筆頭妖魔との面会(1)
ルカが呼び出されたのは、謁見の間ではなく、風の主の私室だった。
中央にある満月の塔の最上階。ぐるぐると続く螺旋階段を昇ることになり、多少体力に問題を抱えつつも部屋の目の前までたどり着く。
「ルカ様、こちらへ」
先触れしていたレオンが、光の扉の前に立っている。彼の言葉が“よそ行き”になっていることから、風の主がすでに居ることが伺える。
レオンの後ろに立ち、光の扉を潜る。現れたのはルカの部屋よりも遙かに狭い、こぢんまりとした空間だった。
寝台と長椅子。中央のテーブルには手のひらほどの大きさの碧い水晶がひとつ。他にもなにやら妖しげな魔術具のような物がいくつか並べてあるくらい。それらさえ置ければ部屋のサイズにこだわりがないのだろう。必要最低限、としか言いようのない様子に、ルカは目を丸くする。
中央のソファーにくつろいだ様子で寝そべっているのは風の主その人だ。長い縹色の髪がゆるやかにこぼれ落ち、妖艶な雰囲気を発している。そうして彼は、水晶と同じ碧い瞳でルカを一瞥し、声を発した。
「ふむ、来たか。何やら、余計な侵入者も居るようだが」
風の主は、後ろに立つ鷹に視線をうつし、口調を厳しくする。瞬間、殺気のようなものが部屋全体を満たし、ルカは総毛立った。魔力の類いが全くないルカにも分かるような、空気の変化。わざとわかりやすい威嚇の仕方をしているらしく、彼女の背中に汗が落ちる。
「あはは。害意はないよ。証拠もある」
「……赤薔薇には報告を受けた」
先程のやり取りのことを言っているのだろうか。風の主は、今のところ鷹をどうこうする気は無いらしい。忠告代わりの殺気をおさめ、言葉を続けた。
「そなたもよくよく酔狂な……」
これはルカに言ったのか鷹に言ったのかは分からない。ただ、風の主は表情厳しく、とても深いため息を吐いた。
「話は聞いている。アヴェンスへの使いだったな。よろしい、許可しよう」
「! ありがとう存じます!」
「いや、こちらの配慮不足だった。ただし、ルカ。其方には許可は出せん。使いの者に任せるが良かろう」
「……はい」
やはり。
想像していたとおりの返答に、ルカは肩を落とす。レオンも何とも言えない表情になっていた。
鷹と二人で買い出しなど、考えるだけで頭痛でもするのだろう。でもまあ、面倒ごとをまるごとレオンに押しつけられそうなので、それはそれで良いかもしれない。自分は外に出られないが、結果的に良かったかも。そう、ルカは開き直った。
「ありがとう存じます。恐れ入りますが、日暮れまでに向かわせねばなりません。早々に退出することをお許し願えますか?」
「ふむ、そうだな。使いには行かせれば良いだろう」
「ありがとう存じます」
一礼し、ルカはレオンに目配せした。心得たように、レオンが先に退出を始める。
「ただし、其方はここに残りなさい。少し話がある」
足を止められ、ルカは目をぱちくりさせた。
「私ですか? ええ、光栄に存じますが」
「ルカが残るなら僕も。僕も」
「鷹はアヴェンスへ」
ええー、と、後ろから抗議の声が上がるが、当然無視だ。空気を読んだレオンが、鷹の退出を促す。
小声で菫にはこの場に残るよう指示をしているのだろう。テキパキと話を済ませては、鷹を引き連れて退出していく。有能である。
「そなたも付き添う必要は無い。下がりなさい」
しかし、風の主は菫の存在も良しとしなかった。軽く手を振って、退出を促す。特に否定する理由もないので、ルカも菫に目配せした。
「では、御前を失礼致します」
そうして菫も去って行く。ただ二人残された室内で、ルカは何を話したらいいものやと分からず沈黙する。しばしの静寂が流れた後、口を開いたのは風の主だった。
「こちらに来なさい、ルカ」
そう言って、彼は片腕を前に出した。相変わらず彼は長椅子に横たわったままだ。ここに来い、ということは、長椅子に座れというのだろうか。彼の側に。
二人きりという環境と、いきなりの密着という状況に、ルカの心は飛び跳ねる。
ばくばくと高鳴る心臓音をどうにか押さえようと、ルカはできうる限り脳を動かした。冷静になれ。彼に聞きたいことが山ほどあるはずだ、と。
「失礼致します。風様?」
半ば無理矢理笑顔を作り出して、ルカは移動する。
横たわる彼の前、長椅子の中央付近にちょこんと腰掛けた。すると、彼の腕が伸びてきて、ルカの腰にそっと添えられる。
相手にとっては何の気なしの行動なのだろう。涼しげな表情は変わらない。しかし、ルカにとっては別だ。そもそも男性免疫のない上、妖魔に恋し続けた彼女には、今のこの状況に感情がついて行けない。
――落ち着け。私。落ちつくのよ。相手は、筆頭妖魔。私はただの小娘。何もない。なにもない。なにも……
「風様、とは?」
しかし、脳内暴走も風の主の冷静な一言に鎮められる。はっとして、胸の内がばれないよう、にっこりと表情を固定させた。
「貴方様のことをそう呼ぶことにしたのです。妖魔でない私が、主と呼ぶのも間違っている気が致しましたので」
「なるほど。ふむ、悪くない」
風の主はというと、ルカの提案をあっさりと受け入れ、頷いた。そんな彼の様子には甘い雰囲気のかけらも無くて、ルカは冷静さを取り戻す。
「何か、私にお話でもあるのでしょうか。侍女も下げられましたし」
「ふむ。今朝の謁見のように、他の妖魔の手前、あまり詳しく話ができなかったのでな」
「そうですか。畏まりました」
正直、ありがたい話だった。
元々ルカは、妖魔の要求に応じ、夜咲き峰に派遣された娘だ。しかし、その本来の目的についてはあまり詳しく話されていない。
婚約者という枠組みでもって、別の目的を隠している、と父は言っていた。きっと、公では出来ない話なのだろう。いつか呼び出されるとは思っていたが、こんなにも早く聞けるとはありがたい。
「其方をここに呼び寄せた目的。何も単純に人間の娘を欲していたわけではない。それはわかるな?」
「はい。私にしか果たせないお役目があると聞き及びました」
「ふむ、人選もされた様だ。其方が適任なのだろう」
そう言い、風の主は考え込む様に口を閉ざす。そして、言葉を選ぶ様に、ぽつりぽつりと話し始めた。
「……これはまだ公には出してない話なのだが、夜咲き峰では、ある現象が我々妖魔を内側より蝕んでいる」
「はい」
「妖魔たちの“人化”だ」
思いもよらない問題に、ルカはなんと答えて良いのかわからなくなった。人と化する。その意味がいまいち飲み込めない。
人間と妖魔。今回彼らと出会って確信したが、二つの種族、見た目はそれ程異なっているわけではない。となると、本質・資質的な意味だろうか。
「……“人化”、ですか」
「私以外の妖魔でも、薄々感づき始めた者もいるのだろう。妖魔全体が、妖気を失っている。いや、妖魔単体の話でもない。この峰そのものから力が失われているのだ」
風の主は、部屋の中央に位置する碧色の水晶を見つめている。部屋に入った時には気にも留めなかったが、それは弱々しい光を不規則に点滅させている様だ。
「妖魔の同行があったとは言え、其方がここに入れること自体が異常だと思ってよい。この峰の結界も、かなり弱まっている。自然の力の満ち欠けに影響されはするが、そのうち、弱いときには何も知らぬ人間が迷い込めるくらいにはなるだろう」
「人間が、故意に入ってこれるようになるのですか?」
「そうだ」
それは厄介だと、ルカは思う。
今は、存在自体があやふやとされ、相互不干渉を貫いてきた人間と妖魔だ。それがある日突然、交流を持てる様になったらどうだろう。お互いの文化の違い故、問題が起きないわけがない。
さらに、権力を持った人間が興味を持とうものなら厄介だ。ルカは彼らの性質をよく知っている。妖魔たちは、妖気自体を失い始めている。万一、有事の際の対抗手段がないとすれば――。
ぞくりとした。
ルカとて、貴族の。それも軍門の出だ。侵略された地がどうなるかくらい、考えないでもわかる。
「……なるほど。私が呼ばれた意味、見えてきました」
結界が失われる状況がどの程度進んでいるのか。妖魔の人化とは具体的にどの様な支障をきたすのか。来たる人間との交わりに、どの様な姿勢で挑むのか。調べなければならないこと、考えねばならないことは山積みだ。
「妖魔の皆さまにとっても、人間について知ることは、急務ですね」
「話が早くて助かる」
ほっとしたように風の主が漏らした。
「ですが風様。私は……」
想像以上の事態に、ルカは尻込みする。
王命が下されたときから不安ではあったのだ。本当に自分で良いのかと。
わざわざ人間から選んだ婚約者が、彼らの望む人物像で無かった場合、がっかりさせてしまうのではと。妖魔と出会える喜びで、搔き消したつもりだったのだけど、ルカの想像を超えて事が大きい。
「ひとつ。どうしても、お伝えせねばならないことがあります」
目を伏せた。
自分の出自について、言い出しにくい事がある。体が強ばって、胸のペンダントに手を伸ばす。幼い頃から自分を守り続けていたそれは、握るとほんのりとあたたかく、心を慰めてくれた。
「何だ」
「私、貴族の娘ではあるのですが。正確には、貴族と言えませんので」
言葉に詰まった。どう言葉にして良いものかわからず、口を開け閉めする。
しかし、これは事実だ。今更どう足掻いたところで、改善できることはない。だったら、自分は少しでも前を向いていたい。
ぎゅっとペンダントを握りしめ、ルカは風の主を見据えた。
「風様は、騙されていらっしゃるのかもしれません。私が正式に貴族の娘ならば、ある程度の権力でもってこの峰を他の貴族から護ることも出来ましょう。でも、私の身分では……」
口を閉ざす。力が足りない。口惜しさに、身を強ばらせる。家族の温かみがあった故、王都での生活は辛いものでは無かった。だからといって、何の気後れもなく生きてきたわけではない。
「私には、魔力がないのです」
目の奥がじわりと熱くなってきて、ぎゅっと閉じる。俯きたくない。ぐっと瞼に力を込め、涙を振り払うようにして、再び前を向く。
予想だにしていなかったのだろう。添えられた風の主の手がピクリと動くのがわかった。
「これでも貴族の家では育ちました。他の貴族の考えていることくらい、わかりますわ。一部の貴族が、私を婚約者に仕立て上げることによって、貴方に人間社会でおいての権力を持たせないよう抑制しているのです」
魔力。人は誰しも必ず秘めている力のひとつだ。妖魔が妖力で格付けされるのと同じ。人間も魔力の強弱が身分に直結する。
しかし何の因果か、ルカは生まれた時より魔力を持ち合わせていなかった。皆無だ。死人と同じ。
そんな彼女がどうして貴族になれよう。貴族の学校すら入ることすら認められなかった。平民に混じってどうにか学問を修め、貴族ならざる社会で生きていく為の教育を受けてきた。そんな彼女だからこそ、夜咲き峰ではできることもあろう。しかし、万が一貴族と対峙する事になったら?
「一方で、私を支持する声があったことも事実です。万が一の為に、妖魔達のことを調べるべきだと。王もその様にお考えですわ。私の立場は、いろんな思惑の上に立っているのです」
自分を引き入れたことで、逆に争いの種を抱え込んだとも言える。もしも貴族同士の諍いがこの場に持ち込まれる将来が来たとすれば、ルカに出来ることは無くなってしまうだろう。残念ながら、自身に、そこまでの力はないのだ。
「瑣末なことだ」
しかし、落ちてきたのは、そんな言葉だった。聞き間違いかもしれぬと、目を丸くする。しかし、風の主は何も変わらぬ涼しげな瞳で、じっとルカを見つめていた。
「魔力など、瑣末なことと言っている」
「でも」
「それに、人間の諍いになぞ興味はない」
本気で言っているのだろう。熱のこもらない何でもない様子で、風の主は流してしまった。
「そもそも、書簡を出した段階で、其方が来ることはわかっていた」
「うえ!?」
「ふっ……妖魔にも、それなりの大きな耳があるという事よ」
少々自慢げに笑う風の主に毒気を抜かれ、ルカも微笑む。スッと、胸が軽くなるのがわかった。
自分の事を認めてくれているのだ。これ以上ああだこうだと引き延ばすとこも無いだろう。
「精一杯、頑張ります」
あったかい気持ちを胸に、そう、呟いた。
夜咲き峰に来た本当の目的が明らかになりました。
次は、風の主に要望を伝えます。