ハチガと筆頭妖魔(2)
ハチガの怒声が、小さな部屋に響き渡る。これ程声を荒げることなど、しばらく記憶にはない。
しかし、ハチガの言葉に揺らぎすらしない目の前の男に、ますます怒りだけが積もってゆく。
「やがて私では役不足になる。……いや、すでにあの娘と私では明確な力の差がつき過ぎてしまった」
「……」
風の主は一切の否定をしなかった。だからこそ、目の前が真っ赤になる。
だが、頭まで熱でやられたところで良いことなど何ひとつないことくらい、ハチガだってわかっていた。ただただ拳を握りしめることしか出来ず、震える手が、更に汗ばむのがわかった。
「……あの子にそのことは?」
どうにか声を振り絞る。冷静を装うことすら難しく、声が尖るが仕方がない。
「……まだ。次の守護者が見つかるまではこの峰で匿う他あるまい。鷹が接触をはじめたからいずれ力が解放するだろうとも思っていたが――想像以上に早かった」
「あの子が、どれだけ貴方を慕っているか、おわかりなのでしょう?」
予定外だったと、それしか思いを言わぬ彼が気にくわない。ルカの――妹の気持ちだけは痛いほどわかるだけに、やるせない。
ルカに久しぶりに会って、驚いた。
スパイフィラスの軍隊に一歩も退かぬ彼女に、恐れなどなかった。
王都では、いくら気丈に振る舞っていても、部屋に篭るとかたかたと震えていた彼女だ。一見明るい性格に見えるが、彼女の根底には自分を卑下する心と、周囲に迷惑をかけぬまいとする意識が働いている。それもすべて、彼女が一切の魔力を持たないという特殊な生まれだったからこそだが。
しかし、新月の夜の彼女は違った。
風の主に抱かれるのがまるで当たり前のように、彼の存在を受け入れていた。彼女に遠慮の色はなく、ごく自然に彼に抱きかかえられていた。まるで、ハチガたち兄弟や、レオンに接するのと同じように。――いや、それ以上に、尊敬と、親愛の目を向けながら。
「――厄介だな」
「!」
しかし、目の前の筆頭妖魔は、あっさりとルカの想いを振り払う。
彼女を当たり前のように抱きかかえ、大切に扱っていたにも関わらず、だ。
「貴方は、あの子の側を離れると言うのですか」
「――それはないだろう。私はあの娘に縛られる身。彼女が望まぬ限り、側にあり続ける」
「しかし、婚約者の身は――」
「私よりふさわしき者が、いずれつく。力ある妖魔が彼女を放っておくはずがない」
「側にいながら、他の誰かに押しつけるとでも言うのですか! ルカが何て――どう思うのか、わかっているのでしょう?」
抑揚のない声で、ただ事実を述べていく男の声が、気に障る。
どう言った事情であれ、彼はルカを大切にしていたはず。なのに何故、こうもあっさりと他の婚約者を当てがうと言うのだろうか。
「それが、あの娘のためだからだ」
「そんなこと、ルカが納得する筈がないでしょう!?」
「しかし、其方の父は認めて居るようだが?」
「は――?」
思わぬ反論に、ハチガは目を丸くする。
何故ここで、父の名が出てくる。喉まで出かかった言葉を呑み込むと、風の主が主張を続けた。
「彼――カショウ・ミナカミとの盟約はこうだ。彼女を峰に寄越す条件として、彼女に相応しい婚約者を当てがうこと。彼の出した条件に当てはまる者は、今、峰にはいない。――私ではふさわしくなくなった。他の上級妖魔など以ての外だ」
「父との――盟約? 相応しい、だって?」
何を言っているのだろうと、ハチガは言葉を失う。
それが父の言だとしたら――まるで最初から、ごく一部の妖魔にしか、ルカの相手として相応しくないと明言しているのと同じだ。ルカが特別な存在であることがわかっていなければ、けして出てこない言葉のはず。
「やはり父上は、知っていたのか。ルカの――力を?」
「――彼女の生まれを知るなら、当然、気がついていただろうな」
「……っ」
ばんっ!
両手でテーブルを強く叩く。同じルカを見守る立場である父カショウまでもが、目的の見えぬ理由でルカを道具にしようとしている。
目の前の妖魔だけではない。いくら尊敬する父であろうと、ルカをこのように扱うなど気がしれない。
この憤りは、ミナカミ家の不始末から来ていることも自覚した。しかし今、ハチガが当たり散らせるのは、目の前にいる風の主だけだった。
「あの子を何だと思ってるんだ! 釣り合う? 釣り合う者をあてがって、あの子に何をさせるつもりだ!」
「人間の其方にはわかるまい」
「ああそうだ、僕には分からない! ……ルカだって、分からないと言うでしょう! あの子は知っていた。人間の都合で、いつか風の主から引き離されることもあるかもしれない、と。しかし、こんなの――あんまりではないですか! 峰のために、あの子がどれだけ奔走したか……貴方のためにと、どれだけ……!」
「一時のことだ。やがて忘れる。私などに、気を止めていて良い存在ではない」
「勝手に決めて、勝手に諦めて、勝手に手放すのですか! 筆頭妖魔だと聞いていたからどれだけの人物だと思っていたが、とんだ臆病だ!」
「筆頭だからと何を期待している? 私は、在るべきように在るだけに過ぎぬ」
「……!」
「在るように、在らなければ、ならぬのだ」
彼が何を言おうとしているのか、正確にはわからない。分かりたくもない。
ただ、ルカが手に入れた自分の居場所を、わけも分からぬ理由で取り上げようとしている。それが彼女のためだと言いながら。
こんな男、認めたくもないが、ルカが彼に傾倒していることくらい、よくわかっている。
だから、彼女が確実に傷つくのが、悔しくてならない。このような分からず屋の為に。
怒りで感情が纏まらない。何か言ってやらなければと思うのに、どれも、うわべだけの怒りを乗せる言葉にしかならない。
一人で勝手に決め、誰の意思をも受け取らぬと言わんばかりの男に、諦めに似た感情を覚える。
今すぐにでも、峰からルカを連れて帰りたい。泣いて縋っても、こんな男の隣に置いてはおきたくない。そう思うのに――ルカのことを考えると、それができなくて、もどかしい。
彼女が彼女らしく居られる場所。少し離れている間に、確かに彼女は手に入れていた。健やかに、当たり前の一人の娘として生きられる場所を。
悔しくて、目を細める。
――僕は、どうするべきだろう。
このままルカを、彼の意思に委ねるなど、出来そうにない。それくらいなら、人間社会に連れ戻した方が、まだ納得できる。
――それに、ルカには、何と伝えればいいんだ……。
少し、冷静になって考えたい。彼女と、きちんと時間をとって――。
くしゃりと顔を歪めたとき、風の主が顔を上げる。入口の方を向き、ルカか、と短く声をかけた。どういうわけか、風の主はルカの来訪を察知したらしい。
彼の呼びかけにはっとして、ハチガも入口の方を見やる。
「どうする? 今すぐあの娘に告げるか? 今、ここで話したことを」
ルカを部屋に入れる前に、確認するかのような彼の言葉がのしかかる。
しかし、今はまだ無理だ。一度整理したい。どうするのか。どう動くのが、彼女にとって最もよい未来をもたらすのか。
「……いや、まだ」
「しばらくはそうあってもらえると助かるな」
「貴方はどこまで……!」
「手元に置いた方が、護りやすい」
ルカの気持ちなど、護るために利用しているに過ぎないのか。どこまで傲慢なのだと怒りに震えたが、彼は涼しい声で、入れ、と扉を解除する。
「エリューティオ様。ハチガ兄様が――あ、やっぱりここにいたのね」
安心したかのように笑顔を見せる少女。しかし、ハチガの強張った表情を見て、金色の瞳を翳らせた。
――この子の、こんな顔は見たくないな。
だから、ハチガは目を細めた。口の端を上げ、笑みの形を見せると、彼女も少し頬を緩める。
「ハチガ兄様、勝手に出歩かないで? 心配したのよ」
「すまないね。どうしても、彼と話があったんだ」
「エリューティオ様と?」
彼の名前を呼びながら、ルカは首を傾げた。
彼女が気兼ねなしにその名を呼ぶのも、今では気に触る。やがて彼は、ルカを泣かせるのに。
妖魔の真名を呼ぶことの意味は、事前にレオンから、何度も聞かされた。ルカ以外はけして呼んではならぬと。この峰に入る前から、入念に。
唯一、ルカだけが許される行為。
名を縛る恐ろしさに、戸惑うこともあったろう。それでも受け入れ、屈託のない笑顔を見せる彼女が憐れだ。
「もう、話は終わったよ。ルカ。今日は宵闇を案内してくれるのだろう? ――行こうか」
後ろに控える白雪の存在も確認したのち、ハチガは彼女の肩を叩いた。そのまま、問答無用で連れ去るように、彼女の向きを反転させる。
「兄様?」
「楽しみにしていたんだ。時間が勿体無いだろう?」
ふふ、と笑みをこぼして、彼女を連れ出そうとする。慌てながら、行って参ります、と風の主に挨拶をすることすら、勘に触る。
彼女を扉の外へ押し出して、ハチガは最後に一度振り返った。
真っ直ぐこちらを見つめる彼の顔。何を思うのか、結局のところ、わからなかった。わかりたくも、なかった。
ハチガ激怒。
妖魔の中でも特殊な立場であるエリューティオとは、常識が違いすぎるのでした。
次回、ハチガを連れて宵闇の村へ降ります。




