-幕間- 還されたもの(2)
「嫌だ……どうしてそんなこと言うんです、白雪様……!」
玻璃が悲鳴のような声を上げる。
「玻璃」
「……どうして名を呼んでくれないのですか!」
ひときわ小柄な玻璃が、責めるようにして前へ出た。
彼にとってはこの決断は厳しいものだろう。彼のすべては以前の白雪だった。誰よりも力を持った孤高の筆頭妖魔。憧れてやまない理想の妖魔になりたくて、彼は他の者を遮断した。
彼の世界は白雪がいればそれでよくて、しかし今、その白雪の方から彼の理想を離れていく。
玻璃が求めた理想の妖魔は、もはやこの世に存在しない。
「玻璃、君の決断を聞くまで、私は君の名を呼ぶつもりはないんだよ」
狼は体験したことがないものの、名を呼ぶことはまるで魅了の術でもかけられた感覚と近いのだという。心から、歓びの感情を沸き立たせ、その者を満たす。
心が浮き足立った状態で、決断を迫るような真似はしたくないと、白雪は言った。
「でも、僕は……どうしたらっ」
どうして、人間の小娘に、と玻璃は続けた。最早言ってもままならないことに縋り付く彼に、白雪は冷たい視線を落とす。
鴉がふいと視線を逸らした。
もしかしたら、その状況が見ていられなくなったのかもしれない。おそらくこの後、白雪が下す無慈悲な判断を想い、心を痛めている。
以前の鴉であったなら、誰がどんな関係になろうと我関せずだっただろう。しかし、狼も今なら分かる。誰かとの関係を絶たれる痛みは、ずっとその胸に痕を残し続ける。
「玻璃、君に名を還そう」
「……!」
「今まで、ありがとう。君は、もう私に縛られない方がいいだろう」
待って! と言う玻璃の言葉は届かない。
玻璃の思想に白雪はあっさりと見切りをつけ、パリン、という音が聞こえた気がした。玻璃の体からまるで灰のような雪がはらりと落ちる。それは地面へ舞い降りた瞬間に溶けて消えてしまい、呆然とした玻璃だけがそこに残る。
どうして、どうして。白雪様。呟く彼にはいつもの自信が無い。
人を小馬鹿にするように、逆撫でする言葉を重ねる様子。小生意気な姿の欠片も見られない。
パクパクと口をあけたまま、何かを呟くが、その声が響くことはなかった。ただ、歯を食いしばるような表情を見せて、彼は駆けた。入り口の方へ向かって、走ると同時に姿を空気に溶かす。この場に居ることすら我慢できなかったらしく、一人、どこかへ消えて行ってしまった。
容赦なく名を返還した白雪に対して、狼は眉をひそめた。
彼は、ルカに向けるような親愛を、上弦の妖魔たちに向けるつもりはないらしい。——いや、感謝の意を述べていたことから、きっと上弦の皆との絆のようなものがあるのだろう。ただ、この場の決定には一切の情を反映するつもりはないらしい。
一体どれだけの妖魔を己の都合で取り込んで、そしてまた、己の都合で捨てるのだろう。そう思うと、吐き気がする。
狼のあからさまな不機嫌さに白雪も気がついたらしく、少し困ったような笑いを見せた。
「仕方ないんだよ。私はもう、以前の私とは、違ってしまったらしい」
悪くない気分なんだけど、と言葉を漏らす。
「ルカ様の思考と全くそぐわなかった部分だけが、綺麗さっぱりそぎ落とされているんだ。不思議なくらい、スッキリとした気分だよ」
「まるで別の妖魔だな」
「……どうだろう? ただ、優先順位が変わってしまっただけ。とりあえず今の私は、これだ」
白雪は誰よりも、己が第一の妖魔だった。その根幹が塗り替えられて、本当に彼であると言えるのだろうか?
狼には良くわからない。しかし、一種の気持ち悪さのようなものを感じて、眉をひそめた。かつて、白雪に名を縛られなくて、良かったと思う。彼に縛られていたら、自分もこんな風に変わってしまっていたのだろうか。
だとしたら、名を縛るのも、縛られるのも、一切合切御免だ。今後も狼は、誰かに縛られるようなこと、けしてあってはならないと心に刻む。
「白雪の場合は、殊更ルカの意識の反映が強い。俺はそう変わらないからな」
「は?」
突然、普段無口な鴉が横入りしてきて、しかも内容が内容だけに狼は首を傾げる。それは他の上弦の妖魔も同じなようで、ぴくりと肩を震わせては、鴉の言葉に反応した。
「俺は以前と何も変わらん。名前を呼ばれると——妙にこう——」
そこまで鴉は告げて、頬を赤らめる。
「気分が、高揚するが。ただ、白雪は俺とは違う。名を縛る際、相当ルカの意思が働いたはずだから、かなり感情までも塗り替えられてしまった節は、俺はあると思う」
いやいや。と狼は首を振る。
頬を染めた鴉が衝撃的すぎて、白雪の説明がなかなか頭に入ってこない。ぼーっと、満月の峰の方向を見るかのように、うっとりとした鴉の瞳。気持ち悪すぎて身震いする。
「鴉っ、貴様、人間の小娘なんぞに縛られたのかっ」
かっとなって大声を出したのは黒犀だった。峰は別であったが、単純な黒犀は鴉のことが嫌いではなかったらしい。同じ武闘派として、刃を交えるのを何度か見たことある。きっと遊び相手か何かに思っていたのだろう。
先ほどの発言で、鴉がルカに名前を縛られたのは明確だ。だからこそ、我慢がならないと言っているのだろうが——
「別に縛られたとは思っていない。自ら捧げたんだ」
「何故っ」
「……ふっ」
鴉が笑った。
——わら…った?
ぞくぞくぞくと背中から寒気がしてきて、狼狽する。うっとりと目を輝かせている様子は、普段の彼から想像すら出来ない表情だった。もはや黒犀も言葉を失って、一歩、二歩と後ずさる。静かに佇んでいた白鷺までもが、何やら不可解なものが直視できない様子で、すっと視線を逸らしていた。
「みゃぁ〜、鴉……相当影響あるんでないの?」
流石の蜘蛛が心配そうに声をかけているが、いや、と鴉は首を横に振った。
「俺は、以前からルカに傾倒しているから。……そもそも、縛られることによって、自身がどの程度変化するかは、お前たちもよく知っているだろう?」
何せ、お前たち自身も縛られているのだから、と鴉は続ける。
鴉の言葉に、上弦の連中は黙り込んだ。狼自身と違って、確かに、上弦の連中は縛られる意味を身をもって知っている。だからこそ、白雪の変化に戸惑いもしているのだろうか。
「縛る縛らないは関係なく、上弦の皆のことは気に入っている。だから、名を還したからと言って、別段邪険にするつもりはないんだけど……」
玻璃には、伝わらなかったなあ。少し困ったように眉を寄せて、白雪は独りごちた。
今、白雪の優先順位の最上位はルカになっているのだろう。だから、彼女の意と相反する者は側に置けないと考えたらしい。
先ほどのやりとりを見ていても、白雪が名を縛っている者へ、ルカ本人が強い影響力を持つことはないらしい。玻璃の思考がルカと異なることから、十分その事実が伺えた。
皆がしばらく考え込むようにして、沈黙が広がる。しかし、それを真っ先に打ち破ったのは、蜘蛛だった。あえて、いつも以上ににぱっと笑ってみせる。
「はいはいは〜い♪ 白雪様ぁ〜、あたし。あたしと黒犀はねぇ〜変わりませんよ〜♪」
両手を天井につきだして、蜘蛛がみゃは〜と声をあげる。うっかり巻き込まれる形になってしまった黒犀が、何事と目を丸くしているが、気にするつもりはないらしい。
「黒犀はあんぽんたんだから、あたしが面倒見てあげるっしょ♪ だって白雪様についてったほうが楽しそうだしぃ♪」
「……タチャーナ」
「うふふ、認めてくれたようですねっ♪ うれしぃ〜♪」
白雪がくすりと笑って真名を呼んだところ、蜘蛛がごろごろと転がり始めた。隣に座っていた狼の頭によじ登って、さらに向こうに立っている黒犀へと飛び移る。小柄な彼女はそんなに重たくはないわけだが、人を下敷きにすることに全く抵抗しないらしいその神経は、一周まわって尊敬に値する。
「ね、黒犀もあたしといっしょでいいよねぇ?」
「俺か? いやいやいや、相手は人間の小娘だぞっ」
「でもねぇ、もうあたしらよりもぜんっぜん強いよ? 力、あるよ?」
蜘蛛の説得に、黒犀はうっ、と言葉に詰まった。
黒犀の思考は分かりやすい。強さがすべて。だからこそ白雪の支配を楽しんでいた節もあり、その白雪以上、となったとき、心がぐらっと揺れたのだろう。
「あー、どう思います? 白雪様?」
間抜けにも白雪本人に尋ねたところで、白雪も吹き出した。
「君は蜘蛛とセットだからね。これからもついてきてくれると、心強いよ」
「おお、ですか! だったらしゃあねえな。俺様が、一肌脱いでやる! あ、鴉! お前とも再戦だからな!」
敵なのか味方なのかまったくわからない宣言をした黒犀に、白雪はますます笑った。ぽんぽんと鴉の肩を叩いて、困ったねえ、と言葉を漏らしている。
鴉も肩をすくめて、返事をしかねていた。そうして視線を泳がせた後、そのうち、と小さく声を漏らした。
「うん。じゃあ、ガングリット。これからも、よろしく。次は——白鷺か」
「勿論、私はお側に」
にこりと笑顔で頷く。白雪の隣にいつも立ってきた彼。白雪の名が誰かに縛られたからと言って、その場所から立ち退くつもりもないのだろう。
「あの人間の存在が許せるかと言うと、まだわかりません。ですが、私は白雪様を信頼しておりますから。誰に名を縛られようと、貴方であることに変わらない。私は貴方の策に乗ったのではなく、貴方自身に乗っていたのですよ、白雪様」
「——そうか」
「もちろん、様子を見てどうしても受け入れられないようでしたら、いかなる手段を持ってしても貴方の支配下から離れますので、ご容赦下さい」
「ふふ……今を逃したら名を還す気はないんだけどなあ……」
「いえ、私も妖魔ですから。いざというときの手段は選びませんよ」
玻璃も、これくらいの余裕があれば、もっと違う答えが出せたのでしょうがね、と白鷺は言葉を続ける。
ずっと白雪に寄り添ってきただけあって、白鷺の言葉には彼の自信が現れている。目の前の、明らかにいつもと違う様子の白雪の中に、それでも彼の求めているものがあるらしい。
迷いのない白鷺の表情には、彼のぶれない意思があった。
「いつもすまない」
白雪が、柔らかく笑う。
「いえ。それにあの人間の——ルカ様、が行おうとしていること。どう考えても、手が足りないでしょう? いりますでしょう、私が?」
「ああ、必要だな」
「ほら、素直に名前をお呼び下さい?」
「……ラージュベル。君は本当に……」
くつくつと笑いを漏らし、白雪は頭を下げる。その光景は今まで見たことのないもので、彼の変化が見て取れた。あれほど憎んだ白雪なのに、誰かに感謝の意を示す姿を見るだけで、狼の気持ちも少しだけ凪いだ。
あとは、と白雪がソファーに目を向ける。
狼の隣に座っている薊。先日まで言葉通り“白雪に操られていた”彼女自身への問いだった。
咄嗟に狼は薊の手を握った。その行動に驚いたように、薊は紫の瞳をますます大きくする。
彼女はしばらく狼の顔を見つめて、しばし。それでも何かを決断したように立ち上がり、狼の側を離れてゆく。
真っ直ぐ白雪の正面に立ち、ぎゅっと手を握りしめた。そしてその場に傅き、頭を下げる。
「白雪様、どうか、私の名を還して下さい」
「……」
「私は、狼と宵闇で生きようと思います」
「……まあ、君はそう言うと思っていたよ、薊。もう、君を強制的に縛る力も働いてないみたいだし。その力の供給源とさよならする道を選んだからね」
白雪はそう、苦笑いを浮かべた。
強制的に縛る力、それは魅了の一種だろう。妖魔でその力を使用することが可能な者は、多くはない。
白雪もその数少ない者の一人だと思っていたが、どうやら違ったようだった。何らかの道具か魔石を媒体としていたのだろうか。外部の力を借り受けてまで、魅了の力を操っていたらしい。
そうして白雪は、懐から一つの小瓶を取り出した。
桃色の液体が僅かに残っているだけのそれだが、白雪は躊躇無く、その小瓶を手から放り投げた。そして己の手から雪の結晶を生み出して、その小瓶を包みこむ。地面に落ちる前に結晶と化したその小瓶は、液体を散らすこともなく粉々に砕けては、空気中に消えてしまった。
「あああああ〜〜〜!! 白雪様ぁ、ひどいっ、ひどいよっ! あたしにくれてもいいじゃないっすかぁ〜」
正体不明の液体に興味を持たない蜘蛛ではなかったらしい。名残惜しそうに瓶が落ちたあたりに駆け寄っては、成分の一部が残っていないかとくまなく探しているが、結局見つかりはしなかったようだ。はぁ、と明らかに肩を落として、恨めしそうに白雪を見上げた。
「ははは、悪い悪い、タチャーナ。許してくれ。でも、私はもうあの薬を使うつもりはないんだよ」
蜘蛛の執念に推されつつも、白雪は薊に向き直る。
「わかった、薊。君に名を還そう。君はもう自由だ——とはいえ、宵闇に戻るなら、少なからずこれからも顔を合わせることはありそうだね」
「そうですね。あの娘が宵闇に来るのは間違いないので。もちろん、お会いすることもあるかと。だからこそ、アタシは宵闇に戻ります」
薊は深呼吸した。今まで操られていた身であるにも関わらず、そこに恨みの感情はない。顔を上げ、少し困ったような笑顔を見せた。
「意に添わぬ行動もありましたけど——不思議ですね。なんだか、アタシは貴方を憎めない」
「まだ、名前が私の手元にあるからね」
「いいえ、そうではなく。還してもらっても、憎める気がしないんです。なんだかんだで、良くして頂きましたから」
元々下級妖魔である彼女は、たいした妖気も持ち合わせていなかった。しかし、名を媒体にして白雪からの恩恵を受け、夜咲き峰の妖気を糧とし、最後に宵闇全体の妖気をその身に受けた彼女は、上級、とは言えないまでも、下級妖魔とも言い切れない強さを持っている。
そうした妖気の問題だけではなく、ずっと白雪の側に控えていたことで、思うことでもあったのかもしれない。いつの間にか薊は晴れやかな笑顔で立ち上がり、白雪に握手を求めていた。
彼女に名が返還されたらしい。
まるで白雪と同じ場所に立つような彼女に、狼も笑いを禁じ得ない。立ち上がり、彼女の側へ歩いた。肩を抱き寄せ、頭を撫でると、小柄な彼女は目を細め、くすぐったそうに頬を緩めた。
「薊は返してもらうな、白雪?」
「……操らない方が彼女は魅力的か。失敗したなあ……」
くつくつと笑いながら、白雪は惜しいことをしたとつぶやいた。名前を返還したからこそ、深まる関係もまたあるらしい。
冗談だとは分かっているが、今更薊をとられても困る。狼は彼女を無理矢理白雪から引き剥がし、その間に立ちふさがった。その行動に、周囲からも笑いが漏れる。
「狼、余裕のない男は嫌われますよ」
隣に控える白鷺が冷やかしてくるが、そんなことは関係ない。狼はもう、薊を手放すつもりなど無いのだ。
「うるせえ! 俺も薊と、宵闇でゆっくりやる。上弦はもうこりごりだからな。用があるなら、お前らから宵闇に降りてこい!」
ふん、と鼻息を荒くし、踵を返した。薊の手を取り、問答無用で連れて出る。彼女の小さな手はすっぽりと狼の手の内に納まり、こんなに小さな体なのに凜とした彼女がますます好ましく感じた。
この手を放すものかと、狼は誓う。こうして誰かに執着して、ようやく手に入れたもの。十年間募った想いを、今から全力で彼女にぶつけなければいけないのだから。
きっと皆、受け入れてくれるだろう。狼が宵闇を変えてしまった罪は、彼自身も感じてはいるが。それでも皆、再び狼を受け入れてくれた。そこには、下弦の者たちの口添えもあったらしい。
「下級に会いに、上級妖魔が峰から降りるか——本当に、夜咲き峰も変わったものだ」
後ろから、白雪の納得するような声が聞こえた。狼も、心からその言葉に同意した。
ルカが来てから、この峰は確かに変わった。それは人化による影響も大きいが、彼女を中心とした大きな渦のようなものが、夜咲き峰全体の文化を変えているようで。
不思議なものだと狼は思う。以前の——全くもって力を持っていない小娘が、何故こうまで影響を与えるのだろうか。実際彼女の力でもって何かをしているとは思えない。彼女は言葉をかけるだけだ。周囲を促し、行動に移させる。命令とは違う所謂“交流”で、こうも変わるものかと狼は思う。
でも、悪い気持ちは、しない。
彼女の作ったこの波に乗っかったからこそ、狼は薊と歩む道を選ぶことが出来た。
改めて彼女に感謝の意を述べたことはないし、今後もそのつもりはない。けれども、宵闇で何か力になれるのなら——そう思うと、胸がふわりと温かくなる。
護るべき者を支え、狼は生きていこうと心に誓った。
これからの宵闇は、変化に富んだ物になるだろう。だが、それも悪くない。受け入れて、新しい未来を切り拓く。そんな生き方も有りだと、彼は笑った。
玻璃、薊は白雪の呪縛から解放されました。
次は風の主と波斯。宵闇編の居残り組です。




