赤く染まるは(2)
「エリューティオ様……」
ずっと側にいてくれたことは感じていた。それなのに、彼が現れたのは、琥珀が狙われたから。
「……っ」
彼を責めるのは筋違いだとわかっている。自分が無条件で助けてもらえると思っているのが間違いと言われればそうなのだろう。
しかし、どうして、と問いたい。
側にいたはず。確かに、ルカの近くに。にも関わらず、火ノ鹿に抱きかかえられたのも、口づけを落とされたのも、彼はただ黙って見ていた。
自分が彼にとって、その程度の人間でしかないと思い知らされる。信じたくなくて、ルカは手を伸ばす。ただ、エリューティオに握り返して欲しくて。
しかし、彼はそれを一瞥しただけだった。
差し出したルカの手が、所在なさげに宙を掻く。呆然としたまま、エリューティオの顔を見つめた。
エリューティオがルカを気にかけることなどない。ただ真っ直ぐに、火ノ鹿のみを睨み付け、静かに注意を促すだけだ。
「今、この娘を連れて行くのはやめておけ。均衡が崩れる」
その事務的な物言いが、胸を刺す。世界が色を失ったかのように、虚ろな気持ちが落ちてきた。
「ふゥン、このオレにわざわざ通えと?」
「子は其方の都合だろう」
「このちんちくりんの為にか?」
「――侮辱は許さぬ」
酷い物言いだと思う。エリューティオだって、火ノ鹿の全てを許しているわけではない。擁護するような言葉も混じるけれども、ルカの耳には入ってこない。
「ハハ! 別にアンタに許してもらわなくても構いやしないがな! ……まァいい。オレは子さえ成せるならそれで良いんだ。せいぜい通わせてもらうさ」
そう言って火ノ鹿は、上機嫌にルカを見下ろし、目を細めた。
心と体が酷く、重い。
口を挟むことすら出来ず、目の前で話し合われている容赦のない言葉が、何度もルカの脳内に繰り返される。
エリューティオは反論しなかった。
火ノ鹿が、子を成す、と言ったことに対して。ましてや、峰に彼を受け入れる分には問題ないとでも言うかのように。まるで、子を産むためだけの存在だと言われているような気がして、身が縮む。
火ノ鹿にも――エリューティオに対しても。
「しかし、今日はこれ以上は無理か。せっかくオレが通ってやるんだ。――ルカ、早くオレの色に染まれ」
「……っ」
まともな返事すら出来ず、ぎゅっと身体が強ばる。しかし、問答無用で彼はルカの髪に口づけをひとつ落とした。
エリューティオがわかりやすく好意を見せてくれる月白の髪。まるでそれが穢されてしまうようで、胸が苦しい。
そうして恐怖で心臓が直接震えるような感覚に怯えていると、突然浮遊感が全身を包んだ。
え。と空気が、口から漏れる。
先ほどまで火ノ鹿に支えられていた身体が、いつの間にか単身、宙に浮いていた。
「……!」
所構わず放り捨てられたと気付いたのは、落下の感覚を自覚してからだった。目を見開くと、先ほどまで側に在った赤が、遠い。状況を把握したエリューティオが焦って追いかけてくるのが、視界の端にうつった。
無意識に手を伸ばしたけれども、まだ届かない。
峰に落ちる。その可能性が頭をかすめるが、それもほんの僅かのこと。誰よりも早く、ルカを抱き留める腕があった。
背中から優しく抱き留められる。受け止められた衝撃はさほどでもなく、全身を覆う浮遊感がぴたり、と止まった。かと思うと、首元に、ほっとするような息がかかって目を見開く。どうやら自分の頭に、相手の顔が寄せられているのがわかった。
ぴきき、とその頭が蠢いているのがわかる。異形を成した大きな頭部が、しゅるしゅると変形して小さく収まっていく。黒と黄色に覆われた、まるで昆虫の頭ような表面は、やがてやわらかなクリーム色に変化する。
月の光をたっぷりと浴びて、艶やかに輝く柔らかな髪。線の細い少年、と称するのが相応しい彼は、その見た目にそぐわぬしっかりとした力でルカを抱きしめた。
「琥珀」
「……」
名前を呼ぶと、少しくすぐったそうな表情を見せるが、それだけだ。すぐさま、キッと上空を睨み付け、ルカの表情を隠すように抱え込む。
「ルカを、渡すの? 陽炎の奴らに」
聞き慣れない単語にルカは何度か瞬いた。おそらく火ノ鹿のことを言っているのだろうが、陽炎とは一体何のことを指しているのか。
琥珀が睨み付ける先――縹色の髪が視界の端にうつる。一方で、先ほどまでルカを抱えていた赤色が忽然と姿を消していた。先ほどちらりと姿が見えたオミも、もうどこにも見当たらない。
「渡すわけではない」
「あいつは、ルカに直子を孕ませるつもりなのでしょ? そんなの絶対に連れて行くつもりじゃないか」
「――ルカのためだ」
エリューティオの言葉が重くのし掛かる。
彼は、一切の反対を見せない。“ルカが、火ノ鹿の子を産む”という行為に対して。
とてもではないが、婚約者の言葉とは思えなくて、唇が震えた。もしかして、と、不安が大きくなる。
万が一、人間側から引き剥がされたとしても、抗う決意をした。エリューティオとともに過ごす未来が、自分にとっての幸せであることを、自覚してしまったのに。それなのに、どうしてエリューティオは、ルカを誰かに押しつけようとするのか。
――いやだ、怖い……。
ぎゅう、と、琥珀を抱きしめる腕に力が入る。そんなルカを宥めるようにして、琥珀もまた、ルカの背中を優しく撫でた。
――怖い、でも……。
どうしても、聞かなければいけないことがある。震える唇を噛みしめて、ルカはエリューティオを再び見据えた。
碧色の瞳と、目が合う。ルカが何を言うのか、わかっているのだろうか。少し目を細め、彼もまた、口を閉じた。
「エリューティオ様……私との婚約は、どう考えていらっしゃるのですか?」
「……」
やはりか、と。エリューティオの心の声が聞こえた気がした。
重たい息を吐き出し、彼はただ、淡々と声にする。
「どうとでも。人が配偶者としか子を成さぬと言うのなら、私よりも彼の者が相応しかろう」
「……っ」
思った通りの――いや、想像していた以上にルカにとっては辛い返答が胸に刺さる。婚姻という行為に対して非常に淡泊な物言いは、本来、妖魔にとって当たり前の感覚なのだろう。
しかし、瞬間、琥珀が強く力を込めるのがわかった。
「言っていることがおかしいよ、風の主!」
ルカを抱きしめたまま、琥珀は真っ向から意見する。
「琥珀、黙れ」
「嫌だ! 名を縛られたのなら――それ程ルカを大切に想っているのなら、どうして彼女の意に反するようなことをするのさ!」
「……彼女のためだと言ったろう」
「でも、ルカは望んでいないじゃないか!」
顔をくしゃくしゃに歪めて、琥珀は反論する。抱きしめられているルカだからこそわかる。強くルカを抱く細い腕。そらが小刻みに震えている。
同じ上級妖魔でありながらも、琥珀とエリューティオの力の差は大きいのだろう。
ひたすらに恐怖する心が伝わってきて、ルカは狼狽した。大丈夫と琥珀に声をかけたけれども、琥珀は一切納得しない。
震えながら、怯えながら、それでもルカを抱きしめて、顔を上げる。
「名前を縛られた者がその程度!? 鷹だってそうだ――そこで黙って見ている、白雪も!」
怒声とともに、琥珀は下界に視線を向けた。ルカもその方向を追うと、白い印象の彼が、闇夜にぼんやり浮かんでいる。じっと見守るその姿を見ただけで、わかる。彼もまた、火ノ鹿を受け入れた妖魔だった。
「そんなのだったら、僕の方が! 僕の方がよっぽど、ルカを大切にできる! 力がないからって黙って見てたのに……貴方が居るからって、僕は……っ」
琥珀色の瞳が、鈍く輝く。右目がぼんやりと輝きを帯び始め、その妖気が抑え切れていないことをルカも察した。
どんな事情があるのかわからない。エリューティオが何を考えているのか、まったく見えない。
それでも、今は、彼の言葉を考えたくなかった。琥珀しか味方がいないような気持ちになり、ルカもまた、琥珀に強く縋りつく。
「でも、貴方を見ていて僕は思った。自分に力が足りないからって身を引くこと程醜いことはないってね。だから僕は――貴方にも、火ノ鹿にも、ルカを渡したくない」
「……琥珀。何を言っている。大局を見ろ」
「大局? 知らないよ。僕は、僕のしたいようにする。それが、僕が妖魔であることの誇りだから……!」
震えながらも、一歩も引かない。琥珀はルカを抱きかかえたまま、エリューティオに宣戦布告した。
エリューティオが明らかに表情を険しくする。馬鹿な事を、と呟く彼に、琥珀はただ首を横にふった。
「自分で手放しておきながら、不機嫌になるのは何故? 貴方に、ルカに執着する資格なんかないじゃないか」
「貴様」
琥珀の挑発は、まともにエリューティオの神経に障ったらしい。眉を寄せ、空気がピリッと鋭くなるのを感じる。
しかし今は、ルカ自身もエリューティオの言葉を聞きたくない。そうして、自分を護ってくれる琥珀を護るように身を乗り出した。
「エリューティオ様! ごめんなさい、今夜は、もう……!」
語気を強めるが、その後の言葉が続かない。
揺らめく視界。邪魔だ涙、と手の甲でぬぐい去り、どうにか声を絞り出す。
「ごめんなさい。今夜は、見逃してください」
「……ルカ」
「疲れました。さっきから、お腹も気持ち悪くて、目眩も。頭ももう、回りません。……無理です。これ以上は――」
拒絶の言葉とともに、ぽたりとこぼれ落ちた滴が、琥珀の手に落ちる。
瞬間、琥珀がピクリと動き、ルカの表情をのぞき込んでくる。その穏やかな琥珀色に向かってどうにか笑みを返す。が、それもほんの僅かな間の、作り笑顔にしかならなかった。
一旦涙がこぼれはじめると、堰を切ったようにして止まらない。
ぽろぽろと、視界に縹色の揺らめきだけが残る。しかし、エリューティオがどんな顔をしているのか、わからない。
ただただ、虚しくて、痛くて、気持ち悪くて。
「さようなら」
それだけ伝えて、琥珀の首に腕を回す。彼を強く抱きしめると、琥珀は少しだけ瞼を伏せた後、エリューティオを強く睨んだ。そしてすぐさま、踵を返す。
エリューティオに背を向け、真っ直ぐと峰の方へと降りてゆく。満月の峰を通り過ぎ、そのまま高度を下げてゆく。
「……ごめんね、ルカ。どうしても、黙っていられなかった」
「ううん、ありがとう」
嗚咽混じりに、琥珀に感謝の言葉を返した。
琥珀はルカを安心させるかのように笑顔を見せ、首を何度か横にふる。
そうして彼は、迷うことなく、ルカを下弦の峰へと運んでいった。
ルカの想いを汲み取ってくれたのは、琥珀だけでした。
彼とともに、下弦の峰へと戻ります。




