2.街道警備隊
少女を外へ連れ出したものの、ジャンは彼女をどう扱うべきか測りかねていた。馬鹿でかい剣を背負って、異国風の青い膝丈のチュニックを着ていることを除けば、彼女はごく普通の少女だ。目を輝かせて露店を覗く様子などは、従妹のポーレットと何も変わらない。それでも彼女は、大の男を守るだけの技能を持った剣士なのだ。真偽はともかく、カラスはそう言っていた。親の庇護下にいる自分やポーレットと、自立している彼女を同じ子供と見るのは、どう考えても無理があるように思えた。かと言って、大人に対するのと同じような敬意を向けるのは、彼女を子供の世界から追い出そうとしているようで、それもまた気が引けるのだ。いくら考えても結論は出そうになくて、とりあえずジャンは普通に話しかけてみることにした。
「見物のついでで構わないんだけど、ちょっと手伝ってくれるかな?」
「もちろん」少女は、また例の面白がるような表情を浮かべてジャンを見る。「私は何をすればいい?」
ジャンはポケットから、伯母と従妹が書き上げた長いリストを引っ張り出した。
「それは?」少女は怪訝な顔でたずねた。
「僕の伯母さんと従妹が書いた、買ってきて欲しいお土産のリストさ」
「力作だな」少女は苦笑いを浮かべていった。「全部、買うつもりか?」
「まさか」ジャンは首を振った。「カラスさんにもらった銀貨を合わせても、僕のお小遣いじゃ、これの半分にだってチェックを入れられないよ。だからって、僕からの贈り物が一つもないと知ったら、彼女たちはきっとがっかりすると思うんだ。特に、ポーレットはね」
「ポーレット?」
「従妹だよ。僕より一つ年下で、もう十二歳になるんだけど、君よりずっと子供っぽいんだ。僕が彼女の思い通りにならないってだけで、思いやりがないと言ってへそを曲げる」
「女は、その方が自分を魅力的に見せられると思い込んでるんだ」少女は肩をすくめた。「それで?」
「そんなに難しい問題じゃないんだ。このリストの中で、二人が一番喜びそうな物を、一つ選んで買って帰ればいいってことだからね。もう目星もついてるから、君にはそれを一緒に探して欲しい」ジャンは少し考えてから付け加えた。「なるべく安い物を」
「わかった」少女は請け合った。それから彼女は、思い出したように右手を差し出した。「まだ、名乗ってなかったな。私はアランだ」
「もう知ってると思うけど、僕はジャンだよ」ジャンは握手を返した。「アランって、男の名前だよね?」
「先代からの名を継いだんだ」
商人や職人の家系ではよく聞く風習だが、剣士と言う職業については詳しく知らなかったから、ジャンはそう言うものかと納得するしかなかった。
「それで、このリストの中のどれを探せばいいんだ?」
ジャンが睨んだとおり、アランは買い物のコツと言う物をよく心得ていた。旅商人のカラスについて回ってるのだから、欲しい物を見つけ出す勘所や値引き交渉の手管などは、彼女の方がずっと上手だろうと考えて、ジャンは助力を頼んだのだ。おかげで、ジネットおばさんには珍しい香辛料の小瓶を一つ、ポーレットには王都の貴婦人の間で人気と名高い小説を一冊手に入れることが出来た。それも格安で。
「本当に、こんなものでいいのか?」アランは疑わしげに言った。
彼女が心配しているのは、ポーレットへのお土産だった。ジャンが読んだところでは、冒頭の数ページで主人公の姫君は、早々に愛する殿方に裏切られて悲嘆に暮れていた。中ほどを適当に開いて読んでも、彼女はまた同じ殿方から不誠実な扱いを受けていた。結末は読まなくてもわかった。おそらく姫君は愛する人に裏切られ続け、悲しみのあまり病か何かで死んでしまう。そうして不誠実な男は彼女を喪って初めて、真の愛を悟るのだ。
「前にポーレットが泣きながら読んでた本も、これと同じような内容だったから、気に入ってくれるんじゃないかな?」
「女ってやつは」アランは理解できないとばかりに首を振った。
「君だって女の子じゃないか」ジャンは指摘した。
「そうだな」アランは肩をすくめた。「ちょっと忘れてた」
それから二人は、あてもなく町をぶらついた。市を見るのが初めてのジャンは、何もかもが珍しく、アランはそんな彼にうんちくを披露し、感心するジャンを見て嬉しそうに笑っていた。そうして、二人は不意に声を掛けられた。
「そこの坊ちゃん、お嬢ちゃん。飴はいかがかね?」
見ると、色とりどりの棒付き飴が立ち並ぶ車輪付きの小さな台の向こうから、手招きする男の姿があった。全身緑づくめの派手な格好で、ダチョウの羽が付いた帽子を被っている。笑顔を模った愉快な仮面を被り、左手にはリュートを持っていて、飴屋にしては少々風変わりな格好だった。
「こう見えても私は吟遊詩人でね。飴を買ってくれたら、お礼に一節、面白いお話を聞かせてあげるよ」
興味を引かれたジャンは銅貨と引き換えに飴を二つ買い、一つをアランに渡した。
リュートを構えた吟遊詩人は小気味の良いリズムのメロディーを奏で、辺りを行く人たちにも声を掛けた。「飴はいかがかね。買ってくれたら、お礼に一節、とっておきのお話を聞かせるよ。そこの旦那、家で待ってる坊ちゃん嬢ちゃんのお土産に、お一つどうだい。おや、ご婦人。せっかくの綺麗な唇が、この陽気で乾いてしまってるじゃないか。私の飴を食べて、口を湿らせるといいよ」
愉快な口上に人々が集まって、飴はあっと言う間に売り切れた。吟遊詩人のリュートは、先ほどとは打って変わって憂いを含む静かな曲を奏で始めた。
「それは最も新しく、恐らくは、この世で最後の英雄の話にございます」
吟遊詩人が節を付けて語ると、人々はわっと歓声を上げ拍手を鳴り響かせた。
「剣王アランの物語だ!」ジャンは声を抑えて言ってから、少女に目を向けた。「君と同じ名前だね?」
少女は照れくさそうな笑みを返したが、何も言わなかった。
それは、吟遊詩人が語ったように、とても新しい英雄譚だった。ちょうどジャンが生まれた頃、世界は今のように平穏では無かった。人たちが魔物と呼ぶ、異形の生き物が突然姿を現し、人を、町を、国を脅かしていたのだ。ある国の王が世界の行く末を憂い、自ら玉座を退いて探索の旅に出た。彼こそが剣王アラン、最後の英雄だった。剣王は偉大な賢者をたずね、その原因を問う。賢者は、北方にある暗黒の地に住まう魔王が、すべての元凶であると告げ、剣王は魔王討伐を決意する。賢者は高潔な剣王の意志に心を打たれ、優秀な弟子である符術師の少女と共に、助力を申し出た。さらに剣王は、音もなく歩き、瞬く間もなく敵を殺し、巧妙に隠された罠を見抜く、不可思議な技を操る少年を仲間に加え、暗黒の地へと足を踏み入れる。襲い来る魔王の刺客たちを退け暗黒の地を行くアランは、ついに魔王の居城へ乗り込み、一騎打ちの末、魔王を討ち果たす。剣王は魔王に捕らわれていた美しい姫を伴侶に定め、仲間たちに別れを告げるといずこかへと姿を消し、世界には平穏が訪れた。
吟遊詩人が最後の一弦を弾き終えると、再び割れんばかりの拍手が起こった。彼の語り口は本当に見事で、ジャンなどは自分が剣王の隣りに立っているように思えたほどだ。しかし、アランは不満げな様子だった。
「色々と、嘘が混じっているな」アランは言った。
「はて。どんな理由でそうおっしゃるのかな、お嬢さん?」吟遊詩人が首を傾げる。
「剣王は妻子持ちで、側室すら持とうとしなかった。それが、どうしてどこの馬の骨とも知れない姫と駆け落ちなどする?」
「詳しいね、お嬢ちゃん」吟遊詩人はくすくす笑った。「もちろん、さっきの話は嘘だよ。それと言うのも、これはただの物語で、物語には劇的な結末が必要だからね。けれども、剣王について真実を語ろうとするなら、吟遊詩人の出番はなくなっちまうのさ。私どもが語ったり歌ったりできるのは、結局のところ終わりのあるお話なんでね」
「どう言う意味だ?」アランは探るように吟遊詩人を見た。
「剣王アランの冒険は、まだ終わってないってことだよ、お嬢ちゃん」
その時、悲鳴が上がった。声がした方を見れば、異形の生き物の姿があった。それは大人の背丈ほどもある尾を掲げた、巨大なサソリに見えた。しかし、その身体は脇腹から節のある足を数本生やした、全裸で仰向けの女性の形をしており、毒針のついた尾は彼女の股間から生えていた。女の逆さまの顔には、狂気の笑みがはり付いている。
誰かが「魔物だ!」と叫んだ。それを合図に、人たちが悲鳴を上げて一斉に走り出した。ジャンは、アランが人波に飲まれるのを見て慌てて手を伸ばすが、一足遅かった。誰かが、ジャンを突き飛ばした。地面に転がったジャンは、混乱する人たちに踏みつけられないよう、亀のように首をすくめて地面にうずくまった。辺りが静まって身を起こすと、ほんの数ヤード先にいる魔物と目が合った。
大丈夫。妙な格好をしてるけど、動物には違いないんだ。野良犬なんかと同じさ。ジャンは自分に言い聞かせ、魔物を刺激しないよう、ゆっくりと立ち上がった。そして、ポーレットのために買った分厚い本を、前触れもなく魔物目がけて投げつけた。背表紙の角が魔物の顔にめり込み、魔物は豚そっくりな悲鳴を上げた。ジャンは魔物がひるんだのを見るや、近くの路地へ飛び込んだ。
そこは狭く、道幅はジャンが両手を広げたほども無い。肩越しに振り返れば、魔物は突き出た脚が邪魔をして、入り口の辺りにつかえている。ジャンの狙い通りだった。この隙に距離を稼ぎ、安全な場所へ身を隠すと言うのが彼の作戦だ。路地を走り続けていると、遠くからいくつもの悲鳴と何かの壊れる音が聞こえてきた。町に現れた魔物は、ジャンを追い掛ける一匹だけではないようだ。彼はアランの身を案じるが、立派な剣を持っているのだから、きっと魔物相手でも後れを取ることはないと思うことにした。今は、自分の身を守るのが先だ。
いくつかの角を曲がったところで、彼は手近な家の扉を叩いた。返事は無かった。代わりに頭の上で、窓の閉じる音がした。ここの住人は、見知らぬ少年のために扉を開ける危険は冒したくないようだ。他の扉を試す前に、ジャンは再び走り出した。もちろん、このまま走り回っていては、いずれ追い付かれ捕まってしまうだろう。もっともましな手は、ジェルベの店にいる伯父と合流することだった。しかし、ここはどこだ?
辺りを見回して、彼は自分がまずい状況にあることに気が付いた。迷子になったこともそうだが、もっと切羽詰まった問題があった。道幅が広くなっていたのだ。邪魔な壁が無く、脚を思い切り伸ばせるようになれば、魔物はすぐに追いついてくるだろう。実際、振り返って見れば、それほど遠くない四つ辻の上に、魔物の尻尾の影法師が差し込んでくるのが見えた。ジャンは迷路のように入り組んだ路地を、闇雲に走り回った。
肩越しに背後を探りながら、いくつかの角を曲がったところで、ジャンは自分の迂闊さを呪った。何の変哲もない四つ辻と思われたそこは、一方が行き止まりになっていて、ジャンが飛び込んだのは、まさにその袋小路だった。引き返そうと振り返り、彼はぎょっとして足を止めた。魔物の尻尾の影法師が、またもや辻の上で踊っていたのだ。ジャンは壁にぴたりと張り付き息をひそめた。影の主が姿を現した。ジャンは、そのまま素通りしてくれと必死で願うが、それは叶わなかった。魔物はジャンの方を向き、けたけたと笑い声を上げた。
「ジャン!」
頭上から少女の声が響いた。見上げると、建物の屋根の上に剣を構えるアランの姿があった。少女は十二フィートほどの高さから苦も無く飛び降り、魔物の前に立ちはだかった。
魔物は邪魔者を苛立たしげに睨みつけ、巨大な鋏を振りかざして襲い掛かってきた。しかし、少女が剣を振るうと、恐ろしい鋏は二本とも地面に転がり、魔物の頭は真っ二つになった。ジャンの目には、ただの一振りに見えたが、どうやらアランはすさまじい速さで、三度も斬りつけていたようだ。
魔物は真っ黒な体液をこぼしながら悲鳴を上げ、毒針の付いた尻尾を滅茶苦茶に振り回した。アランは水平に剣を薙いで尻尾を切り落とすと、片足で魔物を踏み付け、その胸の真ん中あたりを刺し貫いた。魔物は、わずかに痙攣してから完全に動かなくなった。
「いい逃げっぷりだった」アランは振り返り、ジャンに笑顔を向けた。
「ありがとう、助かったよ」ジャンは、心底ほっとして言った。命が助かったのはもちろんだが、少女の無事な姿を見られたことが何より大きかった。しかし、彼には一つ、彼女に言うべき事があった。「でも、そんな短いスカートで、高いところに登るべきじゃないよ。少なくとも下着は穿いた方がいい。なんと言っても、君は女の子なんだからね」
「小言は後にしてくれ」アランは渋面を作った。「急いでジェルベの店へ戻ろう。お前の伯父さんの馬車で、町を脱出するんだ」
「でも、道が分からないよ?」
「私が知っている。ついてこい」
少女は駆け出し、ジャンは彼女を追い掛けた。
「さっきは、何で屋根の上にいたの?」
「屋根伝いにお前を探していた」少女は事も無げに言った。「迷路は、真っ直ぐ突っ切った方が早く抜けられるだろう?」
しばらく走ったところで、ジャンは訝しく思い始めた。アランは、街の真ん中を南北に突っ切る大通りを、故意に避けているようなのだ。ジェルベの店は大通り沿いにあるのだから、曲がりくねった路地を駆けるよりも、大通りを行く方がずっと早く行けるはずだった。ジャンが自分の考えを主張すると、少女は首を振った。
「大通りは走りにくいんだ」アランは言った。「足元には死体が転がってるし、魔物がうようよしている」
一〇分ほど走って、二人は東西に伸びる大きな道に出た。魔物の姿は無いが、奇妙にねじれた死体がいくつも転がっている。その惨状にジャンは息を飲むが、アランは全く気にしていない様子だった。彼女は西に向かって駆け出し、ジャンはその先の四つ辻に見慣れた馬車が駐まっていることに気付いた。ジェルベが、その馬車の長柄に馬を繋ごうと奮闘し、彼を守ろうと三匹の魔物に向かって剣を振るう、カラスとマルコの姿があった。ジャンは、伯父がその体形に似つかわしくない華麗な剣捌きで、いっぺんに二匹の魔物を相手にする姿に驚いた。
アランが足を早めた。とてもジャンが追いつける速度ではなく、彼はあっと言う間に置いて行かれた。少女は戦場に飛び込むと、マルコが相手にしていた魔物のうち一匹をあっさり仕留め、マルコも残りの一匹を斬り伏せた。
カラスは不思議な体術でサソリの攻撃を躱し、毒針が付いた尻尾の先を切り落としてから魔物に飛び乗ると、その心臓を刺し貫いた。
ジャンがたどり着くと、戦いはすっかり終わっていた。
「ジャン、無事だったか」ジェルベが笑顔を向けてきた。そして、馬がしっかり固定された事を確かめてから、カラスに呼びかけた。「終わったぞ!」
カラスは御者台に飛び乗り、それからぎょっとした様子で大通りの北側を指さした。「おい、また来るぞ」
ジャンが目を向けると、ざっと数えただけで四、五匹の魔物がこちらへ迫ってくるのが見えた。
マルコはぶつぶつと悪態を吐いて、ジャンとアランを小脇に抱えると、そのまま荷台に飛び乗った。
「ジェルベさん、俺たちはどうすれば!」店の二階の窓から、店員が顔を出して言った。
「バリケードは作ったな?」ジェルベは聞いた。
「はい。一階の扉の前に金庫を置きました」店員は泣きそうな声で言った。「一番、でかいやつです」
「いいぞ。日暮れ前には、街道警備隊が警邏にやって来る。それまで持ちこたえるんだ」ジェルベは店員を励ました。「私は彼らとトレボーへ向かう。一人も死なすんじゃないぞ!」
店員は頷き、首を引っ込めて窓を閉めた。
「ジェルベ、早く乗れ!」カラスが叫んだ。魔物の群れは、すぐそこまで来ていた。彼はジェルベが御者台に飛び乗るやいなや手綱を振って馬車を走らせた。
「このまま真っ直ぐ行って、東から町を出よう。ぐるっと回って街道へ戻り、トレボーへ向かうんだ」ジェルベが言った。
「カラス、もっとスピードを出せ。追い付かれるぞ」アランが言った。魔物は荷台のすぐ後ろにまで迫っていた。
「無理だ、キャベツが重い」
ジャンはとっさにキャベツを取って、力一杯、魔物に投げつけた。顔面に緑の玉を受けた魔物は大きく進路をはずれ、すぐ脇を走っていた魔物に接触し、二匹は絡み合うように転がって追跡レースから脱落した。
「うまい手だ」マルコが褒め、甥に倣ってキャベツを投げ始めた。
アランも加わり三人は魔物を攻撃し続け、荷台のキャベツの数は半分ほどになった。
「もう、じゅうぶんだ」カラスが言った。「これ以上、売り物を減らさないでくれ」
馬車はスピードを上げ、魔物の群れを大きく引き離した。しかし、いよいよ町の出口が見えたところでカラスが悪態を吐き、馬車が大きく揺れた。ジェルベが悲鳴を上げ、御者台から投げ出された。馬車が止まり、ジャンが何事かと見れば、行き先に一匹の魔物が立ち塞がっていた。投げ出されたジェルベは仰向け倒れ、意識を失っている様子だった。
「ジェルベ!」マルコは叫んだ。
仲買人を助けようと、アランが剣を抜いて荷台を飛び降りるが、手遅れだった。魔物はジェルベを鋏で持ち上げ、その身体に深々と毒針を突き立てた。ジェルベはかっと目を見開き、音を立てて大量の血を吐くと、しばらく喉を搔きむしってから動かなくなった。
アランは猛然と魔物に襲い掛かった。魔物はジェルベを投げ捨て応戦するが、彼女の敵では無かった。アランは魔物の尻尾を節ごとに細切れにしてから、しまいには胴体を真っ二つにした。
マルコは荷台を降り、よろよろと地べたに横たわる友人に歩み寄った。その土気色の顔に震える手で触れ、しばらく瞑目した後、友人の見開いた瞼を閉じてやってから立ち上がった。「行こう」彼はアランに言った。
アランは黙って頷き、マルコと肩を並べて荷台に戻った。
二人が乗り込むと、カラスは慌ただしく馬車を発車した。先ほど引き離したはずの魔物は、ごたごたの隙に距離を詰め、すぐそこまで迫っていた。
「ジェルベさんは?」ジャンは聞かずにはいられなかった。
「死んだ」マルコは短く言うと、袖口で目を拭った。
魔物を引き連れながら馬車は町を出て、その外縁を巡る道に乗り、街道を目指した。魔物の数は、いつの間にか最初に見たときの三倍以上に膨れ上がっていた。
「町中の魔物が追いかけてきたのかな?」ジャンは誰ともなくたずねた。
「そうあって欲しいな」マルコが言った。「だとすれば、もうディボーの連中が殺されずにすむ」
ジャンは、黙って頷いた。
馬車は走り続けた。距離は開きも縮みもせず、魔物たちもあきらめる様子はない。その執拗な追跡を見て、ジャンは魔物たちが単に人間を襲おうとしているのではなく、ジャンたち個人を狙っているのではないかと疑い始めた。
剣呑な追いかけっこに変化が訪れたのは、街道に入って間もなくの事だった。一行の行く手には丘があり、街道は次第に傾斜がきつくなってきた。馬車のスピードはぐんと落ちて、一方で魔物たちの足は緩まなかった。
「もっとキャベツを捨てる?」ジャンは御者台のカラスに聞いた。
「それで、どうにかなるとも思えないがね」カラスは疑わしげに言った。
その時、ジャンは丘の頂上で何かが夕日を反射するのを見た。「カラスさん、あれ!」
「いいぞ」カラスは叫んだ。「街道警備隊だ!」
丘のてっぺんに、鋼を全身にまとった騎士が十騎ほど姿を現した。騎士たちは丘を一気に下り、馬車の脇を猛スピードで駆け抜けると、槍を低く構えて真っ直ぐ魔物の群れに突っ込んで行った。けたたましい金属の音が夕暮れの街道に響き渡り、騎士たちが駆け抜けた後は粉々になった魔物の死体が残されていた。
馬車はいつの間にか止まっていた。ジャンがあっけにとられて、騎士の一団を眺めていると、一人の騎士が号令を発しながら他の騎士を整列させてから、隊列を離れて馬車に馬を寄せてきた。
「お怪我はありませんか、商人殿?」騎士は言った。
「助かりましたよ、隊長さん」カラスは心底ほっとした様子で言った。「まったく、いいタイミングで来てくれた」
「いつもの警邏ですよ。しかし、なんだって魔物なんかに追われていたんですか?」
「おい」荷台の上からマルコが言った。「ひょっとして、クレマンか?」
クレマンと呼ばれた騎士は、やかましい音を立てて瞼甲を撥ねあげた。そこには青い目を丸くする、若い男の顔がのぞいていた。彼は言った。「ヴェルネサン伯爵?」
ジャンはぎょっとして、伯父の横顔を見た。伯爵だって?
「盾の紋章を見てもしやと思ったが、やっぱりそうか」マルコは荷台を飛び降り笑顔を浮かべた。「クレマン卿」彼は少し畏まったお辞儀をした。
クレマンも馬を降り、お辞儀を返した。「伯爵」
「兄上は元気かね?」マルコはたずねた。
「はい」クレマンは笑顔で頷いた。「結婚して息子が生まれてからは、ちょっと老け込みましたが」
「痛ましい話だ」マルコは天を仰いだ。「男は家庭を持つと、太るか老けるかのどっちかなんだ。私は前者だったがね」彼は丸いおなかを、ぽんと叩いた。
「兄は、その両方です」クレマンは言って、にっこりほほ笑んだ。
「ちょっといいかな、マルコおじさん」カラスは御者台を降りて言った。「紹介くらい、してくれるんだろうな?」
「彼はサンポワーヌ伯爵の弟で、私は彼の兄と友だちなんだ」マルコはクレマンに向き直った。「こっちの商人はカラス。私の十年来の友人だ」
「閣下」カラスはクレマンにお辞儀した。
「よしてください、カラス」騎士は笑って言った。「私は立派な称号など持っていないし、今はただの兵士です。堅苦しい肩書がお好みなら、少尉とでも呼んでください。でも、私はただのクレマンと呼ばれる方が好みです」クレマンは笑顔を消した。「それで、何があったんですか?」
「ディボーにいきなり魔物の群れが現れて、何もかもめちゃくちゃにしたんだ」カラスは説明した。「それで何匹か殺したら、血相を変えて追いかけてきた」
「殺した?」クレマンは眉をひそめて一同を眺めた。「魔物を?」
「見た目に騙されるなよ、クレマン」カラスはにやりと笑って言った。「そこの剣を背負った女の子は由緒ある剣士の家系で、何でも真っ二つにする悪癖を持っているし、我らのマルコおじさんは今でこそ太っちょの農夫だが、昔覚えた剣技を忘れちゃいない。彼の甥っ子のジャンは頭のいい少年で、その機転が我々を救ってくれたこともあった。かく言う俺も、自分の身を守る程度には剣の覚えがある」
クレマンは一同を見回し、それからアランを向いて礼儀正しく言った。「お名前をうかがってもよろしいですか、剣士殿?」
「アランだ」少女は答え、すぐに付け加えた。「先代から継いだ名を名乗らせてもらっている」
「かの剣王アランと同じ名ですね」
「ああ、みんなそう言う」アランは肩をすくめた。
「クレマン、ひとつ頼みがある」マルコが言った。
「なんなりと」クレマンは笑顔で言った。「ただし、心臓を差し出せと仰るなら、三日ほど猶予をください。代わりの心臓を探さないといけませんから」
「心臓なら自分の分で間に合ってる。それより、ディボーに寄った後で、私の村の様子を見てきて欲しい。街道を少し北へ行って、西へ向かう道を半日も進めば見付かるはずだ。私事で悪いんだが、残してきた妻と娘が心配でね」
ジャンはすっかり失念していたが、魔物の出現はディボーに限ったことで無いかも知れないのだ。彼はポーレットとジネットおばさんの顔を思い浮かべ、心配で胸が張り裂けそうになった。しかし、伯父はなぜ自分で家族の無事を確かめに行こうとしないのだろう。街道警備隊の騎士に村を守ってもらうというアイディアは悪くないが、ジャンは今一つ腑に落ちなかった。
「お任せください」クレマンは請け合った。「しかし、ディボーを空っぽにするわけには行きませんから、トレボーへ増援を頼まなくては」
「それは我々が引き受けよう。足は君らの方がずっと早いかも知れないが、そのために一騎とは言え戦力を割くのは惜しい。私の考えは部隊を二つに分けて、それぞれディボーと村の防衛にあたらせることなんだ。村へ回す部隊は二、三騎で構わない。あそこは防塁と柵に守られてるから、さっき見た程度の魔物なら、それで数日は持ちこたえられるだろう」
マルコの作戦を聞いて、ジャンはようやく納得した。彼の伯父は最善の策を採ったのだ。二兎を追って一兎だけ得たのでは最善と言えないことを、ジャンは知っていた。この場合、二兎とは村とディボーの人たちの安全であり、それはどちらか一方を犠牲にして良いものではない。両方を得ようとするなら、動かせる駒を適切に配置しなければならなかった。ジャンを含めた荷馬車の一行も、その駒の一つだ。彼らであれば、重要な戦力である騎士を伝令に使うよりも、ずっと低いコストで目的を達成できる。
「わかりました」騎士は頷いた。「村へは私と、もう一人連れて行きましょう。ディボーには七騎を残し、一騎は北へ向かわせベルンの駐屯地にこの件を報告させます。ウルヴァン、ちょっと来てくれ」彼は他の騎士を呼ばわった。
「なんですか、少尉?」がちゃがちゃと鎧を鳴らしながら、騎士が騎乗したままやって来た。
クレマンは騎士に作戦を説明した。
「わかりました。少尉はシモンを連れて行ってください。後の編成は、こっちでやっておきます」
「ああ、任せる。トレボーからの援軍が来たら、ディボーの連中をこっちへ寄越してくれ。伯爵の村に宿営地を置いて、そこを拠点に近隣の村へも警戒を広げよう。さあ、始めてくれ」
ウルヴァンは敬礼してから、たむろする他の騎士たちに向かって、きびきびと命令を下し始めた。
クレマンはマルコに向き直った。「丘の向こうに、我々の従者がいるはずです。私の従者なら、あなたの顔も覚えているでしょうから、必要な物があれば彼に申し付けてください」
「ありがとう、クレマン」マルコは右手を差し出した。「何から何まで、すまないな」
「どうってことはありませんよ」クレマンは握手を返した。「では、お気をつけて」
「そっちもな」
クレマンは頷き、鎧の重みを感じさせない動きで騎乗すると、一行に背を向けて自分の部隊へ向かった。
「俺たちも行こうか?」カラスは言って、御者台へ戻った。
マルコが荷台へ戻ると、馬車は再び動き出した。
「聞きたいことはあるか?」マルコは甥を見て言った。
ジャンは頷いた。「村は大丈夫かな?」
「我々の村はディボーよりも備えはしっかりしている。それに、魔王が倒される前の、危険な時代を乗り越えてきた連中がいっぱいいるんだ。クレマンが行くまで持ちこたえてくれるだろう」そう言ってから、マルコは苦笑いを浮かべた。「私が貴族だったことについては、特に興味はないんだな?」
「気にはなるよ」ジャンは肩をすくめた。「でも、今まで黙ってたってことは、何か言えない理由があるんだよね?」
「まあ、そうだな」マルコは認めた。
「ジネットおばさんや、ポーレットは知ってるの?」
「ジネットは、ああ見えて公爵家の令嬢なんだ。ポーレットは何も知らない」
「おばさんは奇麗な人だから、そう言われて納得できるんだけど」ジャンは、伯父の丸いおなかに目をやった。「おじさんが伯爵だなんて、まだちょっと信じられないや」
「それは、ちょっとひどくないか?」マルコは傷ついた顔をした。
「もう一ついいかな?」
「なんだ?」
しかし、ジャンは質問を言いよどんだ。彼は、ある可能性に思い至っていた。それは、あまりにも恐ろしい可能性で、本当は口になどしたくはなかったのだ。その一方で彼の恐ろしい考えを誰かに聞いてもらい、そんなことは無いと笑い飛ばして欲しかった。
「魔物が現れたってことは、魔王が復活したってこと?」
甥の質問にマルコは眉をひそめ、考え込んだ。ずいぶん経ってから、彼はようやく口を開いた。「分らない。だが、我々はそう考えて行動すべきだ」
「僕たちは、何をすればいいの?」ジャンは不安を覚えながら、たずねた。
「トレボーへ行く」マルコはきっぱりと答えた。「まずは目先の仕事を片付けよう。一つずつ」
ジャンは頷き、太陽が最後の輝きを振り絞る西の山稜に目を向けた。山の頂でオレンジ色の日は空豆のようになり、そして唐突に消えた。
('17/3/7)誤字修正




