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夜咲き峰の人々  作者: 三茶 久
第二章 火の主の愛し子
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ひとりの夜

 一度掴んだはずの風が逃げてゆく。己の身から離れず、ただ側に居続けてくれているはずなのに、彼の手には触れられない。

 闇雲に前を歩いても、彼は姿を現してくれない。光の鷹が示す道を歩み始めたはずなのに、不安だけが押し寄せた。


 あの日から、エリューティオは姿を消した。側にいることだけはわかるのに、その顔を見せてはくれない。

 そんな風にして、護って欲しかったわけじゃない。

 ましてや、己に従えたかったわけでもない。

 ただただ、隣にいて欲しかったのだ。同じ道を、一緒に歩きたかった。たったそれだけのことなのに、彼は許してくれないとでも言うのだろうか。


 彼に直接拒絶されたわけでもない。ただ、途方もないほどの距離を感じた。大切にされているのは、分かるのに。何故だか、遠い。




「――おい、ルカ」


 肩を掴まれて、はっとする。

 顔を上げると、真剣にルカを見つめていたらしい蘇芳の瞳に焦点が合う。


「ルカ。君から僕を呼んでおいて、話を聞いていないとは何事だい」


 声をかけられて、ルカの意識が現実に引き戻される。あ、と息を吐き出してようやく、毒を吐いた目の前の青年――末兄のハチガはあからさまにほっとした顔をした。

 周囲を見回すと、レオンとアルヴィン、ソニアまでもが心配そうな表情で、こちらを見つめている。ああ、そうだ。絵を描く時間を削ってまで、この話し合いのために集まってもらったというのに。


 隣に座ったロディ・ルゥだけが涼しい顔を見せている。

 エリューティオが姿を消した程度では、ロディ・ルゥが動く必要もないと判断したのだろう。ルカの気持ちが揺らいだだけでは、ロディ・ルゥが行動を起こす理由にはならないらしい。




「気もそぞろだね。――昨日、彼と、何かあったのだろう? 大丈夫かい?」


 ハチガが険しい顔をしながら、ルカの顔をのぞき込む。


 ハチガと一緒に宵闇の村を訪問した後、エリューティオの部屋に駆けこんだ。

 その時の、エリューティオとの僅かな会話。彼に直接何を拒否されたわけでもない。彼が寄り添ってはくれない事実に、ルカが一人勝手に落ち込んだだけ、と言えばそうなのかもしれない。


 しかし落ち込むルカを放置したまま、エリューティオはルカの前から姿を消した。何を言っても受け入れ、涼しい顔をしていた彼が、明らかな動揺を隠さなかった。

 だが、彼が悲しんでいるのか、怒っているのか――それすらも分からず、ただただ不安だけが押し寄せる。泣きたい気持ちを押し殺し、ルカは必死で首を横に振った。



「ううん、峰の主のことでね。ハチガ兄様も薊に聞いたでしょう? 知らない間に、責任感を感じたみたい」


 大丈夫だから、と、くしゃりと笑って誤魔化してしまう。もちろん、隠しきれるとも思ってはいない。しかし、ハチガに話したところで、どうにもならない。


 宵闇のことよね、と無理矢理話題を戻して、前を見た。相談することはいくらでもある。外に持ち出す商品のこと。妖魔の生活に取り入れる、人間社会の素材のこと。

 昨日ハチガに、直接宵闇の村の実情を知ってもらったからこそ、話を進められる。父カショウや、アドルフ卿にどのような相談を持ちかけるのかにも関わってくるため、入念に話を進めなければいけないのに。

 ソニアにも、冬の支度や、これから宵闇を回していくための素材購入の相談がしたくてわざわざ参加してもらった。このような気の迷いで、無駄な時間をとらせてしまうためではない。


「……ルカがそう言うなら、良いんだけれど。不安があれば、早く教えるんだよ」


 ハチガはそう言い、憂えた表情を隠す。

 そして、もともとルカが持ち出した商品案の話を煮詰めはじめる。ソニアも困ったような笑みだけ残して、ルカの話に耳を傾けた。




 ***




 一日が過ぎるのはあっという間だ。特にここのところ、関わる人が突然増えてきた。あちこちを渡り歩くだけで、気がつけばとっぷりと夜が更けている。


 満月の峰。筆頭妖魔の部屋は相変わらず、必要最低限の空間しかない小さな部屋だった。

 ルカはベッドの上で膝を折り、座り込む。寝具を引き寄せると、急に胸が苦しくなるのを自覚した。



 ――ひとりは、嫌だ、な。


 毎夜エリューティオとともに過ごすことを、レオンがよく思っていなかった事も知っている。

 別に隣に並んで眠るだけ。それ以上でもそれ以下でもないことも重々承知だが、嫁入り前の身ではありえない事だとルカもわかっている。

 けれども何故だろうか。彼が隣にいるのがいつの間にか当たり前になっていて、ただただ、安心して眠ることができた。


 王都でも、けして得られなかった安らかな眠りを手に入れられたのは、この峰に来てからだった。こればかりは、レオンにだって話したことはないのだけれども。



 はじめてエリューティオと、まともに話した時のことを思い出す。

 自分が魔力を持たぬことを告白するのは、怖かった。妖魔に押しつけられた生贄は、向こうでは役立たずの、人以下の存在であることを宣告するのは胸が痛んだ。

 がっかりされるだろうか。憤りをぶつけられるだろうか。役立たずだと罵られることすら覚悟して告げた事実に、彼はただひとこと、こう言ってくれたのだ。――些末なことだ、と。


 家族でもない。何か力があるわけでもない。妖魔に負けぬ美貌を持ったわけでもない。

 彼に無条件に受け入れられるような存在でなかったはずなのに、彼はただ、ルカを抱いた。そっと腰に手を回し、話を聞いてくれた。

 それ以上、何をしたわけでもない。ただ、受け入れてくれた。何をしても、何を言っても、ただ――。



 ――でも、エリューティオ様に、それ以上は望めないんだ。


 明らかに落胆する。

 ルカという存在を優しく包み込み、隣に立ってくれているはずなのに、まったく近づいた感じがしない。まるでどこかで線を引かれたかのように、彼はそれ以上距離を縮めようとしなかった。



 ――それが、妖魔というもの? 感情が、希薄だから? ……ううん、ちがう。種族のせいに、しちゃいけない。


 ルカは知っている。ミリエラ――花梨が本気でジグルス・ロニーに恋したことも、狼と薊の、ことの顛末も。

 妖魔だって、恋をする。誰かを強く想い、引き合うことがある。そこは、何も変わらない。



 ――私じゃ、魅力が足りないの?


 そう考える方が、よほどしっくりくる。客観的に見ても、ルカとエリューティオが釣り合うはずがない。卑下したくなる気持ちに乾いた笑いをこぼしながら、膝を抱きかかえた。



 ――でも、エリューティオ様。私、貴方に近づきたい。


 彼を遠くに感じてようやく、それでも諦められない気持ちが生まれたことを自覚する。

 望むことを諦めて生きてきた。人間社会の都合で、この婚約があやふやなものであることも、自覚していたはず。もしかしたら、人間側の都合で引き戻されるかもしれないとも、考えたこともあった。



 ――そんなの、嫌だ。


 今までのルカなら、諦めていただろう。

 自分は世界の片隅に生きることを許されただけの存在で、誰かの役に立てるのなら、どう動かしてもらってもかまわない。ましてや妖魔との婚約が、家族のためになるのなら、喜んで己を配置してくれて良いと思っていた。

 もちろん、ルカが妖魔という存在に強く惹かれていたのは確かだ。図らずも、運命のいたずらに喜んだのは事実。

 だが、状況が変われば、婚約を取り消されても、仕方ないと感じていた。それが、より自分が役に立てる場所に配置されるならば、喜ばしいことだと。




 でも、もう、無理なようだ。

 ルカはぎゅっと、身体を丸めて、膝に顔を埋めた。



 ――エリューティオ様、私、貴方のことが、好きです。


 誰が、何と言おうと。

 ルカは強く心に決めた。名を縛ることで彼が遠慮していることなんか、知らない。自分に魅力が足りないなら、いくらでも努力してみせる。


 ――何も、遠慮することなんてない。そうよ、これが、妖魔のやり方。


 何に縛られる必要があるだろうか。ルカは、己の望むまま、彼にぶつかればいい。

 そう心に決めた時。



 とーん、と、心を直接押されるような心地がする。


 何事、と思えば、己の指輪に、僅かな呼びかけを感じた。

エリューティオに対しては受動的な態度だったルカでしたが、変わりつつあるようです。


次回、悩めるルカの前に、とある訪問者です。

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