表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
プリンセスコード  作者: 烏屋マイニ
魔王の復活
11/46

11.スイ

 スイはにこやかに握手を交わしながらも、突如現れたアランと言う少女を疑わしく思っていた。彼女とジャンは恋人同士であることを否定したが、スイはそれをあっさり信用するほど、うぶ(・・)ではないのだ。なんと言っても二人は、ただの友だちと言うには、あまりにも仲が良すぎた。

 モランが王のもとへ戻ると、ジョゼットは子供たちに他の場所へ移動することを提案した。スイとしては、このまま庭園を巡るのも悪くないように思えたが、ジョゼットには別なプランがあるようなので、スイはそれを受け入れ、ジャンも異論をはさまなかった。

 ジョゼットを追って、宮殿のきらびやかな廊下を歩きながら、スイは、ますますアランへの疑惑を深めた。それと言うのも、アランがジャンの右隣にぴったりついて歩いていたからだ。二人の間に置かれた距離は、せいぜい三フィートかそこらしかない。アランはジャンの護衛を称していたが、スイはそれを、彼女がジャンの近くにいる合理的な理由になるとは考えていなかった。護衛の兵を気取るなら、もう少し距離を取り、要人の後ろを控えて歩くべきなのだ。

「ねえ、どうしてそんなにくっついて歩くの?」スイは、ジャンの左腕に絡めた自分の腕に力を込め、アランにたずねた。

 するとアランは、「三度だ」と答えた。

 意味がわからず、スイはきょとんとした。

「これまでにジャンは、三度も誘拐されている。そのうち最初と二回目の下手人は未だに捕らえられていないし、事件の裏に、とある有力な貴族がいることもわかった。私は四度目の誘拐を許すつもりはないし、そのために彼から三フィートより遠くには離れないと約束をしたんだ」

 スイは足を止め、目を二、三度ぱちくりさせた。「最後の犯人はどうしたの?」

「カトリーヌだよ」と、ジャンが言った。「僕は彼女に誘拐されて、ここへ来たんだ」

 スイは眉をひそめた。「どうして、そんなことに?」

「僕の養い親のマルコおじさんは、シャルル陛下を嫌っていて、僕と陛下を会わせたくないって考えていたんだ。陛下に僕を連れてくるように頼まれていたカトリーヌは、おじさんを説得するのが難しいことに気付いて、誘拐って方法を選んだってわけさ。でも、結局おじさんは、僕がここへ残って皇太子になることを認めたから、彼女はおとがめなしってことになるかな?」

「お仕置きの一つも、くれてやりたいところだがな」アランは鼻を鳴らした。

「お尻でもひっぱたくの?」ジャンは苦笑してたずねた。

「それも悪くない」アランは真顔で言った。

 スイは、まじまじとジャンを見つめた。「あなたって、ずいぶん危ない目に遭ってきたのね?」

「そうみたいだね」ジャンは他人事のように言って、肩をすくめた。「でも、理由がさっぱりわからないんだ」

「あなたが王子様だからじゃない? 暗殺や襲撃は、王子や王女につきものよ」スイは断言した。「私も、ここへ来る前に襲われたもの」

 ジャンはぎょっと目を見開いた。「どういうこと?」

「国境を越える少し前、賊の襲撃にあったの。襲ってきた連中は、シャルル陛下への献上品には目もくれないで、私を殺そうとしたわ」

「追い剥ぎや野盗の類ではなさそうだな」アランが呟く。

「たぶん、魔王崇拝の狂信者ね」スイは頷いて言った。「彼らは剣王様に、ちょっとでも関わりのあるものを毛嫌いしてるの。きっと、アルシヨンの王室に嫁ごうとする私が許せなくって、殺しにやってきたんじゃないかしら」

「それで、どうなったの?」ジャンは心配そうに先をせかした。

「よくわからないの」スイは首を振った。「気が付いたらモンルーズ辺境伯のお城にいて、私と一緒にいたのはクセと、使者が二人だけだったわ。他の人たちはどうしたのかって訊いたけど、クセは教えてくれなかった」

 奇妙なことに、襲撃を受けている最中の出来事を、スイはほとんど覚えていなかった。わずかに残っている記憶は、悲鳴と混乱と、何かひどく恐ろしいことが起こったと言う漠然としたイメージだけだ。もっとも、それは彼女にとって救いでもあった。姿を消した者たちの中には、見知った顔かいくつもあった。もし、彼らの末路をはっきり覚えていたとしたら、今頃は悲しみに打ちひしがれて、自分の務めを果たせずにいたかも知れない。

「君の方が、よっぽど危ない目に遭ってるじゃないか」ジャンは眉をひそめて言った。「シャルル陛下は、そのことを知ってるの?」

「ええ、クセが話したわ」

「でも、君たちは護衛を連れてないよね」ジャンは指摘した。「陛下が、そんな目に遭った君を、放ったらかしにするなんて思えないんだけど?」

「陛下から護衛を付けるって申し出はあったけど、クセが断ったの」スイは肩をすくめた。「王女の護衛は自分だけでじゅうぶんだって」

「クセさんって、そんなに強いの?」ジャンは目を丸くした。

「戦ってるところを見たわけじゃないけど、あの襲撃から私を守って生き延びたんだから、きっと強いんじゃないかしら。それに、さっきも言ったけど、私が自分の部屋を出るのはシャルル陛下に会う時だけなの。行き先は広間か食堂くらいで、大抵は陛下の護衛が近くに控えてるから、危険なことなんて起こりようがないわ」

 ジャンは、難しい顔をして考え込んだ。ほとんど銀色に見える淡い金髪が、うつむく彼の頬に一筋掛かっていた。スイは、それに触れて整えてあげたいと言う衝動を懸命に抑え込んだ。

「どうしてクセさんは、僕たちが探検することを許してくれたんだろう?」ジャンは顔を上げて言った。「ここには陛下の護衛の兵士はいないし、彼女はアランが合流することも知らなかったはずなんだ」彼は女中に目を向けた。「ひょっとして、ジョゼットさんがものすごく強いとか?」

「強いかどうかはわかりませんが」ジョゼットは、一言ことわってから続けた。「王室付きの使用人なら、誰でも多少の訓練は受けてますので、襲われても盾くらいにはなれますよ」

「つまりクセさんは、それを知ってて僕らを行かせてくれたのかな」ジャンは、まだ納得がいかない様子だった。彼はふと眉間にしわを寄せて言った。「でも、友だちを盾にするなんて、あまり楽しい話じゃないね?」

「あらまあ」と、ジョゼットは目を丸くした。「一応、王子様なんですから、使用人を友だち呼ばわりするのはよくないですよ」そして、彼女はふと笑みを浮かべた。「私は嬉しいですけど」

 スイは二人のやりとりを見て、油断ならないのは周囲の女性ではなく、ジャン自身ではないかと思い始めた。なんと言っても、彼が魅力的な少年であることは疑いようがない。朝食の席では想像上の王子様が、物語の世界から抜け出してきたのではないかと思ったほどだ。問題は、おそらく彼が自分の魅力に気付いていないと言うことだ。いずれ彼は皇太子に叙任され、社交界の表舞台に立つことになる。そうなれば当然、たくさんの淑女たちが、この素敵な少年を見て、自分のものにしたいと考えるようになるだろう。それも、婚約者のスイを差し置いてだ。そうなった時、はたして自分は彼女たちに太刀打ちできるだろうか。相手は生まれながらの淑女なのだ。スイのように、付け焼刃でそれらしい振る舞いを身に付けた偽物ではない。

 ジャンの腕を掴む指に、知らず知らず力が入った。ジャンが、その手に自分の手を重ね、スイに目を向けた。「そろそろ行こう。まだ、見るべき場所がたくさんあると思うんだ」

 そう言って子供らしい笑みを浮かべるジャンを見て、スイはふと肩の力が抜けるのを感じた。今の彼は王子様かもしれないが、元はごく普通の少年なのだ。たぶん、お高くとまった高貴な姫君たちよりも、スイのように泥と動物の匂いがする田舎の女の子の方が、彼の心を射止める見込みは高いだろう。ふと、スイの頭の中に、予感めいた光景が浮かんだ。同じテントの下で、たくさんの子供に囲まれながら、今年生まれた子羊の数について語り合う、そんな二人の姿だ。

「スイ?」と、ジャンが顔をのぞき込んでくる。

「そうね」我に返ったスイは、あわてて言った。彼女は案内役のジョゼットに目を向けた。「これから、どこへ行くの?」

「娯楽室ですよ」ジョゼットはにっこり微笑んで答えた。「色々なゲームを楽しめますので、きっと退屈はしないはずです」

 多くの子供たちがそうであるように、スイもゲームは嫌いではない。しかし、チェスやカードで貴重な自由時間を浪費すると言うのは、少々もったない気もする。彼女が少し迷いながらも自分の考えを述べると、すぐにジャンが賛成した。

「僕も、どうせなら色んなところを見て回りたいな」

 ジョゼットは「それもそうですね」と言って考え込んだ。

「礼拝堂はどうだ?」アランが提案した。「お前たちの結婚式は、どうせそこで挙げることになるんだ。今のうちに下見をしておいてもいいだろう」

 スイは頬が熱くなるのを感じながら、アランの意図をはかろうと彼女を見つめた。少女は大真面目と言った顔つきで、視線を返してきた。どうやら、友人たちをからかっているわけではなさそうだ。ジャンに目を向けると、彼は少し照れくさそうに苦笑を寄越してから、首を傾げてみせた。それでいいのかと問うているようだったので、スイは黙って頷き返した。

「異論はなさそうね?」ジョゼットはアランに笑いかけた。アランは顎をしゃくって、女中に先へ進むよう促した。

 一行は再び歩き出し、スイはアランへの疑惑を取り下げることにした。彼女がジャンとスイの関係を、本気で応援してくれていることは疑いようがない。それに、よくよく観察してみれば、この小さくて可愛らしい剣士が、真剣にジャンを危険から守ろうとしていることもわかった。彼女は儀礼的な意味で要人に付き従う護衛とは違い、油断なく周囲に気を配りながら歩いていた。人とすれ違うときは、相手が貴族であれ使用人であれ、ジャンとの間に自分を置いて、彼らが不審な動きをしないか行き過ぎるまで目を離さなかったし、曲がり角ではさり気なく先に立って、その向こうに何者かが潜んでいないか確認する。ジャンからつかず離れずにいるのも、いざと言うときに彼の盾となるためだろう。スイは、意味のない嫉妬心で妙な勘ぐりをした自分を、少しだけ恥ずかしく思った。

 ほどなくジョゼットは、大きな両開きの扉の前で足を止め、そのノブに手を掛けて言った。「ここが礼拝堂です。何か大きな儀式がある時以外は使われないので、今なら私たちの貸し切りですよ」

 ジョゼットが扉を開けると、スイの目に黄金と大理石で満たされた豪華絢爛な光景が飛び込んできた。しかも、ふんだんに黄金が使われていると言うのに、祈りの場としての荘厳さはまったく損なわれてはいない。かなり経ってからスイは、自分がぽかんと口を開けて、黄金のモザイクで飾られた天井を見上げていることに気付いた。慌てて口を閉じてジャンを見ると、彼も同様に天井を見つめていた。スイの視線に気付いた彼は、まん丸に見開いたままの目を向け「すごいね」と、ため息まじりに言った。スイは言葉が出ず、ただ頷くことしかできなかった。

 ジョゼットから先に行くよう促され、二人は並んで美しい幾何学模様のモザイクが彩る中央の通路を通り、祭壇の前にやってきた。祭壇の向こうにはドーム状のくぼみがあり、その中には雪花石膏に彫られた青年の像が立っていた。両手を胸の前に交叉し、サファイアをはめ込んだ目で天を仰ぐそれは、身の丈が六フィート半ほどもあり、背には巨大な剣を負っていた。

「アルシヨン王国の祖、英雄アルシヨンの像だ」二人の後ろからついてきたアランが説明する。「しかし、この場所で祈る相手は彼じゃない。その後ろにいる八柱神だ」

 英雄の像の後ろには、背に翼を生やした小ぶりの像が七体あった。くすんだ灰色の石に彫られたそれらは、ひどく古ぼけて見えた。あとの一柱はどこかと見渡せば、ドームの天井に英雄を見おろす女神の顔が描かれている。

「この神々の石像は、千年前、まだ帝国があった時代に作られたものと伝わっている。しかし、実際はせいぜい四、五〇〇年がいいところだろう。まあ、いずれにしても骨董品には違いない」

「ずいぶん詳しいんだね」と、ジャン。

「ああ」アランは曖昧に頷いた。「前に何度か、カラスと来たことがあるんだ」

「それで、モランさんの案内がなくても、庭園までやって来れたんだね?」

「そう言うことだ。それより、ここには見るべきものが、まだまだあるぞ。私と女中はここで待ってるから、二人で回ってきたらどうだ?」

「三フィートの約束はいいの?」スイは思わず訊いた。

「ここには、賊が隠れている気配もないからな。中にいる分には安全だろう」アランは肩をすくめた。そして彼女は、唇の端をかすかに吊り上げて付け加えた。「それに、私はそこまで野暮じゃない」

 スイとジャンは、さっそく手を繋いで礼拝堂の中を見て回った。壁や柱廊の柱には、アルシヨンに伝わる神話の場面がモザイクで描かれており、その美しい細工にスイは息をのむばかりだった。ジャンは神話の内容をよく覚えていて、描かれている場面の意味を一々説明してくれた。しかし彼は、あるモザイク画の前で足を止め、首をひねった。

「これは知らないや」

 そのモザイク画は、いくつもの突起を生やした赤黒い怪物と、剣を構えた青い服の戦士が対峙する場面だった。怪物は目鼻がなく、赤くて大きな口だけがぽかりと空いた、異様な姿をしている。

「アランに聞いてみる?」と言って、スイは祭壇の前にいる少女に目を向けた。彼女はアルシヨン像の物真似をして、ジョゼットを笑わせているところだった。「あの子って、あんな風にふざけることもあるの? いつも大真面目で、冗談なんて言わないと思ってた」

「彼女だって笑い方は知ってるし、あまりうまくはないけど冗談も言うよ。でも、あれはジョゼットさんに、やらされてるだけかもしれないね」ジャンは苦笑して言った。「まあ、楽しそうだから、今は邪魔はしないでおこう。それに、答えは聞かされるよりも、自分で発見する方が楽しいんだ。礼拝堂について詳しく書かれた本がないか、あとで探してみるよ」

「それじゃあ、ここを出たら、次は図書室に案内してもらいましょう。王宮はこんなに広いんだから、それくらいあるはずよ」

 ジャンは天啓を受けたように目を見開いた。「それ、すごくいいアイディアだね」

「ひょっとして、本が好きなの?」

「どうだろう」ジャンは首をひねった。しかし、彼はすぐににやりと笑って言った。「どちらかと言えば、大好きかな?」

「まあ」スイはくすくす笑った。「実を言うと、私もそうなの」

「それじゃあ、僕の調べ物を手伝ってくれる?」

「もちろんよ」スイは請け合った。「でも、その前にもっと色々見て回らなきゃ」

 見学を再開した二人だが、スイは間もなくある結論に至った。礼拝堂を見て回るのは、首と肩がひどく疲れるということだ。なにせ見たい装飾のほとんどが、彼女の背丈よりもずっと上にあるから、始終見上げていなければならない。スイがそれを訴えると、ジャンは彼女の後ろに回って肩をもみほぐしてくれた。滞っていた血が流れ、首と肩の重苦しい痛みが消えた。お礼に自分もと言って、スイはジャンに後ろを向くように言った。ジャンは言われたとおり背中を見せた。彼の白いうなじを見て、スイに悪戯心がわき起こった。肩をもむかわりに、彼女は手を伸ばしてうなじをくすぐった。ジャンが妙な声を上げ、急いで振り返った。スイがくすくす笑っていると、彼は仕返しとばかりにスイの脇腹をくすぐってきた。スイはきゃあきゃあ笑いながら、ジャンの手から逃れようと身をよじった。その拍子に彼女はバランスを崩し、ジャンの胸元に顔から突っ込んだ。

 ジャンは少しよろめいてから、彼女の身体を抱きとめて言った。「大丈夫?」

 スイは頷き、そして彼の身体に手を回してしがみついた。それは、ほとんど考えなしの行動で、いっそ反射的と言ってもよかった。

「ええと」戸惑った様子でジャンが言った。「どうしたの、スイ?」

 スイは首を振った。自分でもよくわからなかった。ただ、彼女はどうしようもなく幸せだった。ジャンがいつの間にか、殿下でも王女様でもなく、彼女の名前を呼んでくれるようになっていたからだ。そして、彼の右手がおずおずと言った様子で、スイの頭をなでていることも、彼女がそう感じる理由の一つだった。

「あらまあ」ジョゼットの声が聞こえた。

「しっ」アランの声が、それをたしなめた。「声が大きい」

 スイはぎょっとしてジャンから身を離した。声がした方へ目を向けると、柱の陰からアランとジョゼットがこちらを覗いていた。

「ちょっと趣味が悪いんじゃない?」ジャンが、覗き魔の二人に抗議した。

「すまない、邪魔するつもりはなかったんだ」アランはきまりの悪い様子で言った。「我々はどこか向こうに行ってるから、お前たちは気にせず続けてくれ」

 ジャンとスイは目を見合わせた。続けろと言われても、今さら気恥ずかしくてできるものではない。

「ええと」ジョゼットが手を振り回しながら、場を取りなすように言った。「次ぎ、行きましょうか?」

「それなら、図書室へ連れて行ってくれる?」スイはジャンとの約束を思い出して言った。

「いいですけど」ジョゼットは、いぶかしげにスイを見た。「誰も使わないせいで司書さえいないし、大して珍しい蔵書もありませんから、きっと退屈ですよ?」

「僕たちにとっては、そうでもないんだ」と、ジャン。

「私たち、本が大好きなの」スイは説明した。「それに、調べたいこともあるし」

「わかりました」ジョゼットは頷いた。「では、案内しますね」

 しかし、図書室での調査は空振りに終わった。調べ物用のテーブルに、めぼしい本や巻物をいくつも広げてみたが、例のモザイク画に関する記述はほとんど無く、ようやく見つけた資料にも「委細不明」としか書かれていない。

「これって、どう言うこと?」ジャンはいらいらしながら、その文を指先で叩いた。

「わからないわ」スイは首を振った。「本当に、この場面って神話にあるのかしら?」

「どうかな」ジャンは肩をすくめた。「調べてみないとわからないけど、神話ってものすごく長いんだ」

「やっぱり、アランに聞いてみる?」スイは提案した。

「その方がよさそうだね」ジャンはため息をついた。

 アランは、またもや三フィートの約束を破り、二人から少し離れた書架の前で、何かの本を立ち読みしていた。この部屋も、スイたちを除けばまったくの無人だったから、廊下を歩くときほど警戒する必要はないと言うことなのだろう。

「アラン、ちょっと教えてくれないかな?」

 少女はジャンが呼ばわると、本を書架へ戻して二人の側へ歩み寄ってきた。

「この絵について何か知ってる? 神話の場面の一つだと思うんだけど」

 ジャンが指さした本の挿絵を見て、アランはすぐに答えをくれた。「アルシヨン王子のヒドラ退治だ」

「そんな話、聞いたことないよ?」ジョンは片方の眉を吊り上げて言った。

「神話を記した本にも色々あるんだ。特に古い本は、最近の本に記されていない挿話を含んでいることが多い。ヒドラ退治もその一つと言うわけだ」

「あなたは、その古い本を読んだことがあるのね?」スイはたずねた。

 アランは頷いた。「私の雇い主が、以前、いくつかの稀覯本を仕入れたことがあって、その中に古い神話の本が含まれていたんだ。なかなか興味深かったよ。官能的過ぎて子供向きではない話も多かったがね」

 スイは、その子供向きではない話とやらに、少しばかり興味を引かれた。

「ここにある一番古い神話の本をあたってみたら、何かわかるかも知れないな」ジャンは腕組みして呟いた。

「神話の区画なら、確か向こうにあったはずだ」アランは曖昧に指差した。

「ありがとう、探してみるよ」

 さっそく示された場所へ向かうと、スイはアランが「色々ある」と言った意味を理解した。背表紙に「神話」と同じ題名を打ちながら、判型や厚さの異なる本が、何冊も一つの棚に並んでいたのだ。そして、それらは体裁だけでなく、中身も一つとして同じものがなかった。スイが軽く流し読んだところ、収録されている挿話がてんでばらばらで、ある本には記されているのに、ほかの本にはないと言うことがざらにあった。そして、本が古ければ古いほど、より多くの挿話が収録される傾向にあり、アランが言及した子供向きではない話も、百年ほど前の本にはしっかり含まれていた。しかし、肝心なヒドラ退治の話を見付けることは、とうとうできなかった。

「やっぱり見当たらないなあ」ジャンはため息混じりに、読んでいた本を閉じた。

「もっと古い本なのかも知れないわね」

「うん。でも古書を探すとなったら、ちょっと厄介だよ?」

 その時、鐘の音が鳴った。それは終日、三時間ごとに打ち鳴らされるもので、正午の次ぎは夕刻の入りを告げるものだ。ブルネ公爵との会見の時間まで、もう一時間ほどしかない。

「そろそろ行かなきゃ」スイは、未練がましく本に視線を落としながら、席を立った。

「借りて行ったら?」ジャンが言った。

「そんなことをして怒られない?」

「大丈夫ですよ」近くに控えていた、ジョゼットが請け合った。「ちゃんと返していただけるなら、誰も文句なんて言わないでしょう」

「それに、本を返しに行くって言えば、明日も探険を許してもらえるんじゃないかな」と、ジャン。

 しかしスイは、そこまで楽観的にはなれなかった。あの厳しいクセが、はたしてそう何度もスイに自由を与えてくれるだろうか。

「今日も夕食を一緒にできるなら、その時は、また僕から頼んでみるよ」

「ありがとう、ジャン」スイは心の底から言った。

「陛下にも、お口添えを頼まれたらいかがですか?」ジョゼットが助言をくれた。

「そうだね」ジャンは頷いた。「あとで陛下のところへ連れて行ってくれるかな?」

「ええ、もちろん」ジョゼットは請け合った。「その前に殿下を、お部屋まで送って差し上げましょう」

 図書室からスイの部屋までの道筋を歩きながら、スイとジャンは図書室での収穫について話し合った。目的のヒドラ退治は見つからなかったが、神話そのものは読み物として非常に面白いものだったからだ。初めて神話を読んだスイはもちろん、ジャンも読んだことのない挿話をいくつか見つけることができたと、とても喜んでいた。何より自分が知っている物語を、ほかの誰かと共有できることが、嬉しいのだと言う。

 ほどなく、彼らはスイの部屋の前へ到着した。スイは衝動的にジャンを抱きしめ、彼の頬にキスをした。ジャンは目を丸くしてスイを見つめ、少し照れくさそうに、彼女の額にキスを返した。アランとジョゼットが、少し離れた場所でにやにやと笑っていたが、もう気にならなかった。

 スイは彼らに別れを告げ、みなが立ち去るのを見送ってから部屋の扉を開けた。女の子の時間は終わりだった。ここからはお姫様に戻らなければならない。

「お帰りなさいませ」ティーカップを片手にソファへ腰掛けたまま、クセが言った。

「私、遅れてない?」

「ええ」クセは、にこりともせずに頷いた。「すぐに支度なさいますか?」

「そうね。お願いするわ」

 クセはカップを置くと、スイを鏡台の前に導いた。クセは王女の髪をきつく結い上げ、それから粉をはたいて彼女に化粧を施し、蝋燭の薄暗い光の中でも目一杯彼女が美しく見えるように仕上げた。身支度を終えるとスイはソファに腰掛け、クセがいれてくれたお茶を飲みながら、借りてきた本を読みつつブルネ公爵の到着を待った。ところが、公爵は約束の時間を過ぎても姿を現さなかった。はじめは、ただの遅刻かと考えていたスイだが、それにしては使いの一人も寄越さないのも妙な話である。クセが、公爵の屋敷に使いを送ると告げ、部屋を出ようとしたとき、ようやく扉がノックされた。しかし、扉の向こうに立っていたのは侍従のモランだった。

「何事ですか?」クセがたずねると、侍従は「お嬢様(マドモアゼル)」とお辞儀をして、わずかに強張った顔を上げた。「ブルネ公爵閣下が亡くなられました」

 スイはぎょっとしてソファを立ち、入口へ歩み寄った。「モランさん、とりあえず中へ」

 モランは頷き部屋へ入ると、素早く外を確認してから扉を閉じた。それから彼は、この期に及んでも「殿下」とお辞儀を欠かさなかった。

「どう言うこと?」スイは急いでたずねた。

「王宮へ向かおうとしていた閣下の乗る馬車が、何者かに襲撃されたのです。至急、兵を向かわせたのですが、すでに手の施しようのない状態でございました」

「下手人は捕らえたのですか?」クセが冷静にたずねた。

「いいえ」モランは首を振った。「襲撃者の数人を殺しましたが、他は取り逃がしました。死体を調べたところ、いずれも素性がはっきりとしないよそ者ばかりで、逃げ出した輩を捕らえたとしても、首謀者を突き止められるかどうか」

「それで?」クセは首を傾げた。

「国務卿すら手に掛けたとあれば、この暗殺者の矛先が次にどこへ向かうかも予想がつきません。陛下の賓客であるイゼルのみなさまに、危険が及ぶことも考えられます。どうかみなさまには事態がはっきりするまで、お部屋からお出にならぬよう、お願い致します」

「それが、シャルル陛下のお考えなのですね?」

 クセがたずねると、モランは無言で頭を下げた。

「あの、モランさん」スイは、たまらず口を挟んだ。「ジャン様は、大丈夫なんですか?」

 スイたちが危険だと言うなら、シャルルの親戚である彼は、その何倍もの危険にさらされていることになる。

「はい。先ほど、お部屋の方へお戻りいただきました」モランは、ふと眉を寄せた。「お約束がどうとか仰って、少々腹を立てておいででしたが」

 スイは、思わずくすりと笑った。「彼に、私は気にしていないと伝えてくれる?」

「かしこまりました」モランは頭を下げた。彼は顔を上げ、クセに向き直った。「お食事はこちらへ運ぶよう手配しております。ご用の向きがございましたら、外の衛士にお申し付けください」

「わかりました。ありがとう、モランさん」クセは、にこりともせずに言った。

 モランはお辞儀し、部屋を出て行った。

「まるで幽閉ね」スイはソファへ戻り、ぽつりとつぶやいた。

「あるいは、そうなのでしょう」クセが言った。

「どう言うこと?」スイはぎょっとして聞き返した。

 クセは、すぐには答えず、スイの向かいのソファへ腰を降ろしてから口を開いた。「この国がシャルル陛下を中心とした国王派と、メーン公爵閣下が率いる将軍派に別れて対立していることはご存じですか?」

「ええ」スイは頷いた。「もちろん私たちは、シャルル陛下の味方をするんでしょう?」

 なんと言ってもスイは、ジャンの妻になるのだ。彼の叔父であるシャルルと対立したところで意味はない。

「いいえ」クセは首を振った。「私たちは、勝った方の味方をするのです」

 スイは眉をひそめた。「意味が、わからないわ」

「三日後に開かれる議会で、彼らの争いは決着するでしょう。しかし、どちらの派閥が勝利したとしても、私たちは私たちの必要とするものを手に入れなければなりません。それが何かは、もちろんご存じですね?」

「アルシヨンとの同盟」スイは即答した。

 クセは頷いた。「実際的に考えれば、我々はアルシヨンの元首が誰であろうと構わないのです。国と言う枠組みは変わりませんから。ただし、そのためには、二人の候補者との適度なつながりが必要になります」

「つまり、あなたはメーン公爵とも接触してるってこと?」

「あなたではありません」クセはにやりと笑った。「私たちです」

「もちろん、それはシャルル陛下には秘密なのよね?」

「はい」

「でも、どう言うわけか、それが露見した?」

「おそらく、そうなのだと思います」

 それで、何もかも合点が入った。スイはふるえる手で目の前のカップを手に取り、ぬるくなったお茶に口を付けた。彼女は言った。「私たち、疑われてるのね?」

 少し考えれば、わかることだった。ブルネ公爵は国王派の重鎮なのだ。しかも彼は宰相であり、アルシヨンの国政はひとえに彼の力で回っている。彼の死は国王派と国家にとって大きな損失であり、彼を失って得をするのは、アルシヨンに敵意を持つどこかの外国か、メーン公爵の一派だけだろう。そしてブルネ公爵は、スイと会見するために王宮へ向かう途中で襲撃を受けた。その会見の相手が、メーン公爵とひそかに接触を重ねていたとなれば、彼女たちが暗殺に一枚噛んでいると疑われて当然である。

「今日はずいぶん優秀ですね、殿下。日頃の教育の成果かしら?」

「茶化さないで、クセ」スイは侍女を探るように見つめた。「ブルネ公爵の死に、私たちは関わっているの?」

「いいえ」クセはうっすらと笑みを浮かべて否定した。

 しかし、それはスイの疑いを強めただけだった。真実は、おそらく確かめようがない。ただ、はっきりわかっていることが一つある。スイは、ジャンを裏切った。自分でそれとは知らなかったにせよ、彼女たちはジャンの叔父の敵と通じてきたのだ。そしてスイは、それを卑劣だと思いながらも、そうしなければならないことを理解していた。イゼルは小国なのだ。その上、国が崩壊する寸前となれば、なりふりなど構ってはいられない。

「私たち、いつまでこうしてなければいけないのかしら?」スイはつぶやいた。

「三日後の議会までです」クセは断言した。「シャルル陛下はジャン様と殿下の婚約を、議会の冒頭で発表するおつもりですから」

「聞いてないわよ?」スイはぎょっとして言った。

「ええ、お話ししたのは今が初めてです」クセは涼しい顔で言った。

「でも、私たちがメーン公爵と通じていることを知られたのなら、そのお話もなかったことにされるかも知れないわね」スイはため息をついた。つまり、ジャンとの仲も、これまでと言うことだ。その事実に思い至り、スイの小さな胸がぎゅっと締め付けられた。

「それはあり得ません」クセはきっぱりと言った。「シャルル陛下や公爵閣下が、なぜイゼルのような小国に興味を持つのか、おわかりになりますか?」

 スイは首を振った。シャルルは単に、苦境にあるスイの父を救おうとしているだけなのだと、彼女は考えていたのだ。

「わが国には手付かずの銀鉱山が、いくつもあります。ゼエル陛下はその採掘権を、アルシヨンに適切な価格で売ろうと考えておいでなのです。シャルル陛下が、その利益をあきらめてまで、あなたとジャン様の婚約を反故にすることはないでしょう」

 何やら金で恋人を買うようで、ひどく後ろめたい気分だったが、途切れたと思っていた糸が繋がったことを、スイは素直に喜ぶことにした。

 とにかく、議会まで彼女たちは、かごの鳥と言うわけだ。スイはため息をついて、ぽつりと呟いた。「本を借りておいてよかったわ」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ