赤く染まるは(3)
琥珀が地面に降り立つと、ルカの身体も浮遊感を失う。ずっしりと己の身体の重みを感じ取った瞬間、本当に腹やら胸のあたりに変な感覚があることを自覚する。ぐるぐると感覚を引っかき回されたのが、まだ残っていたらしい。
初めての口づけを、見知らぬ男に奪われた。
子を孕めと言いながら、ルカを空中に投げ捨てるような男。しかもそれを、エリューティオ自身も容認している。
――私って……何なんだろう。
苦しくて、悔しい。何も言い返せなくて、ただただ事実を受け入れるのに精一杯だった。エリューティオにまるで裏切られたような気持ちになって、両目を覆う。
目元が熱い。まだまだ涙が引っ込む気配がなくて、途方に暮れる。
「お嬢様!」
「ルカ……!」
すると、聞き慣れた声が聞こえてきて、ルカは顔を上げた。レオンに、アルヴィン。ソニアや菫や波斯。雛までひょこりと顔を出して。さらにはハチガとリョウガ。そして上空から、ルカたちを追うようにして花梨が降りてくる。
異常事態が起きていたことを、皆、察知していたのだろう。
「……みんな……私……」
しかし、何を報告したら良いのかわからない。
婚約は、駄目になりそうです? 火ノ鹿の子を産むことになりました? そんな現実味の無い告白、どう伝えれば良いのかわからない。
そもそも、まだルカは認めていない。婚約を破棄されることも、火ノ鹿のものになることも、何ひとつ望んでいない未来だ。
それなのに、何も言えず、状況に流された自分がもどかしい。ただただ嫌だと駄々をこねることしか出来ない自分が嫌になる。
声を出そうとするのに、代わりに出てくるのは涙だけだった。
皆が息を呑むのがわかる。リョウガが何かをわめこうとするが、ハチガがすかさず彼の口を塞いだ。
代わりに前に出てきたのはレオンだった。
ルカの涙に臆することなく、しっかりとした足取りで、目の前まで歩いてくる。
ルカを抱きしめていた琥珀も、この場をレオンに委ねるつもりらしく、ルカの背中を押す。身体から温もりが消え、ただ一人、ぽつんとその場に立ち尽くす。腰を落とし、ルカと視線を合わせたレオンのやわらかな髪が、風に揺れる。澄んだ青の瞳は優しく、そして強くルカを見据えていた。
幼い頃から、ずっとずっと、見守ってきてくれた瞳。そんな彼が僅かに表情を崩すだけで、どれだけ心配をかけたのかと、胸が痛くなる。
「……レオン」
「だから俺は、風の主が嫌いだ」
「?」
「こうして、お嬢様を泣かせるから――」
くしゃり、と眉を寄せて、彼は真っ直ぐ両手を伸ばした。ルカの頬を包みこむような形になり、ルカは息を呑む。親指で頬を撫でられ、溢れる涙がぬぐい取られた。
「お嬢様、泣くな。まだ、泣くべき時じゃない」
「レオン」
「まだお嬢様に泣く資格なんてないだろう? お嬢様は、何もしていない」
「……レオン……何があったか、わかって……?」
ルカが何度か瞬くと、ほろほろと眦にたまった涙がこぼれ落ちる。それをも全部拭って、レオンはちらりとハチガの方へ視線を向けた。
「兄様……」
先日、ハチガが見せた憂鬱そうな表情が蘇る。エリューティオの私室で、彼とたった二人きりで何かを話していた。合流したときに見せた、憤りをぶつけるかのような瞳。
「何を、聞いたの?」
ルカの言葉には何も返ってこない。しかし、事の次第をレオンが悟っている時点で、決定的な何かは知っているのだと確信した。
「ハチガ様を責めるなよ。婚約のこと、お嬢様にどう伝えようかと悩んでいらっしゃったのだから」
婚約。成る程その単語で理解する。
エリューティオに、ルカとの婚約に関する執着心はない。ルカには直接告げなかったのに、ハチガに話していたのかと思うと、ますます胸が苦しい。
「……っ」
「で。どうするんだ?」
しかし、冷静なレオンの言葉が心に落ちてくる。
混乱して、何も届かなかったルカの心に、確かに伝わる。落ちついた芯のある声。その響きが心地良くて、ルカは目を細めた。
「思いきり泣きたいなら、泣くに足る行動をしろ。何もせず泣くようなみっともない真似は――」
「ミナカミ家の女子として、許されない」
「――そうだ」
幼いときから、理不尽な状況に陥るたびに言い聞かせられていた言葉。
魔力を持たないルカは、多くの当たり前の行動が、出来ない。だからといって、何もせず、諦めるような娘に育てられてなどいなかった。
レオンの手を振り払って、自分の手で涙を拭う。が、頬も鼻頭も涙でぐしゃぐしゃに汚れるだけになってしまい、みっともなくて笑った。
「お嬢様は、どうしたいんだ?」
レオンにハンカチを手渡され、頬を拭っていると、彼はただ静かに訊ねてくる。鼻をすすって、溢れる涙をまた拭って。気持ちはまだまだおさまらないけれど、ルカはきちんと、彼の言葉に頷いた。
「私は――エリューティオ様と、一緒にいたい」
「そうか」
「でも火ノ鹿が――」
「火ノ鹿?」
聞き慣れた隣国の名前に、レオンもハチガたち人間も目を丸くして、お互いの顔を見合っている。
「見えていた? あの、赤い妖魔――火ノ鹿が」
と、そこまで告げて、口を噤んだ。
彼のあまりの言いように、どう伝えて良いものかと言い淀む。
「あいつ、ルカを孕ませる気だよ」
しかし、それを割り込むようにして告げたのは琥珀だった。瞬間、レオンもハチガも顔が強ばり、完全にかたまる。
は、はらっ!? と、リョウガがおののく声が聞こえるが、それを無視して、ルカも静かに頷いた。
「……でも、私は、嫌だ……!」
「そうか」
「事情があるなら、せめて納得できる理由を用意して欲しい」
そう告げ、ルカはもう一度、瞳にハンカチを当てた。
悲しくて、苦しかった心が、今は憤りに変わりつつある。皆に聞いてもらって、幾ばくか気持ちが和らいだらしい。
ぱちん、と頬が叩かれる音がする。その軽い痛みにはっとすると、レオンが再び、ルカの両頬を挟み込んでいた。ジンジンと、頬が痛む。それでも、強い力で触れられ、熱を持った両頬から活を入れられた心地がした。
「そうだな。――お嬢様の言うとおりだ」
真っ正面から肯定してもらい、胸のつっかえが消えていくのがわかった。後ろで見守っていた皆の表情にも僅かに余裕が生まれる。
ほっとすると、再び身体の不調を自覚した。自分の想いを主張はしたものの、今日はもう、動けそうにない。
大きく息を吐き出したところで、琥珀が支えるように手を伸ばしてきた。彼が身体を張るような行動をとるのが珍しく、レオンは不思議そうに目を細める。
「レオン、ルカを早く休ませた方が良い。異なる色の妖気を思いっきり吹き込まれたんだ。負担が大きすぎる」
「妖気を吹き込まれる……?」
「後で全部まとめて説明するよ。――ルカ、歩かなくていい。もう、このまま眠っても良いから」
琥珀は小さな身体のどこにそんな力を秘めているのか、ひょい、と軽々とルカを持ち上げ、ルカの私室へと入っていく。ネグリジェ一枚で夜空に晒されていた肌は、完全に冷え切っていたらしく、部屋の空気が凍った肌を解きほぐしていった。
「本当は、僕が添い寝してあげたいけれど――ルカは、それも望まないだろうから」
「琥珀」
「僕が君を気に入っているのは本当なんだ。少し、人間とは形が違うかもしれないけれどね」
そう寂しそうに笑って、琥珀はルカをそっとベッドの上へと下ろした。
「鴉も、レオンもいる。今日は大丈夫だよ。明日からのことは――一緒に、考えようね」
「琥珀、ありがとう。私――」
「僕が好きでやってるだけだよ。久しぶりに、顔が見られて嬉しかった」
そうして彼は、いつもと変わらぬ柔和な笑みを宿し、そっと頬へと口づけを残す。そしてくるりと背中を向けては、足早にベランダの方へと駆けていった。
「おやすみ、ルカ!」
最後に一度だけ振り返り、大きく手を振った。子どもらしい元気な笑み――かと思えば、細めたその瞳は、果てしない時間を生きた者の寂しさを宿していた。
彼と入れ違うようにして、皆もベランダの方からルカのベッドを取り囲む形になる。が、すぐさまレオンが、皆に部屋へ戻るように指示をした。
リョウガは最後まで暴れていたけれども、ハチガに引きずられるようにして部屋を去る。しかしそのハチガ自身も、何か心残りのある眼差しを向けてきて、上手く声をかけることが出来なかった。
ソニアたちも部屋の奥の小部屋へと去ってゆき、ルカの私室にはレオンとアルヴィン、そして花梨が取り残された。
「花梨様も、今日はもうお戻りください」
「そういうわけにはいきませんわ」
レオンの呼びかけに、花梨は首を横にふる。そして、ベッドの方へと歩んできて、そっとその縁に腰掛けた。
「……琥珀も外で張っているでしょうけれど。それでも、この部屋に誰もいないのは、不安でしょう?」
「誰も居ないことなんか」
「……」
レオンが首を横にふるが、アルヴィンは何も答えなかった。そればかりか、くるりと背を向けて、その通りだ、と小さく呟く。
「アルヴィン……?」
落ち込んだかのようなアルヴィンの様子が気になる。しかし、ベッドに横たわってしまうと、疲労の重みがよくわかる。身体が思うように動かなくて、アルヴィンに視線を送ることしかできなかった。
「俺もいるが、花梨がいたほうが確実だ。ルカ、もう休め――安心して、いいから」
小さく呟く彼の表情は、最後まで見ることが出来なかった。
長い夜が、ようやく終わります。
下弦の皆に護られて、ルカは眠りにつきます。
次回、直子に関するお話です。




