさん稼いだからお祝い。みんな、食べて」

 ナディアがごちそうを指し示すと、彼女の仲間たちはもう一度歓声を上げてから、それに飛び付いた。ナディアは笑顔でその様子を見つめてから、ジャンたちに目を向けた。「みんなも一緒に食べよう?」

「それは悪いよ」ジュールは遠慮して言った。「みんな、君の稼ぎで買ったものばかりだし」

 ジャンは友人の背中をぐいぐい押して無理やり座らせ、自分もその隣に腰を降ろした。彼はきょとんとするジュールに、にっと笑って見せた。「家族や友だちと食べる食事って、すごく美味しいんだ」

「そう言うこと」ナディアも腰を降ろし、たっぷりと蜜が塗られたパンケーキを、ジュールに差し出した。「お一つ、どうぞ」

 ジュールは目を丸くして、それから苦笑を浮かべ、少女の手から直接パンケーキにかぶりついた。彼は一度にやりと笑みを浮かべ、もぐもぐやりながら言った。「うん、おいしい」

 その様子を見ていたアランがジャンの隣りに座り、こんがり焦げ目の付いたソーセージを手に取ってジャンに差し出した。

「そう言うのはいいよ」ジャンが困って言うと、アランはにやりと笑って自分でソーセージを頬張った。彼女はソーセージを飲み下してから、ふと空を見上げて言った。「悪くないな」

「なにが?」ジャンは首を傾げた。

 アランは空を見つめたまま、くすりと笑って言った。「国だとか世界だとか世の中なんかじゃなく、目の前にいる友だちのために、何かをできたことが、だ」

 ジャンは、もう一度首を傾げた。「それって、普通のことだよね?」

 アランはまじまじと息子を見て言った。「普通だな」

 ジャンは頷き、アランが見ていた空を眺めた。ぽかりと晴れた初夏の空は真っ青で、西の端には背の高い白い雲が、まばゆく輝いていた。

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