13.魔族
スイの胸に残された傷口から、一滴も血がこぼれないのを見て、ジャンは目の前で起こった一連の出来事が、実は彼女の手の込んだいたずらなのではないかと考え始めた。きっとジャンが駆け寄って、まんまとひっかかったよと笑って言えば、スイはその胸にぽっかり空いた穴の種明かしをして、全て元通りになるに違いない。それなのに、マルコは彼を羽交い締めにして、放そうとはしなかった。彼には見えていないのだろうか。スイは、とても楽しそうに笑っているのだ。そして彼女は、その笑顔で「おやすみ」と言った。まるで明日の朝があるかのように、彼女は笑って言ったのだ。おや、クセが王女を突き飛ばしたぞ? もう、お芝居だってわかってるんだから、そこまでしなくてもいいのに。ああ、そうだ。シャルルは言ったではないか。ジャンには、物事を見通しすぎるきらいがあると。つまり、ジャンはまだ、気付いてはいけなかったのだ。彼は、もっと驚いて見せなければならない。そうすれば、彼女はもっと喜んでくれるはずだ。
「しっかりしろ、ジャン」マルコが厳しい声で言った。「お前がやるべきことは、もっと別にあるんじゃないのか?」
頭の中で、ごちゃごちゃに乱れていた出来事や考えが、しぶしぶと整列を始めた。思考は水車に繋がれた粉挽き機のように回転し、全てが手遅れなのだと言うことを、ジャンに理解させた。イゼルの二人の使者がそうだったように、スイも間もなく魔物に姿を変えてしまうだろう。つまるところ、ジャンの混乱はただのわがままだった。起こり得ることを「しかたがない」と割り切ってしまえる、自分の冷酷さを認めたくなかっただけのことだ。彼はじたばた暴れるのを止めて、「もう、大丈夫」と言った。マルコは、ふとため息をついてジャンを解放した。
「武器はある?」ジャンはたずねた。
「いや、議場へ入る前に置いてきた」
ジャンは辺りを見渡した。ぱきぱきと枯れ木を踏む音が聞こえてくるが、そちらへは目を向けなかった。スイが変わっていく様子など、見たくはなかった。カラスの姿は、いつの間にか消えていた。ジローは青ざめた議長を連れ、クセや魔物の注意を引かないよう、じりじりと議長席から離れている。間もなくジャンは、玉座の脇の壁に掛かる巨大な戦斧と剣を目に捉えた。
「陛下、あれって使えるんですか?」ジャンは武器を指さした。
「どうかな」シャルルは首を傾げた。「我が輩が知る限り、百年以上前からあそこにあるらしい」
「無いよりはましって程度か」マルコはうなった。
「何をこそこそやってるのかしら?」クセが言った。
ジャンがしぶしぶそちらを見ると、スイは今や、馬ほどもある巨大なスズメバチになり果てていた。がちがちと大顎を打ち鳴らし、時折、水に広がった油膜のような虹色の翅を震わせハミングする。その翅の間にはスイの腰から上の半身が生えていて、申し訳程度にぼろきれをまとった半裸の少女が、虚ろな笑みを浮かべながら、ぼんやりと宙を眺めている。
ジャンは恋人から目を引きはがし、そのかたわらに立つ侍女に目を向けた。クセは口元に冷たい笑みをはり付かせ、ハチの巨大な複眼を左手で撫でていた。メーン公爵はクセの背後にぴたりとついて、間近にいる魔物を落ち着かなげにちらちらと見ている。
「何を、やっているの?」クセは、もう一度訊いた。
「お構いなく」と、ジャンは言った。「あなたをやっつける方法を考えてるだけだから、放っておいてくれるかな?」
「おい、ジャン」シャルルはぎょっとして甥をたしなめた。「吾輩たちは、いささか不利な立場にあるのだぞ?」
しかし、ジャンは聞く耳を持たなかった。マルコはジャンの考えを読んでいる様子で、王に向かって「黙っていろ」と短く言った。ジャンの挑戦的な口ぶりは、もちろんわざとだ。今はとにかく、彼女の注意を引きつける必要がある。そして、おそらくそれに適任なのは、ジャンなのだ。クセは、どう言うわけか魔物を操る事が出来るようだった。つまり彼女は、魔王と何らかの関わりがあると言うことだ。そうであれば、魔王を殺した剣王の息子であるジャンを、無視できるはずがない。
「あら、面白そうね」クセは短剣を持った右手を高く掲げた。スズメバチの魔物とムカデの魔物は、そろってジャンを向いた。「試してみる?」
やりすぎたかと、ジャンは一瞬後悔した。「あー……今は止めておくよ。まだ、いいアイディアが浮かんでないんだ」
クセが手を振り下ろせば、彼らは一巻の終わりだ。かと言って、武器を取りに行く暇もありそうになかった。スズメバチはどうか知れないが、ムカデの魔物がどれほど素早く動けるかはジャンも知っている。少なくとも、議員席側の出口の前でとぐろを巻いているやつは、そうだった。そして、魔物たちがいる場所から、ジャンたちがいる議長席までは、せいぜい二〇フィートかそこらしかないのだ。
「一つ、聞いてもいいか?」不意にアランが口を開いた。剣を持たない彼女は、ジャンの目にひどく頼りなく映ったが、本人は泰然としていて、怯えや動揺はまったく見えなかった。
「何かしら?」クセは少女に目を向け、首を傾げた。
「お前はなぜ、人の身で魔物を操れる?」
クセは、ゆっくりと右手を降ろし、アランをしげしげと眺めてから鼻を鳴らして言った。「私は、人などではないわ。魔王様の分け身を授かった、魔族よ」
「なるほどね」黙って成り行きを見守っていたジョゼットが、のんびりと言って、スズメバチの上で微笑むスイの姿をちらりと見た。それから彼女は、声にそれとなく嫌悪を込めて言った。「確かに、人間にできる所業ではないわね」
「素晴らしいでしょう?」クセは満面の笑みを浮かべた。
ジョゼットは何も答えず、肩をすくめた。
「今、魔王って言ったよね?」ジャンは話しに割り込んだ。「でも、彼女は死んだはずだよ。確か、僕の父さんが殺したんだ」
「そうよ」クセは認め、憎しみのこもったぎらぎら光る眼差しをジャンに向けた。「でも、魔王様は本当に死んだわけではないわ。彼女の亡骸が朽ちる前に、私たちはそれをいくつにも分け、それぞれを我が身に取り込んだの。魔王様の欠片は私たちの血肉に養われ、今も生き続けている。そして私たちは、無数の魔王となって、あなたの家族や、村や、町や、国を滅ぼし、卑しい剣王の血に復讐するの。あなたを殺すのは、その後よ」
「僕が、それを黙って見ていると思う?」
「あら」クセは嘲笑を浮かべた。「ついさっき、あなたは恋人が殺されるのを黙って見ていたのよ。そんなあなたに、何ができるのかしら?」
クセの言葉は棘のように胸を突き刺したが、ジャンはあえて穏やかな声で言った。「色んなことだよ、クセ。僕は、色んなことができるんだ」
「無理よ」クセは鼻先でせせら笑った。「これから、あなたは捕らわれて、私の主のもとへ行くの。そして、あなたは彼のもとで、豚のように糞を食らいながら、主が頃合いだと思うその日まで生かされ続けるのよ。豚にできるのは、ぶうぶう鳴くことだけだわ」
ジャンは、わざとらしくため息を落とした。「そうか、あなたは何も知らないんだね」
クセは不意に用心深くなって、ジャンを探るように見つめた。彼女はしばらくそうやった後、ようやく口を開いた。「何のこと?」
「豚はぶうぶう鳴くだけじゃない」ジャンはもったいぶって、指を一本立ててから言った。「美味しいベーコンになれるんだ」
クセはあっけにとられた様子で、ぽかんと口を開けた。ジャンの横で、マルコが口元を押さえて笑いをこらえている。ジョゼットは身をよじって壁を叩き、アランもにやにや笑いを浮かべていた。
「屁理屈を……!」クセが顔を赤くして、何事かを言い返そうとした時だった。メーン公爵の背後にカラスがぬっと現れ、公爵を背中から引き倒すと、クセの首元めがけて反りのある片刃の短い剣を素早くふるった。クセは歯をむき出し、スイの胸を貫いた短剣を振ってカラスの攻撃を払った。
カラスの奇襲は失敗に終わったが、意外なところで味方が現れた。クセを守ろうと、スズメバチが大顎を開いて素早くカラスを向いたのだ。その拍子に魔物は巨体を自分の主にぶつけ、クセは床の上に倒れ込んだ。
アランが飛び出すのと、ジャンが振り向いて叫んだのは、ほとんど同時だった。「おじさん!」
二人のおじはジャンの声を聞いて、弾かれたように壁へ駆け寄った。彼らは、そこに掛けられていた人の背丈ほどもある戦斧をそれぞれ手にすると、雄叫びを上げてムカデの魔物に襲い掛かった。アランは床を転がり、イゼルの使者たちが自分たちの胸を刺した短剣を両手に引っ掴んで、スズメバチと戦うカラスの援護に向かった。
こうなると、もうジャンの出番はない。彼はこそこそと身を引いて、ジローと議長のそばへ行った。
「お見事」議長がにやにやしながらジャンを褒めた。「いささか、ひやひやしましたが、挑発的な言動はこのためでしたか。特に豚についての解説は笑えましたな」
「あの姉ちゃん、目を白黒させてたね?」ジローは愉快そうに言った。
「カラスがいなくなってたから、きっと何かを企んでるんだろうと思ったんだ。うまく彼女の注意を引けてよかった」ジャンはため息をついた。本当は、憎まれ口の一つも投げ付けてやりたかったが、そんなことをしてもクセは屁とも思わなかっただろう。ジャンは彼女を会話に引き込まなければならなかったし、会話は人を注意散漫にさせる効果があるのだ。何より今の状況は、罵詈雑言よりも、彼女をひどく苛立たせているに違いない。
ジャンが戦いに目を向けると、マルコとシャルルは協力してムカデ退治に当たっているところだった。マルコが正面に立ってムカデの注意を引きながら、毒牙で咬み付こうとする相手の攻撃を戦斧の巨大な刃や頑丈な柄でいなし、その隙にシャルルが魔物の背後に回り込んで、尻尾から節の辺りを狙って叩き斬っていた。そして、ムカデがいら立たしげにシャルルを攻撃しようと頭を巡らせると、今度はマルコが戦斧を大きく振り回し、無防備になった首元を狙って攻撃を加えるのだ。おっつけ、ムカデの魔物は二人に寸刻みにされて息絶えるだろう。
一方、アランとカラスは苦戦していた。二人はスズメバチの攻撃を巧みな体術でかわしているが、彼らの小さな武器では魔物の硬い甲殻を貫くことが出来なかった。しかし、二人の大立ち回りのおかげで、床に転がったクセは、かぎ爪の生えたハチの足に踏み潰されないよう逃げ回るのに必死だったし、メーン公爵は魔物に蹴られて一〇フィートほど宙を飛び、議員席の机の上で毬のように跳ねてから、床へ落っこち机の下に転がり込んで見えなくなった。
なかなか愉快な見物だったが、帽子を落として長い髪を見苦しく乱したクセが、スズメバチの足の間からどうにか転がり出ると、形勢は怪しくなり始めた。
「ちびとガキは放っておきなさい」クセはスズメバチに命じた。「それより剣王の息子を捕まえるの。でも、怪我をさせてはだめよ。魔王様は無傷の彼をお望みなんだから」
スズメバチは攻撃を止め、ジャン目がけて突進した。しかし、シャルルが素早く針路に割り込み、戦斧を振って魔物の動きを止めた。それを見て、クセがいら立たしげに舌打ちした。彼女は議員席の後方にある出口の前で、とぐろを巻いているムカデの魔物に目を向けた。「おまえも行きなさい。王を殺すのよ!」
ムカデは椅子や机や議員を薙ぎ払いながら、シャルルに向かって突進した。難を逃れた幸運な議員たちは、我先にと番人がいなくなった扉を抜けて議場の外へ逃げていった。
「アラン、シャルルを頼む。こっちはなんとかする」カラスは刃を構え、クセを睨み据えながら言った。アランは両手に短剣を構え、スズメバチの魔物に突進した。しかし魔物は、巨大な複眼で背後からの攻撃を見て取ったのか、くるりと向きを変えてアランの剣を頑丈な頭で受け、弾いた。アランは舌打ちをしてから態勢を立て直し、魔物に対峙した。
「そいつは任せるぞ」王はアランに言って、襲い掛かってきた二匹目のムカデを迎え撃った。
敵を取り上げられたカラスは、短剣を閃かせてクセに襲い掛かった。ところが、彼女は魔物以上に手強い相手だった。魔族の女はスカートや長い髪で目眩ましを打ちながら、フェイントを交え、カラスの急所を的確に狙ってくる。カラスはクセの攻撃を際どいタイミングでかわすと、大きく後方へ飛び退いて間合いを取り、歯をむき出して鋭く息を吐いた。二人は間合いを保ったまま見えない軸を中心にゆっくりと輪を描いて回り、互いに突進して攻撃を応酬した。その動きは戦いと言うよりも、いっそ複雑なステップを踏むダンスのようだった。
「ジャン様」モランがジョゼットを連れて、ジャンたちのそばへ駆け寄って来た。彼は戦場をちらりと見てから言った。「逃げ出すなら今です。魔物もあの女も自分の事に手一杯で、きっと追っては来られませんので」
「出口ならすぐそこだよ」ジローが扉を指さして言った。それは議場の構造的に、スイやマルコたちが入ってきた扉と対になるもので、もちろんジャンもその存在はとっくに知っていた。しかし、彼にはどうにも引っ掛かることがあった。
ジャンは議員席の方へ目を向けた。立って歩ける者は、魔物が通せんぼしていた扉から逃げ出したようだが、めちゃくちゃになった机や椅子に混じって、意識の無い議員が何人も転がっている。ジャンは、ぽかりと開いた扉をすがめた目で見つめた。やはり、何かがおかしかった。
「彼らを助けてる余裕なんてありませんよ」ジョゼットは言って、そっとジャンの肩に手を置いた。「急ぎましょう。我々がいても足手まといです」
ジャンが頷くと、一足先にジローが扉へ駆け寄り、それを開けた。しかし彼は足を止め、両手を挙げて後退りを始めた。その理由はすぐに分かった。フードで顔を隠した一団が、剣を構えて議場に入って来たのだ。ただならぬ様子を見て取ったジョゼットとモランが、ジャンと議長を素早く背にかばった。
ジャンは、ようやく違和感の正体に気付いた。これだけ大騒ぎをしているのに、外から様子を見に来る者が一人もいないと言うのは、いくらなんでも異常だ。そうとなれば、この議場はとっくに誰かが包囲していて、恐らくは警備の兵士すら近付けずにいるのだろう。あるいは、王宮そのものが占拠されている可能性もある。
男の一人が、さっとフードを跳ね上げた。それは、ジャンがよく知る顔だった。
「妙なところで会うな、道化師?」ユーゴはにやりと笑って言った。彼はジョゼットの後ろに隠れていたジャンを目ざとく見つけた。「それと、小僧」
「ユーゴ」両手を挙げたジローが後ろ向きのまま、器用に小走りでジャンたちのところまでさがった。「なんで、あんたがこんなところにいるんだ?」
「仕事だよ、道化師」ユーゴは肩をすくめた。「メーン公爵は傭兵どもが突入するまで、ここから誰も出したくないそうだ。もっとも、肝心の傭兵は遅刻しているようだが」彼は、魔物たちが暴れる議場の反対側を見て鼻を鳴らした。「すると、あの女が魔物を操れると言ったのは、嘘じゃなかったわけか。伯爵とちびの商人と剣士の娘も揃っているようだな。公爵はどこだ?」
「最後に見た時は、でっかいハチに蹴られて空を飛んでたよ」ジローが教えた。
ユーゴは舌打ちした。彼は手下の一人に目を向けた。「公爵を探して来い。見付けたら外へ連れ出すんだ」
フードを被った密偵は、ひとつ頷くと議員席の方へ走り去った。
「あなたは、ブルネ公爵の密偵だって聞いたけど?」ジャンはたずねた。
「ああ、そうだ」ユーゴは認めた。
「二重スパイね」ジョゼットが目をすがめて言った。
「なんだっていいだろう」ユーゴは鼻を鳴らした。彼は手下たちに命令した。「小僧を適当に痛めつけて縛り上げろ。残りは殺しても構わん」
フードの男たちが剣を突き付け、じりじりと迫って来た。
「どうして僕を捕まえようとするの?」ジャンは急いで訊いた。
ユーゴは顎をしゃくって、カラスと戦うクセを示した。「あの女が、お前をご所望らしいからな。もっとも、彼女はお前が自分の探し人だとは知らないようだから、メーン公爵は魔族と有利な取引をするために、お前の身柄を押さえておくつもりなのさ」
すると、ユーゴは知らないのだ。メーン公爵の企みが、とっくに破たんしていることを。「クセはもう、僕が剣王の息子だって知ってるよ?」
「なんだって?」ユーゴはぎょっとして聞き返した。
「ついさっき、おじさんとシャルル陛下が、ここでみんなにそのことをばらしたんだ」しゃべりながら、ジャンは素早く密偵の数を数えた。目の前にいる相手は五人。数の上では互角だが、こちらは老人と女子供しかいない。まともに戦えそうなのは、アランやマルコと肩を並べて森のならず者に立ち向かったジローくらいだが、いかんせん武器がなかった。「そんなわけだから、もう僕を追い掛け回すのは止めにしない?」
「はい、そうですか、と言うとでも思ったか?」ユーゴはジャンの申し出をせせら笑った。
「まあ、そうだよね」ジャンは肩をすくめた。「でも、僕だって素直に捕まるつもりはないよ」彼は、やにわに踵を返して全力走り出した。背後から、いら立たしげなユーゴの舌打ちと、命令を叫ぶ声が聞こえた。「二人行け。小僧を逃がすな!」
しかし、ジャンは逃げ出したわけではなかった。彼が向かった先は玉座の横で、そこに掛かっていた剣を引っ掴むと、振り向きざまに刀身を横薙ぎに払った。手ごたえがあって、追ってきた密偵の一人が吹っ飛ばされ床に転がり気を失った。どうやら闇雲に振ったせいで、刃ではなく平たい部分が当たってしまったようだ。ジャンは追ってきたもう一人の密偵に向かって、剣をぶんぶん振り回しながら突進した。剣の使い方を知らなくても、七フィート近い鉄の塊はそれだけで脅威だ。密偵はぎょっとして飛び退き、ジャンに道を譲った。
追っ手が二人しか来なかったことを、ジャンは少なからず不満に思った。追っ手が多ければ多いほど、ジョゼットたちが逃げ出す機会を作れたかも知れないからだ。そうとなれば、ユーゴがもっと多くの追っ手を、差し向けたくなる状況を作るしかない。ジャンは剣を振って追っ手を威嚇しながら、後ろ向きに議員席の方へ向かった。そこはムカデの魔物が通った時に机や椅子を薙ぎ払ってくれたおかげで、出口へ続く幅が七フィートほどの広々とした通路になっていた。ジャンは、追っ手からじゅうぶん離れたところで、その道を駆け出すつもりだった。しかし彼は、ひとつ大事なことを見落としていた。
不意に、何者かが脇から飛び出してきて、ジャンを押し倒した。それは、ユーゴに命じられてメーン公爵を捜索中の密偵だった。密偵はジャンに馬乗りになり、フードの下で凶悪な笑みを浮かべ、振りかざした拳でジャンの頬を殴りつけた。ジャンの視界に星が散り、一瞬、気が遠くなった。
「お前たち、何をしているの?」クセが叫んだ。「私の獲物に手を出したら、承知しないわよ」
「俺たちはメーン公爵の部下だ」ユーゴが応じた。「もちろん、その小僧は捕まえたらあんたに譲るとも」
クセの返事は無かった。剣戟の音が響いているところを聞けば、おそらく彼女にその暇は無いのだろう。そして密偵が、ジャンにもう一発くれようと拳を振り上げた。その時だった。唸るような音が響き、オレンジと黒の縞模様がジャンの上を通り過ぎた。ジャンに馬乗りになっていた密偵の姿は消え、少し離れた場所で短い悲鳴と、骨が砕けるおぞましい音が聞こえてきた。ジャンが身体を起こしてそちらへ目を向けると、虹色の翅をぶんぶんうならせ、ぐったりと動かない密偵をくわえて空中にとどまる魔物と目が合った。スズメバチはどすんと着地してから、密偵を捕らえる大顎に力を込め、容赦なく閉じた。血が飛び散って蜂の顔を汚し、胸の辺りで真っ二つになった密偵の身体が、湿った音を立てて床に転がった。さらに蜂の怪物はジャンにお尻を向け、彼を追ってきたもう一人の密偵に飛び掛かった。彼女は密偵の身体を長い足で抱え込み、横倒しになった格好で卵形のお尻を背中の方に曲げてから、毒針を暴れる獲物の腹に突き立てた。密偵は痛みに絶叫し、全身を引きつらせて大量の血を吐きながら絶命した。
ユーゴと残りの密偵たちは、仲間を殺した魔物をぽかんと眺めていた。その隙を見るや、ジョゼットが素早く手を振った。銀色の光が二条、空中を走り、ひとつは密偵のフードの中に吸い込まれた。密偵はがくんとのけ反って、フードを背中に落とした。彼の左目からは、刃が根元まで埋まったナイフの柄が飛び出していた。密偵は膝から崩れ落ち、床に倒れ込んだ。それとほとんど同時に、ユーゴが「くそったれ!」と叫んだ。彼は剣を取り落とし、右肩に刺さったナイフを引き抜いて床に投げ捨てた。
間髪を入れず、モランが身を低くしてユーゴに突進した。武器を失ったユーゴを守ろうと、最後に残った手下が剣を振りかざして侍従に襲いかかった。モランが振り上げた左手には、いつの間にか奇妙な形の武器が握られていた。それは一フィート半ほどの棒で、一方の端に短い握りが垂直に付けられており、モランは腕に添わせた長い方の棒で、密偵が振り下ろした剣を受け止めた。モランの右手には同じ武器が握られていて、彼は柄を中心に棒を回転させ、先端を肘から拳の方へ突き出させると、それを棍棒のように振って密偵の側頭部を殴り、卒倒させた。侍従はさらに、流れるような動きでユーゴに攻撃を仕掛けるが、ユーゴは素早く飛び退いてそれを避け、背中を見せると扉を抜けてあっさり逃げ去った。
「手強いですね」モランは呟いた。「若いのに、退き時を心得ている」彼はジョゼットに目を向けた。「お嬢さま、いささか狙いを外されましたね?」
「ええ」ジョゼットは認めた。「ちょっと魔物の方を気にしすぎたわ」そう言って、ジャンの方へ目を向けた彼女はすっかり人相が変わっていて、その顔は紛れもなく密偵のカトリーヌだった。
しかしジャンに、それを驚いている余裕はなかった。かつて恋人だった魔物が、彼の目の前にいるのだ。彼女は今、お尻をこちらへ向けているが、くるりと振り返れば、ちっぽけな少年など凶悪な大顎で真っ二つにしてしまうだろう。
これは、まったくの予想外だった。いや、クセはジャンを無傷で捕らえたい様子だったから、何らかの手を打って来るだろうとは考えていた。しかし、魔物が主の命令もなしに彼を助けに来るとは思ってもみなかった。
ジャンは魔物を刺激しないよう、座り込んだまま床に転がった大剣にそっと手を伸ばした。ハチの節のある卵形のお尻は、頭よりもずっと殻が薄そうに見える。この剣で不意を突けば、あるいは傷の一つもつけられるかもしれない。実際、そこにはアランが付けたであろう、一フィートほどの切り傷があって、魔物のどす黒い体液が流れ出している。
いや、とジャンは首を振った。スズメバチの巨大な複眼が作る広い視界は、おそらくジャンの動きなどとっくに捉えているだろう。今は魔物もそっぽを向いているが、彼が妙な動きを見せれば気が変わって攻撃してくるに違いない。それに、剣を知らないジャンでは、じゅうぶんな痛手を与えられるか、怪しいところだった。
間もなくして、そもそもの魔物の相手だったアランが、息を切らして駆け付けた。少し遅れてモランとカトリーヌもやって来る。
「ジョゼット?」アランが片方の眉を吊り上げた。
「今はカトリーヌよ」女密偵はにやりと笑った。彼女は、がちがちと大顎を鳴らして威嚇してくる魔物に目を向けた。「一体、何があったの?」
「さあな」アランは肩をすくめた。「私よりも、こっちの方に気がかりな事があったようだ。それは腹を斬られても、それどころじゃないと思えるくらい、重要な何からしい」
「それで、どうするの?」カトリーヌはたずねた。「これじゃあ、うかつに手を出せないわ。あたしたちが、ここで大立ち回りを始めたら、彼を巻き込んでしまうもの」
「わかっている」アランは頷いた。「そもそも、こいつは私のちっぽけなナイフでどうにかできる相手じゃない。だから我々が魔物の気を引いて、その隙に彼を、そこの出口から逃がすしかないだろう」
しかし、カトリーヌは首を振った。「ユーゴがいたのは知ってるでしょう? どうにか追っ払えたけど、彼は手下を使って議場を包囲してたみたいだから、今はジャンを一人で外に出すのは危険だわ」
アランは悪態をついた。
「お行儀が悪いわよ」カトリーヌがたしなめた。
「はい、お母さん」
「ちょっと、やめてよ」
「ねえ。ふざけてないで、なんとかして」ジャンは泣きついた。
しかし、先にしびれを切らしたのはクセだった。
「何をしているの」彼女はカラスの攻撃を捌きながら、いらいらと言った。「さっさとそいつらを殺して、ジャンを捕まえなさい!」
ジャンは、はっと息をのんだ。スズメバチの魔物が、文字通り飛んできた理由をようやく理解できたのだ。ならばとジャンは剣の柄を握って立ち上がり、魔物に背を向け議員たちが逃げ出した出口に向かって駆け出した。
「逃がすな!」再びクセの命令が飛んだ。蜂の魔物は飛び上がり、ジャンと出口の前に降りて立ちはだかった。ジャンは魔物を見据えながら、じりじりと後退り、目論み通り仲間たちと合流することに成功した。
「アラン」と、ジャンは仲間の少女に言った。「僕の剣なら、彼女を倒せないかな?」
アランは黙って頷いた。少女は短剣を投げ捨ててから、自分よりも巨大な剣をジャンから受け取り、それを上段に構えた。そして前触れもなく跳躍すると、一気に間合いを詰めてから鋭く気合いを発し、魔物に斬りかかった。アランがふるった刃はあまりにも速く、ジャンの目には空中に浮かぶ銀色のしみにしか見えなかった。
魔物が、その一撃をかわしもせず、甘んじて受けた理由はわからない。かわせなかったのか、あるいは自分の甲殻の硬さを過信したのか、それとも他の何かがあったのか。いずれにせよ巨大な刃は、頑丈なスズメバチの頭部を真っ二つに断ち斬り、背中の上のスイを絶叫させた。アランは、どす黒い体液を振りまきながら大暴れする魔物から一旦離れ、今度は剣を水平に構えると、驚異的な跳躍力で蜂の背中に跳び乗り、「御免」と言って、わめき続けるスイの心臓の辺りに切っ先を突き立てた。スイは叫ぶのをぴたりと止め、こと切れた。
どうと横倒しになる魔物の身体から、アランは飛び降りた。彼女はジャンのそばへ歩み寄り、少年の胸を拳の背で軽く叩いた。「みんなを手伝ってくる」彼女はそう言うと、大剣を担いでムカデと戦うシャルルの方へ駆けていった。
ジャンは、息絶えた魔物に歩み寄った。カトリーヌが止めようと手を伸ばすが、ジャンはその手を払いのけ、動かないスイの身体の横に跪いてから、彼女の目に手を当てまぶたを閉じてあげた。
「彼女は、僕を無傷で捕まえるように、クセから命令を受けてたんだ」ジャンは誰ともなく言った。「だから、ユーゴの部下に殴られた僕を見て、慌てて飛んできたんだろうね」不意に視界がぼやけた。彼は背後に立つカトリーヌに目を向けた。「それとも、魔物になってもまだ、彼女が僕のことを覚えていて、ひどい目に遭いそうだった僕を、助けてくれようとしたって考えるのは、ちょっと都合よすぎかな?」
カトリーヌは、ただ黙って首を振った。
「そう?」ジャンは顔をくしゃくしゃにして笑った。「じゃあ、そう考えておこうかな」彼はスイの頬にキスを一つくれてから立ち上がり、袖口で涙を拭った。




