峰の主(2)
焦って息が弾む。足をもつれさせながらも、ルカは通い慣れた螺旋階段を上に駆け上ってゆく。
まとわりつくスカートが邪魔だ。両手でグイと引き上げて、人目も気にせずルカは駆けた。
「ルカ!」
後ろから声を荒げながら、ハチガが追いかけてくる。小さなルカが、大人の男性であるハチガの足に勝てるはずも無い。あっという間に追いつかれて、後ろから手首を掴まれた。
しかし、彼がなんと言おうと、ルカは今すぐ駆けつけたかった。エリューティオに、いつもの涼しい目をして、いつもと同じように受け入れて欲しい。たった一人で孤独に生きてきた彼の温もりを独占したくて――掴まれた手を振り払う。
しかし、いくら文官とは言え、ハチガもまた武門ミナカミ家の男児。貧弱なルカごときが振り払えるようなものではない――
「――っ!?」
――はずなのに。息を呑むような音が聞こえたかと思うと、まるで弾かれたように、ハチガの手がルカから離れる。
ぐらぐらと心が騒ぎ出し、感情そのものがどこかへと流れ出る感覚。その力の動きをルカ自身抑えるつもりもなく、ただただ上を目指した。
「ルカ!? どうした……!」
「お嬢様!?」
螺旋階段の下から、慌てたような声が響く。普段から言葉数の少ないアルヴィン。そして、誰よりもルカのことをよく理解しているレオンの声。
石を通して、ルカの心情が伝わったのだろうか。彼らの心もまた騒いでいるような色が見えるが、今はそんなこと気にしていられない。
――こんなところで、何をしているの。
追ってこられることが煩わしい。それよりも、彼らにはもっと重要な任務を任していたはずだ。早くソニアの元へ戻りなさい。役目を果たしなさいと強く念じながらも、ルカは駆ける。振り返らない。振り返ってたまるかと苛立ちさえ見せながら、ルカはただただ上を目指した。
――貴方も、少し控えていて。
ロディ・ルゥに視線を向けて、ルカはそう心で唱えた。
何でも無い表情をしながら隣を浮遊していた彼は、肩をすくめる。
ふわりとその体を浮かべ、ルカより一足先に目的の部屋の前へと足を運んだ。見上げると、光の扉に手を当てて、一言ふたこと中に話しかけているようだった。
そして扉を解錠してもらった後、ルカに向かって一礼する。
螺旋階段を登りきり、ルカも光の扉と向かい合った。
ロディ・ルゥは、何も言わない。ただ、ルカの思うようにはさせてくれるらしい。
感情に任せてこんな場所へ駆けてきてしまったけれども、いざ、この場に立つと、何を話したらいいのかわからなくなる。
途方にくれるような気持ちになったものの、いつまでもぼんやりしているつもりもない。唾を飲み込み、ルカはやがて、部屋の中へと一歩踏み出した。
光の扉を超えた瞬間、満月の峰の筆頭妖魔は、じいとこちらを見つめていることに気がついた。
いつもの、涼しげな瞳。突然入ってきたルカの存在を、静かに受け入れる姿勢。
その顔が見えるだけで、緊張する自分がいると同時に、安堵する気持ちが生まれる。彼が目の前にいる。どういうことか、それだけでルカの心は落ちつくらしい。
先ほどまでの勢いは何処へやら。しゅるしゅると気持ちが萎んでいく。すると、体も何やら重く感じて、前に歩き出したものの、その足取りも覚束ない。
あれ、と思った時にはすでに地面に膝をついていて、体の自由がきかなくなる。そのまま前のめりに倒れこもうとした時、彼の細くて長い腕が伸びてきた。
「全く。こうまで無差別に力を放出しておいて――慣れぬ其方に、まともに動けるはずがなかろう」
「……だって」
胸の奥底がずっしりと重みを持っている。疲労の形を認識しながらも、ルカは首を横に振った。
「其方の兄から話を聞いたのか?」
「……え?」
憂いた彼の表情に、ルカは瞬いた。まるで思い当たることのない言葉に、どう反応していいのか分からない。
「違うのか」
そんなルカの反応を見て、エリューティオは意外そうな顔を見せた。少し目を見開いたのち、倒れこむルカを抱え上げる。そしてそのまま、ベッドの方へ連れていかれた。
「どういう意味ですか?」
首をかしげるけれども、彼からの反応はない。代わりに、其方も話があるのだろう、と返される。
ふわりと寝具の柔らかさに身を包まれ、ルカはそのまま体をぐてりと横たえた。
側に腰かけたエリューティオは、遠い目でルカを見下ろしている。
何故だろうか。妙に距離感を感じる。相も変わらず彼は無意識にルカに触れてくる。頬を撫でる手はいつもと変わらぬはずなのに、なんだか熱を感じない。
「聞こう。どうした」
まるでハチガとの話についてはぐらかしているようだった。胸の奥の不安が大きくなるが、ルカだって、聞かなければいけないことがある。
「宵闇で、薊と話したのですが――彼女、峰の主が私だって」
「なんだ。そのようなことか」
峰の主。妖魔でない自分は、筆頭妖魔と呼ばれることはなくとも、意味は同じ。
言いづらくて、つっかえながらの言葉だったのに、エリューティオはあっさりと受け入れた。ふと目を細めて、事もなさげに頷く。
「見方によってはそう言う者もいるだろう。実際、この峰を妖気で護っているのは其方だ」
「でも、それはあの時、仕方がなかったから……」
「事実はどうあれ、私の主がもはや其方であることくらい、知らぬ者も居らぬだろう。どちらが峰の主かと訊かれれば、其方と答えるのは当然だ」
エリューティオの口から“私の主”という言葉が発せられたことに、胸が締め付けられる。
分かっていた。その様な関係になる事は。それでも、目の前でエリューティオを失うかもしれないと思った時、その事実に目を覆うことしかできなかった。
「でも私は――そのようなつもりで、貴方を縛ったわけではありません!」
「しかし、事実だ」
「嫌です。貴方が苦しんでいたから――助けたかっただけなのです。私は、名を縛ろうとも、貴方の主になりたいと思ったことなど一度もありません」
エリューティオの瞳が揺れる。ベッドに横たわるルカに覆い被さるようにして、彼はルカを見下ろした。
縹色の髪がこぼれ落ちる。世界が青のような碧のような色に覆われ、ルカはただ、彼の瞳を見つめた。
「そのようなこと、知っている」
エリューティオの言葉は真実なのだろう。それでも、くしゃりと顔を歪める彼が、ずいぶんと遠いところにいるように感じた。
優しく髪を撫でる手は、ルカを慈しみ庇護するような温もりがあるのに。
「――今は、それでいい」
「今は? どういう意味ですか」
「……気が乱れている。眠りなさい」
「エリューティオさ……っ」
言葉を全て発する前に、唇が落ちてくる。ルカの、髪に。
――避けられている。
髪に口づけを落とすのが、ただの慰めにしかならないこと、彼も分かっているだろうに。
彼は何も語らない。
全てを覆い隠すようにルカの月白に唇を落とす。優しく触れ、慈しむ場所はいつも、月白の髪。
それはただの誤魔化しだ。何か聞かれたくないことがあるのだろうか。まるで目隠しをするかのように、真実を遠ざけられている気がする。
「少し気を落ち着けて、一度眠りなさい」
頑なに眠れと命じられるのがもどかしい。彼はそもそも、ルカと向き合うつもりもない。
途方もないほど、彼との距離を感じて、ルカは言葉を失った。
碧色の彼の瞳は真剣に、まるで説き伏せるような色をしている。何を言っても、どう伝えても、このもどかしい想いを理解してもらうことが不可能なのではないかと思えてくる。
大切にされていることを自覚しているのに。何故か、とても彼が遠い。
「……」
ルカは彼から顔を背け、身体を反転させた。ぎゅう、と寝具を引き寄せ、顔を覆い隠す。
「このような事で心を乱すのか。――やはり、私では相応しくないのだろう」
背に振り落ちてきた言葉に、耳を疑った。明らかに彼が落胆する色が見えて、ルカはひとり瞬いた。
何のことと訊ねたくて、顔を上げる。しかし彼の体温はすでにそこにはなかった。
ふわりと、空気に溶け込むように、彼はその身を風にした。
碧の残滓だけが残るが、それも僅かなこと。手を伸ばせば触れられる位置にいたはずなのに、もはや届かない。
「エリューティオ、様……?」
誰もいなくなった部屋で、ただひとり、呼びかける。
しかし、残されたルカに返ってきたのは、ただただ静けさだけだった。
うまく意思疎通の出来ない二人なのでした。
悩みがどんどん積み重なっていきます。




