赤く染まるは(1)
心に直接呼びかけてくるような反応を覚えて、ルカは顔を上げる。
――外?
石を通じての呼びかけ。つまり、ルカが懇意にしている誰かだとはわかるのだが、このような時間に何だろうか。
外に視線を向けると、折り重なるかのような光の花弁が淡く輝いている。淡い色のグラデーションは一見白っぽい印象を受けるが、その光は揺らめきながら色彩を変える。
この花弁もまた、ルカの力をもとにしているらしいが、いまいちピンとこない。しかし、その呼びかけに応えるように、ルカはもぞもぞとベッドから這い出た。
ネグリジェの裾を揺らしながら、ルカはベランダを方へ向かって歩く。ルカの自室と同じように、光の扉を隔てて向こうが外。静かな呼びかけに応えるようにして、ルカはその身を外に晒した。
峰から下界を見下ろすと、ただただ深い闇がそこに広がっているだけのように見えた。世界と自分が切り離された心地がして、妙に心が騒ぐ。
土の月の夜は、少し肌寒い。肩を抱いていると、突風がルカを襲った。
無意識に捲れ上がるネグリジェを押さえる。同時に、髪が巻き上げられ、視界が塞がった。
しかしそれも一瞬のこと。たちまち穏やかな世界に戻る。
静かな闇が広がる夜の世界。しかし、その一瞬の風が、ルカの視界に異物を運んだ。
赤。
鮮烈なほど、強い、紅。
まるで炎のように逆立った髪が、闇夜に浮かぶ。焼き付くような紅蓮の瞳が、ルカの姿をとらえていた。
褐色の肌を包むのは、白をベースにした透き通るような布地。体のラインがよくわかる軽い衣装ながら、黄金の装飾が、彼のこだわりと威厳を感じさせる。
“火ノ鹿風の”と、称するのが最も適切なのだろう。異国の衣装をまとった青年は、余裕のある笑みを見せながら、ルカの正面に浮いている。
そしてその隣。
ちらっと姿を現したと思ったら、空気に溶けてゆく見覚えある姿を見つけて、ルカは息を呑んだ。
挑発的な五分の三の肌。にぃ、と口もとを笑みの形にし、呪が解かれた瞳はルカと同じ金色に輝く。
石への呼びかけは彼のものかと理解したが、目の前でたちまち消えてしまって狼狽する。
「待って! オミ! 貴方、今まで一体どこに――」
「ふゥン。オレを眼の前にしといて、他の男を見るんだ?」
空気に溶けたオミの姿を追おうと、前に出る。が、そんなルカに反応したのは、赤き男。
「え?」
空気に溶けたオミの姿に手を伸ばすよりも早く、ルカの視界が真っ暗に塞がる。
気がつけば、腰に手を回され、男の胸に顔を押し付けられている。何ぞと思い顔を上げると、強い炎のような紅蓮の瞳が、実に楽しげにルカの方を見つめていた。
「――力はオレの方が上か。当然だな」
「な、何を一体……」
彼に引きずられるようにして、体が浮遊している。
こんな場所に単身乗り込んで来られるだなんて、まず間違いなく力を持った妖魔だと直感で理解する。しかし、どう対処していいのかわからない。
とたんに恐怖が押し寄せて、身体が震える。
離して、ただそれだけを主張したくて口を開けようとする。が、声を発しようとしても、叶わなかった。
「……んっ」
まるで覆い被せるように、唇を重ねられる。初めての感触に頭がついていかず、ただ離れようともがくが、許されることはない。
強い力で唇を吸われると同時に、何かを吹き込まれて目を見開いた。間近に紅蓮が鈍く輝き、視線を奪われる。
瞬間、身体中を引っ掻き回されるような感覚を覚える。悪寒と吐き気が同時に押し寄せた。
神経が痺れはじめて呼吸を求める。しかし、それでも男は、容赦なく何かを吹き込み続けた。
「……っ!」
嫌だ。気持ちが悪い。
胎内を容赦なくかき混ぜられる感覚。早く楽になりたくて、彼の側から離れたい。ばちばち、と視界が何度か白く光ったかと思うと、次の瞬間赤に染まった気がした。
「……ふっ。……はぁ、はぁ……」
ようやく唇が自由になって、一気に空気が入ってくる。まずは、呼吸を。息をしたいと、ルカは必死で口を開けた。
夢中で空気を吸ってようやく、周囲の状況が頭に入ってくる。
自分を抱きしめたままの男の顔に視線を向けると、彼は満足げに笑った。そしてゆっくりと、月白の髪に触れる。懐かしい色だ、と零した言葉に引っかかりを覚えた。
「いきなり、何を――」
「ルカ・コロンピア・ミナカミ」
質問に答えるどころか、まるで、名を縛るかのごとく強い意志で名前を呼ばれる。心にぴり、とした痛みが伴い、ルカは表情をしかめた。
ルカが睨み付けるのを気にする様子もなく、目の前の男は、ただただ自信に満ちた表情でルカを見下ろした。そして圧倒的な気迫を放ったまま、彼は堂々と宣言する。
「力の釣り合いは取れているようだな。――ルカ。お前、オレの子を産め」
「!?」
思いがけない提案に、目を見開く。初めて会った者に言われるような言葉ではない。突然の口づけと求婚――いや、それよりももっと直接的な物言いに、何を返せば良いのか分からない。
「貴方は……?」
だれ、と。頭が真っ白になったまま、ようやく口をついて出てきた言葉は、たったそれだけだった。
しかし、口を開けたとたんに再び吐き気が押し寄せる。身体の中に入った何かを吐き出そうとするが、今度は手で口を塞がれた。
「少し、我慢しろ。すぐに慣れる。……ふゥン、風はまだ染めていないのか」
くつくつと笑って、彼は小馬鹿にするように言葉を続ける。
「まあ、ヤツじゃ染めるまでいかねェか」
余裕たっぷりに峰を見下ろす彼の視線を追うと、かなり上空まで身体が浮き上がっていることに気がつく。峰を見下ろす形になり、ルカは息を呑んだ。
「……っ」
折り重なるように輝く白の花弁。光のゆらめきは、今や色を変え、淡い朱へと変化している。そのベールのような形も、まるで燃えさかる炎のような荒々しさを帯びていた。
しかし、それは一瞬のこと。その朱はやがてなだらかに揺らめきの白へと色を戻し、形も元のベール状へとたちどころに戻っていく。
「何を……」
異常事態が起こっていることは確かだった。それだけははっきりと理解して、瞬いた。
彼はそんなルカの腰を強く引き寄せ、無理に身体を密着させる。
いつの間にか身体のなかでうごめいていた気持ち悪さは無くなっていて、今度はぽかぽかと身体が火照りだした。
「とんだ阿呆面だな。あの方もわざわざ人間に似せて創るだなんて、酔狂なことだ――」
「……」
「何だ、わからんという顔して。……まァいい。オレは火。火の主だの、火ノ鹿だのと呼ぶ者もいるがな」
「火ノ……鹿?」
「いくら阿呆でも聞いたことくらいはあるだろう?」
高慢そうな顔をして、ルカを見下ろす紅蓮の瞳。彼の告げる名に聞き覚えがあるかと聞かれると、当然、ある。
「火ノ鹿って……あの」
目を見開き、ルカは呟いた。その反応に満足そうに頷きながら、火ノ鹿と名乗った青年は続ける。
「あァそうだ。火ノ鹿教主国、教主火ノ鹿。まァ、実際国に座らせているのは、オレの僕に過ぎないがな」
火ノ鹿風の、と感じたのは、間違いではなかったらしい。しかし、突然雲の上のような人物だと名乗られて、ルカは狼狽するしかできない。
火ノ鹿の教主と言えば、彼の国では神話の登場人物にされるほどに――いや、神の一角とも言えるほどに人々の信仰を集めている存在。
彼の国のことはルカとて詳しくはないが、国の主が王から神へ代わったからこそ、火ノ鹿国は火ノ鹿教主国へと姿を変えたとも言われている。
代々引きつがれているはずの教主の位。それがまさか、目の前の男だとは思えなくて、ルカは首を横に振った。
「火ノ鹿の教主って……妖魔だったの……?」
「オレは教主なんてガラでもないがな。名前だけが勝手に一人歩きしているだけだ」
「――教主は、神の代理人」
教主の正体が妖魔だとわかれば、妙に説得力があるのも本当だ。
彼が、圧倒的な力を秘めているのは確かだろうし、老いることすらないその美貌。妖魔という存在が伝説上のものでしかない人間社会において、彼の存在は解釈のしようがない。摩訶不思議な“神話上の生き物”ともとれる存在を、火ノ鹿の人々がどう受け止めているのか、想像に容易い。
「神だと……言われるはずだ……」
彼が自分で妖魔だと言わぬ限り、その存在は絶対的なものだろう。
ルカとて妖魔の存在に憧れを抱いたけれども、実際出会い、彼らの口からその名前を聞かぬ限りは、とても信じることなど出来なかったはず。目の前の男は、たった一人、人ならざる何かとして生き続けてきたのだろうか。
火ノ鹿教主国の情報――特に教主自身の情報は謎に包まれてレイジスに伝わることなどなかっただけに、様々な憶測が脳内に駆け巡る。
そうして呆然としていると、急に身体が振り回される。わけも分からぬうちに、ルカはたまらず彼を抱きしめ返す形になった。
その瞬間、光のナイフのようなものが横切っていくのを目の端に捉えた。突然の下からの攻撃に息を呑む。
「何だお前。自分の眷属の管理も出来てないのか――いや、アレは眷属ですらないか」
彼の左腕で強く抱えられ、はっとする。ルカを抱く火ノ鹿は、右腕に赤と黒で色彩が変化する炎をまとい、下界を見据えていた。
彼の視線を追うと、峰の方にこちらを見上げる小さな影がいくつか見えた。そして、その先頭に立ち、強くこちらを睨み付ける異形。
頭部を膨れあがらせたまるで“醜い虫”のような姿を視界にとらえ、ルカは彼の名を呼ぶ。
「琥珀!」
来るはずのない妖魔の姿が見えて、息を呑む。
完全に元の顔を留めていない。それでも、ひと目で彼だとわかる。
誰よりも早く、この場に現れてくれたのが、他でもない琥珀だった。名を縛ったわけでもない。それでも琥珀は、ただ純粋にルカを慕ってくれた。
ルカは彼を傷つけたのに。彼も、ルカの決定に納得しているはずがないのに。それでも、異常を感じて真っ先に駆けつけてくれた。
「琥珀! 駄目!」
火ノ鹿の右腕の炎が膨れ上がる。熱よりも、強い力の塊であることを理解して、ルカは恐怖に震えた。
直感的に理解する。
このようなもの、いくら上級妖魔とは言え、琥珀が浴びたら――。
「やめて!」
想像するだけで体中に恐怖が駆け巡り、ルカは腕をのばした。今にも放たれようとしている、力の源に向かって。
「――!? この、阿呆!」
火ノ鹿の右腕に腕を絡めるなり、彼は驚いたように力を引っ込めた。その隙を逃すまいと、光のナイフがさらに飛んでくる。
舌打ちしながら火ノ鹿がそれらを払い落としたところで、突然動きを止めた。
強い夜風が凪ぎ。
顔を上げると、視界に鮮やかな縹色が翻る。
「峰の者には手を出すな。……この娘が悲しむ」
「――どの口がそれを言うんだ、風」
火ノ鹿の喉元に手刀をかざすように現れたエリューティオは、静かに火ノ鹿を睨み付けた。
“火ノ鹿”を名乗る男の要求は、一方的なものでした。
エリューティオも姿を現しましたが……。




