3.ジャンの村
「当然、お返事は書かなきゃいけないわ」ジャンの一つ下の従妹は、鼻の穴をふくらませて言った。
「わかってるよ」と、ジャン。
「だったら、ベッドなんかに座り込んでないで、さっさと始めたら?」ポーレットは、子供部屋の片隅にある机を指さした。
「そうしたいのは山々なんだけど、問題は、ここに書いてあることが、僕にはさっぱり理解できないってことさ」
そう言って、ジャンが顔の前でひらつかせたのは、一通の手紙だった。趣味のよい香水が吹きかけられた、いい香りのするその紙切れには、流麗な文字で、ジャンに対する尊敬と友情と愛情が綴られている――と、ポーレットは解釈していた。
ポーレットは、腰掛けていた自分のベッドから立ち上がり、従兄の手から手紙をひったくった。彼女は、それに上から下まで目を通し、ほおとため息をもらした。「何回読んでも素敵。お兄ちゃんが女の子なら、きっと彼にめろめろになってるわね」
「それ、さっきも聞いた」ジャンは言って、従妹の手から手紙を奪い返した。
「大体、博物図鑑や冒険小説ばかり読んでるから、こんなことになるのよ」彼女は従兄を責め、それから首を傾げた。「それでどうして、あんなに素敵なお土産を、買って来られるのかしら?」
「ひょっとして、もう読み終わったの?」
ジャンたち一行がトレボーを出たのは一昨日で、村へ着いたのは昨日の昼過ぎだ。それからなぜか、村のみんなが集まってきて宴会が始まり、ポーレットにお土産の本を渡せたのは、お祭り騒ぎがひけた夕方になってからだった。そして今朝、目を覚ましたジャンは、ダミアンにもらった手紙の事を思い出し、ポーレットに相談を持ち掛け、今に至るわけである。しかし、それまで彼女が本を開いている姿を、ジャンはまったく目にしていない。
「いつの間に?」ジャンは、まじまじと従妹を見つめて言った。
「お兄ちゃんが寝た後にね」ポーレットは、肩をすくめた。「面白いから、あっと言う間に読んじゃった」
「まさか、徹夜してないよね?」ジャンは眉をひそめた。
「ちゃんと寝たよ」言った端からポーレットは、ぽかりとあくびをもらす。「ちょっと夜更かししたけど」
「蝋燭の灯で本を読むと、目を悪くするらしいよ」
「そうなの?」ポーレットはぎょっとした。「もうしないわ。本が読めなくなったら、いやだもの」
「そうだね。まあ、でも、気に入ってもらえてよかった」
ジャンは、それを手に入れるまでの紆余曲折を思い出して、小さくため息をもらした。もちろん、それはポーレットには伏せてある。魔物に襲われただの、件の手紙の送り主に誘拐されただのと言い出せば、話がややこしくなることは目に見えていたからだ。
「でも、本当にお兄ちゃんが選んだの?」ポーレットは、疑いの目を向けてきた。
「僕じゃなかったら、誰が選ぶのさ」
「あの、カトリーヌって女の人とか?」
「なんで彼女が?」
「だって、この手の本に詳しそうな人なんて、他にいないじゃない。お兄ちゃんも含めて?」
「見くびらないで欲しいな」ジャンはむっとして言った。「そりゃあ、苦手な種類なのは認めるけど、君の好みは、ちゃんと知ってるつもりだよ?」
ポーレットは、首を傾げてジャンを見つめた。「なんで、そんなに自信満々で言えるわけ?」
「君のことが、大好きだからじゃないかな?」ジャンはさらりと言った。
ポーレットは最初に目を丸くし、次いで顔を赤らめ、しまいにぷいとそっぽを向いた。彼女はしばらく経ってからジャンに向き直り、口を開いた。「何かあった?」
「何かって?」ジャンはきょとんとしてたずねた。
「王都で、何かあったんでしょ?」
「別に、何もないよ」
「嘘つき」
「なんだって、そう決め付けるのさ」ジャンはむっとして言い返した。
「見ればわかるの」ポーレットは、真っ直ぐにジャンを見て言った。「私だって、お兄ちゃんのことが大好きなんだから」彼女は、ちょっとだけ考えて付け加えた。「たぶんね」
「たぶんってなんだよ」ジャンは苦笑を浮かべた。
「それで?」ポーレットは、腕組みしてたずねた。
「うん」ジャンは観念した。「実を言えば、いろいろあったんだ」
ジャンは、王都での出来事を話した。カトリーヌにさらわれたこと。自分がシャルルの甥で、王子だと知らされたこと。そして、スイのこと。彼女に対する、自分でも未だに理解できていない恋心と、思いがけない別離。もちろん、何もかもと言うわけにはいかない。スイが魔物に変じてしまった事や、アランの正体、そして自分が剣王の息子であることは伏せた。ともかく、ジャンが話せることを全て話し終えると、ポーレットはぼろぼろ涙をこぼしながら、ただ「そっか」とだけ言った。
「そんなに泣かないでよ」自分のせいではないとわかってはいたが、従妹の涙を見るのはどうにもばつが悪い。
ポーレットは袖口で涙を拭うと、従兄の頭に腕を回して抱きしめ、もう一度言った。「そっか」
「うん」ジャンは、従妹の胸の中でうなずいた。
「スイさんに会いたかったな」
「うん」
「そうなってたら、きっと、うちに羊の牧場ができてたわね」
ジャンは従妹の身体を優しく押しやって、くすりと笑って見せた。「どうして、ここに住むことになってるの?」
ポーレットは目をぱちくりさせた。「本当に結婚してたら、二人とも王宮に住むよね?」
「まあ、そうだろうね」ジャンはくすくす笑った。
「お兄ちゃんが、ちっとも王子様らしくないのがいけないのよ。王宮に住むような人には、ぜんぜん見えないんだもの」ポーレットは唇をとがらせた。
「君だって伯爵令嬢には見えないよ?」
ポーレットは、口をへの字に曲げてうなずいた。「クレマンさんとお母さんに、お父さんが実は伯爵だって聞かされたときは、自分ってお嬢様なんだって、ちょっと嬉しくなったけど、今はどうもぴんとこないの」
ジャンはうなずいた。「僕も、自分が王子だなんて未だに信じられない」
「たぶん、お父さんのせいね。お父さんが、もうちょっと貴族らしかったら、私たちもこんな風にはなってないわ」ポーレットはにっこり笑って言った。彼女はふと笑みを消して、真剣な表情でたずねた。「魔界へ行くのよね。スイさんの故郷へ?」
「うん」
「遠いの?」
ジャンはうなずいた。「ここからなら、一ヶ月は掛かるんじゃないかな」
「危険な旅になる?」
「そう言う話だけど、一緒に行くみんなは、おじさんも含めて馬鹿みたいに強い人たちなんだ。だから、そんなに危ない目に遭うことはないと思う」
「あの、アランって女の子も? 立派な剣を背負ってるけど、小さいし可愛いし、とても強そうには見えないわ」
「でも、剣の腕なら国一番だと思うよ」
「剣のことなんて何も知らないくせに」ポーレットは鼻を鳴らして言った。
「勉強するよ」ジャンは肩をすくめた。「そうしたら、ちょっとは王子様らしく見えるかも知れない」
「その前に、お返事を書かなきゃ」ポーレットは思い出させた。「でも、どうやったらお兄ちゃんにも、その手紙の素晴らしさがわかるのかしら」
ポーレットは腕組みをして考え込み、ふと何かを思い付いた様子で本棚へ駆け寄った。彼女は唇に指を当てながら、本の背表紙を眺め回し、一冊を手に取るとジャンの側にやって来て、それを差しだした。
「私のお気に入りの詩集よ。この本で勉強すれば、きっと読めるようになるわ」
「ありがとう」ジャンは礼を言って、素直に受け取った。
ポーレットは、じっとジャンを見つめてから口を開いた。「どうして、それをちゃんと読みたいなんて思ったの?」
「手紙をもらったら、返事を書くのが礼儀ってものだからさ」
「本当に、それだけ?」ポーレットは不意に、面白がるような顔をした。「実は、この人のことが好きだってことはない?」
ジャンは眉をひそめた。「男の人だよ?」
「だからなに?」と、ポーレット。
ジャンはぎょっとした。「まさか、君まで高尚な恋愛だの何だのって、言い出さないだろうね?」
「冗談よ」ポーレットは肩をすくめた。「本当は、紙に書かれた物を、読めないのが口惜しいんでしょ?」
ジャンは目をぱちくりさせた。「なんでわかるの?」
「さっき言った。でも、忘れたんなら、もう一回教えてあげる」ポーレットはくつくつと笑って、ジャンを抱きしめた。「大好きだよ、お兄ちゃん」
「うん」ジャンも、従妹の腰に腕を回して言った。「僕もだ」
不意に子供部屋の扉が開かれた。そこにはアランが立っていて、彼女は二人を見るなり、そっと扉を閉めた。
「アラン?」
ジャンが呼びかけると、扉がわずかに開いてアランが顔をのぞかせた。「邪魔だったか?」
「そうでもないわ」ポーレットは、ジャンから離れて言った。「でも、次からはノックしてね?」
アランは神妙にうなずいた。「ジネットが、朝食の支度をするから手伝ってほしいと言っている」
「すぐに行くよ」ジャンは立ち上がり、ポーレットと揃って子供部屋を出た。
食堂にはマルコとカラス、それにクレマンの姿があった。マルコとクレマンはテーブルに着いて雑談を交わし、カラスは窓際に置かれた二人掛けのソファに座って、シャルルにもらった地図を眺めている。カラスは室内だと言うのに、相変わらず灰色のマントを着たままで、若い騎士は鎧を着けておらず、マルコのそれとよく似た農民の服を着ていた。
「ここへ来て、野良仕事を手伝っていて気付いたんですが」と、クレマン。「これは鍛練として見ると、なかなか侮れないものですね」
「そうなのか?」マルコは首を傾げた。
「はい」クレマンはうなずいた。「今は平気ですが、畑へ出た翌日は、あちこちの筋肉が痛んだんです。つまり、真っ当な訓練以上に、きついと言うことになりませんか?」
「トレボーへ戻ったら、練兵場を畑にしちまいそうだな?」カラスが笑って言った。
「さすがに駐屯地内で、キャベツを作るつもりはありません」クレマンは肩をすくめた。「しかしトレボーの西には、魔物に襲われて放棄された畑作地が多くあるんです。新兵たちに、そこを整備させて見ようと思います」
「ほう?」と、マルコ。
「トレボーには、魔物に土地を追われた農民が、日雇いの不安定な暮らしをしていて、彼らへの仕事の斡旋にかかる手数料が、ギャングたちの資金源の一つになっています。農民たちを農地へ戻せれば、トレボーの治安を多少はましにできるかも知れません」クレマンは熱心に言った。
「カルヴィンはギャングたちの活動について、一部認めるようなことを言ってたぞ。何かやるにしても、彼らの正当な権利をないがしろにしないように、気を付けてくれよ?」カラスは釘を刺した。「もちろん、あんたのアイディアが、なかなか悪くないのは認める」
「わかりました」クレマンは神妙にうなずいた。「そう言うことなら、まずは大佐と相談することにします」
「それがいい」カラスはうなずいた。彼は、子供部屋から出てきたジャンたちに気付いて、目を向けた。「おはよう、子供たち」
「おはよう、カラス」と、ジャンは応じた。
「二人とも、今日は寝坊か?」マルコが言った。
「起きてたけど、お兄ちゃんとお話してたの」ポーレットはクレマンに目を向けた。「おはよう、クレマンさん」
「おはようございます、お嬢様」ハンサムな騎士は、にこりと微笑んで言った。ぴんとこないと言っていたはずなのに、ポーレットは頬を染めて嬉しそうに微笑み返した。
ジャンは厨房を指さした。「おばさんを手伝って来る」
「ああ、頼むよ。もう、腹ぺこなんだ」マルコは丸いおなかを軽く叩いて言った。
ジャンはうなずき、厨房へ向かった。アランも一緒に来るのを見て、彼はちょっと驚いた。「君も手伝ってくれるの?」
「ジネットは、そう考えている」アランは肩をすくめて言った。
「おばさんは、君が誰なのか知ってるんだよね?」ジャンは、こっそりとたずねた。
「そのはずだが、子供は雑用を押し付けられるものだからな。仕方がない」
三人が厨房へ着くと、料理はすでに出来上がっていて、配膳されるのを待つばかりだった。ジネットは子供たちを見るなり、にこりと笑って言った。「おはよう。さあ、みんなで運びましょう」
食堂のテーブルに料理と食器を並べる終えると、朝食が始まった。ところが、間もなく玄関の扉がノックされ、ジャンは席を外して応対に出た。扉を開けると、アベルとジローが並んで立っていた。マルコの家に、全員を泊めるだけの空き部屋がなかったので、彼らとカトリーヌは近所の家で厄介になっていたのだ。
「二人とも、おはよう」と、ジャンは挨拶した。
「おはよう、ジャン」ジローは扉をくぐるなり、テーブルの上を見て言った。「まだ、食事中なんだね?」
「一緒にいかが?」ジネットが声を掛けた。
「ありがとう、奥さん」ジローはお辞儀をした。「でも、もう食べてきたんだ」
「カトリーヌは?」ジャンはたずねた。
「まだ寝ています」アベルが肩をすくめて言った。「私たちが、お世話になった家のご婦人と、夜遅くまでおしゃべりをしていたので、少々寝不足なのでしょう」
「お茶をいれてくるから、二人とも適当に座ってちょうだい」ジネットは言い置いて厨房へ向かった。ジャンは部屋のすみに置いてあった来客用の椅子を二脚運んで、テーブルの空いた場所に置き、二人に座るよう促した。
少し遅れて、カトリーヌもやって来た。彼女は眠そうに目をしょぼつかせ、開口一番「まいったわ」と言った。彼女はふらふらとソファに歩み寄り、どすんと座り込んだ。「あのお婆さん、放っておいたら徹夜でしゃべり続けたんじゃないかしら」
ジネットがくすりと笑った。「マノンさん、普段は独り暮らしだから、おしゃべりの相手が出来て、よっぽど嬉しかったんでしょうね」
「だからって、真夜中過ぎまでつき合わされたら、たまったものじゃないわ」カトリーヌはぎゅっと顔をしかめた。「それなのに彼女、夜明け前には起きて畑に行ったのよ。信じられる?」
「生い先が短いと、寝る時間が惜しくなるって聞いたぜ」と、カラス。
「勘弁して」カトリーヌは天を仰いだ。
「夜更かしが苦手だなんて、意外だね」ジローが不思議そうに言った。「密偵って、夜にこそこそしてそうな印象があるんだけど?」
「任務にもよるわね」カトリーヌは肩をすくめた。「でも、深夜に同じ話を、何度も繰り返し聞かされるのは、任務と言うより拷問に近いわ」
「それがマノンさんの特技なの」ジネットは苦笑して言った。「お茶はいかが、カトリーヌ?」
「ありがとう、ジネット。とびっきり濃いやつを、お願いできる?」
「ええ、ちょっと待ってて」ジネットはうなずいて、再び厨房へ向かった。
ポーレットが、ぐったりするカトリーヌを見て、心配そうに言った。「もう一日、休んでく?」
「ありがとう。でも、これはちょっと急ぎの旅なの」カトリーヌは微笑んで言った。「予定通り、お昼過ぎには出発するわ」
「別に一日くらい遅れても、どうってことないだろう?」マルコは、大きなソーセージをもぐもぐやりながら言った。
「もう一晩、マノンおばあちゃんのおしゃべりにつき合わされるくらいなら、野宿の方がましよ」カトリーヌは鼻を鳴らして言った。
「出発したら、馬車の荷台で横になるといいよ」と、ジャン。「キャベツを枕にすると、よく眠れるんだ。探せば倉庫に、いくつかあると思う」
「遠慮するわ」カトリーヌは弱々しく笑った。「あたし、青虫が大嫌いなの」
食事とお茶が終わると、一行は出発の準備に取り掛かった。各々、自分が乗る馬の馬具や蹄を点検し、ジャンは荷馬車に荷物を積み込んで、長柄にマルコの馬を取り付けた。マルコは、クレマンが鎧を着けるのを手伝い、それが終わるとクレマンは、ぴかぴかの立派な騎士に戻った。
ジャンは自分の仕事を終えると、ふと思い出してマルコに声を掛けた。「おじさん」
「どうした?」
「忘れ物をしたんだ。ちょっと取ってくる」
「慌てなくてもいいぞ。ジネットが弁当を作ってくれているから、それを受け取るまで出発するつもりはない」
「わかった」ジャンは扉を開けて、家の中に入った。食堂ではマルコが言ったように、ジネットがせっせと料理をかごに詰め、みんなのお弁当を作っていた。
「どうかしたの?」と、ジネット。
「ちょっと、忘れ物を取りに来たんだ」
「そう」ジネットはにっこり笑った。「腕によりをかけてお弁当を作ったの。みんなで食べてね?」
「ありがとう、おばさん」ジャンは礼を言って、子供部屋に向かった。扉をノックすると、「どうぞ」とポーレットの声が聞こえた。
ジャンは扉を開けた。ポーレットは白い布を巻いた細長い包みを膝に乗せ、ベッドに腰掛けていた。彼女のかたわらには、詩集とダミアンの手紙が置かれている。
「これを取りに来たんでしょ?」ポーレットは、包みを指して言った。
「うん」ジャンは、ポーレットの横に腰を降ろした。
「まだ行かないの?」
「おばさんの、お弁当が出来てからかな」ジャンは従妹の袖口に、小さな染みを目ざとく見つけて言った。「ちょっと、元気ない?」
「うん」ポーレットは頷いた。「また、お兄ちゃんやお父さんがいなくなるんだもの。楽しい気分にはなれないわ」
「そっか」ジャンは、途端に申し訳ないように思えて謝った。「ごめんよ」
「うん、許す」ポーレットは恩着せがましく言って、にっと笑った。彼女は白い包みを手に取り、首を傾げた。「これ、なんなの?」
「短剣だよ」ジャンは言った。「スイは、それで殺されたんだ」
ポーレットは、ぎょっとして包みを放り出した。包みは床に落ち、ごとんと重たい音を立てた。ジャンは包みを拾い上げて、腰のベルトに差し込んだ。
「なんだって、そんな物を持ってるの?」ポーレットは怯えの色を、目に浮かべて言った。
「これは魔界から来た魔法の品で、スイを殺した連中は、これを使って人を殺す以上に恐ろしいことをできるんだ。シャルル陛下は、魔界の王様であるスイのお父さんに、この武器の秘密を調べてもらおうと考えてる。それで、魔界へ行く僕が預かることになったってわけさ」
「それじゃあ、大事なものなのね?」
ジャンは頷いた。
「ねえ。魔界へは、どうしてもお兄ちゃんが行かなきゃならないの。他の人じゃだめなの?」
「いや」ジャンはあっさり首を振った。「たぶん、僕である必要はないと思うよ。僕だと都合がいいってだけで?」
ポーレットは、肘でジャンのわき腹を突いた。「そこは、僕がやらなきゃだめだって答えるところでしょ?」
「そんな使命感なんてないよ」ジャンは、わき腹をさすりながら言った。ポーレットの肘鉄が意外に痛かったのだ。「僕は、自分が魔界へ行きたいからそうしてるんだ。でも、一人ではとても行ける場所じゃないから、代わりに王様のお使いを引き受けたのさ。おかげで旅費や足の心配も要らなくなったし、立派な護衛まで付いてきた」
「お兄ちゃんって、本当に小賢しいわね」ポーレットは、あきれた様子で言った。「みんなは、お兄ちゃんが一番の貧乏くじを引いたと思ってるんでしょうけど、お兄ちゃんは自分が一番欲しいものを手に入れたの。違う?」
「さすが、僕の妹」ジャンはにやりと笑った。「ちゃんと、お見通しだ」
「はいはい」ポーレットは笑いながら立ち上がった。「そろそろ、外へ行きましょう。みんなをお見送りしなきゃ」
子供部屋を出ると、ジネットのお弁当は完成していて、二人は彼女を手伝い、料理の詰まったかごを運び出した。家の前には、いつの間にやら村人たちが集まっていて、ビールの樽が地面に置かれ、木製のジョッキを手にして乾杯を繰り返していた。そこには、マルコとカラスの姿もあった。カトリーヌは、マノンおばあちゃんに捕まり、クレマンはご婦人方に取り囲まれていた。ジローは地面へ座り込み、リュートで愉快な曲を奏で、時ならぬ宴会に華を添えている。彼の周りにはアベルと村の小さな子供たちが車座になって、演奏に合わせて歌を歌っていた。
「あきれた」と、ジネットは苦笑して言った。彼女と子供たちはお弁当を馬車まで運んだ。馬車の荷台には、アランがぽつんと座っていて、酒を酌み交わす仲間や村人たちを、つまらなさそうに眺めていた。
「父さんは飲まないの?」ジャンは荷台に乗って、お弁当のかごを運び上げながら、こっそりたずねた。
「薄めたワイン以外の飲み物を、子供が飲んでいるのを見ると、神経質になる連中もいるからな」アランはジャンを手伝いながら言って、ため息をこぼした。
荷物の積み込みが終わると、ジネットとポーレットはマルコとカラスのそばに歩み寄って、二人に説教を始めた。しかし、すぐに村人のとりなしが入り、ジネットにもジョッキが渡され、彼女はため息をひとつくれてから、豪快にそれをあおった。歓声と拍手が上がり、ポーレットは肩をすくめて両親のそばを離れ、クレマンを取り囲むご婦人の群れに加わった。
「陽気な連中だな」アランがぽつりとつぶやいた。
「みんな、お酒とお祭り騒ぎが大好きなんだ」ジャンはうなずき、父親の隣りに腰を降ろした。「父さんは、村に来るのは初めて?」
アランは首を振った。「今回が三度目になる。最初は、魔王討伐の旅に出てすぐ、孤児だったカラスとウメコの兄妹をトレボーで拾って、マルコに預けた時だ」
「カラスって、トレボーの生まれだったの?」
「いや、生まれは近くの村だ。そこを魔物に襲われて妹と一緒にトレボーへ逃げ込み、盗みを働きながら暮らしていたらしい。二人は一月ほどマルコの世話になっていたが、私がベルンで足止めを受けている間に追い掛けてきて、魔王退治を手伝うと言い出した」
以前、マルコがカラスを十年来の友人と呼んだのは、つまりそう言うわけだったのだ。たった一ヶ月かも知れないが、彼もマルコの子供として養われていたのだとすれば、ある意味カラスはジャンの兄とも言えるのかも知れない。
「でも、カラスもウメコさんも、子供だったんだよね?」
アランはうなずいた。「カラスは十三で、妹の方はまだ七つだったから、私も最初は追い返すつもりでいたんだ。しかし、ザヒがウメコを気に入って弟子にしてしまったから、結局、二人を連れて魔界へ向かうことになった。まあ、物語にもある通り、彼らは恐ろしく有能だったから、そうして正解だったのだろう。もし二人の助けがなかったら、私も魔王を倒すことなど、できなかったかも知れない」
「魔王って、どんな人だったの?」ジャンはたずねた。
「人ではない」アランは首を振った。「少なくとも私が会った時は人の姿をしていなかったし、人の言葉も通じなかった。見た目は――そうだな、タールのようにまっ黒な太ったヒルの背中に、大人の胴体ほどもあるミミズのような触手が無数に生えた格好をしている。大きさはちょうど、そこの倉庫と同じくらいだ」
その姿を思い浮かべて、ジャンは思わず背筋に粟立つものを感じた。「真っ当な生き物じゃないよね?」
「そうだな」アランはしかめっ面でうなずいた。「あれについては、おぞましいと言う印象しかなかった」彼女は怖気を振り払うように首を振った。「ともかく、魔王を倒したあと、我々はベザン王国にいる私の友人の元へ身を寄せていた、お前とマリーを迎えに行った。しかし、その時にはすでにマリーは死んでいて、しかも私はこの有様だったから、お前の養い親として、またマルコを頼ることにした。それが、この村を訪れた二度目だ」
「その時、おじさんとは会わなかったの?」
ジャンは思い出した。マルコは、ディボーでアランを見た時、いかにも初対面と言った風だった。
「あれこれ聞かれるのも面倒だったし、この姿でお前の主君だと言っても、信用してもらえるとは思えなかったから、私は家の外で待っていた」カランは肩をすくめて言った。
「何かを真っ二つにしてみせればよかったのに」
「そうだな」アランは笑った。「しかし、その時の私は見た目通りのちっぽけな女の子で、剣を持つことすらまともにできなかったから、うまく出来たかどうかわからない」
「つまり僕は、小さい頃に今の父さんと出会ってたんだね?」
アランはうなずいた。「ベザンを発って、この村へ来るまでの二週間ほどで、お前は私たちにずいぶん懐いてくれた。マルコの元に置いて立ち去るには、かなりの思い切りが必要だった」
「ぜんぜん覚えてないや」ジャンは、それがどうにも口惜しくて、口をへの字に曲げた。わずかな間ではあるが、彼は英雄たちと一緒の時間を過ごしていたのだ。それをまったく覚えていないのは、ひどくもったいなく思えた。「そのあと、みんなはどうしたの?」
「ザヒとウメコは魔法の修行のために、私とカラスは、この身体を元に戻す方法を探しに、それぞれ別の旅に出た」
ジャンは目を丸くした。「戻れるの?」
「ザヒはそう言っていた」アランは肩をすくめた。「魔法が謎めいた力ではなく、誰もが当たり前に使える技術だった時代が昔にあって、その頃は病気や怪我で損なわれた肉体を、新しく作り直す魔法もあったそうだ。その失われた魔法を見つけ出せば、私も元の姿に戻れるかもしれない」
「でも、父さんは、病気や怪我で女の子になったわけじゃないよね。そもそも、どうしてそんな格好になったの?」
「そもそもと言うなら、魔王を真っ二つにした時だ」と、アランは言った。
ジャンは目をぱちくりさせた。さっき、彼女は魔王を倉庫ほどあると言わなかったか? そんなに大きなものを、どうやれば真っ二つになど出来るのだろう。
「どうかしたか?」アランは、きょとんとしてたずねてくる。
「なんでもない。続けて」気になったが、ともかくジャンは先を促した。
アランはうなずき、話を続けた。「私が魔王を叩き斬ると、やつの身体の中からエメラルドの棺が転がり出てきた。この身体は――」彼女は自分の胸元を親指で指した。「その棺の中に眠っていたんだ」
「どう言うこと?」ジャンは思わずたずねた。
「わからない」アランは首を振った。「ともかく私は、棺の中の少女を助け出そうとした。魔王は真っ二つにされてもしぶとく生きていたし、のたうち回る怪物の近くに小さな女の子を放置するのは、良いアイディアとは思えなかったからだ。ところが棺には継ぎ目がなく、どうやっても開きそうにない。たたき割ろうともしたが、剣が折れただけで、ひび一つ入れられなかった。仕方なく私は棺を抱え、のた打ち回る魔王のそばを離れようとした」
「そんなに頑丈なら、放っておいてもよかったんじゃないの?」
「私も、ちらりとそう考えたが、実際に試してみるわけにもいかなかったからな」アランは肩をすくめた。「ともかく、逃げ出した私の隙を魔王は見逃さなかった。私は、やつの触手に胸を貫かれて死んだ」
ジャンはぎょっとした。「死んだ?」
アランはうなずいた。「その時は、確かにそう思ったんだ。ところが、私はすぐに目を覚まして、少女が眠っていたのとそっくりな、宝石の棺の中に横たわっていることに気付いた。棺は内側から押すと煙のように消え、私は外へ出ることができた。辺りを見ると魔王はすでに息絶え、足元には胸に大穴が空いた、私の死体が転がっていた。自分が素っ裸の少女になっていると気付いたのは、その時だ。
みんなは私を見て、お前は誰だとたずねてきた。私は自分の身に起こった事を説明したが、彼らはなかなか理解できない様子だった。しかし、我々に問答をしている余裕はなかった。どう言うわけか魔王の屍が、焼き窯に入れたパンのように膨れだしたからだ。屍はあっと言う間に部屋いっぱいにまで膨れ上がり、そればかりか魔王の城の、そこかしこからあふれ出てきた。我々はそれに飲み込まれないよう、ひとまず退散するしかなかった。
我々は、魔王の城から半日ほど離れた場所にある洞窟へ逃げ込み、そこで夜を明かして再び城へ向かった。しかし、どう言うわけか城内は空っぽだった。最初に我々が忍び込んだ時は、魔王崇拝者や魔物たちがうようよしていたのに、彼らはすっかり姿を消していた。我々は魔王の居室へ向かい、磯の海藻のように干からびて床にへばりつく魔王の屍を見つけたが、なぜか私の死体は失せていた。ともかく我々は魔王の死を確認し、魔界をあとにした」
ジャンは、あ然として父を見つめた。物語の彼は強敵をたいらげ、さっそうと美しい姫君を救い出したが、実際は奇怪な生物と相討ちになってあえなく死に、どう言うわけか宝石の棺に眠る少女の身体に、とり憑いてよみがえったのだ。もしジローが知れば、彼は剣王の物語を、大幅に修正しなければならなくなるだろう。
「ねえ」ジャンはふと気付いた。「その女の子の身体は、父さんとは全く関わりが無いってことだよね。そこからどうやって、父さんの本当の身体を取り戻すって言うの?」
「わからない」アランは首を振った。「カラスと旅をしながら古い書物を読んで回っているが、ザヒのいう魔法は、まだ見つかっていないんだ。しかし、今はもう、それでも構わないと思っている」
「どうして?」
「お前はもう、私を父さんと呼んでくれている。だったら、元の身体に戻る必要もない」アランは首を傾げてジャンを見た。「それとも、ちゃんと男の父さんになった方がいいか?」
「今のままでも構わないよ」ジャンは笑った。そして、彼は気付いた。「ひょっとして、僕に父さんって呼んでもらいたくて、十年も旅をしてたの?」
「そう言うことになるな」アランは渋い顔をして認めた。
「それに見切りをつけて、僕たちの前に現れたのはどうして?」
「一月ほど前、私とカラスの前にザヒが現れて警告してきたんだ。それまで、てんでばらばらに、街角でたわごとを叫ぶことだけだった魔王崇拝者たちが、一致団結して私と私の血に連なる者への復讐をうたいだしたらしい。あるいは、お前の身に危険がおよぶと考えた私とカラスは、お前を外国に匿おうと考えた。そしてマルコに手紙を送り、ディボーでザヒの警告と我々の考えを伝えた。そこから先は、お前も知っての通りだ」
ジャンはうなずいた。「魔族と魔王崇拝者の関係はわからないけど、実際にアルシヨンは狙われていたし、僕もクセに追われている」彼は、ふと顔を上げて村人たちを見た。彼らはジローの演奏に合わせて、くるくると田舎のダンスを踊っていた。「それなのに、どうして僕が魔界へ行くと言い出した時に、反対しなかったの?」
「お前が決めたことだから、それを尊重したかったんだ」アランは言って、唇を引き結んだ。彼女はしばらく経ってから口を開いた。「それに、息子と冒険の旅に出る機会を、ふいにする父親なんていないだろう?」
ジャンは、まじまじと少女を見つめてから、途端に吹き出した。アランはしばらくきょとんとしていたが、息子と一緒になって笑い出した。村のお祭り騒ぎは、なかなか終わりそうになかった。




