2.戦乱の影
夕食を終えたジャンは、たき火のそばで、しつこい眠気と戦っていた。王都を発ったのは昼少し前で、野営のために足を止めたのが日没だったから、大した距離を進んだわけではない。それでも、ずいぶんくたびれていたのは、おそらく王都でのパレードのせいだった。着たくもない派手な服を着せられ、衆人にさらされると言うのは、思った以上に気疲れするもののようだ。
そんなわけで、彼はくたくただった。しかも、今はおなかも満ちていたから、睡魔につけ入れられる隙はじゅうぶんにあった。薪のはぜるぱちぱちと言う音や、大人たちが語り合うぼそぼそ言う声も、眠気を誘う一因だった。しかし、よくよく聞いてみれば、彼らが交わす話の内容は、子守歌がわりとするには、いささか剣呑なものだった。
「すると」カッセン大佐が、禿頭をつるりと撫でて言った。「そのユーゴとか言う密偵は、古い公爵をまんまと殺し、新しい公爵を生み出したと言うわけか」
「ええ」カトリーヌが言った。「そして、それはマリユスの、計画のうちだったかも知れないの」
「マリユス?」と、マルコ。「確かメーン公爵の息子は、側室の子も含めて六人だったはずだが、私が知らないと言うことは、七人目か?」
「七人目で合ってるけど、公爵の息子は八人よ。でも、末っ子は一昨年、事故で亡くなったの。六人の兄と同じように」
「そいつは、ジャンと一つしか変わらないんだろ。ずいぶん才気にあふれた少年じゃないか?」カラスが言った。
「彼が父親ばかりか、兄弟も手に掛けたって言いたいの?」カトリーヌはたずねた。
「あんただって、同じ考えなんだろ?」
カトリーヌは肩をすくめた。「それが、よくわからないのよ。つい最近まで、あたしたちは、マリユスのことは全く注目していなかったの。彼は平凡で目立たない少年だったし、兄弟の死にも不審な点はなかったから、何かがおかしいと思ったときには、もう彼は最後の一人になっていた。結果だけ見れば、確かにマリユスがすべてを仕組んだように見えるけど、証拠は何もないわ」
「もうちょっと、自分の直感を信じろよ」と、カラス。
カトリーヌは苦笑を返した。「そうしたいけど、組織を動かすには明確な根拠が必要なの。誰も彼もが、あたしの直感を共有できるわけじゃないわ」
「傀儡じゃあないのかい?」と、ジロー。「私が物語を書くなら、新公爵は気の弱い少年で、ずる賢い痩せぎすの家臣に操られてるって筋書にするんだけどね」
「そして家臣の正体は、邪悪な魔法使いと言うわけか」カッセン大佐が冗談交じりに言った。
「あのね、カルヴィン。この件で私が描きたいのは、華やかな貴族社会の裏に張り巡らされた陰謀と、その闇にうごめく人たちさ。あんたの案だと、ちょいと毛色の違うお話になっちまう。七柱神教会の司教なんてのはどうだい?」
「教会に、そこまでの力はないだろう?」大佐は首を傾げた。「彼らが権勢をふるったのは、百年ほど前までだ。今では冠婚葬祭以外で必要とされることは無い」
「そうでもないよ」と、ジロー。「打ちひしがれた人間にとって、宗教ってのは、この上ない良薬に見えるものなんだ。まあ、それで心の平安を得ている人はいるわけだし、実際に良薬なのかも知れないけどね。ただ、これにはちょっとばかり依存性があって、麻薬のようにのめり込んでしまう人間は、いつの時代でも一定数はいる。だから、七柱神教の影響力は、無視できるほど弱いわけじゃない。特に、魔物の被害が大きかった北方では、神にもすがりたいと考える人が大勢いるからね」
「確かに、アベルも領地に教会を立てるくらいには、信心深かったな」カルヴィンは禿頭を掻きながら言った。「まあ、あそこの司祭は人の良いじいさんで、民草の心の安寧以外に興味は無さそうにしていたから、彼を操って権力を欲しいままにしようとは考えていないだろうが」
「アベルって?」ジローはたずねた。
「私の部下のバンコ中尉だ。称号で呼べば、ベア男爵となる」
「ベアと言ったら北の端にある、ちっこい村だね」ジローは言ってから、ふと首を傾げた。「はて。私が知ってる物語に、ベアが舞台のお話があるんだけど?」
「ほう?」
「村を守るために、たった一騎で千の魔物を殺して、鎧がその血で真っ黒に染まった、勇敢な騎士様のお話さ」
「ああ。それはたぶん、アベルのことだ」カルヴィンはうなずいた。「千の魔物と言うのは大げさだが、押し寄せる魔物の群れから、ほぼ一人で村を守ったのは事実だ。援軍が駆けつけた時、彼は頭のてっぺんからマントの裾まで、魔物の血で真っ黒に染まり、まるで巨大なワタリガラスのように見えたそうだ。それ以来、彼は黒騎士なんてあだ名で呼ばれるようになった」
「やっぱり、そうか」ジローはうなずいた。「すると、かの英雄を、あんたは顎でこき使ってるわけだね?」
「人聞きの悪いことを言わんでくれ」カルヴィンは眉をひそめた。
「こりゃあ、ぜひとも会わなきゃ」大佐の抗議を無視して、ジローは言った。
「明日か明後日にはトレボーだ。嫌でも会えるさ」カルヴィンは苦々しい顔で言ってから、ふと思いついた様子で続けた。「シャルルに貰った地図だと、君らは途中で、ベアの近くを通るはずなんだ。トレボーへ戻ったら、アベルに休暇を与えるから、彼を同行させてやってくれないか?」
「里帰りでもさせるのか?」と、カラス。
カルヴィンはうなずいた。「私が思いやりのある上司だと言うことを、そこの吟遊詩人に知ってもらいたくてな。魔界へ入る前に、君らもベアで一休みして行くといいだろう」
「私は、ぜひそうしたいと思ってたんだ」マルコが満面の笑みで言った。「危険な場所を訪れる前に、ベアのワインを味わっておかないと、後悔することになるかも知れんからな」
「急ぐ旅路だと言うことを忘れるなよ?」アランが釘を刺した。
「わかってるとも」マルコは渋い顔をした。「しかし、なんだってザヒ老師は、我々に急げなどと言ったんだ。彼にはもう同盟の協定書は渡してあるし、ゼエル陛下も今頃はそれを受け取っているはずだから、王の面目はひとまず立つはずだろう?」
「いまだに信じられないんだけど」カトリーヌが口を挟んだ。「老師は本当に、イゼルまで一瞬で飛んで行ったの?」彼女は指を振って、曖昧な仕草をしてみせた。「魔法で?」
「たぶんな」アランは肩をすくめた。「イゼルへ着いたらゼエル殿に、いつ協定書を受け取ったか、確認してみるといい」彼女はマルコに視線を戻した。「ザヒが何を考えて、我々の尻を叩いているのかまではわからないが、あの賢者が急げと言うのだから、差し迫った何かがあるんだろう」
「昨日のうちに、ちゃんと理由を聞いておけばよかったな」マルコはぼやいた。
「まあ、それはベルンについてからでも遅くはないさ」と、カラス。「そこで俺の妹を拾った後、じいさんの塔まで行けば、彼と話しができるらしいからな。それより、今は新公爵の動きが気になる。マルコの旦那とジャンの予想じゃ、向こうにはいつでも進軍できる部隊がいるわけだろ?」
「しかも、魔物と人間の混成部隊だ」アランが言った。「クセが部隊に合流したら、すぐにでも王都へ向けて侵攻を始めるだろう」
カラスは眉をひそめた。「戦争ともなれば、俺たちも安穏と旅を続けられるかわからないぞ。途中で、将軍派の貴族の領地を通ることになるんだ。そいつが公爵軍の動きに応じて兵を起こしでもすれば、戦場を突っ切って進むことになりかねない」
「ねえ」と、カトリーヌ。「どうして新公爵が、王都を狙ってるなんてわかるの。前の公爵は死んで、マリユスは爵位を手に入れたのよ。もう、王都に用なんてないはずでしょ。それとも、前の公爵がしでかした、クーデターの責任を負わされるのが嫌だから、国ごと引っくり返そうってわけ?」
「動機としては、なかなか悪くないな」マルコは笑って言った。「ただ、今の時点でマリユスの目論みを、あれこれ推測するのは難しいだろう。あまりにも情報が少なすぎるからな。しかし、クセの目的なら、はっきりしている」
「彼ね?」カトリーヌはジャンに目を向けた。ジャンは居眠りをやめて、ぱちりと目を開けた。
マルコはうなずいた。「クセは、ジャンが王都にいると考えているだろうし、王宮の奥に守られた皇太子を誘拐するのが、ユーゴたち密偵でも簡単なことじゃないことくらい、理解しているはずだ。そして、王都の防壁を、彼女の魔物で突破することが不可能だと言うことも、もちろん承知しているだろう。しかし、公爵の軍事力を頼んでシャルルに開城を迫るとすれば、話は変わってくる」
「でも、それじゃあ公爵側に、なんの利益もないわ」カトリーヌは反論した。
「まあな」マルコは認めた。「だが、ユーゴは手下にクセを守らせ、彼女に手を貸し続けているんだろう?」
カトリーヌはうなずいた。
「それはユーゴが、彼の雇い主の目的に適う対価を、クセが持っていると考えているからだ。それが何かを、我々が知らないと言うだけで?」
「彼女の利用価値なら、ひとつしかない」と、アラン。「魔物を操る魔王の力だ」
「そりゃあ、どうかな」カラスが言った。「彼女は、結構な美人に見えたぜ。そっちの価値だって見逃せないだろう?」
「それで、新公爵がめろめろになったって言うのかい?」と、ジロー。
「ない話じゃない」カラスは肩をすくめて言った。
「妙な勘ぐりは置いといて、前の公爵は本当に軍を動かすつもりでいたのかね?」カルヴィンがたずねた。
「たぶん」カトリーヌは曖昧にうなずき、ふと眉をひそめてから続けた。「メヌに潜ませた密偵から届いた情報なんだけど、街を出入りする荷馬車の数が、三ヶ月前から倍に増えたらしいの。そして、その動きは今も変わってないそうよ」
「積み荷は?」と、カラス。
「穀物、豆、キャベツ、パン、ベーコン、ワイン、ビール」カトリーヌは、指折り数えながら言った。
「兵の糧食と見てよさそうだな」カルヴィンはうなった。
「でも、どこか特定の地域に、集められてるようには見えないし、矢や剣なんかの武器が、運ばれてる様子もないそうよ?」
「メヌと言ったら、メーン領の首都だろ。そこからなら領内のどこへでも行けるし、そもそも密偵に見張られているのは織り込み済みだろうから、尻尾を掴まれるようなへまはしないさ」カラスが言った。
「念のため、ディポンの防御を固めた方がよさそうだな」カルヴィンはしかめっ面でつぶやいた。
「なぜディポンなんだい?」と、ジロー。
カルヴィンは薪の山から小枝を取って、地面に簡単な地図を描いた。「メーン領は大陸を縦断する山脈に領地の西を閉ざされているから、こちらへの侵入経路が限られているんだ。最も王都に近いのが、メーン領西端のメーの町と、サンポワーヌ領のディポンを結ぶ、山峡を抜ける街道だ。他は、ずっと北を通らなければならない」
「もっと南から、ヴェルネサン領へ入り込むこともできるぞ」と、アラン。
「山越えか?」カルヴィンは、地図の山脈を横切るように線を引いた。「確かに冬季と違って、今ならそれも無茶な選択ではない。うまく行けば、ヴェルネーの港を落とし、マセリからの海上の補給線を確保できるだろう。ただし、部隊の損失を二割程度は覚悟しなければならない。ディポンで街道警備隊と一戦交える場合に比べて、やや大きい被害だが、真っ当に街道を進むよりも、十日ほど早く王都へたどり着ける。それを高いと見るか、安いと見るかは、指揮官によって意見が分かれるところだな」
「もっと、ましな手がある」アランは、カルヴィンの手から小枝を取り上げ、地図の上に線を描いた。「山脈の南端から、海沿いを通るんだ」
「そこは、ほとんど断崖で、歩ける海岸線などないはずだが?」
「いや、ある」アランは断言した。「帝国時代に山肌を削って作った道が、この辺りの海中に沈んでいるんだ。潮が引くと、多少足は濡れるが、じゅうぶん歩けるだけの地面が現れる」
「海に沈む道なんて、昔の人はずいぶん酔狂なものを作ったんだね」ジローが首を傾げてつぶやいた。
「その頃は、ちゃんとした道だったんだ。当時の海岸線は、現代より半マイルほど沖の方にあったからな」
「それじゃあ、なんだって沈んじまったんだい?」
「三〇〇年ほど前から世界の気候が暖かくなって、陸の上にあった氷が融け出したからだ。そのせいで海の水かさが増えて、色々なものが沈むことになった」
「複雑な気分だな」マルコが渋い顔をした。彼は隣に座るカラスに話しかけた。「二人の用兵家が、私の領地をどう攻めるか、目の前で相談し合っている」
「がまんしろよ」カラスは笑って言った。「マリユスにとられるよりはましだろう?」
「私は初耳だが」カルヴィンは禿頭を撫でながら、地図を見つめてつぶやいた。「彼らがその道を知っていれば、ほとんど被害を出さずに、ヴェルネサン領に兵を送り込めるな。いや、仮にも将軍だった男が、所領の地理を把握していないはずがないか」彼は地図から顔を上げて言った。「相手の打ち筋がわかったのなら、将棋盤を元に戻そう。我々はディポンだけでなく、ヴェルネーの守りも固める必要があるわけだな?」
「ついでにヴェルネーから船を出して、さっき言った海岸線を見張らせるといいだろう」アランは言った。
「連絡は、あたしに任せて」と、カトリーヌ。「トレボーへ着いたら鳩を飛ばすわ」
カルヴィンは眉をひそめた。「私は、早馬の方が好みだ。どうも、鳩は信頼性に欠けるように思える」
「鳩は有用だぞ、カルヴィン。帝国時代の軍では、主要な通信手段だったんだ」アランは地図を睨みながら、腕組みをして言った。
「まだ、何かあるのか?」と、カルヴィン。
アランは難しい顔でうなずいた。「もし北から侵入するとしたら、どう攻めるかと思ってな」
カルヴィンはしばらく考えてから、地面の地図を指でなぞった。「ルール地溝を南下して、モンルーズ辺境伯領を横目に見ながら、ペイル伯爵領へ入るだろうな。ペイルの西にはロゼがあるし、ロゼ伯爵は熱心な将軍派だ。公爵軍はロゼ伯爵の援護を受けながらペイルを通過し、ロゼ領へ入る。そこから街道を南下し、王都を目指すはずだ」
「しかし、ロゼ伯爵は領地にいない」マルコが言った。「彼は議会に出席していたから、まだ王都だろう。名代くらいは置いているだろうが、ロゼの全軍を動かせるほどの権限は与えられていないはずだ。果たして、そううまく行くもんかね?」
「お前が軍事の話題に口を挟むなんて、珍しいな?」カルヴィンは、でぶの親友に笑い掛けた。
「私がお前ほど、兵学に明るくないのは承知しているとも」マルコは肩をすくめた。「ただ、カラスも心配していたが、旅の途中で戦争に巻き込まれるのはごめんだからな。その危険があるのなら、遠回りをしてでもロゼを避ける道を選ぶ必要がある」
「その心配はないだろう」カルヴィンは断言した。「実際、お前が言うように、この作戦はうまく行かないんだ。ペイルの国境からディポンとクタンまでは目と鼻の先で、どちらにも街道警備隊の駐屯地がある。いくらロゼ伯爵の援軍があっても、公爵軍がペイルを無事に通過することはないだろう。その上でベルンにいる街道警備隊の追撃を受けながら、二週間の距離を行軍するんだ。王都へたどり着くころには、きっと公爵軍の兵は一割程度しか残っていない」
「ちょっといいかな?」ジャンは話に割り込んだ。「この戦争って、クセが王都にいるはずの僕を、捕まえようとして起こるんだよね。いっそのこと、僕が王都にいないって教えてやった方がいいんじゃないかな?」
戦争ともなれば、何百人――ひょっとすると、何千もの死者がでるだろう。それが、自分のせいともなれば、とてもではないが安穏としていられるはずもなかった。
「戦争が起こるかどうかは、あくまでマリユスの気分次第だ。つまり、君が気に病む必要はない」カルヴィンが言った。
「クセの望みがなんであれ、それを聞き入れるかどうかは公爵の判断だ」アランは言った。「つまり、マリユスが軍を動かしたとしたら、それは彼自身にも、戦争を起こしたい何かがあると言うことだ。そうなれば、お前がおとなしく捕まったとしても、彼が軍隊を引っ込めるようなことはないだろう」彼女は肩をすくめた。「もちろんマリユスが、クセの望みを叶えるためだけに、自分の軍隊を動かすようなお人好しなら話は別だが」
「アラン、そりゃあお人好しとは言わないよ」ジローが笑って言った。「たった一人の女のために、自分の兵隊を何千人も殺すようなやつは、むしろ愚か者って呼ぶほうがぴったりだ」
「今のところ、我らが密偵の分析によれば、マリユスは愚か者とはかけ離れた人物のようだ」マルコは言って、カトリーヌをちらりと見た。女スパイは首を傾げてお辞儀をしてみせた。マルコは続けた。「しかし、我々が相手にしているのは、マリユスだけじゃない。我々が何もせず、魔族に好き勝手をさせ続ければ、ディボーや王都で起きたような事件が、またどこかで起こるだろう。なんとしてもイゼルの協力を取り付けて、彼らに対抗できる体制を作らなければならない」彼は甥っこに目を向けた。「そのためには、どうしたってお前が必要なんだ。お前を、みすみすクセにくれてやるような危険を、冒すわけにはいかない」
「そうだったね」ジャンは口をへの字に曲げた。「スイがどうして死んだのか、ゼエル陛下に説明するのは、僕の義務なんだ。そうじゃないと、友好の証として送られてきた彼女を、僕たちがただ見殺しにしたと思われてしまう」
「お前が、それを理解していなければよかったのにと思うよ」マルコはため息をついた。「お前は義務だと言ったが、本来それを負うのはシャルルなんだ。しかし、皇太子であるお前なら、その名代にじゅうぶん適うと言うことを、我々はわかっていた。そして、その責任を、つい十日前まで普通の子供だったお前に負わせることが、どれだけ理不尽かと言うことも、同じくらい承知している」
「それについては、あんまり気にしなくていいよ」ジャンは肩をすくめて言った。「僕は僕のやりたいことがあって、魔界行きを決めたんだ。その代償って考えたら、理不尽がどうのなんて気にならないし、あとになって恨み言を言うつもりもないよ」
「恨み言を言われる方が、ずっとましなんだがな」マルコは苦笑を浮かべた。
「じゃあ、その時が来たら考える」そう言って、ジャンは伯父に笑いかけた。
「ジャン」アランが厳しい表情で言った。「ひとつ、心に留めておいて欲しいことがある」
「なに、父さん?」
「私も、交渉の全てを見てきたわけではないから、詳しい経緯はわからない。しかし、この同盟はアルシヨンにとって、必ずしも重要ではない上に、むしろ大きな損害を生む可能性もあったんだ」
「どう言うこと?」父の言葉の意味をはかりかねて、ジャンは首を傾げた。
「王女が議場へ現れる前に、シャルルはイゼル領内での銀の採掘権をだしにして、議員たちに同盟を認めさせたが、それにはイゼルがアルシヨンに対して、国境を開き続けると言う保証が必要だった。さもなければアルシヨンは、イゼルへ投じた資本を回収できなくなる恐れがあるからだ」
「でも、イゼルが欲しいのは、アルシヨンの後ろ盾なんだよ。彼らがそれを、ふいにするようなことはしないと思うけど?」
アランは首を振った。「後ろ盾が必要なのは、国がまとまるまでの間だ。それが五年か十年かはわからないが、イゼルの王権が安定すれば、彼らにとってアルシヨンはそれほど重要ではなくなる。もちろん、それが議員たちを説得する際の、難点になることはシャルルもわかっていただろう。彼としては、この同盟を成立させるために、イゼルがアルシヨンに対し、将来にわたって変わらず友好的であるという担保を、ゼエル殿に求めたはずなんだ」
「それが、スイ?」
アランは頷いた。「お前と彼女の婚約は、単に二つの王室を姻戚関係にするだけでなく、体のよい形で人質を迎え入れるための、口実だったと考えた方がいいだろう」
「おい、アラン」マルコがとがめるように言った。
「違うと言えるのか?」アランは忠臣を睨み返した。
ジャンは我知らず、白布に包まれた魔族の短剣を握りしめていた。アランは以前に、ジャンとスイの婚約の話を聞いて、友達になる機会があっただけましだと言った。それは貴族同士の婚姻に、本人たちの意思が介在する余地がないと言うだけでなく、愛情や友情と言った結び付きすら、存在しない場合があると言う意味でもあったのだ。
スイは、自分が人質であることを、知っていたのだろうか。彼女が見せたジャンへの友情は、ただのお芝居で、内心ではジャンのことを嫌っていたのだろうか。もしそうだったとしても、彼女は二つの国の力関係のために、心を殺し、ずっと嘘の笑顔と好意を、ジャンに向け続けるしかないのだ。それは、あまりにもむごい仕打ちだった。そして今となってはもう、彼女の本心を質すことは不可能だった。
「ともかく」と、アランは続けた。「国の宝であるスイを寄越してきた、イゼルの覚悟がどれほどのものか、わかっただろう。つまり我々も、相応の覚悟で彼らに臨む必要がある」
ジャンは神妙にうなずいた。そして、彼は父親に笑みを向けた。「お前にそれができるか、とは聞かないんだね?」
「やるしかないことだからな」アランは肩をすくめた。「だが、心配するな。お前がしくじっても、私がなんとかする」
「また、何かを真っ二つにするの?」
「必要があればな。少なくともシャルルの時は、それでうまく行った」
「そうだね」ジャンはため息をついた。「なんだって、あんな無茶苦茶が通るのか、いまだによくわかんないや」
「昔からそうなんだ」マルコはぼやいた。「みんなが右往左往して取り組む難題を、何故かお前の親父は、よく考えもせずに、真正面から叩き伏せて解決してしまう」
ジャンは、なんとなくその理由がわかった。彼はつぶやいた。「迷路は突っ切る方が早い」
「どう言う意味だ?」マルコは片方の眉を吊り上げた。
「私の座右の銘とでも思っててくれ」アランは笑って言った。
翌日、一行は日の出と共に野営地を立ち、日没の間際にトレボーの東門を抜け、駐屯地にあるカルヴィンの屋敷に入った。執務室では、使用人の格好をした白髪頭の男が、机に向かって書類の山と格闘しているところだった。彼は上官の顔を見るなり、小さくため息をもらした。
「大佐」アベルは立ち上がって敬礼した。
「留守を頼んで悪かったな、中尉」カルヴィンは敬礼を返した。彼は一行に目を向けた。「ひとまず紹介しよう。この紳士がアベル・バンコ中尉だ」
「ああ。まさか、本物の黒騎士に会えるなんて、私はなんて幸運な男だろう」ジローが進み出てお辞儀をした。彼は仮面の顔をカルヴィンに向けた。「やっぱり、こき使ってるじゃないか」
「そのようだな」カルヴィンは苦笑して認めた。大佐は部下に目を向けた。「こいつはジローだ。吟遊詩人で、お前のファンらしい」
アベルは少し困った笑みを浮かべながら、お辞儀をした。
「ベア男爵と言う称号以外に、そんな異名があったとは知らなかったよ」マルコが歩み寄って、最も新しい友人と握手を交わした。
「それで、手当が付くわけでもありませんから、あまり吹聴しないようにしています」アベルは笑って言った。
「ジャンとカラスには、前に会っていたな?」カルヴィンが言うと、アベルはうなずいた。カルヴィンはにやりと笑って続けた。「しかし、どうやら彼らは、見た目通りの人物ではないらしい。例えば、その目付きの悪い旅商人の正体は、剣王アランとともに魔王を討った、かつての少年暗殺者なんだ」
「本気で、おっしゃっているんですか?」アベルは眉をひそめた。
「こんなことで、嘘や冗談を言ってどうする?」
アベルはカラスを見つめ、ふと苦笑いを浮かべた。「まさか物語の登場人物と、キャベツの値段について交渉することになるとは、思ってもみませんでした」
「そりゃあ、お互い様だろう?」カラスはにやりと笑って応じた。
「驚くのは、まだ早いぞ」カルヴィンは、ジャンの肩に手を置いて言った。「このジャン少年は、なんと剣王アランの息子なのだ」
アベルは素早くジャンを見た。
「ついでに言うと、彼は我が国の皇太子だ。一昨日、シャルルが議会で叙任したばかりでな」
アベルは居ずまいをただし、丁寧にお辞儀をした。「殿下」
「中尉」ジャンもお辞儀を返した。「でも、旅の間は王子だって言いふらすつもりはないんです。内緒にしてくれますか?」
アベルは笑顔でうなずいた。
「さて、残るは女性陣だな」と、カルヴィン。
「カトリーヌなら、牡鹿亭で何度か会っています。私が知る限り、彼女はそこに勤める女給でした」アベルは、すがめた目でカトリーヌを見つめた。「まさか、あなたも剣王に所縁が?」
「残念ながら違うわ」カトリーヌは肩をすくめた。「あたしは、シャルル陛下に仕える密偵なの」
アベルは目をぱちくりさせた。「自分を密偵だと公言する密偵など、見たことがない」
「そうね。でも、友だちになるのに、正体を隠すのは失礼でしょう?」カトリーヌは笑顔で右手を差し出し、アベルはそれを握り返した。
「では、こちらのお嬢さんは?」アベルは、アランに目を向けた。
「僕の父さんだよ」と、ジャン。
アベルはきょとんとして、ジャンとアランを交互に見た。カルヴィンはげらげらと笑いだした。アベルは上官を睨み付けた。「ふざけてないで、説明していただけますか?」
「いや、正直なところ、私にもよくわからんのだ。しかし、マルコは彼女の剣技を見て確信していたし、剣王の仲間の一人であるザヒ老師も、太鼓判を押している。従って彼女は間違いなく、剣王アランその人だよ」
アベルは、アランの頭のてっぺんから爪先までじろじろと眺め回し、思い出したように息を飲んで敬礼した。「先王陛下」
「よせ」アランは渋い顔をした。「それよりも、旅支度を始めたほうがいいぞ、中尉。カルヴィンが、お前に休暇を与えるつもりでいるらしい」
アベルは上官に目を向けた。
「彼らは魔界へ向かう途中で、ベアの近くを通るんだ。君も彼らに同行させてもらって、半年ほど自分の領地でゆっくりしてくるといい」
「藪から棒ですね」アベルは目をすがめた。「何を企んでいるんですか?」
「久しぶりに家族と過ごせるんだから、素直に喜べばいいのに」カルヴィンは肩をすくめた。「まあ、実を言えば、我々は魔界を根城にする、とある不穏分子と事を構えようとしているところでな。魔界の入口から近い場所に、信頼できる部下がいてくれれば、何かと都合がいいと考えたんだ」
「そんなことだろうと思いました」アベルはため息をついた。「ルイにも声を掛けておきます」
「ああ、助かるよ」カルヴィンはうなずいた。
「ルイって、誰だい?」と、ジロー。
「ペイル伯爵です。彼と私は友人なので」アベルが答えた。
ジローは、ぽんと手を打った。「そうか、白騎士だ」吟遊詩人は、指を一本立てて続けた。「私が知ってる物語だと、黒騎士のピンチに、白馬に乗って駆け付ける親友の騎士がいるんだ。彼の正体はペイル伯爵だったんだね?」
「さあ」アベルは肩をすくめた。「私は、その物語を詳しく知らないのでなんとも」
「後で聞かせてあげるよ。お代は、あんたの上官から頂戴するのでいいかい?」
「ええ」アベルはにっこりと笑った。「せいぜい、ふんだくってください」
「商談の前に、晩飯にしよう」カルヴィンは提案した。
「ずっと言ってくれないのかと思った」マルコは胃袋のあたりを、さすりながらつぶやいた。
「中尉。食事をしながらで構わないから、ディボーの様子を聞かせてくれるか?」と、カラス。「行く先がどうなっているのか知りたい」
「わかりました。では、食事の用意をしてきます」アベルは敬礼して、部屋を出て言った。
しばらく経って戻ってきたアベルは準備が整ったことを告げ、一同は食堂へ場所を移した。彼らは、素朴だが量はたっぷりある料理をやっつけながら、アベルの報告を聞いた。それによれば、ディボーではここ一週間ほど魔物の被害は出ておらず、着実に町の再建が進んでいるとのことだった。
「もちろん、事件の反省も踏まえて町の周囲には、簡単ではありますが、防柵も整備されることになりました。現在は騎兵五騎による小隊を二個、警備にあたらせているところです」と、アベルは報告を締めくくった。
「すると、もう魔物は出ていないんだな?」カラスがたずねた。
「いえ。巡回中に一匹か二匹は、いまだに見掛けるそうです。ただ、彼女たちはひどく臆病で、騎士の姿を見ると、一目散に逃げ出すとか」
「スイに聞いたんだけど」と、ジャン。
「スイ?」アベルは首を傾げた。
「魔界にあるイゼルと言う王国の王女様だよ。彼女は僕の婚約者で、大切な友だちだったんだ」
アベルは何かを察したように、はっと息を飲んで、ジャンに同情を込めた眼差しを向けた。
「王女は、クセと言う魔族を称する女に殺されたんだ」アランが説明した。「クセは、自分を魔王の分身だと考えていて、実際、魔物を自在に操ることができた」
「彼女は、イゼルの使節になりすまして、メーン公爵と手を組んで、アルシヨンの転覆を謀っていたの」と、カトリーヌ。「そして今は、魔王を殺した剣王への逆恨みから、息子のジャンを狙っているわ」
「とにかく、スイが言うには」と、ジャン。「魔王に操られていない魔物はひどく臆病で、人間の味を覚えた連中を除けば、自分から誰かを襲うようなまねはしないそうなんだ」
「野生の熊と変わりませんね」アベルはつぶやいた。
「いずれにせよ、ディボーとその周辺は、安全と見てよさそうだな」と、マルコ。
「明日には発つんだろう。念のため、護衛に一個小隊をつけようか?」カルヴィンは提案した。
マルコはしばらく考え、アベルに目を向けた。「私の村はどんな様子だ?」
「平穏そのものです。クレマン少尉は村人の希望で残っていますが、もう呼び戻しても問題ないでしょう」
マルコはうなずき、カルヴィンに視線を戻した。「普通の旅人の振りをするとしよう。ここにはまだ、公爵の密偵がはびこっているんだろう? あまり、目立つようなことはしたくない」
「それについては心配するな」カルヴィンは請け合った。「ダミアンとか言うゴロツキが、裏社会の連中をまとめあげて、トレボーにいた将軍派の密偵を一掃してくれたんだ」
「ダミアン?」ジャンはぎょっとして声を上げた。
「知り合いなのか?」カルヴィンはいぶかしげにジャンを見た。
「以前、ユーゴに騙されて、ジャンを誘拐したギャング団の頭目なんだ」カラスが笑いながら言った。「将軍派の密偵を、トレボーから追っ払ってくれると助かるって、それとなく言い含めておいたんだが、ちゃんとやってくれたようだな」
「その見返りとして、私は連中の一部の業務に、お墨付きを与えてやらなければならなくなった」カルヴィンは渋い顔をした。
「下手に恩を着せられるよりは、ましだろう」カラスは肩をすくめた。「裏社会の連中となれ合いたいのなら話しは別だが、後腐れが無ければ聞いといて正解だったと思うぜ」
「ねえ、カラス」カトリーヌが口を挟んだ。「あとで、そのダミアンと渡りをつけてくれない?」
カラスは片方の眉をぴくりと動かした。
「あたしの組織って、裏社会とのパイプがぜんぜんないのが弱みだったの。できれば、あなたから、彼に口をきいてくれると助かるんだけど?」
「いいぜ」カラスは請け合った。「メシが終わったら、夜の散歩としゃれ込もうか?」
食事が終わると二人はカルヴィンの屋敷を出て行き、その夜は戻って来なかった。一行は屋敷で一泊し、日の出になって見送りのカルヴィンと並んで駐屯地の門前で待っていると、カラスとカトリーヌが姿を現した。彼らは若い男を連れていて、ジャンは彼を見てぎょっとした。見覚えのある顔だった。
「ジャン!」男は両手を広げ、笑顔でジャンに歩み寄ってきた。しかし、アランが抜刀して息子を背中にかばうと、男は青ざめて足を止めた。
「よくも、のうのうと顔を見せられたものだな。ダミアン?」アランは剣呑な声で言った。
「よせ」切っ先を突き付けられて、ダミアンは両手を挙げた。「今さら、何もするつもりはねえよ。ちょっと、ジャンに礼を言いたくて連れてきてもらっただけだ」
「礼だと?」
ダミアンはこくこくとうなずいた。「あんたに、真っ二つにされるところだったのを、彼が一発ぶん殴るだけで手打ちにしてくれたんだ。命を救ってくれた礼くらい、言わせてくれてもいいだろ?」
アランは、カラスとカトリーヌをじろりと睨んだ。「説明しろ」
「あたしの組織に手を貸す代わりに、ジャンに会わせろってしつこく言われたのよ」カトリーヌは肩をすくめた。
「ユーゴに対抗するには、彼女の組織にも力を付けてもらわないといけないからな。それくらいの条件なら、別に飲んでも構わないだろう?」と、カラス。「武器は取り上げてるし、仲間も連れてこないって約束だから、心配はいらないぜ」彼は手に提げた剣帯付きの剣を、目の前にかざして見せた。
アランはしぶしぶと言った様子で、剣を背中の鞘におさめた。それでダミアンは、恐る恐るとジャンに歩み寄った。「まあ、その……」彼は顔を赤くして、急に歯切れが悪くなった。「俺も、こんな商売をしちゃいるが、仁義は忘れてねえつもりだ。あの時は、助けてくれてありがとよ」
ジャンは、なんと答えていいものやら分からず、ただうなずいた。
「これは俺の気持ちなんだ」ダミアンはポケットから封筒を取り出した。「どこかで暇になったら、読んでみてくれないか?」
ジャンはうなずき、「ありがとう」と言って封筒を受け取った。ダミアンは晴れやかな笑みを浮かべ、カラスに目を向けた。「あんたにも礼を言うぜ」
カラスは肩をすくめた。「もう、いいのか?」
「ああ。とりあえずは、こんなところだ」ダミアンはうなずいた。
「用が済んだら、さっさと帰れ」と、アラン。
「わかってるよ」ダミアンは眉をひそめて言った。彼はカラスから剣帯を受け取ると、ジャンに手を振って立ち去った。
「いやはや、何とも珍妙な客だったね」ジローがぽつりと言った。彼はジャンに目を向けた。「それで、その手紙にはなんて書いてあるんだい?」
ジャンは封筒を何回か引っくり返してから、それをカトリーヌに差しだした。「開けてもらっていい?」
カトリーヌはうなずき、どこからともなく鋭いナイフを取り出して、封を切った。彼女はふと首を傾げてから、封筒をジャンに返した。
「どうかした?」封筒を受け取りながら、ジャンはたずねた。
「香水の匂いがしたのよ」
封の切り口に鼻を近付けると、確かにいい香りがした。香水のことはよくわからないが、悪趣味なものでないことだけは、ジャンにもわかった。彼は封筒の中から手紙を取り出し、中身を読んだ。何やら詩のようなものが書かれていたが、ひどく難解で、ジャンを尊敬していると言う意味だけが、かろうじて読み取れた。
「どうかしたのかい?」ジャンが四苦八苦していると、ジローがたずねた。
「さっぱり意味がわからないんだ」
「読ませてもらっていいかな?」
ジャンはジローに手紙を渡した。ジローは手紙に目を通し、しばらくすると身体を曲げて、くっくと笑い出した。「こりゃあ、恋文だね」
「恋文?」ジャンは素っ頓狂な声を上げた。
「間違いないね。しかも、実に見事なもんだ。直接的な表現をうまく避けて、まるで小鳥がさえずるようなリズムで、美しく文章を作り上げている」ジローはジャンに手紙を返して言った。「いやはや、あのゴロツキに、こんなロマンチックなものが書けるとはびっくりだ。さすが、腐っても元貴族だね」
「えーと」ジャンは混乱しながら言った。「僕も彼も男だよ?」
「そう言う恋愛を、とても高尚なものだと考える人もいるの」カトリーヌは苦笑いを浮かべて言った。「でも、あたしも詳しくはないから、あれこれ聞かないでちょうだいね」
ジャンは、しばらく考え込んでから口を開いた。「どうやって返事を書いたらいいかな?」
「放っておけ」アランはむすっとして言った。
「私も、そうした方がいいと思う」マルコはしかめっ面をして見せた。彼は禿頭の親友に目を向けた。「そろそろ行くとするよ。いい加減、歩き出さないと、ディボーの手前で野宿することになる」
「ああ。道中、気を付けてな」カルヴィンはうなずいた。彼は部下に目を向けた。「クタンに着いたら、ジャンヌによろしく伝えてくれ。一応、言っておくが、お前に預けた手紙は恋文じゃないからな?」
「もし恋文だったりしたら、私の首が塩漬けになってトレボーへ届くでしょう」アベルは断言した。
「それは、あんまりじゃないか?」カルヴィンは傷ついた顔をした。
一行は、それぞれ馬と荷馬車へ乗り込み、カルヴィンに別れを告げて出発した。御者台の上で、ジャンはもう一度、ダミアンからの手紙を広げて読んだ。放っておけと言われたものの、せっかくもらった手紙に返事を書かないのは、ひどく申し訳ない気がしてならなかったし、何より紙に書かれたものを理解できないと言うのが口惜しかった。
クセにユーゴ、それに新公爵のマリユスと、頭を悩ますことは多々あったが、今の強敵は間違いなくダミアンからの手紙だ。どうにかして、やっつける方法を見付けなければならない。しかし、旅の仲間に彼を助けられる人物は見当たらなかった。おそらくジローであれば、わかりやすく解説してくれるだろうが、言葉のプロである彼に頼むのは、少々ずるいように思えた。彼は手紙を畳み、封筒へ戻してポケットへ突っ込んだ。彼が知る限り、この手の物に詳しい人物は、一人しかいなかった。そして、彼女に会えるのは、もう間もなくのことだった。




