いずれより来たりて(1)
ふわりと、パンの香ばしい香りで目が覚める。
どうやら、泥のように眠っていたらしくて、外を見るとすっかりと空が明るくなっていた。
白を基調としたルカの部屋に、秋のやさしい日差しが入り込む。まるで世界は何事もなかったかのように、いつもの温もりがルカを出迎えてくれた。
体を起こそうとするが、少し、重い。腹の中に渦巻くぐるぐるした気持ち悪さもまだ残っている上、イマイチ体に力が入らない。しっかりと眠ったはずなのに、やはりショックが大きかったのだろうか。
なんとか体を起こすと、テーブルの上に一人分の食事が揃えられつつあった。ベッドから這い出る音に気がついたらしい菫が、おはようございます、といつも通りの笑顔を見せる。
「おはよ、菫」
少しはにかむように笑うと、目のあたりがじんじんと引きつっているような感覚を覚える。おかしいなと思って手で触れると、そこが少し熱を持っていた。
――ああ、たくさん泣いちゃったから……。
泣くなと言われ、泣かないと宣言しても、ひとりの夜、勝手にこぼれ落ちてくるものは仕方がなかった。枕を見下ろすと、しっかりと濡れた後が乾いていて、涙がこぼれたのが一目でわかる。同時に、これをレオンに見られるのは少し抵抗があって、頬を掻いた。
ルカに近づいてきた菫も、同じように枕のシミに気がついたようだ。しかし、毎日お洗濯しますから、とにっこりと言い残し、ルカの肩を支えるように手を触れた。
「先に着替えましょうか。気分を変えられた方が良いですよね」
「――そうね、ありがとう。菫」
すっかりと侍女として気配りを覚えた菫は、誇らしげに微笑む。
すぐに準備します、と言い残し、一旦奥の部屋へと下がっていった。
「ゆっくり眠れたようですわね」
菫を入れ替わるようにして声をかけてきたのは花梨だった。一晩側で過ごしてくれたらしい。流石上級妖魔と言えば良いのか、疲れを感じさせない、いつもの華やかな笑顔を見せる。
「気分は落ちつきまして?」
「ええ。ちょっとすっきりしたみたい」
「そう。――でも、ルカ。貴女が言ったように火ノ鹿が貴女を狙っているのでしたら、ぽやぽやしている暇はありませんわよ。近いうち――貴女の気の乱れが落ちついた頃に、彼は再びやって来ますわ」
ごく真剣な表情で、ルカを説得するように彼女は告げた。
「覚悟を決めたら、私と過ごす時間を作りなさいな、ルカ。話して差し上げるわ。男の上級妖魔では、理解できないお話をね」
「花梨――それって」
「貴女が何から身を守るべきなのか。風の主がどうして、火ノ鹿を黙って見ているのか。すべて私の憶測に過ぎませんけれど――知っておいて損はありませんわよ。上級妖魔と言っても、ちっぽけなプライドを護っているだけに過ぎない生き物だと言うことですわ」
ほんと、殿方のだらしのないこと。呆れたようにそう言い残し、花梨は踵を返す。
そうして、奥から洋服を用意してきた菫に道を譲るように、彼女はそっと、ルカの部屋を後にした。
***
着替えて、ひとりで食べる味気ない朝食の時間を過ごした後、ルカはあらためて花梨と二人で向かい合う。後にレオン達にも伝えるつもりでいるが、まずは、二人で話を聞きたい。花梨もそれを望んでいるようだった。
ルカの私室のソファーに、彼女はゆったりと腰をかける。どこかその瞳は憂いを帯びていて、薄紅色が僅かに蔭っていた。しかし、彼女はすぐに凜とした強い視線で、ルカの方に向き直った。
どこからお話ししましょうか、とポツリと漏らす彼女。しかし、彼女の中でもう答えが出ているらしく、決意に満ちた様子で一つ頷くと、静かに、口を開く。
「赤薔薇は興味がないでしょうから。きっと、このことを女の上級妖魔の立場で伝えられるのは、私だけですものね」
「ええ、花梨」
きっと、昨夜の火ノ鹿の行為についての話なのだろう。覚悟を決めて、ルカはぎゅっと両手を握りしめた。
「風の主がどうして貴女を選んだのか。正確な事情は、私にはわかるべくもありませんわ。ですが、ルカ――貴女も薄々感じているでしょう? 貴女の身体の中に流れる、その血のこと」
「……」
「貴女、妖魔ではありませんの?」
花梨の言葉に、ルカは瞼を伏せる。それに対する正しい答えは、ルカも持ち合わせていない。
わからない、と首を横に振るのが精一杯。ただ、自分が明らかに周囲と異なっている自覚は、強く持ち合わせていた。
新月の夜。ロディ・ルゥに、存在を問われた。そして、己から流れる紫の血を見て、なおさら。
「――事実は貴女にもわかりませんのね」
妖魔と肯定するのが、怖い。だからこそ、花梨の言葉に、ルカは素直に頷いた。
「でも、貴女には確かに妖気が宿っている。それも、普通の上級妖魔では手に触れられないほどの」
「手に、触れられない?」
「昨夜、貴女が火ノ鹿にされたことを、覚えていらっしゃって?」
「それはもちろん。突然私を抱きしめて――その――口づけを」
思い出すだけで、身体が震える。あの時の感覚が忘れられない。
「口から何かを吹き込まれた。身体が、掻き回されるような感覚がして、気持ち悪かった……」
「――やはり、染めに来ましたのね」
「染める?」
ルカが首を傾げると、花梨は真剣な表情で、大きく頷いた。
「僕従の契り、という言葉はご存じ?」
つい最近、耳にした言葉だ。“侍女”という言葉をルカが間違って受け取っていたとき、ロディ・ルゥが雛の目的をそのように称した。身を重ねることで、主の力を賜る、と彼は言っていなかったか。
ルカが頷くと、花梨も形の良い唇と、きり、と噛みしめる。
「妖魔が直子を孕むためには、条件があるのでしてよ、ルカ。二人の持つ色彩が、近くなくてはならない」
「色彩が?」
「妖気の形、方向性、属性――どう伝えるのが一番わかりやすいかはわかりませんけれど、私たち妖魔は、それぞれの妖気に色を持っておりますの」
「薊に、少し聞いたけど――」
それでも、聞いたことのない知識に、愕然とする。
人が魔力を扱うとき、素材に属性があると聞いたことは勿論あるが、厳密にその属性について証明できるものは何ひとつ存在しない。
薊やロディ・ルゥの話から、妖魔が素材を色でとらえていることは理解していた。しかし、妖魔たち本人にもまた、色彩が宿っているらしい。
属性――人間社会では、火や水、風や土、そして太陽と月。それぞれの神の力に例えられることが多い。
しかし、魔術具を作る際、その例え方だと証明しきれないことが数多くあると聞いたことがある。神の力は気まぐれで、魔力の働く方向性の“例外”が多すぎると。
だから、最終的に頼りになるのは経験則。それしかないと、魔術具作りの名手、ルカの義姉ユーファも口にしていた。
妖魔が扱うのは妖気ではあるが、人間とはまったく違う見方で、この世界の理を理解している。
それに触れるのに、心が震えるのがわかった。彼女は妖魔。人間とはまったく別の生き物だと、思い知らされる。
「火ノ鹿は、自分の色に染まれって、言ってた」
「やはり。ルカ。貴女の色彩は、正直私では言葉に出来ない色をしておりますの。しかし、あの夜、峰の色が一瞬赤に染まった――」
「火ノ鹿に口づけをされたから」
「そう。それが、染めると言うこと。貴女の色彩を、火ノ鹿は自分の色に寄せようとしているのですわ」
「――子を、つくるために?」
ルカの言葉に、花梨は大きく頷く。
火ノ鹿の行動の意味がようやく飲み込めてきた。同時に不可解なことも浮き彫りになる。
「火ノ鹿の目的は見えてきた。けれどどうして――どうしてみんな……ううん、少なくともエリューティオ様は、それを当たり前のように受け入れるの?」
「皆、で合ってますわよ、ルカ」
「え?」
「本当に、殿方は厄介ですから」
花梨の言葉に、ルカは何度か瞬く。ぽかんと空きっぱなしになった口を見て、花梨は呆れるようにため息をついた。
「貴方が峰に来た時からの話を致しましょう、ルカ。……まずは、多くの上級妖魔に気に入られておりながら、どうして誰ひとり、貴女に手を出さなかったのか」
「え?」
「貴女は随分と無用心ですけれど、私たちは自分が欲しいものに正直ですのよ」
にっこりと宣言する花梨の言葉に頷き返す。
確かに、彼らは己の価値観に正直なことは、よく知っている。ルカとは優先順位のつけ方が全く異なっていることも。
「新月の夜まで、貴女は力の無いひとりの娘だった。手に入れようと思えば、簡単だったのでしてよ? それでも皆が貴女に手を出そうとしなかったのは、貴女が風の主のものだったから。それには間違いがありませんわ」
「ちょっとまって。……みんなって?」
「みんな、ですわ。力なかった貴女を染めるだなんて容易ですもの。自分のものにしたいなら、一番手っ取り早い方法ですわ」
花梨の言葉に、悲鳴のような声をあげる。新月の夜まで、と限定された期間の中で、ルカと接してきた妖魔など限られている。下弦の妖魔たちの顔が次から次へと浮かんで、ルカは頭を抱えた。
そういえば、昨日も――琥珀に、想いを打ち明けられたばかりだ。人間の想いとは違うけれども、と言葉を添えられはしたが。
「私だって、ジグルス・ロニーの事がありましたからね。少しは人間らしいものの考え方を理解しているつもりですのよ? その上で言いますけれどもね、妖魔にとって相手を手に入れたいと思う気持ちは、おそらく、ルカが思っているよりもずっと軽い」
「軽い?」
「気に入ったら、さっさと自分のものにしてしまえばいいということですわ。他の者にとられるよりも、はやく。……それを皆がしなかったのは、風の主の存在があったからですわね」
「私が、婚約者だから?」
「絶対的な強者に抗うなど、馬鹿のすることですもの」
「……」
ああ、とルカは納得する。妖魔たちは皆、己が王でありながら、風の主だけは尊重し、同時に敬遠しているようにも感じた。
花梨の言を借りるなら、そこには明確な力の差という壁があるのだろう。宵闇の妖魔たちが、上級妖魔の皆を尊重するように、力による身分差のようなものを感じている。
己の立場を冷静に実力で測れるからこそ、その壁に触れぬように生活して来たわけか。現にこの峰の妖魔たちは、ルカがやって来るまではお互いに干渉することなどほとんどなかったはずだ。
ルカは厳しい表情をしたまま、一度、首を縦に振る。それを見て、花梨はさらに話を進めた。
「ここまでは、新月の夜までの話。しかし、あの日を境に、すべてが変化したのですわ。貴女自身が感じている以上に、周囲もまた」
「私が、みなを縛った夜ね……」
「ええ。どういうわけか、白雪に追われた後、再び会った貴女はその身体に妖気を宿していた――それも、並の上級妖魔では相手にならないほどの」
「……」
オミの名前を呼んで、彼の目元に封印されていた何かが解放された。彼がルカの側に居続けていた理由とも言える何かの封印。
あの祈りのような古い言葉に秘められた想いを感じて、ぎゅっと胸が苦しくなる。
「決定的に、誰もが貴女に手を出すことが出来なくなった。風の主ですら」
「……それは、私の妖気のせい……?」
「端的に言うとそうですわね」
話の流れからすると、エリューティオとの力の差が大きくなりすぎた、という事なのだろうか。
確かに火ノ鹿も、エリューティオの力ではルカを染められないと言っていた。ルカにはまったく計りようがないけれども、そんなにまで皆との差がついてしまったと言うことか。
「――話は逸れますけれど、私、上級妖魔同士の直子など、見たことがありませんの」
「?」
何故花梨がそのような例を持ち出したのかわからない。小首を傾げると、難しい顔をした花梨は、思い伏せるように視線を逸らす。
「私は、ごめんですわ。どなたかに染められるなど、屈辱以外のなにものでもありませんもの」
瞬間、花梨の言葉の意味を理解する。まさか、と思いながら、ルカは恐る恐る、彼女にたずねた。
「それは――どうして?」
「直子を孕むためには、男の妖魔が相手に妖気を送る。そして蓄えられた妖気がそのまま、子のものとなる」
「そうだったのね」
「相手の色を己に近づけておく必要がある。それ以外は、僕従の契りを行うのと同じ手段がとられますわね。これが、どう言う意味か、お分かりかしら?」
「……」
僕従の契り。
かつてロディ・ルゥがルカに説明した言葉を思い出す。
直接妖気を送り込むことで、相手を己の駒にするための契約。しかし、たいした拘束力は持たないし、単に上位の者が下位の者に力を分け与えるだけのものである。
そして、“お互いの利害が一致しない限り、上位の者に利はない”――と。
「上位の者が、下位の者に力を分け与える――」
何かが、すとんと胸に落ちてくる。
子を孕むことと、僕従の契りが限りなく近いものであるのだとすれば――それはすなわち、二人の立場をはっきりさせることと同義。そして孕ませられる女は、下位の立場にあたる。
「女の妖魔の方が、力が強かった場合は……?」
「前例を知らないと言ったでしょう?」
「そんな……力関係がはっきりするからって、それだけの理由で……?」
理解は出来る。しかし、同意が出来なくて途方に暮れる。
「花梨。貴方、上級妖魔の直子は見たことないと言ったわよね。だったら、下級妖魔は? 波斯や雛は、直子と聞いたわ」
「ええ、下級妖魔には、ちらほらいるようですわね」
「彼らにその誇りは? 貴方たちとはどうちがうの? そもそも、直子を拒否するのだとしたら……貴方たち、どうやって、生まれた?」
心臓が、大きく鼓動するのを自覚した。何か、大きな世界の真理に触れる気がする。
訊ねておきながら、その直後、身体が小刻みに震えだす。関わってはいけない奥の奥。
妖魔とは。彼らの生き方とは。ただの興味本位ですまない疑問に、自分自身、血がひいていくのを感じた。
花梨の知るかぎり、女の上級妖魔より生まれた直子は存在しないようです。
では、上級妖魔とはいずれから生まれてくるのか。
花梨の話はまだ、続きます。




