4.魔法使いの少年
一行がいよいよ出発を決めたのは、夕刻も間近になってからだった。村人たちは、もう一泊をすすめたが、カトリーヌは如才なく、しかし断固として断った。
みんなが馬上の人となる中、マルコとカラスはジネットに捕まっていた。彼女は、これから遠い旅路につく夫と、かつての養い子の身を、案じている様子だった。そして、御者台に上ろうとするジャンを引き止めたのは、ポーレットだった。
「お兄ちゃんなら大丈夫だと思うけど、馬鹿なことはしないでね」ジャンの従妹は心配そうに言った。
「馬鹿なことって?」
「考えなしって意味よ」
「シャルル陛下には、もうちょっと成り行き任せにしろって言われたんだけど?」
「そんなの、聞いちゃ駄目よ」ポーレットはきっぱりと言った。「王様なんて、大抵が間違ったことしか言わないんだから」彼女は、ちょっとだけ考えてから付け加えた。「お話の王様だけど」
「本物の王様は多分、もうちょっと賢いと思うよ」ジャンは、ちらりとアランを見てから言った。
「それでも!」ポーレットは足を踏みならした。「怪我なんかしたら、承知しないんだからね」
「気をつけるよ」ジャンは、ポーレットの頭をくしやくしゃと撫でた。ポーレットは髪が乱れると文句を言ったが、その口元には笑みが浮かんでいた。
間もなく、マルコとジネットが並んでやって来て、マルコは娘を、そしてジネットは甥をそれぞれ抱きしめた。
「気を付けてね」ジネットは言って、ジャンの頬にキスをした。
「うん」ジャンは笑顔で応え、キスを返した。「でも、心配は要らないよ。おじさんも一緒なんだ」
ジネットはうなずき、ジャンを解放した。ジャンは御者台によじ上り、少し遅れてマルコも乗り込んだ。馬に乗ったカラスが馬車に並び、ジネットとポーレットに目を向けた。ポーレットが小さく手を振り、カラスは片目を閉じて見せた。
「そろそろ行こう」マルコは言って、旅の仲間が頷くのを見てから手綱を揺らし、馬車を進めた。村人たちの声を背に、一行は村を出た。彼らは、村から伸びる森の中の細道を進み、街道に突き当たったところで、足を止めた。
「ここで、みなさんとはお別れですね」と、クレマン。
「村が世話になった」マルコが言った。
「魔物を何匹か追い払っただけですよ」クレマンは兜の下で、にっこりと微笑んだ。「その上、奥方には美味い料理を毎日ごちそうになりましたし、ポーレット嬢と話すのは実に愉快でした。世話になったのは、こっちの方です」彼はふと考えてからつぶやいた。「警邏任務にかこつけて、たまに訪れるのも悪くないかも知れませんね」
「そうだな。村の連中も喜ぶだろう」マルコは笑って言った。
クレマンはうなずいた。「その時は、酒に強い連中で部隊を編成します」彼は、頭上を覆う枝葉から、暮れ始めた空を透かし見て、ふと眉を寄せた。「急いだ方がよさそうですね。すっかり暗くなる前に、ディボーへたどり着かないと」
ジャンは思い出して、御者台から荷台へ飛び移り、包みを持ってクレマンに駆け寄った。「おばさんのお弁当」
ジャンが包みを差し出すと、クレマンは「おお」と言って、それを受け取り、鞍の前に置いた。「これで、しばらくは彼女の料理ともお別れですね。大事に食べなければ」
「なあ、少尉。駐屯地へ戻ったら、きっと何ポンド増えたか、みんなに聞かれると思うぜ?」カラスがにやにやしながら言った。
「少しばかり、トレーニングを増やします」クレマンは渋い顔をして、鎧の上からおなかの辺りをさすった。彼は居ずまいを正し、がちゃがちゃと鎧を鳴らしてお辞儀した。「では、参ります」
マルコはうなずいた。「気を付けてな」
「みなさんも」クレマンはうなずき返し、瞼甲を下げると、ディボーを目指して走り去った。その背をしばらく見送り、マルコは手綱を揺らして馬車を北へ向けた。
一行は、暗くなっても進み続け、森が切れたところでようやく馬を降り、野営の準備を始めた。カラスとカトリーヌは周辺の偵察へ向かい、ジローは小枝を集めて火を起こした。マルコとアベルは薪を拾い集め、ジャンとアランは寝床を用意する。しばらく経って戻ってきたカラスとカトリーヌが、周辺に危険な獣や、追いはぎの痕跡がないことを告げると、みんなはジネットのお弁当を広げて夕食に取り掛かった。
「ベルンまでは、どのくらいなの?」ジャンは言って、分厚いハムを挟んだパンにかぶり付いた。
「ざっと十日だな」と、カラス。「途中、コズヴィルの町で一泊して、そこで食料なんかを買い足すことになるだろう」
「それ、どんな町なの?」
「よくある宿場町だ。西にレーヌ、北にベルン、南にトレボーへ続く主要な街道の分岐点になっているせいで、なかなかに賑わっている」
「ただ、それだけに流れ者も多くて、物騒なところなんだ」と、マルコ。「町へ着いたら、絶対に一人になるんじゃないぞ。たとえ宿の中でもな」
ジャンは神妙にうなずいた。
「と言っても、まだ五日ほど掛かるんだけどね」ジローが言った。「つまり、しばらくは野宿続きってことさ」
「三年前、私がこの街道を通ったときは、宿を一軒、途中で見かけましたが?」アベルが首を傾げた。
「黄熊亭だろ?」ジローはうなずいた。「私が先月、通り掛かったときには、もう潰れてたよ」
「なかなか繁盛していたのに?」アベルは眉をひそめた。
「ここ数年で、南北の往来が、めっきり少なくなったからよ」と、カトリーヌ。「北部は魔界に近いせいで、魔物の被害が大きかったでしょ。魔王が倒されてすぐ後は、南から食料や建材なんかを運ぶ流れがあったけど、北部の貴族の資金が底をつくと、それもなくなってしまったってわけ」
「私の領地が、まさにそうでした」アベルはうなずいた。「爵位を形に借金をして、どうにか村を立て直しましたが、カルヴィンが肩代わりをしてくれなければ、私や家族は今頃、どうなっていたことか」
カトリーヌはうなずいた。「シャルルが、イゼルのとの同盟にこだわった理由は、そのためなの。イゼルが同盟の見返りに売り渡してくれる銀鉱山は、銀だけでなく働き口も生み出してくれるし、その恩恵は地理的にイゼルに近い北部の人たちが、一番多く受けることになるわ。そうなれば彼らの故郷の税収が増えて、また復興の動きも戻るって寸法ね。それに加えて、イゼルとの交易が始まれば、国内の物資やお金の流れも盛んになるでしょ?」カトリーヌはアランに目を向けた。「あなたは、イゼルとの同盟を重要ではないって言ったけど、シャルルは違う考えなの。もちろん、下手をすれば、大きな損失を被る可能性があるって点では、同じ意見だけど」
アランはうなずいた。「やはり私よりも、彼の方が王に向いていると思う」
「私が譲位に反対したのは、あんたとシャルルの資質を見比べたからじゃない。王が簡単にすげ替えられると、みんなに思われるのを避けたかったからだ」マルコは言って、口をへの字に曲げた。「そんなことを許していたら、我こそが王に相応しいと手を上げる輩が、毎年何人も現れることになる」
「もしそうなったら、どうやって王様を決めるの?」ジャンは、ふと興味を覚えてたずねた。
「さあて」ジローは首を傾げた。「全国民を挙げて、投票でもするんじゃないかね?」
「多数決なんて、国の行く末を決める方法にしては、ずいぶんお粗末じゃないか」マルコは疑わしげに言った。
「そうね」カトリーヌが同意した。「それで王に選ばれるのは、きっとメーン公爵のみたいに、耳に聞こえのいいことばかりを言うお調子者だけだわ」
「まあ、あくまでもしもの話さ。幸い、シャルル陛下は賢明な王様だし、新しい政治体制について検討するのは、もっと先の時代の人たちに任せるとしようや」ジローは、炎に薪を放り込み、それで話題を打ち切った。
翌朝、いざ出発と言う段になって、アランはジャンの乗馬訓練を始めるべきだと主張した。そんなわけで、一行が連れている馬の中から、一番大人しくて賢い牝馬が選ばれ、ジャンは苦心惨憺して彼女の鞍へよじ登ることになった。アランは徒歩でジャンの馬を引きながら、息子にあれこれと講義するが、当のジャンは、とにもかくにも落っこちないようにするので必死だった。どうにか馬を、一人で真っ直ぐ歩かせられるようになったのは、訓練を始めてから四日目のことだった。ここへ来て彼は、乗馬に関しては自分よりも、馬の方がずっと先輩であることに気付いた。彼は馬を操ろうと言う考えをあきらめ、彼女の邪魔をしないことに専念した。何かしたいことがあれば、ていねいにお願いすればよいのだ。例えば、先頭を行くカラスの隣に並びたいと伝えれば、彼女はちゃんとその通りにしてくれた。
「だいぶ上達したな」カラスはにやりと笑って、ジャンを褒めた。「しかし、何かするのに、いちいち馬に話し掛けるのは、どうかと思うぜ?」
「でも、これが一番、うまく行くんだ」ジャンは肩をすくめて言った。「明日にはコズヴィルだね」
「そうだな」カラスはうなずき、眉間に微かなしわを浮かべた。
「何か心配ごと?」
「ここまでユーゴの邪魔が、まったく無かったのが気になってな」
「きっと、シャルル陛下の身代わり作戦に騙されて、僕がここにいるって知らないんだ」ジャンは決めつけた。
「思考停止なんて、お前にしては珍しいじゃないか?」カラスは苦笑を浮かべた。
ジャンは渋い顔をしてうなずいた。「彼って、いつも僕の考えの外にいるみたいで、どうにも苦手なんだ。そもそも子供の僕が、プロの密偵を出し抜こうなんて無茶なんだよ」
「がんばってる方だと思うぜ?」
「そうかな?」ジャンは疑わしげに言ってから、ふと気付いた。「カラスは、陛下の作戦を信用してないんだね?」
「まあな」カラスは肩をすくめた。「多少の目くらましにはなるだろうが、いつまでも連中を騙しおおせるとも思えない。俺たちが北を目指してのんびり旅をしていることも、すぐに割れるだろう」
「そうなると」ジャンは考え考え言った。「ユーゴは僕たちの動きに気付いていないか、気付いていても手が出せない状態か、さもなきゃ手を出すタイミングを計ってるってことになるよね」
カラスはうなずいた。「俺は、一番最後だと考えている」
「どうだろう」ジャンは首を傾げた。「ユーゴの任務って、僕を捕まえることだけなのかな?」
「何が言いたい?」カラスは、いぶかしげにたずねた。
「ユーゴが他に仕事を抱えてるとしたら、二番目の線もあるってことさ。彼は密偵として、すごく優秀なんでしょ。だったら、僕たちに掛かりっきりってことは、ないと思うんだ」
カラスはうなずいた。「確かに、あれほど便利な駒を、お前を捕まえるためだけに使うのは、ちょいと贅沢すぎる気がする」
「ユーゴや公爵が、僕たちをどれだけ手強いと思ってるかにもよるけどね」ジャンは肩をすくめた。「ただ、彼は前公爵の暗殺をしてるわけだし、それは僕を捕まえることと関係のない仕事だった。つまり、彼が抱えてる仕事の中で、僕を捕まえることは最優先ってわけじゃないのは確かなんだ」
「問題はやつが今、どんな仕事を抱えているかだ」
「さすがに、そこまではわかんないよ」ジャンは肩をすくめた。「でも、彼自身が動けないんだとしたら、代わりに他の誰かを寄越すだろうし、いずれにしたって公爵の手下に襲われることになるのは変わらないか」
「やつらが仕掛けるとしたら、どのあたりだと思う?」カラスはたずねた。
ジャンは、しばらく考えてから口を開いた。「ロゼ伯爵の領地かな?」
「俺も同じ考えだ」カラスはうなずいた。「捕まえたお前を、クセに引き渡す段取りがつくまで、安全に閉じ込めておけるとしたら、伯爵の城の地下牢くらいなもんだろう。それに、領地内で起こった事なら秘密にしやすいから、お前が囚われたことをシャルルに知られる心配もない」
「それだけじゃないよ」ジャンは眉間に皺を寄せて言った。「僕らを捕まえるのに、軍隊を使える」
「まさか」カラスはぎょっとした。
「クセは、僕を生け捕りにしたがってるんだ。公爵が彼女の望みを聞くつもりでいるなら、うっかり僕を殺してしまうような小競り合いは、避けようって考えるはずだよね。そして僕たちに、全滅覚悟で軍隊と戦うつもりがないなら、数十人の部隊で取り囲むのが一番確実だと思う」ジャンは自分で言っておきながら、首をひねった。「数十人で足りるかな。父さんやおじさんに加えて、黒騎士まで一緒なのに?」彼はちらりと後ろを向いて、アベルを見た。白髪の騎士は、馬車と並んで馬を進めながらマルコと雑談を交わしていた。
「お前が心配することじゃないだろう」カラスは笑って言った。「まあ、アランは別にしても、今の彼らは護身用のちっぽけな剣しか持っていないし、鎧だって着ていないんだ。訓練された兵士を相手に、どこまで戦えるかなんて、試そうと思わない方がいい。その時は武器を捨てて、おとなしく捕まることにしよう」
ジャンはうなずいた。もし、そうなったとしても、きっとカラスならなんとかしてくれるだろう。
それから二人は、黙りこくって街道を歩き続けた。しばらく進んだところで行き先に、丘を越えてこちらへ向かって来る幌馬車が見えた。先頭と両脇を固めるように、護衛と思しい騎馬が三騎ほどついている。
「村を出てから、初めて他の旅人とすれ違うね?」ジャンは言った。
「そうだな」カラスは、目をすがめて言った。「しかし、あいつらは、真っ当な商売をしている連中には見えないぜ」
「どうして?」
「護衛たちが着けている鎧と武器が見えるか?」
ジャンは目を凝らして言われたものを見た。三人が着けている鎧は胸当てと、上腕を被う手甲、それに脛当だけで、革に金属板を張りつけた簡素なものだった。いずれも部品ごとにちぐはぐで、なんとなく寄せ集めた感がある。腰に揺れている剣は、三人それぞれが違うものを持っていた。
「なんだか、みすぼらしいね?」
カラスはうなずいた。「雇われの護衛なら、もうちょっと見栄えを気にするものなんだ。つまり、あいつらは、ただのゴロツキってわけさ」
ジャンはカラスに目を向け、どうすべきかを無言のうちにたずねた。
「会釈だけして、あとは知らんぷりしておけ。何か大事な荷を運んでいるようだから、向こうから喧嘩をふっかけてくることもないだろう」カラスは素早く振り向いて、仲間たちに言った。「気を付けろ。かたぎじゃないぞ」
全員がうなずき、マントを払って剣の柄を出したり、馬の間隔を広げて万が一の時に備えた。間もなくジャンたちは、幌馬車の一行とすれ違った。先頭の護衛は頬に引きつれた傷跡のある男で、カラスをちらりと見て会釈した。カラスも会釈を返すが、声を掛けるようなことはしなかった。幌馬車を操る御者も、護衛に負けず劣らず凶悪な人相をしていた。彼はしみだらけの不潔なチュニックを着ており、カラスの言う「真っ当な商売」をしているようには見えない。馬車の荷台に掛かる幌は前部が垂れ幕で覆われ、積み荷が何かは知れなかった。他の二人の護衛は、ジャンたち一行と馬車の間に入って、用心深く行きずりの旅人たちに鋭い視線をくれていた。
幌馬車が、がたごとと揺れながら、ジャンとカラスの横を通り過ぎた。ジャンが振り返って見ると、馬車の後部にも垂れ幕が掛けられていて、やはり中が見えないようになっている。一体、何を運んでいるのかといぶかしんでいると、馬車の中から不意に「ぎゃっ!」と言う男の悲鳴が聞こえ、ほとんど同時に垂れ幕が跳ね上がり、白いローブを着た少女が転げ出て顔から地面に落っこちた。少女の年の頃はジャンと同じくらいで、褐色の長い髪をうなじの辺りで野暮ったく結んでいる。少女は鼻血を流しながら身体を起こし、鳶色の瞳をジャンに向けて叫んだ。「助けて!」
わずかに遅れて、顔に新しいひっかき傷をつけた男が馬車から飛び出してきた。彼は歯を剥いて少女を睨み付け、腰に差した剣の柄に手を掛けた。
「彼女を守って!」ジャンが少女を指さして叫ぶと、馬は頭を下げて男に突進した。あまりにも急な動きにジャンは危うく振り落とされそうになったが、必死にたてがみにしがみついてどうにか耐えた。馬は男に強烈な頭突きを食らわせ、男は「げえっ」と奇妙な声を上げて十フィートほど跳ね飛ばされ、道の端で仰向けにひっくり返って動かなくなった。
護衛の一人が舌打ちをして「やっちまえ!」と叫び抜刀した。他の護衛たちも、それを合図に一斉に剣を抜いた。しかし、最初に剣を抜いた護衛は、たちまちアベルの剣で脇腹を斬られ、馬から落ちてしばらく地面でもがいてから息絶えた。先頭にいた護衛はアランに首を刎ねられ、彼の乗った馬は首の無い死体を乗せたまま、道を外れてどこかへ走り去った。もう一人の護衛は状況が不利と見るや、一目散に南に馬を走らせた。しかし、彼の行く先には斧を持ったジローが馬上で待ち構えていた。彼の脇を通り抜けようとした護衛は、斧の背で顔を強かに引っ叩かれ、落馬してしばらく痙攣した後、そのまま動かなくなった。
戦いの間もゆるゆる進み続けていた幌馬車は、次第に速度を落とし、ついにはぴたりと動きを止めた。ジャンが御者台の方を見ると、いつの間にか馬を降りたカトリーヌが、御者を地面に蹴落とすところだった。御者のうなじからは、短いナイフの柄が生えていた。
ジャンは馬を降ると、少女の側にひざまずいて自分の服の袖を引っ張って伸ばし、彼女の鼻血を拭った。
「ありがとう」と、少女は言った。
「大丈夫?」
「うん」少女はうなずいた。「ちょっと鼻がひりひりするけど、大したことないよ」
「擦りむけてる」ジャンは眉間に皺を寄せて言った。「名誉の負傷だね」
少女はにっと笑って頷いた。
その間にもカラスは馬を降り、ジャンの馬が跳ね飛ばした意識の無い男に歩み寄って、その手足を細い紐で拘束した。それから彼は菱形の黒い短剣を手にすると、幌馬車に歩み寄って用心深く垂れ幕を払い、中を覗き込んだ。途端、彼は短く口笛を鳴らした。アベルも馬を下りて、カラスと並んで幌馬車の中を覗き込んだ。中を見るなり、彼はぶつぶつと悪態をつき始めた。
「なんなの?」ジャンはたずねた。
「見た方が早い」と、カラス。
ジャンは、少女に手を貸して立ち上がらせると、彼女と並んで馬車に歩み寄り、中を覗き込んだ。そこには少年少女取り混ぜて、五人の子供が身を寄せ合うように座っており、彼らは怯えた目をジャンたちに向けてきた。いずれも、十に満たないような幼子ばかりだ。
「僕もみんなもベルンでさらわれて、ここまで連れてこられたんだ。あいつらは、僕らをトレボーで売り飛ばすつもりだったみたい」と、少女は言った。
「人身売買か。むごいことをする」アベルは眉間に深い皺を刻んで言った。彼はすぐに笑顔を浮かべ、子供たちに呼びかけた。「みんな、もう大丈夫だぞ。私が必ず、お父さんとお母さんのところへ、連れて行ってあげるからな」
子供たちは、きょとんとアベルを見て、次いで互いに顔を見合わせ、それからわっと歓声を上げた。
他の仲間たちも馬を降り、何事かと集まってきた。彼らは馬車の中を覗き込み、アベルが事情を説明すると、頭を突き合わせて、あれこれ相談を始めた。
ジャンは、少女の手を引いて大人の輪を離れた。すぐにアランが追い掛けてきて、いぶかしげに少女を眺めた。少女は、面白がるような顔でアランを見つめ返し、言った。「君、ずいぶん立派な剣を持ってるね?」
「商売道具だからな」アランは肩をすくめた。「見たところ、魔法使いのような格好をしているが?」
言われてジャンは気付いた。確かに、この少女のローブは、ザヒが着ていたのとよく似ている。
「ような、じゃなくて魔法使いなんだ。まだ見習いだけどね」少女は肩をすくめた。「あ、僕はジュール。君たちは?」
「アランだ」アランは名乗ってから首を傾げた。「男の名前だな?」
「君だって男の名前じゃないか。女の子のくせに」ジュールは指摘した。
「うちは剣士の家系で、名前は先代から継ぐことになっているんだ」アランはお決まりの嘘を言った。
「そう言う君も女の子なのに、どうして?」ジャンはたずねた。
ジュールはきょとんとした。「僕、男だよ?」
ジャンとアランは顔を見合わせた。
「ひょっとして、この髪のせいかな。あいつらも、『上玉だ』とかなんとか言ってたし」ジュールは、ぶつぶつと文句を言った。彼は不意ににやりと笑って、ジャンに目を向けた。「優しくして損したとか思ってる?」
「そうだね」ジャンは笑い返し、うなずいた。「すっかり騙された」
「お生憎だったね」ジュールは、ふふんと鼻で笑った。「そう言えば、君の名前を聞いてないんだけど?」彼は思い出したようにたずねた。
「僕はジャンだよ」ジャンは名乗って右手を差し出した。
「よろしく、ジャン」そう言って、ジュールが握り返してきた手は赤ん坊のように柔らかく、彼が肉体労働とは無縁の生活を送ってきたことを表していた。ジュールは、大人たちの方へ目を向けて首を傾げた。「話しがついたみたいだね?」
ジャンが見ると、マルコとカラスは協力して、死体を道端の藪へ隠しているところだった。ジローは自分が叩き落した騎手のまぶたを引っくり返し、肩をすくめてからリュートの弦で、その手足を拘束し始めた。アベルとカトリーヌは、幌馬車から子供を一人ずつ抱きかかえて降ろしている。子供たち全員を馬車から降ろし終えると、カトリーヌはジャンたちの方へ歩み寄ってきて言った。「子供たちを私たちの馬車に乗せて、ベルンへ連れて行くことになったわ。それから街道警備隊に預けて、ご両親を見付けてもらうの」
「あいつらは、どうするの?」ジュールは、まだ息のある人さらいを、顎で示してたずねた。
「彼らもベルンまで連れて行って、街道警備隊に引き渡すわ」
「殺しちゃえばいいのに」ジュールは鼻を鳴らして言った。
「今はだめよ」カトリーヌは首を振った。「子供たちをどこでさらったのか、ちゃんと白状させてからじゃなきゃ」
「そっか」
「それより、みんなを紹介するから来てくれる?」と、カトリーヌ。
「わかった」ジュールはうなずいた。「とりあえず、お姉さんの名前を教えてくれる? 僕はジュール、見習い魔法使いだよ」
「あらまあ」カトリーヌは目を丸くした。「あなた、男の子だったの?」
「なんだって、みんな僕を女の子と間違えるわけ?」ジュールはため息をついた。
「しかたないわ」カトリーヌは笑って言った。「あなたって、そこらの女の子より、ずっと美少女に見えるんだもの」
ジュールはジャンに目を向け、熱心に言った。「ずっと裸でいたら、もう間違われないかも知れない」
「どうかな」ジャンは首を傾げた。「風邪を引くより、女の子に間違われる方がましだと思うけど?」
「それは考えてなかった」
カトリーヌは、一仕事を終えた仲間たちの元へ、ジュールを連れて行き、マルコをこの小さな隊商の出資者だと紹介した。そしてカラスは彼に雇われた商人で、アベルはマルコの友人、ジローと自分は、お金を払って同行させてもらっている旅芸人だと説明した。
「君は?」と、ジュールはジャンにたずねた。
「僕は、マルコおじさんの甥っ子だよ」ジャンは少し考えて付け加えた。「両親を亡くして、おじさんに養ってもらってるから、この投資話で彼の役に立ちたくて、同行させてもらってるんだ」
「そうなんだ」ジュールは感心した様子でうなずいた。「僕も両親が死んでてさ。幸い、遺産がたっぷりあったから生活には困ってないんだけど、それだって無限にあるわけじゃないからね。将来困らないように手に職をつけようと思って、魔法の勉強をしてるんだ」
「魔法使いって、お金になるの?」
「もちろん」ジュールは力強くうなずいた。「魔法って言うのは、何もないところから物を取り出したり、炎を投げ付けるだけじゃない。自然現象を、体系的に解き明かす学問なんだ。例えば、物が燃える理由がわかれば、たき火を簡単に熾せるようになるだろ? そんな品物を作り出せたら、みんな喜んで買ってくれるだろうし、そうなったら僕は大金持ちだ」
「僕も勉強したら、魔法を使えるようになるかな?」
「うーん、どうかな?」ジュールは首を傾げた。「今のところ、生まれながらの才能がないと、無理だって言われてるけど、ひょっとすると誰でも魔法を使えるような理論が、見付かるかも知れない。そうなったら、僕はもっとすごい大金持ちになれる」
「期待しておく」
「うん、がんばるよ」ジュールは、にっと笑って言った。彼はアランに目を向けた。「君は?」
「私はカラスに雇われた護衛の剣士だ」と、アラン。
「女の子なのに?」ジュールは疑わしげに言った。
ジャンはくすりと笑った。「見た目に騙されたら駄目だよ。彼女はなんでも真っ二つにする才能の持ち主なんだ」
「ちょっと信じがたいけど、さっきはやつらの一人の首を、あっさりはね飛ばしてたからなあ」
「そろそろ、あなたの紹介をしても構わないかしら?」と、カトリーヌ。
ジュールはうなずき、カトリーヌは彼が見習い魔法使いの少年であることを告げた。案の定、みんなは彼の見た目と性別の違いに驚いた。
「風邪をひいたほうが、ましな気がしてきた」ジュールは口をへの字に曲げた。
「僕に、お粥を食べさせて欲しいの?」と、ジャン。
「遠慮する」ジュールはきっぱりと言った。
ジュールの紹介に続き、今度は子供たちが自己紹介を始めた。アベルは一人がそれを終える度に、いちいち感心して、「元気がある」だとか「いい名前だ」と、真面目な顔で褒めた。すると子供たちは得意げに、あるいは恥ずかしそうに微笑むのだった。最初に見たときの怯えた表情はすっかり消えて、彼らは子供らしい元気さを取り戻していた。
「よし。そろそろ出発するとしよう」マルコが言って、全員がうなずいた。幌馬車には意識のない人さらいが放り込まれ、その手綱はマルコが握った。ジャンは、一行が引いてきた馬車の運転を担った。彼の牝馬は荷馬となり、ジャンは彼女に乗れないことを、ひどく残念に思った。
「ベルンまでの辛抱だ」アランが言った。
ジャンはうなずき、手綱を振って馬車を進めた。
(10/29)一部修正




