表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
プリンセスコード  作者: 烏屋マイニ
魔王の復活
10/46

10.魔界の王女

 カラスは素早く室内を見回し、窓枠を乗り越えて室内に入った。彼はマントを着けておらず、くすんだ鉄錆色の、ジャンが見たことのない奇妙な服を着ていた。そして、どう言うわけか、頭に巻いた布きれでしっかり片目を覆い隠している。彼は塞がれていない方の目で、ジャンを見て言った。「待ったか?」

「来てくれないんじゃないかと思い始めてたところだよ」ジャンは心底ほっとして言った。

「あの女が、あんなに無茶なスピードで坂を駆け降りなかったら、もっと早く追い付けたんだがな。彼女は何か言ってなかったか?」

「みんなを出し抜いたって喜んでたよ」

「そうか」カラスはにやりと笑った。「もうしばらく、いい気分にさせておこうぜ」

 ジャンは思わずくすりと笑った。それから怪訝そうにたずねた。「目をどうかしたの?」

「夜目を守ってるんだ。こうしないと、この部屋を出た途端、何も見えなくなってしまうからな」カラスは顎をしゃくって夜の闇が広がる窓の外を示した。「しかし、俺がつけてるとよく分かったな?」

「実を言うと、あまり自信はなかったんだ」ジャンは白状した。「カトリーヌがハンカチを落とした時、彼女を変な目で見てたよね? そのことを思い出して、あなたが彼女をまったく信用してないことに気付いたんだ。そうだとすれば彼女がおかしなことをしても、なにか手を打ってくれてるかも知れないと思ってさ」

「それで、酒場の前での大騒ぎしたってわけか?」

 ジャンは頷いた。「酒場なら遅くまで開いているし、もし僕を追い掛けてるなら情報を集めるために、きっとそこへ立ち寄るだろうと思ったからね。それで僕は、酔っぱらっても簡単に忘れられないような、印象的な出来事を起こしたんだ」

「実際彼らは、俺が追いかけるべき馬車の特徴を、よく覚えててくれたからな」カラスは頷いた。「あとは同じように通りに面した酒場で、その馬車がどっちへ向かったか覚えている酔っ払いを探すだけでよかった。うまい手を考えたもんだ」カラスはにやりと笑ってジャンを褒めた。

 ジャンは気恥ずかしくなって話題を変えた。「でも、どうしてカトリーヌの好きにさせたの。彼女の企みに気付いてたんなら、邪魔することだってできたよね?」

「いや」カラスは首を振った。「カトリーヌが何か、こそこそやっていることは知っていたが、本当の狙いに気付いたのは、彼女がお前を連れて逃げ出した時だ。もちろん、急いで追い掛ければ捕まえることもできただろうが、そうなると追い剥ぎ連中との戦いに、お前を巻き込むことになる。俺としては、そのまま全速力で戦場から離れてくれた方が、都合が良かったから、彼女にはそうしてもらったと言うわけさ」

「それ、おじさんやアランには話したの?」

「いいや」カラスは首を振った。

「あとで怒られるよ?」ジャンは眉をひそめて言った。

「カトリーヌがやったことだ。俺が怒られるいわれはないさ」カラスはにやりと笑って言った。

「そう言うことなら、僕は何も聞かなかったことにする」ジャンは頷いた。「みんなは?」

「まだ、こっちへ向かってる頃だ。急いでるから真夜中過ぎには城門前に着くだろう。今夜はそこで野宿して、夜明けまで開門を待つつもりだ」

 ジャンは首を傾げた。「カラスはどうやって門を抜けたの?」

「門は使わなかった」カラスは肩をすくめた。「壁を昇ったんだ」

「嘘でしょ」ジャンは目を丸くした。「一〇〇フィートはあったよ?」

「いや、せいぜい三〇フィートだ。少なくとも、この窓よりは低かった。そっちはどんな様子だった?」

 ジャンはシャルルとの会見の様子を詳しく語って聞かせた。全て話し終えると、カラスがひどく難しい顔をしていたので、ジャンは自分が、何かまずいことを言ってしまったのではないかと心配になった。

「シャルルと話をしてきた方がよさそうだな」カラスは呟いた。

「僕、何かへまをやった?」

「いや」カラスは首を振った。「マルコおじさんが伝えようとしたことを、全部話してくれたんだ。むしろ手間が省けてよかった。ただ、傭兵を事前に押さえてメーン公爵をがっかりさせるアイディアが面白そうだから、俺もちょいと手伝ってやろうと思ってな。あとは、旦那に言伝が無いか聞いてみるつもりだ。例えば、お前を誘拐したことについての申し開きとか?」

「僕はどうしたらいい?」ジャンはたずねた。「王様はなにがなんでも僕と王女さまを結婚させたがってるから、おじさんの所へ逃げ帰ってもすぐに追っ手を寄越してくるよね。おじさんと王様が僕を取り合うなんて時間の無駄だし、事態が悪くなるだけだと思うんだ」

「そうだな」カラスは認めた。「お前がここへ残った方が、何かとスムーズに事が運びそうだ」

「おじさんは許してくれるかな?」

「旦那なら多分、大丈夫だろう。腹は立ててるだろうが、シャルルとの喧嘩があとでも出来るってことくらい、彼もわかってるさ。何か協定のようなものを結べないか、ふたりに持ち掛けてみよう」

「アランは?」ジャンは思い出させた。

 カラスはぴしゃりと額を叩いた。「忘れてた」

「彼女は僕から三フィート以上離れないって約束したんだ。僕が王宮にいるって知ったら、城門を真っ二つにして乗り込んで来るかも知れないよ」

「本当にやりかねないから困る」カラスは渋い顔をした。彼は少し考えてから言った。「アランをお前の護衛として、王宮へ入らせてもらえないかシャルルに頼んでみよう。旦那には、議会まで引っ込んでいてもらうと言う条件付きで?」

「いいね」ジャンは名案だと思った。「王様はおじさんのことを怖がってたから、きっと嫌とは言わないよ」

「よし」カラスは頷いた。「お前は魔界のお姫様とできるだけ一緒にいて、彼女からありったけの情報を聞き出してくれ。ひょっとすると魔物がうろついてることについて、何かわかるかも知れない」

「やってみるよ」しかし、ジャンはすぐ眉間に皺を寄せて言った。「でも、できるかな。僕は同年代の女の子としゃべったことが、ほとんどないんだ」

「ポーレットのことを忘れてないか。彼女は一歳しか違わないんだろ?」カラスは指摘した。

「あ、そっか」

「頼んだぞ」カラスはそう言って、懐から黒っぽいロープの束を取り出した。次いで、布のベルトに差していた菱形の短剣を手に取り、その柄にある丸い穴にロープの端を通してしっかり結びつけると、窓の下の石壁をためつすがめつしてから、石と石の隙間に短剣をねじ込んだ。彼は短剣がすっかり固定されたのを確認してジャンに振り返った。「シャルルは食堂だったな?」

「うん。まだ飲んでるならね」

 カラスは頷き、ロープの束を外へ投げ落としてから素早く窓枠を越え、部屋を出て行った。しばらく経って縄が緩むと、短剣は石の隙間から自然に外れて床へ転げ落ち、するすると引かれるロープと一緒に窓の向こうへ消えた。

 ジャンはベッドから立ち上がり、窓を閉めた。彼は扉から椅子を外すと蝋燭を吹き消して回り、ベッドへ潜り込んだ。少し気分は高ぶっていたが、それ以上に疲れていたいたから、目を閉じると彼はすぐ眠りに落ちた。

 翌朝、ジャンは扉をノックする音で目を覚ました。ベッドを抜け出し扉を開けると、侍従のモランが若い女中を従えて立っていた。女中の手にはきちんと畳まれた青い服が載っている。

「おはようございます、ジャン様。朝食の用意ができておりますので、食堂までご案内致します」

「ありがとう、モランさん」

 しかし、部屋を出ようとするジャンをモランは引き留めた。「新しい服を持って参りましたので、まずはお召し替えください」

 ジャンは服の胸元を引っ張って鼻に近付けた。「くさいですか?」

「決して、そのようなことは」モランは頭を下げた。「ただ、朝食の席にはスイ殿下もいらっしゃいます。昨夜と同じ旅装のままでおられては、殿下もがっかりなさることでしょう」

「そう言うことなら」ジャンは肩をすくめ、女中が持っている服を見て言った。「でも、王宮の人たちが着るような服なんて、きっと僕には似合わないですよ。今着てるこの服だって、かなり無理があると思うんです。みんなは似合うって言ってくれるけど」

「こちらの服も、きっとお似合いですよ」モランは請け合った。「なんと言っても、お父上がご幼少の頃、お召しになっていたものでございますから」

 ジャンは目を丸くした。「父さんが?」

「左様でございます」モランは女中に目配せする。

 女中は服を持って前に進み出て「お手伝い致します」と言った。

「あー、大丈夫。一人でできます」ジャンは慌てて言った。「すぐに着替えるので、外で待っててくれますか?」

「かしこまりました」モランはお辞儀をした。女中も頭を下げ、服をベッドに置いてから上司と並んで部屋を出て行った。

 剣王との約束のせいで、謎めいた存在になっている父が着ていたと言う服は、ジャンの好奇心を大いに刺激した。彼は急いで着ているものを脱ぎ捨て、ベッドの上の服を手に取り広げてみた。その途端、彼はげんなりした。つやのある青い生地のそれは、金糸で縁どられているうえに、レースやらリボンやらでごてごてと飾り立てられていたのだ。まるで道化の類ではないか。これから会う王女は、これを着た彼を見てどう思うだろう。彼女は笑うだろうか。いや、きっと笑うに決まっている。しかし、昨日と同じ服を着ていると言って、眉をひそめられるよりはましだろう、と考えることにして、ジャンは青い服に袖を通した。

 着替え終えたジャンは扉を開けて部屋を出た。女中が、「あらまあ」と言って両手を口に当てた。モランが咳払いをして、若い女中はあわてて平静な顔を装った。

「とてもよくお似合いです」モランはにこりともせずに言った。

 ジャンは何も言わず、きっと彼は目が悪いんだと密かに思った。

「それでは、参りましょう」モランが先に立ち、歩き出した。

 ジャンがあとへ続き、彼の横には女中がついて来て、彼女はモランに聞かれないようこっそりと言った。「本当に素敵ですよ」

「ありがとう」ジャンもこっそりと答えた。ほんの少し、自信が出てきた。

 モランは階段を下り、例の肖像画があるホールに入った。ジャンは母の肖像画を何気なく見て、思わず足を止めた。彼の母マリーは、マルコの従妹だ。それは、ずいぶん前に聞かされた話で、昨夜のシャルルとの会見で二人の関係を問われるまで、ジャンはその事をすっかり忘れていた。しかし、マルコはこうも言った。自分は剣王の妻の従兄だ、と。つまり、マリーと剣王の妻は、どちらもマルコの従妹なのだ。そして、マリーはジャンと外国で暮らしていたし、カッセン大佐は剣王が家族を外国へ移住させたと言っていた。その奇妙な符号に思い至って、とんでもない考えがジャンの頭に浮かんだ。二人が同一人物だとしたら? ジャンの心臓がどきどき鳴った。その考えが本当なら、彼は剣王の息子と言う事になる。アランはディボーで、剣王は妻子持ちだと言っていた。それに対してジローは「詳しいね、お嬢ちゃん」と言った。剣王について独自の調査を行い、その正体を見破った彼がそう言うのだから、剣王に子供がいるのは間違いないだろう。ジャンはそれで、何もかも辻褄が合うように思えた。

「おはよう、ジャン」

 考え込んでいたジャンは、不意に声を掛けられ驚いた。見れば、王冠とローブをつけたシャルルが二人の護衛の兵士を引き連れて、食堂へ続く廊下からこちらへやって来るところだった。

「おはようございます、陛下」ジャンはお辞儀した。てっきり朝食にはシャルルも同席するものと思っていたジャンは、何をしているのかと王にたずねた。

「仕事だよ」シャルルは大きなため息をついた。「議会が近いせいで、貴族たちが続々と王宮へ集まって来ているのだ。これから彼らの何人かと話をしなければならない。それに、昨日の晩は急な来客があって、いくつかやることが出来てしまった」

 おそらく、カラスのことを言っているのだろう。

「その客人から、君の護衛にと剣士をひとり紹介されている。おそらく昼前には会えるはずだ」

 そのニュースを聞いて、ジャンは喜んだ。アランはディボーを見て回ったときから友人だったし、王都の中の何かを真っ二つにされる心配がなくなったからだ。

「君とは知り合いだと聞いているが、彼はそんなに腕が立つのか?」王は訊いた。

「はい」ジャンは頷いた。彼は、アランが魔物とやり合ったときの様子を語ろうとして、やめた。この場には魔物が再び現れたことを知らない者がいたし、カトリーヌの工作が終わる前にそれが表沙汰になれば、スイに不利益が降りかかるかも知れない。「でも、彼じゃなくて彼女です」

 シャルルは片方の眉を吊り上げた。「男の名前だったぞ?」

「先代から名を継いだそうです」

「なるほど」シャルルは納得した様子で頷いた。

 この調子だと、アランが小さな女の子だと言うことも知らされていないのだろう。本人を目にしたら、さぞや驚くに違いない。

「それにしても」シャルルはジャンのつま先から頭のてっぺんまで、しげしげと眺めた。「君は母親似だと思っていたが、その服を着ていると昔の兄上にそっくりだな。彼はよくここで、さっきの君のように絵を眺めていたのだ」

「歴代の王様の顔なんか見て、何が面白かったんだろう?」ジャンはずらりと並ぶ肖像画に目をやり呟いた。

「それを聞く機会は、ついぞなかったな」ジャンと並んで絵を眺めながら、シャルルは答えた。彼ははっと息を飲んだ。「そろそろ行かねば。では、スイ殿の相手は任せたぞ」

「がんばります」

「お互いにな」シャルルは甥に笑い掛け、ちらりとマリーの肖像画を見やってから、護衛を引き連れて立ち去った。

 その背を見ながら、ジャンは自分の間違いに気が付いた。シャルルは自分を、ジャンの父の異母弟だと言っていた。正統な王と腹違いであるのなら、ジャンの父はおそらく庶子だ。そして剣王が先の王であるなら、父と剣王は別人と言うことになる。おそらくジャンの母親は、剣王の妻の姉妹なのだろう。それなら、二人がマルコの従妹である理由も説明できる。英雄の息子になり損ねたジャンは、少しだけがっかりした。

 食堂へやって来ると、すでにスイと侍女の姿があった。ジャンが挨拶すると、スイは顔を真っ赤にしてもぐもぐと挨拶を返した。ほらね。王女様だから人前で大笑いは出来ないんだろうけど、本当は吹き出したくてしようがないんだ。

 モランは彼女たちの向かいの席にジャンを座らせると、彼に言った。「私は陛下のお側へ戻ります。ジョゼットを置いて行きますので、ご用の際は彼女にお申し付けください」彼は女中に目を向けた。女中は目を伏せ頭を下げた。

「わかりました」

 ジャンが答えると、モランは完璧なお辞儀を見せて食堂を立ち去った。間もなく給仕がやって来て配膳し、食事が始まった。昨晩はシャルルとカトリーヌの援護でなんとか乗り切れたが、今はジャン一人だ。へまは出来ない。そう気を引き締めて臨んだ会食だが、それは肩すかしに終わった。スイが、ほとんど何もしゃべらなかったからだ。彼女は顔を赤くして、ジャンをちらちらと盗み見ては、心配そうに隣の侍女の様子をうかがっている。多分、彼女はしゃべらないのではなく、クセにお行儀良くしなさいと釘を刺されるかして、しゃべれなくなっているのだ。食事が終わりかけた頃、ジャンは思い切って「殿下」と呼びかけた。彼はすぐさま続けた。「実を言うと、僕が王宮を訪れるのはこれが初めてで、ここに何があるのかさっぱりわからないんです」

 スイはきょとんとしてジャンを見つめた。

「知らない場所って、探検するにはもってこいだと思わない?」ジャンは悪だくみの笑みを浮かべて言った。

 スイは目を丸くして、しばらくジャンを見つめてから、くすくす笑い出した。「素敵なアイディアね」

 クセがひとつ咳払いした。スイはぎょっとして、笑うのをやめた。

「だめですか?」ジャンはたずねた。

 侍女は難しい顔をしてしばらく考えてから、ようやく口を開いた。「わかりました。お食事が終わりましたら、お二人でご自由に過ごしていただいて結構です」

 スイは信じられないと言った面持ちで、しばらく侍女を見つめた。そして、それが嘘や冗談ではないことがわかると、ぱっと笑みを浮かべて言った。「ありがとう、クセ!」

「ただし」侍女はぴしゃりと言った。「夕刻にブルネ公爵閣下との会談がございます。それまでには、必ずお部屋へお戻りください」

 スイは神妙に頷いた。

「ジャン様」と、クセは少年に目を向けた。「私どもの素性は、シャルル陛下と一部の方を除いて伏せられております。くれぐれも彼女が魔界から来たなどと、口を滑らせないようにお気をつけください」

「わかりました。そのあたりの事情は、僕も陛下からうかがっています」

 クセは頷いた。「もう一つ。危険な場所や、他の方の迷惑になるような場所には近付かないと、お約束ください」

「もちろんです」

 しかしクセは、きれいな形の眉をかすかに寄せ、心配そうに訊いてくる。「本当に、大丈夫ですか?」

「はい」ジャンは請け合った。「もし、僕たちの手に負えないような事態になっても、きっとジョゼットさんが助けてくれると思います」彼は言って、女中に目を向けた。

「私ですか?」ジョゼットはぎょっとして声を上げ、高貴な人たちの会話に割り込んでしまったことに気付き、あわててお辞儀した。

「他に、何かありますか?」ジャンはたずねた。

「いいえ」クセは笑顔で首を振った。しかし、その目はまったく笑っていなかった。「食事を続けましょう」

 まもなく彼らは朝食を終え、食堂を出た。クセは部屋で待つと告げ、食堂の前で別れた。彼女の姿が見えなくなるのを待って、スイはため息をついた。

「クセは、きれいで賢くて素晴らしい侍女だけど、すごく厳しいの」

「でも、僕たちが遊びに行くのを許してくれたよ?」

「そうね。だから私は、彼女のことを嫌いになれないでいるの」スイは子供らしい笑顔を浮かべ、それから顔を赤くして言った。「ええと、その服、とても素敵ね。すごく似合ってる」

 ジャンはまじまじと王女を見つめた。

「本当よ?」スイはますます顔を赤くした。「だって、すごく王子様らしいんだもの。さっきから、ずっとそれを言いたかったんだけど、クセが聞いたら、きっとはしたないって怒るから我慢してたの」

「ありがとう」ジャンは気恥ずかしさをこらえて礼を言った。つまり王女の挙動不審は、笑いをこらえていたわけではなかったのだ。彼は服の胸元を引っ張って言った。「父さんが子供の頃に着ていた服らしいよ。正直、こう言う服を着るのは落ち着かないけど、君が気に入ってくれたんならよかった」

「落ち着かない?」

「うん。ちょっと事情があってね」

 不意に、ジョゼットが咳払いした。彼女は子供たちが注目すると口を開いた。「お二人とも、時間を無駄にしておいでですよ。せっかくの自由時間なんですから、歩きながらおしゃべりしてはいかがでしょう?」

「いいアイディアだと思うけど、まだどこへ行くか決めてないよ?」ジャンは指摘した。

「私にお任せください。とっておきの場所へご案内します」ジョゼットが先に立って歩き出し、ジャンとスイは彼女のあとをついて歩き出した。

 廊下をしばらく進んだところで、スイが口を開いた。「事情って?」

「国王陛下が僕の叔父だってわかったのは、つい昨日のことで、それまで僕は平民として暮らしていたんだ」

「まあ」スイは目を丸くした。

「だから、汚せない服を着るのは裸でいるよりも、ずっと居心地が悪い気分になるってわけさ」

「わかる気がする」スイは同意した。「イゼルはもともと遊牧民の国で、都を決めて私たち王族が一つの場所へ落ち着くようになってから、まだ五年しか経ってないの。私が小さい頃はテントで暮らしていて、犬と一緒に羊を追いかけるのが一番楽しい遊びだったわ。だからいつも泥だらけで、ちっともお姫様らしくなかった」

「今は、どこからどう見ても、立派なお姫様だけどね」

「練習したもの」スイは、ふふんと鼻を鳴らした。「あなただって、どこからどう見ても王子様よ」王女は目を伏せた。「その、今みたいな格好を、してなくっても?」

 ジャンの心臓がどきりと鳴った。スイの手が、ためらいがちにジャンの手の平の中へ滑り込んで来たのだ。ジャンは頬が熱くなるのを感じながら、その手を握った。スイが顔を上げ、照れくさそうに微笑みながらジャンを見上げた。今更ながら、ジャンは彼女が自分よりも、六インチほど背が低いことに気付いた。

「痛い」スイが顔をしかめて言った。

 いつの間にか、スイの手を握る指に力が入っていたようだ。ジャンは指を弛め、慌てて謝った。「ごめん、大丈夫?」

 スイは頷き、ジャンの手をぎゅっと握り返した。「思ったより力持ちなのね?」

「野良仕事で鍛えてるからね」

 スイはくすりと笑った。「私たちは男性が女性に求婚するとき、自分が持っている一番大きな羊を担いで相手の女性がいるテントを訪れる決まりなの。羊は贈り物って意味もあるけど、どちらかと言えば自分はこんなに力持ちなんだって主張するためのものね。あなたなら、すごく大きな羊を担げるんじゃないかしら?」

 ジャンは肩をすくめた。「うちは家畜を飼ってないんだ。馬は一頭いるけど、僕のものじゃないしね」彼はふと興味を覚えて訊いた。「馬を担いで行ったらどうなるかな?」

「おとぎ話で聞いたことがあるわ」スイはふと上の方を見つめながら言った。「ある日、力自慢で乱暴者の男が大きな羊を担いでお姫様のテントへ求婚に行くの。でも、彼を嫌っていたお姫様は、羊が小さいって難癖をつけて断ってしまう。男は方々を探してもっと大きな羊を見付けると、また求婚に訪れる。でも、姫はまだまだ小さいと言って求婚を受けてくれない。そんなことを繰り返しているうちに、男はとうとう腹を立てて、これならどうだと大きな馬を担いで行く。それを見たお姫様はこう言うの。自分は馬を担げるほど立派な男に見合う娘ではないから、もっと相応しい人の所へ行ってくださいって。男がお姫様に言われたテントへ行くと、そこには見たこともない美しいお姫様がいて、彼女は男の求婚を喜んで受けるんだけど、彼女の正体は魔王で、男は魔王のお婿さんになり、二度と戻ってきませんでした――と言うお話」

「魔王って、女の人なの?」ジャンはぎょっとして訊いた。

 驚く少年をスイはきょとんと見つめ、言った。「魔王は魔物を産むのよ。何かを産み出せるのは女性だけだわ」

 ジャンは魔王のことを、剣王と一騎打ちするくらいだから、禍々しい鎧を身にまとった巨漢に違いないと考えていた。スイの話を聞いて目からうろこが落ちる思いだった。そして彼は、今がスイに魔物のことを聞く機会だと気付いた。「それじゃあ、やっぱり魔物はもういないんだね」

 スイは首を傾げた。

「ここへ来る前に、僕は魔物を見たような気がしたんだ。でも、魔王はもういないんだから、魔物だって現れようがないよね。つまり僕は、何か別の生き物を見間違えたんだ」

「あなたが見たものが何かは知らないけど、剣王様に討たれる前に魔王が産んだ魔物は、まだ私たちの国にもたくさんいるの。だったら、この国にいたとしても不思議じゃないでしょう?」

「それはそうだけど、たくさんって?」ジャンはディボーの惨劇を思い出して言った。

「もちろん、いつもそこらをうろついてるわけじゃないわ」スイは苦笑して言った。「それに、彼女たちはすごく臆病だから、大抵は人の姿を見ると自分から逃げ出すの。人や家畜の味を覚えた連中は別だけど」彼女は、ふと眉を寄せた。「でも最近、魔王を崇拝する狂信者が、人間の女に魔物を産ませる魔法を編み出したなんて噂が流れてるの。もちろん、本当かどうかはわからないけど、もしそれが間違いじゃないとしたら恐ろしいことよ」

「そうだね」ジャンは頷いた。しかし、それは恐ろしいと言うよりも、おぞましい話だった。一刻も早く、この情報をシャルルやマルコに伝えなければならない。おそらく、カトリーヌに頼むのが一番だろう。そう言えば彼女は、王宮を案内すると言っていたが、今日はまだ姿を見ていない。

「ジャン様?」黙りこくった少年の顔を、スイは怪訝そうにのぞき込んだ。

「心配だけど、僕のおじさんと君のお父さんが、きっとなんとかしてくれるよ。王様が二人も揃って何もできないなんて、あり得ないもの」ジャンは笑顔で言った。

「そうね」スイもにこりと笑みを返した。「でも、私たちは何もしなくていいのかしら?」

「何もしてないわけじゃないよ」ジャンは握り合った手を持ち上げて、彼女に思い出させた。「こうやって、僕らが友だちになることは、きっとみんなの助けになると思うんだ」

「ええ、そうね。あなたの言う通りだわ」スイは熱心に同意した。

 まもなく、先頭を行くジョゼットは大きな扉の前で足を止め、それを押し開いた。その先には美しい庭園が広がっており、子供たちは手を握り合ったまま、そろってため息をついた。

「さあ、こちらです」ジョゼットは二人を引き連れて、再び歩き出した。

 三人が行く道の真ん中には小さな水路があり、さらさらと音を立てて澄みきった水が流れ、時折白やピンクの花びらを上流から運んでくる。しばらく進むと、彼らはバラが咲き乱れる生垣で囲まれた噴水の前に出た。ジョゼットは噴水の側らにあるベンチに子供たちを座らせると、彼らから離れた場所へ控えた。

「ねえ、信じられる?」スイは少し腹を立てた様子で言った。「私はここへ来て一ヶ月にもなるのに、こんな素敵な場所があるなんて知らなかったの」

「今まで、どうしてたの?」

「自分の部屋と、広間か食堂を行ったり来たりしてただけよ」スイは肩をすくめた。

「それじゃあ、今日は頑張って探検して回らなきゃ」ジャンは笑って言った。

「もちろんよ」スイは頷いた。「でも、もうちょっとここでお話しない? こんな素敵な場所をすぐに離れるなんて、もったいないわ」

 そうして二人は、つらつらとお互いの身の上などを話ながら、バラの香りと噴水が響かせる水音を楽しんだ。いつの間にか、ベンチの上に置いてあったジャンの手に、スイの手が重ねられていた。ジャンはひどく落ち着かない気分になったが、それほど悪いものではなかった。

 不意にばたばたと足音が近付いてきた。生垣の間の道から少女がひょっこりと現れ、ベンチに座るジャンに目を向けた。彼女は自分の背丈ほどもある巨大な剣を背負っていた。

「アラン!」ジャンは立ち上がった。

 少し遅れて、モランが息を切らせながら現れた。「アラン様」彼はどうにか息を整えてから言った。「一人で行かれては困ります」

「案内は要らないと言っただろう」アランはジャンに歩み寄り、彼の前に立ってから高らかに言った。「三フィートだ」

「そうだね」ジャンは笑った。

 スイはきょとんとして二人を交互に見つめた。ジャンは王女に笑顔を向けて言った。「彼女はアラン。僕の友だちで、護衛の剣士だよ」

 アランは王女に向かって会釈した。するとスイは立ち上がり、アランをしげしげと眺めて言った。「こんなところで、私たち以外の同郷人に会えるなんて思わなかったわ」

 ジャンは姉妹のようによく似た二人を見て、ようやくその訳を理解した。彼は素早くアランに目を向けた。「君、魔界の生まれだったの?」

「そうだ」アランは頷いた。「ほとんどこっちで暮らしているから、向こうの事情はよくわからないがな」彼女はスイを見て片方の眉を上げ、それからジャンに目を向けた。

 ジャンはクセとの約束を思い出して少し迷ったが、これから護衛としてジャンと行動を共にする彼女に、内緒にしておくことは無理だと思い直した。「こちらはイゼル王国の王女様で、スイ殿下」

 ジャンが紹介するとスイは軽くお辞儀をした。

「魔界の姫が、こんなところで何をしている?」アランは怪訝そうにたずねた。

「えーと」ジャンはちらりとスイを見てから言った。「王様の考えだと、どうやら僕たちは結婚しなきゃいけないみたいなんだ」

 スイは顔を真っ赤にしてうつむいた。

 アランは目を丸くして二人を交互に見てから、にやりと笑ってジャンの胸を軽く拳で突いた。「やったな。すごい美人じゃないか」

 スイはますます顔を赤くした。

「でも、僕たちはついさっき、やっと友だちになったばかりなんだよ?」

「貴族の結婚は、大抵がそんなものだ」アランは肩をすくめた。「友だちになる機会があっただけ、ましな方だろう」そう言ってから、彼女は腕を組んで考え込み、しばらく経って口を開いた。「しかし、なぜそんな話になった?」

 ジャンは昨夜のシャルルとの会見について、かいつまんで話して聞かせた。ただし、魔物の出現に関わる部分は伏せた。今はまだ、そのことをスイに知られるわけにはいかなかった。しかるべきタイミングはカトリーヌに任せるべきだ。

 話を聞き終えたアランは渋い顔をした。「私がカラスから聞いたのは、シャルルがお前を跡継ぎにしたがっていると言うことだけだ。あいつには色々と、話し忘れていることがあるようだな」

「きっと、ショックを軽くしようと思ったんだよ」ジャンはカラスをかばった。「おじさんは、何か言ってなかった?」

「悪態をついていた」

「そうだろうね」ジャンは頷いた。

「しかし、お前が皇太子になると言う考えには、渋々だが賛成した。メーン公爵の馬鹿げた野望をくじくには、それが一番ましな方法だと考えたようだ」

 ジャンはうんざりして、ため息をついた。「王様もおじさんも、どうして僕になんでもかんでも押し付けるんだろう?」

「シャルルとマルコの甥だからじゃないか? 伝統と政治の両方を満足させられる人材が、お前以外にいないんだろう」アランはふと考えてから、剣の柄に手を掛けて再び口を開いた。「どうしても嫌だと言うなら、私がなんとかする」

「待って」ジャンは慌てて止めた。「何を斬るつもりか知らないけど、剣でどうにかなる話じゃないよね?」

「いや」アランは首を振った。「大抵のことは、これで片付く」

「それでも、だめだよ」ジャンはきっぱりと言った。

「わかった」アランは剣の柄から手を離した。

 ジャンは、ほっとため息をついた。

 不意に、スイがくすりと笑った。ジャンとアランは、ほとんど同時に王女へ目を向けた。

「あなたたち、本当にただの友だちなの?」スイは両手を腰に当ててたずねた。

 ジャンとアランは顔を見合わせた。

「実は恋人同士だったりしない?」

 アランは肩をすくめた。「まさか」

「そんなわけないよ」ジャンは笑って言ってから、アランに目を向けた。「でも、ただの友だちじゃないよね。護衛だから?」

「そうだな」アランは頷いた。

「あなたと私も、友だちになれるかしら?」スイはアランに笑い掛けた。

「そう出来ない理由はないな」アランは言って、右手を差し出した。

 スイはその手を握り返した。彼女は笑顔だったが、その目は彼女の侍女と同じように、まったく笑っていなかった。理由はわからないが、ジャンは何かまずいことが起こり始めてるのではないかと、ほんの少しだけ不安を覚えた。

(7/14)誤字修正

(7/15)誤字修正

(7/20)誤字修正

(8/10)誤字修正

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ