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夜咲き峰の人々  作者: 三茶 久
第一章 風の主の婚約者
65/121

-幕間- 還されたもの(1)

 白の空間。

 床も壁も天井も、すべてが上品な白に覆われた、染みひとつ無い空間。もう何年も立ち入っていなかったその部屋は、時の流れを無視するかのように一切変わってはいない。しかし不思議と懐かしい気持ちが沸き起こるわけでもなくて、ああ、この場所に居たときの自分はどれだけ空虚だったのだろうかと独りごちる。

 その部屋の中に用意されたソファーに深く腰掛けながら、狼は薄鈍色の髪を揺らす。


 自分は、変化したと思う。この部屋を出て、宵闇で彼女と出会ってから。やがて、上弦の峰を飛び出して、村へおりて――。


 ちらと隣を見ると、薊が紫の瞳をこちらに向けていた。凜とした佇まいはずっと昔、狼が彼女と出会ったときと同じで、じわりと心に喜びがこみ上げる。

 白雪に囲われて空虚だった彼女の心が、まるで再び戻ってきたかのような。

 じいと彼女の顔を見つめていると、薊は小首を傾げる。



「なんだ、まるで落ち着かない顔をして」


 ふふふ、と目を細めて笑う彼女は、幼いはずの顔立ちが凜々しく映る。下級妖魔ながら狼に対してまったく物怖じしないこの態度が、彼は本当に気に入っていた。


「――いや、なんだか、お前とこうやって並ぶのが随分久しぶりな気がして……」


 と、言葉に出してみると妙に現実味を帯びてくる。狼は三角耳をぴこりと折りたたみ、気恥ずかしくてそっぽ剥いた。一方で、ごわごわ手触りの尻尾が全力で振り回されているため、その感情は隠れる気配がない。

 ふふふ、と隣から聞こえる笑い声が大きくなった気がして、狼はますます薊の顔を見ることが出来なくなった。


「なんだ、照れているのか? ……ほら、こっちを向け。久しぶりだ、お前の顔をよく見せてくれ」


 くつくつと笑い声を漏らしながら、薊はからかうようにして狼の頬に触れる。幼い顔つきだがその表情は余裕そのもの。見た目は狼の方がはるかに大人っぽいのに、性格と外見は一致しないことがありありと見て取れる。

 そのまま薊は狼の耳に手を添えた。フニフニと指を動かしては、彼の精神を刺激する。ひっ……と思わず声が漏れるが、そんなことを気にする様子もなく薊は続けた。

 先日までの無の表情しか見せなかった彼女とは違い、豊かな感情がそこにはある。だが、感情が元に戻って早速、こうまで遊ばれてしまうと、狼としても立つ瀬が無い。


「やめろ、おい、薊。俺で遊ぶな」

「遊んでなどいない。愛情表現をしているだけだ。なあ、狼?」

「俺は……俺は妖魔だぞっ。上級妖魔だ」

「なんだ今更。宵闇落ちしたくせに。妖魔に上級も下級もないだろう? アタシもお前と同じ妖魔だ」

「……っくしょう!」


 喋れば喋るほど、墓穴を掘っている気がしてならない。真っ赤な頬をぶんぶんと横に振りながら、狼は後ずさる。しかし薊が迫ってくるため、その距離は一向に離れない。ソファーの手すりに背中をぶつけて、狼はうへあと変な声を出した。

 正直に言うと、久しぶりの本来の薊に、心臓がどきどきしてならないらしい。翻弄されるのもなんだか懐かしく、抱きしめたい衝動に駆られるが、それはそれで負けな気がする。

 視線を泳がせながら、どうにか上級妖魔としての優位を保とうとするわけだが、薊は狼に遠慮が無い。顔をぐっと近づけては、悪戯そうに狼の鼻をつまんだ。


「ちょ……おまっ」

「ハハハハハ! 変な顔! 妖魔の威厳が足りないぞ!」


 カラカラと声に出して笑う薊の顔は晴れやかだ。いつか狼が向き合った日とは全く違う、ずっと昔に見た彼女の笑顔。こうしてからかってくるのはいただけないが、それでも気兼ねなく話が出来るこの事実が嬉しい。

 鼻は相変わらずつままれたままだが、狼の頬が緩む。目元がふにゃりと垂れて、優しく薊を見つめた。





「みゃ〜〜〜! お前らなぁっ。恥ずかしいっしょ! 見てるこっちが照れるよもぉ〜!」


 が、そういえばこの空間は二人だけのものではなかったらしい。

 とうとう我慢できなくなった黒い服の娘が、二人の間に割って入るように飛び込んでくる。力業でふわふわした世界を切り崩し、どすんとソファーの真ん中に腰を下ろした。

 二人をおそらく睨み付けているであろう彼女の瞳は見えない。黒い豊かな髪は、ふわふわとうねりつつ彼女の目元を覆ってしまっているからだ。白の空間に、彼女のオレンジと黒のボーダータイツが目に痛い。その足元をぱたぱたとばたつかせて、彼女――蜘蛛は主張した。


「なんだよなんだよぉ〜。狼ばっかりいい目にあってさ。あのとき、いっちばん最初に気を失ったのにぃ!」


 ぷんすかと蜘蛛は狼の胸元に拳を突き出しながら、蛸の口をする。ぶーぶーと抗議してくるわけだが、狼だってあの日のことはいろいろ反論したいところ。




「いやいや、おかしいだろ。あの日のお前ら、俺がいた頃の皆とは格段に――」

「ああ、その話なんだけれどね」


 と。丁度狼が言いかけたところを遮るようにして、入り口の方から影がひとつ。――いや、ふたつ。

 瞬間、場の空気がピリ、としたものに変わった。この空間に居た狼、薊と蜘蛛。そして他の上弦の妖魔たちも、空気中からその身を表して、一堂に会する。


 白の空間の入り口から姿を現したのは、全身がまるで真白い男だった。

 白雪。彼は皆にそう呼ばれている。

 そしてその隣に控えるのが――と、その人物を確認したとき、狼は驚きの声をあげた。



「鴉、か?」


 ここは上弦の峰。下弦の妖魔が堂々と入ってくることなどありえない。しかし、白雪配下の面々は、まるで致し方ないとでも言うかのように眉をひそめた。色々思うところはあるらしいが、白雪の言うことに逆らえないし、逆らうつもりもないのだろう。


 ――そうか、白雪は、あの人間の小娘が。


 同時に狼は理解した。

 先の新月の夜、ルカは確かに白雪を縛った。そもそも名前を縛るという行為を行う妖魔自体希少だ。よって、この全員が名を縛られているという上弦は、非常に珍しい部類に入る。

 更に付け加えるならば、自分の名前を縛っている主が、更に別の者に縛られる。そんな状況、当然聞いたことも無い。とはいっても、白雪に名を縛られることを嫌がった狼には、どういった感じになるのかはイマイチ分からないわけだが。



 そうして、白雪がルカに縛られた状態ではあるわけだが、白雪以外のルカに対する感情は、皆、とそう変わらないらしい。

 ルカへの不信感は相変わらずで、下弦の者である鴉に対しても少なからず敵意のようなものを見せていた。


「……鴉、君、どうしてここにいるの?」


 最初に心の内を吐き出したのは玻璃だった。全員の中で最も敵視の感情を顕わにしているのも、幼い顔立ちの彼だ。下弦の琥珀とはもともと犬猿の仲。彼らを一括りの仲間だとみている玻璃にとって、鴉も当然ながら敵である。


「白雪の付き添いだ。もう、同士だからな」


 一人にするわけにもいかんだろう。と、玻璃の敵視をするりとかわし、鴉はそう告げた。

 先日の事件では、たしか鴉は白雪と戦闘して、滅多打ちにされたと聞いている。狼自身は気を失ってしまい記憶にはないのだが、同じように重傷を負ったのが鴉だったらしい。


 しかし、白雪の隣に立つ鴉に、白雪に対する憎悪のような感情は見えない。むしろ、ごく当たり前のように馴染んでいるのが不思議だ。白と黒。まるでもともと鴉が上弦の妖魔のような印象すらある。

 そして、パラパラと打ち合わせするかのように言葉を交わし合う二人の関係は平等。とても上弦の筆頭妖魔と、他の峰の上級妖魔の関係としては想像しがたい。


「私たちはもう、ルカ様にお仕えする身だからね。だから、改めて私は、君たちに訊ねに来た」


 こつん、こつん。と白雪が前に出て、全員の顔をぐるりと見渡す。


「――君たちが望むなら、名を還そう」




 狼だけではない。誰もが目を瞠り、息を呑んだ。

 白鷺は予想していたのだろうか。ふ、と苦笑するように笑い、対照的に玻璃は動揺を顕わにした。頭の弱い黒犀も意味が理解できたらしく後ずさり、狼の隣にいる蜘蛛がみゃは〜ん♪ と声を上げる。


「先の戦いで私は敗れた。名を縛られて私自身も初めて分かったことだけれどもね、こんなにも心が落ちつくとは思わなかった。――不思議なことに、私にはもう、ルカ様を取り込む気持ちすら起きないのだよ」


 ふふふ、と自嘲気味に笑いを漏らす白雪は、何故か晴れ晴れとしているようにも見えた。


「妖魔の、妖魔たる矜持を護るため、私はこの峰をひとつにまとめた。けれど、ルカ様が行っていることは我々とは真逆の行為。妖魔で在り続けることでなくて、人間に寄り添うことを考えていらっしゃる――当然、君たちの中には受け入れられない者もいるだろう?」


 なあ、玻璃? と、あえて玻璃に言葉をふる。

 玻璃はもともと、上弦の峰の中でも白雪にもっとも傾倒していた。白雪の信念とも言える妖魔の矜持を美しいと感じ、力が絶対的な社会を信じる。自らが妖魔でいるためには、他の者がどうなっても良いと思っていたらしい。



「先日、我々が使ったあの石――狼、君を使って宵闇に配置させた魔石だよ――あれの作用でね、夜咲き峰の妖気は大幅に削られた。私を介して、皆に送っていたあの妖気は、元々は夜咲き峰全体の妖気から取り込まれたものだ」


 しかし、と白雪は言葉を続ける。


「あの時、私たちは全力でルカ様を取り込まねばならなかった。しかし、それに失敗した今、君たちの妖魔としての矜持を護る手段は、存在しない。君たちが私に同調する理由も、もうないだろう」


 白雪は目を細める。彼自身、妖魔らしからぬ平凡な顔をしているせいで、困ったように笑う姿はまるで人間みたいだ。以前のように誰彼構わず妖気を飛ばして威嚇するようなこともなく、ただ、皆の意見を待っている。

 まるで自らの罪を見つめ、贖罪するかのような態度に、狼はピクリと眉を動かした。

 皆が戦闘時、妖気を外に吸収されているような感覚を覚えていたが、やはり白雪の仕業だった。もちろん、ここまでは狼もすでに把握済みだ。しかし、どうしても気になることがある。



「――白雪、お前、そんな大層な魔石、どこから手に入れたんだ」

「ん?」

「あれだけ大規模な術式、いくら上弦皆の力が加わっているといっても、描き出せるものではないだろう? たった三つの魔石で、峰全体の妖気を奪い、結界までも? それだけの事をしでかしておいて、ルカの元に下ったから無かったことに? いやいや馬鹿言うな、見過ごせるはずがねえだろ。俺が今日、どうして上弦まで上がってきたと思ってるんだ」


 狼はとたんにピリとした空気を纏う。新月の夜以降、宵闇の皆は無事に動ける者が増えたけれども、人化が更に急激に進んだ。ある程度の妖気を扱えはするものの、今はまだ、普通に生活することすら難しくなっている。

 ルカの指示で食事の量やバリエーションを増やし、トイレの数も揃えたりと環境を整えているが、宵闇の妖魔すべてが人化してしまえば、何もかもが足りないし間に合わない。

 狼を中心とした森の一族も一丸となって、宵闇の村の再生をはかっているものの、皆の妖気が思う存分使えなくなってしまった今では作業も捗らない。


 そして、その原因を作ったのが目の前の白雪だ。狼とて、自分が結果的に一枚噛んでしまったことは承知している。

 しかし、元凶である白雪が、のうのうと宵闇を救ったルカの側に居るのはなんとも納得しかねる。


 同時に、あの魔石。上弦の者たちが作り出すにしても精度が高すぎる代物だった。狼は白雪の向こうに、夜咲き峰とはまた別の繋がりすら感じ、詰め寄った。



「――その話か。ああ、今は聞かせられない。ルカ様にもまだ、伝えかねている。私がその出所を話すのは、彼女を護ると決めた同士にのみだ」

「何だって」

「これからも尚、私に仕えてくれる妖魔と、そして、ルカ様に名を縛られている妖魔にだけ教えよう。君には伝える気など、ないのだよ、狼」


 隣で鴉が頷いている。彼は事情を知っているのだろうか。その暗い瞳が決意に燃えているような印象で、彼がやはりルカを一番に大切にしていることがありありと見て取れる。

 つまり、白雪が手を引いた今でも、ルカの存在を狙っている妖魔が他に居ると言うことなのだろうか。


 そして、と白雪は言葉を続けた。


「今日、この場で皆には決めて欲しい。私に名を縛られたままにするのか、それとも、一人の妖魔に戻るのか。……ちなみに、この場で名を還さなかった者に、同じ事を問う機会は二度と無いと思ってくれ。これから先、私はルカ様のために動くだろう。あの方に関する情報を、名を縛らぬ妖魔に教えるわけにはいかない。つまり――私の呪縛から逃れるならば、今だけだ」


 白雪はまったく取り繕う様子を見せない。事実だけを提示し、さあ、自分で選べと上弦の妖魔たちに投げかける。

 いつも、彼が見せつけるように放っていた莫大な妖気による圧力も、この場には出さない。隣の鴉は、全員の決意を見守るようにして、静かに佇んでいた。

本来の薊は、竹を割ったような性格だったようです。

次は、皆の決断です。


※長くなりましたので、2話にわけました。

次回は8月8日(月)に更新します。

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