1.ディボーの町
荷馬車の荷台に寝ころんで、少し霞んだ春の空を眺めながら、ジャン少年は幼い頃に聞いた、おとぎ話を思い出していた。それは、悪い魔女によって異国へさらわれた王子が、たった独りで旅に出て、様々な冒険の末に自分の国へ帰り着くと言う物語だ。その中で、王子が行きずりの荷馬車に乗り、積み荷と一緒に荷台に寝転がって、星や雲を眺めながら旅をする場面がある。幼いジャンは、その光景をありありと思い浮かべ、いつか自分も王子のような冒険の旅に出るのだと夢見たのだった。
もちろん、十三歳になった今は、それが子供っぽい妄想だと言う事を理解している。この世界のほとんどは平穏な日常で作られていて、冒険は川底の砂金よりもずっと少ないからだ。それは、多くの人たちがありふれた毎日を願い、そうあるように努力し続けてきたおかげだった。
両親のいないジャンが不自由なく暮らしていられるのも、養い親である伯父夫婦が、その努力を惜しまない人たちであればこそだ。彼らのおかげで、ジャンの毎日は水車のように規則正しく回り、どんな形であれ明日が必ずやって来ると保証されていた。つまり、有り体に言えば、ジャンは幸せだった。
思い返して見れば、彼の冒険の始まりは、ある春の日の、ごくありふれた夕食の席から始まっていた。特別な事があるとすれば、食卓を飾るのがキャベツのシチューで、実を言えば、ここ一週間はキャベツ料理ばかりだった。おかげでジャンより一つ年下の従妹のポーレットなどは、隣りの席でうんざりした顔を隠せずにいた。それでも、養母のジネットおばさんが作る料理はとても美味しかったから、ジャンはもうあと三日くらいなら、キャベツが続いても耐えられる自信があった。ただし、四日目には、自分も今のポーレットと同じ顔をしているに違いないと言う確信もある。
「明日、ディボーへ行く」夕食が始まってすぐ、向かいの席から伯父のマルコが言った。「ジャン、おまえも一緒に来るんだ」
それは、ジャンの村から半日ほどの、街道沿いにある小さな町の名だった。この時期は市が開かれていて、近隣の村々から大勢の人たちが、春に収穫した作物を持ち寄り集まってくる。村から一度も出たことが無いジャンは、伯父の言葉に心臓がどきりと鳴った。
「お兄ちゃんだけ?」ポーレットが唇を尖らせる。
「遊びに行くわけじゃないからな。それとも早起きして、キャベツを荷馬車へ積み込むのを手伝ってくれるか?」
「あー」ポーレットはシチューが入った皿をちらりと見てから、苦笑いを浮かべた。「遠慮しとくわ。今はキャベツの気分じゃないの」
それを聞いたマルコは、大きなおなかをゆすりながら笑った。
「これ以上、私の料理にケチをつけるようなら、朝ごはんは抜きにしますからね」ジネットは夫と娘を睨み付けた。
「お前の料理に不満があったら、私もこんなに太っちゃいないさ」マルコは片目を閉じて見せた。
「どうだか」ジネットは鼻を鳴らした。「ジャンにおかしな遊びを覚えさせないでよ?」
「私もジャンも、そんな才覚はないよ」
ジネットは少し考えてから「それもそうね」と言った。
「それに人と会う約束があるから、遊んでる暇はないと思う。まあ、土産を買う時間くらいはあるだろうが」
ポーレットが目を輝かせた。「私、欲しい物のリストを作るわ!」
「いい考えね」ジネットが言った。「ごはんが終わったら一緒に考えましょう」
「荷馬車に全部乗るかな?」ジャンは伯父にたずねた。
「どうかな」マルコはむっつりと言った。「リストを見てから心配しよう」
翌朝、ジャンは日の出前にベッドを抜け出した。着替えてから、まだ隣のベッドでぐっすり眠るポーレットに、「行ってきます」を言って子供部屋を出る。食堂には伯父夫婦がすでにいて、椅子にも着かず二人で声をひそめて何事かを話し合っていた。二人は甥っ子の顔を見ると話すのを止め、笑顔で「おはよう」と言った。
「おはよう。おじさん、おばさん」ジャンは言って、大きな欠伸を一つした。
「眠れなかったみたいだな」マルコは笑いながら言った。
「まあね。馬車の準備をしてくる」
「ああ、頼む」
外へ出ると、空にはまだたくさんの星が残っていた。空気は冷たく、吐く息が白く煙る。ジャンは二の腕をさすりながら小走りで馬小屋へ向かい、この家に一頭きりの馬を引っ張り出して、裏に置いてある荷馬車の側へ連れて行った。荷馬車に被せていた帆布を外し、馬を長柄に繋いでから御者台に乗って倉庫の前まで移動させる。倉庫の扉を開けると、中にはキャベツが山積みになっていた。それを荷台に十個ほど積んだところでマルコが加勢に現れた。二人で黙々と緑色の青臭い玉を運び出し、倉庫が空っぽになる頃には太陽が顔を見せ始めていた。
「片付いた?」ジネットが二人分のマントと包みを持ってやって来る。
「ああ、いつでも出発できる」マルコが言った。
「気を付けてね」ジネットは二人にマントと包みを一つずつ渡し、夫と甥っ子の頬にそれぞれキスをした。「朝ごはんを包んであるから、行きがけに食べてちょうだい」
「ありがとう」マルコは妻にキスを返した。
ジャンも礼を言って、伯母にキスしてから目を擦った。伯父に見抜かれた通り、昨夜は興奮してなかなか寝付けなかったのだ。
「荷台で少しばかり寝るといい」マルコは言った。
「そうするよ」ジャンは荷台に飛び乗ると、キャベツをよけて寝床を作った。少し考えて、丁度いい大きさのキャベツを選び、頭の位置に置く。
マルコが御者台に乗り、手綱を揺らすと荷馬車はゆるゆると動き始めた。ジャンは見送る伯母に手を振ってから、マントに包まってキャベツを枕に横になった。目を閉じると、彼はすぐ眠りに落ちた。夢を見たかも知れないが、目覚めたときにはもう忘れていた。見上げる空は春霞に煙り、荷台に横たわる彼の視界の右端は、若芽を吹く木々の枝先で切り取られていた。それは、ふと途切れて、馬車が街道沿いに広がる森から抜けたことを告げた。身体を起こして太陽の位置を確かめると、南中を過ぎている。
「寝過ぎたかな?」ジャンは御者台の叔父に言った。
「そうでもないさ」マルコは言った。「見えたぞ。ディボーだ」
ジャンは荷台の側壁から身を乗り出して前方を見た。森の端から、だたっぴろい平原が広がり、その中を反物のように伸びる街道の脇には、テントや荷馬車がひしめくように並んでいた。
「こりゃあ、ちょっと出遅れたようだな」マルコはため息を落とす。
「どう言うこと?」ジャンは怪訝な顔でたずねた。
「停まってる荷馬車を見てごらん」マルコは肩越しにジャンをちらりと見て言った。「ほとんど空っぽなのがわかるだろう。あれは市で買い手を見つけて、全部売っ払った後なのさ。今頃はみんな、酒場で一杯ひっかけてるところだろう。そして夜更けにはテントに戻って、ひと眠りしたら自分らの村へ帰るって寸法なんだ」
「宿には泊まらないの?」
「みんな、宿代を払う余裕がないんだよ」マルコは肩をすくめた。「けど、宿代をケチって売り上げを泥棒に持って行かれたんじゃ元も子も無いからな。私たちはちゃんと宿を取ることにしよう」
二人を乗せた荷馬車はテント街を素通りし、白漆喰が塗られた壁の建物が並ぶ街中へ入った。街道から繋がる通りは軒売りの店や屋台が出ている上に、たくさんの通行人がひしめいていたから、伯父の荷馬車はのろのろとしか進めなかった。ジャンはこれほどの人通りを見かけるのは生まれて初めてで、ただただ圧倒されるばかりだった。
四つ辻の角に看板を掲げる三階建ての建物の前で、マルコは荷馬車を停めた。彼は甥っ子に馬の面倒を見るよう命じると、御者台を降りてひとつ大きな伸びをした。マントを脱いで御者台に置き、突き出た丸いおなかをポンと叩いてから建物の中へ姿を消す。ジャンは荷台を降り、馬を長柄から外して近くの水場へ連れて行き、水を与え汗を拭いてやった。水場には数頭の馬が繋げるようになっていたが、今はジャンの馬一頭しかいない。日差しを暑く感じたので、マントを脱ぐと丸めて荷台へ放り込んだ。それから、おばさんに貰ったお弁当を食べ損ねたことに気付いたところで、建物から伯父が、ひょろりと背の高い男と連れ立って出てくるのをみとめた。ジャンは急いで二人の側へ駆け寄った。
「やあ、君がジャンだね?」背の高い男は笑顔で言った。
「はい、旦那様」
「私のことはジェルベで構わないよ」
「わかりました、ジェルベさん」ジャンは丁寧にお辞儀した。
「礼儀正しい子じゃないか?」ジェルベは太っちょの友人に目を向けた。
「人前に出ても、恥をかかない程度には躾けてあるよ」マルコは頷いた。「それで、どうかな?」
するとジェルベは途端に難しい顔をした。「とりあえず、物を見せてくれ」
マルコはジャンに目配せした。ジャンは荷台に飛び乗り、とびきり良いキャベツを一個取り上げて、ジェルベに差し出した。
キャベツを受け取ったジェルベは重みを確かめ、葉っぱを一枚千切って味を見てから、大きなため息を吐いた。「なあ、マルコ。こいつが素晴らしいキャベツなのは、私にも一目でわかったよ。普段なら、ここにあるもの全部を銀貨一〇〇枚で買い付けていたところだ」
「それじゃあ……」
「普段なら、と言ったろう?」ジェルベはマルコに首を振って見せた。「どうやら今年は、どこもキャベツが大豊作らしくてな。このディボーは、今やキャベツであふれかえってるんだ。今の相場でこれを買い取ったりしたら、私もあんたもひどい損を被るぞ」
マルコはすがるように痩せぎすの友人を見つめ、それからあきらめたようにがっくりと肩を落とした。
「ああ、マルコ。そんなに気を落とさないでくれ」ジェルベは太っちょの友人の背中を、励ますように叩いた。「私だって、このまま友だちを見捨てるつもりはない。それに、こんなに素晴らしいキャベツを腐るに任せたりしたら、仲買人の名折れもいいところだ。ひとまず中に入って、何かうまい手は無いか一緒に考えてみよう。ついでに、今日仕入れたワインの具合を見てやってくれ」
ワインと聞いてマルコは途端に元気を取り戻し、二人は建物の入口へ向かって歩き出した。ジャンもその後に続こうとするが、仲買人はふと足を止めて何やら考え込んだ。
「そうだ、ひょっとすると――」ジェルベは独り言ちてから、ジャンに振り向いた。「この先にあるコマドリ亭と言う宿屋に、カラスと言う若い男が泊まってるはずなんだ。ちょっと行って、彼を呼んできてきてもらえないか?」
「カラス?」マルコが驚いた様子で口を挟んだ。「ひょっとして、黒髪の男か。背が低くて目つきの悪い?」
「知り合いなのか?」ジェルベは怪訝な顔でたずねた。
「多分、そうだ。カラスなんて珍しい名前は、そうそうないだろうからな。実はキャベツを売っ払った後で、彼と会う約束をしていたんだ。奇遇なこともあるもんだ」
「そうでもないさ」ジェルベは肩をすくめた。「私は小口の商いも受けるから、彼のような旅の商人は、大抵まっ先に私の店にやってくる。件のワインも彼から仕入れたものでね。もし運よく彼が、別の町で売るものをまだ仕入れてないとしたら、あんたの素晴らしいキャベツを買い取ってくれるんじゃないかと思ったんだ。彼とは、何の用件で会うつもりだったんだ?」
「旧交をあたためるためさ。会うのは十年振りだからな」マルコは目を細めて言ってから、ジャンに目を向けた。「頼めるか?」
「もちろん」ジャンは請け合った。「ジェルベさんが呼んでたって言えばいいんだね?」
「儲け話があると伝えてくれ」ジェルベが言った。
「わかりました、ジェルベさん」ジャンはひとつ頷いてから、コマドリ亭へ走った。
宿屋に着くと一階は酒場になっていて、まだ日も高いうちから大勢の酔客たちがあふれていた。笑いながらジョッキを振りかざす者や、丸テーブルに突っ伏して動かない者、テーブルの向かいの客の襟首を掴んで怒声をあげる者。そのほとんどが、ジャンの伯父と似たような服装で、彼が町の入口で伯父から聞いた、取引を終えた農民たちだと知れた。しかし、カウンター席に着く二人の客は、まったく様子が違っていた。一人は黒髪の男で、屋内だと言うのに灰色のマントに身を包んでいる。その隣の席には、従妹のポーレットよりも幼い金髪の少女が座っていて、彼女は自分の背丈ほどもある剣を背負っていた。ジャンが歩み寄ると、二人はほとんど同時に目を向けてきた。
「こんにちは、旦那様」ジャンは男の鋭い目つきにたじろぎながら言った。伯父は彼を目付きが悪いと評していたが、まったくその通りだった。「僕は、仲買人のジェルベさんの使いの者です。カラスさんですか?」
男は頷き、少女は面白がるような表情を浮かべて、ジャンをじろじろと眺めた。
「ジェルベさんは儲け話があるから、すぐに来てほしいと言ってました」
「そりゃあ、ありがたい話だが」カラスは疑わしげに言った。「これから人と会う約束がある。悪いが、他を当たるように伝えてくれ」
「その人もジェルベさんと一緒です」ジャンは急いで言った。「彼はカラスさんと十年振りに会えるのを、とても楽しみにしてました」
カラスは値踏みするようにジャンを見てから、手に持っていたジョッキの中身を一気に飲み干し、「ビールの樽を一つ」と、カウンターの向こうにいる店主に言った。
店主は小ぶりの樽をカウンターの上にドシンと置いた。カラスは数枚の硬貨を置いて席を立ち、樽を置いたまま出口へ向かった。剣を背負った少女も丸椅子を飛び降りてカラスの後を追う。ジャンは二人の背中を見て、次いでカウンターの上のビール樽を見た。それからため息をついて、自分の胴回りほどある樽を抱え上げた。
ジェルベの店に着くと、カラスは勝手に店の中へ踏み込んだ。忙しく走り回る従業員たちを尻目に階段を上がり、たくさん並ぶ扉の一つを迷いなく押し開く。部屋の中ではテーブルを挟んで、マルコとジェルベがワイングラスを傾けていた。
「やあ、カラス。待ってたぞ」ジェルベは機嫌よく言った。
「おい、たちの悪い盗っ人とつるんでるな?」カラスは痩せっぽちの仲買人を無視してマルコに言った。
「立派になったな、カラス」マルコはワイングラスを掲げて言った。「背丈は十年前とさして変わってないが?」
ジャンはテーブルの上に樽を置きながら、カラスの背丈が彼とさほど変わらないことに気付いた。ふと視線を感じて振り向くと、剣を背負った少女は扉の横に立って、やっぱり面白がるような表情を浮かべながらジャンを見つめている。
「ほっといてくれ」カラスは鼻を鳴らして言うと、椅子を引いてどっかと腰を降ろした。「ジョッキはあるか?」
「確か、その辺にあるはずだ」ジェルベは部屋の片隅にある戸棚を指して言った。
ジャンは戸棚から陶器のジョッキを三つ持ってくると、樽からビールを注いで大人たちの前に並べた。
「いい奉公人を使ってるじゃないか?」カラスは感心して、ジェルベに言った。
「残念なことに、彼はうちの従業員じゃない」ジェルベは肩をすくめた。「友だちの甥っ子なんだ」
カラスは素早くマルコを見た。
「ジャンだよ。見違えただろう?」マルコは笑って言った。
「ああ、でかくなったな」カラスは表情を和らげてジャンを見た。「俺のことは覚えてるか?」
ジャンは首を振った。
「まあ、そんなもんか。お前は、三歳になったばかりだったからな」
「そっちのお嬢さんは?」マルコは扉の横に立つ少女へ目を向けた。
「俺のボディガードさ。小さい女の子だからって甘く見てると、あのおっかない剣で真っ二つにされるぞ」
紹介された少女は大人たちに会釈してから、またジャンに視線を戻した。あまりじろじろ見られるものだから、ジャンは少し落ち着かなかった。
「それで?」カラスは言った。「正直者のマルコおじさんが、何だってこの悪党と一緒にいるんだ」
「ジェルベは、うちでとれた麦やら野菜やらを、専門に扱ってくれてるんだ」そう言って、マルコは喉を鳴らしてカラスのビールを飲んだ。
「相場の半分でか?」
「まさか」ジェルベは傷ついた顔をしてみせた。「せいぜい八割ってところだよ。その代わり、よっぽどの事がなければ、持ち込まれたものは全量買い取ってる」
「俺のワインにも、同じくらい良心的な値段を付けて欲しかったな」
「手強い相手は、こてんぱんにやっつける主義なんだ」
「なるほど」カラスは肩をすくめた。「まあ、その方が面白いからな」
「あんたならわかってくれると思ったよ」ジェルベは片目を閉じて言った。「それで、素晴らしいワインを譲ってくれた礼に、ちょっとした儲け話を用意したんだ。もちろん、私たちの共通の友人を助けるためでもある」
カラスはちらりとマルコを見た。「聞こうか」
「我らの親愛なるマルコが、最高級のキャベツを持ってきてくれたんだ」
「キャベツ?」カラスは眉をひそめた。
「お察しの通り、ディボーは目下、キャベツの洪水に見舞われている。相場はがた落ちで、彼の素晴らしいキャベツを買ってあげようにも、二束三文にしかならない。そこで、あんたの出番と言うわけさ」
カラスは鼻を鳴らした。「俺に、相場が良い町を探して歩き回れって言うのか。馬鹿馬鹿しい。見付かった頃には、どんなに立派なキャベツでもみんな腐っちまってるぞ?」
「そんなことにはならないさ。トレボーへ持って行けばいい」
「ここから一日しか離れてないぞ。相場も大して変わりゃしないだろう」カラスは疑わしげに言った。
「まあ、そうだな」ジェルベは認めた。「あっちに置いた支店の報告だと、昨日の時点で今のディボーより多少ましと言った程度だった。しかし、あそこには街道警備隊の駐屯地がある」彼はにやりと笑った。「街道警備隊には貴族様が多いから、糧食だってそれなりの質が求められる。そして、我らがマルコのキャベツは、彼らの舌をじゅうぶん満足させられるくらいの代物なんだ」
カラスはしばらく考え、ようやく口を開いた。「なるほど」
「あの」ジャンは少し気後れしながら口を挟んだ。大人の会話に割り込むのが行儀の悪いことだとは承知していたが、どうしてもわからないことがあった。「どうして、街道警備隊には貴族が多いんですか?」
「それには、まず貴族について説明しなきゃならないな」ジェルベが答えた。「彼らの仕事は偉そうにふんぞり返ることと、市民の血税で豪華な晩餐を開いてダンスをすることだけじゃない。国王の求めに応じて、兵を率い戦争に行く義務もある。そんなわけで、当たり前の貴族の子弟であれば幼いころから軍事教練を受けているし、領地を受け継ぐ長男は別として、それ以外の兄弟は食っていくために国軍へ入隊するのが習いなんだ。そして街道は実に色んな人が通るから、その警備は礼儀作法を叩き込まれた貴族出身の兵士にぴったりの仕事なのさ。うっかり外国の要人と出くわしても、あたふたしないで済むだろう?」
ジャンは頷いた。「もう一つ、聞いてもいいですか?」
「何かな?」
「ジェルベさんが自分で売りに行かない理由です。だって、トレボーには支店があるんですよね?」
「なあ、マルコ」ジェルベは太っちょの友人に笑顔を向けた。「この子を、うちへ奉公に出す気はないか?」
「目を付けたのは俺が先だぞ」カラスが言った。
「引く手あまただな」マルコは笑いながら言った。右手のジョッキには、すでに三杯目のビールが注がれていた。「お前さんは、どう思う?」
「僕やおじさんみたいな正直者に、商売人は向かないと思うよ」ジャンは肩をすくめた。
「まあ、その件は後で話し合うとして」ジェルベは言った。「私が自分で駐屯地へ売り込みに行かないのは、商売人にもルールがあるからなんだ。私は平民向けの品を扱うが、軍を専門に扱う仲買人もいれば宮廷や貴族を相手にする仲買人もいて、それぞれ他人の領分を侵してはいけないことになっている。だから、私がトレボーの支店を動かして駐屯地と勝手に取引をすると、色んな連中を敵に回すことになる」
「おい、ちょっと待ってくれ」マルコが口を挟んだ。「それなら、ジェルベ。あんたが軍の仲買人に口を利いてくれれば、問題なくトレボーで私のキャベツを売れるってことにならないか?」
「それは正直者の商売だ」カラスが言った。「間に人が入れば、それだけ儲けが減る。この悪党が俺に声を掛けてきたのは、俺がルールの外側にいるからなんだ」
「外側?」
「旅商人は扱う量が少ない上に客からの信用も薄いから、いちいちルールで縛らなくても、自分らを脅かすような商いは出来ないと思われてるんだ。もちろん軍だって、俺がただキャベツを持って行っても門前払いにするだろう。ただし、それなりの人物の紹介状があれば話は別だ。例えば、いくつかの町に支店を置くような、大きな商会の主とか?」カラスはジェルベに目を向けた。
ジェルベは大仰にお辞儀をして見せた。
「あんたは、それでどんな儲けを得るんだ?」マルコは仲買人を探るように見つめた。
「自分の才覚で、友人を救えたって事実以上の報酬は無いさ」
「たぶん」と、ジャンは言った。大人たちが一斉にジャンを見た。少し頬を赤くして、彼は続けた。「これで、駐屯地の人がおじさんのキャベツを気に入ってくれたら、紹介状を書いたジェルベさんにまた取引をしたいって話が来るようになるんじゃないかな。そうしたら、ジェルベさんはルールを破らずに、軍と取引ができるようになる」彼はジェルベに目を向けた。「合ってますか?」
「お見事」ジェルベは褒めた。「もちろん、うまく行くとは限らないがね。しかし、あのキャベツには賭けてみるだけの価値がある。下心があって気を悪くしたか?」彼はマルコに目を向けた。
「いいや、友だちが儲けるのを見るのは嬉しいもんさ」マルコはジョッキを掲げて片目を閉じた。
「カラス」不意に少女が言った。子猫のように愛らしい声だが、わずかに険が含まれていた。「市場を見て回る約束を忘れたのか」
「もちろん、覚えてるさ」カラスは肩をすくめた。彼はジャンに目を向けた。「ジャン、俺の代わりにその子を遊びに連れて行ってくれないか」
「はい、カラスさん」
カラスは「手間賃だ」と言って、硬貨を一枚放って寄越した。
「ありがとう、カラスさん」受け取ったジャンは、礼を言ってから手の中を見て驚いた。銀貨だった。
カラスは鷹揚に手を振って、早く行くように促した。ジャンは出口へ向かい、少女に「行こうか?」と言った。少女は愛らしい笑顔を浮かべ、大きく頷いた。
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