-幕間- 三日月と影
新月が過ぎると、再び月が顔を出し始める。
真黒い夜空に線となり弧を描く三日月は、満月とはまた違った趣がある。
その三日月の下。同じように細い刀身を鈍く輝かせ、鴉はひたすらに二対の刀を振るった。
鴉自身の命の源とも言える、生まれ石から生み出した刀。これらは、鴉自身に何が起きようとも、生まれた時から鴉の側に在ってくれる。
輝くものを好む鴉にとって、この鈍色で飾り気のない刀は趣向からは外れたものではある。しかし、己自身の姿だと思うと、やはり愛着が湧くし、納得も出来る。
以前ならばこの刀を振るうことによる負担などはなかった。
しかし、鴉は自覚していた。ここのところ、体が重い。調練などせずとも、戦い方は知っていたはずなのに。あの日——新月の夜から、己の存在が、何か変わった。
がむしゃらに刀を振るうが、相手もいなければイマイチ感覚が掴めない。調練の仕方さえよく分かっていない鴉にとっては、架空の敵を立てる以外の方法も見当たらない。
一心不乱に動いた後、はあはあと息を吐き出す。この体の重さになかなか慣れない。そして汗が噴き出し、こぼれ落ちる。
こんなことなど、今まで一度もなかったのに、と頭を下げる。同時に、胸に言いようのない不安が押し寄せ、吐き出すようにして叫んだ。
「がああああ……っ!!」
両手の刀を振るい、目を見開く。
こんなものは自分ではない。己の中からこぼれ落ちる力という力。まるで自分が知っている自分ではなくなってしまう不安。上級妖魔としての矜持すら保てなくなるような——。
「くっ……」
腕に力が入らない。カラン、と刀を取りこぼし、両膝を地面についた。
情けない。悔しい。もどかしい。この気持ちをどう言葉にして良いのか分からない。
そのまま鴉は大地に寝転がり、細い月を見つめる。
下弦の峰の外、可憐な花が数多く咲くお気に入りの場所。柔らかな植物の上に体を横たえると、瑞々しい緑の香りがした。その香りすら愛しくて、虚しい心を少しばかりは慰めてくれる気がする。
空に浮かぶ三日月。くっきりと宵闇に浮かぶその線は、月白。ずっと側に居たいと願った彼女と、同じ色だ。
しかし。と鴉は唇を噛んだ。
——このままでは、彼女とは……
居られなくなるかもしれない。
鴉が鴉でなくなり、彼女の近くに居る資格すらなくなるかも、と。
この手からこぼれ落ちてゆくものを感じ、鴉は目を瞑った。こんな不安、今まで感じたことなかったのに——。
「おい、鴉」
そうして寝転がっていると、離れたところから彼を呼ぶ声が聞こえた。
神経を尖らせることすら叶わなかったらしい。近くに寄ってくるまで、相手の存在に気がつかなかった。
何ぞ、と体を起こすと、そこにはよく見知った男が立っている。
艶やかで整った金の髪に、青い瞳。妖魔と言われても遜色のない整った顔立ちは、人間にしては非常に珍しい。
鴉が慕う少女とともにこの峰にやって来た男、レオンだ。
「……どうした」
わざわざ鴉に会いに来たのだろうか。ルカではあるまいし、居場所を探してやって来るなど、酔狂なことをする男だとは思わなかった。
ふと彼の手を見ると、少し大きめのバスケットが抱えられている。何ぞ、と思っているとレオンが真っ直ぐ歩いてきた。
来いよ、とそれだけ告げて、レオンは峰の下がよく見える場所まで移動した。適当な場所に腰掛け、遠くを見つめている。
深い森は最早真っ黒。まるで海のような色のない下界。遠くの大地にのみ幾つかの灯りが密集しているのが分かる。おそらく、アヴェンスなのだろう。
レオンの隣に腰掛けて、ぼんやりと遠くの大地を見つめていた。隣ではがさごそと何かを取り出す音がする。
「ほらよ」
そしてぽいと鴉に手渡されたのは、白い皿だった。その上には、厚みのあるブレッドに、彩りの野菜とハムが挟まれたサンドイッチが並んでいる。
意味が分からなくて彼の顔を見返す。彼はわざわざティーポットまで持ってきているらしい。見たこともない魔術具が取り付けられていおり、液体を注ぐと湯気がたっている。
「……なんだ一体」
「いいから、食え」
それだけ告げて、レオンはテキパキとお茶の準備をした。簡易ながらも地面にカーペットを敷いて、ティーカップを並べる。彼の分のサンドイッチはないらしく、紅茶を少し口につけてはふう、とひと息ついていた。
「腹が減るだろう?」
確信するように、レオンが言う。
「そういうモンなんだよ、人間は」
その言葉に、鴉は目を見開いた。小さな黒目がぶるりと揺れる。
レオンも予測していたのだろう。そんな鴉の表情の変化を見つめては、ふと悲しげに笑った。
「無理するんじゃねえぞ。力では到底勝てんが、この体のことなら俺の方がはるかに知っている」
「レオン、お前……」
「心配するな。お嬢様は鴉が人間になったところで、遠ざけたりするような方じゃない」
「……」
すべてお見通しだったらしい。鴉の体調の変化も、心の内も。
見透かされた気分で、何と返してよいものか迷う。
鴉は話すのが得意ではない。妖魔同士の交流など元より少ない文化ではあったが、それ抜きにしても、自分の思いを言葉に乗せることにはどうしても慣れない。
ようやくルカにだけは、気持ちを正直に伝えられることが出来るようになった。
何があっても彼女は否定しないから。自分を見捨てたりはしないから。なのに、今回ばかりはと、不安で言い出せなかった。
「ルカはまだ気づいていないのか」
「ああ、あの方はよく見てるようで、抜けているからな」
「そうか……」
ばれていない事実に少しだけ安堵する。しかし、いつかは話さなければいけない日が来る。それはわかっては、いる。
鴉の不調は急激なる妖気の低下から来るものだった。いくら月に祈り、糧をこの身に捧げても、以前のような力が戻ってこない。
おそらく、新月の夜、白雪に吸収された力。透明の魔石を黒に変えたあの粒が、鴉本来の核そのものだったのだろう。そのからくりは分からないが、ルカに白雪の名が取り込まれる際、彼の力がルカの力に塗り替えられた。そしておそらく、あの時、白雪が手にしていた鴉の力そのものまで——。
ますます、ルカには話すことなど出来ない。事実を知れば彼女は落ち込むだろう。
ここ最近、ルカの調子が良くないことが幸いして、あまり会えない。いや、調子が良くないという言葉が正しいかどうかは分からないが。
峰の管理と、大量の力の出し入れになかなか慣れないらしい。新月の夜のあと目覚めても、力の供給だけしてすぐに眠ってしまう。
ルカ本人も、名を縛られた者たちも皆口を揃えて大丈夫、と言っていることから、大事はないのであろう。しかし、鴉はその輪の中に入れないことも、酷くもどかしく感じていた。
宵闇の村の事後処理とスパイフィラスの案件。どちらも差し迫ったものではあるが、実質峰を動かすルカがあの様子では、皆対処のしようがない。スパイフィラスには会談を遅らせてもらうように尽力しているらしいし、宵闇は山猫や狼を中心に、再びひとつになり始めた。
しかし、どちらにも鴉は尽力できない。役に立てる場所などない。
自分の存在意義など、ルカの側に居て護るくらいしか出来なかったのだから——それなのに、今は、その護衛すら満足に出来そうも無くなっている。
苦しくて、ぎゅっと拳を握りしめた。
そんな鴉の気持ちを悟ったのか、レオンはとっとと食えと横からハッパをかける。
力なく首を縦にふってから、目の前のサンドイッチにかぶりついた。
食べ応えのある厚めのブレッドと、瑞々しいレタスやトマトが堪らない。
口の中に新鮮な野菜の甘みと、ハムの旨みがいっぱいに広がって、胸もいっぱいになった。
美味しい。美味しい——。
以前の自分の味覚よりも、はるかに、強い芳香と味を感じる。ああ、これが人間になることなのだと自覚した。身を丸め、サンドイッチの味を噛みしめていると、胸にじわんと熱いものがこみあげる。
「——美味い、な」
「俺が作ったんだから、当然だ」
「……俺には、何が出来るだろうか」
今更落ち込んでも、もう遅いことは分かっている。
ちらと、レオンを見た。力のないレオンは、それでも最もルカに近しい存在だ。彼女の信頼が目に見えるほど、彼女を強く支えている。
力を失った自分に、レオンと同じことが出来るだろうか。——否、同じ事は出来なくてもいい。せめて何かの形で、彼女の役に立つことが出来るだろうか。
先の新月で、三名もの上級妖魔が彼女に名を縛られた。彼らの存在によって、自分は必要がなくなるだろう。いつかは忘れ去られてしまうのではと不安に首をもたげる。
それをレオンも知っているのだろう。ふぅ、と大きく息を吐き出し。遠くを見ながら、ぽつりぽつりと話し出した。
「……焦っても仕方ない。ひとつひとつ覚えて行かなきゃならんだろ。上級妖魔のお前が、人化してゆく妖魔の見本になる。生き方を示すのも、大きな役割だと、俺は思う」
「生き方を示す……」
「心配するな。お嬢様は十分お前に頼っているし、信頼している。お前が、この峰で、お嬢様を見守ってくれていること——俺も嬉しく思う」
俺には無理なことだったからな、と。そう呟いてレオンは、少しはにかむように笑った。
どうやら自分で言っておきながら、相当恥ずかしいらしい。息を何度も吐き出して何事もなかったかのように振る舞っているが、ルカ風に言うとこれは照れ隠しというやつなのだろう。
「レオン、俺を、人間社会で生きられるようにしてくれーー」
「ん?」
「ルカはもう、夜咲き峰に縛られているだけではなくなるだろう。その時に、側にいてやれる人間が必要だ」
人間、と、鴉は言った。
彼女の為に生きられるなら、人間でも何でもなってやる、と心に誓う。
鴉の決意が伝わったのだろう。レオンは瞼を何度か瞬かせると、苦笑しながらもため息を落とした。
「おいおい、まだ俺に仕事を増やす気か?」
「っ……」
「まあ、鴉ならいいか。言っておくが、俺は厳しいぞ?」
くつくつ笑いながらも、彼は夜空を仰ぎ見る。大きく息を吸ってーーまあ、こんな生き方も、悪くない、と声を漏らした。
「とりあえず、これからも部屋の掃除はしろ。お嬢様を卒倒させるような環境だぞ。人間にとって、毒でしかないからな」
「うっ……」
ズバリと言われて鴉はたじろいだ。今はすっかり物のない部屋ではあるが、以前と同じ惨状にしない自信はない。
「トイレの用意も必要だな。宵闇を見ていたろう? 近いうちに来るぞ、お前も」
「……覚悟している」
「そうか。……あとはーー食事か。おい、鴉。シゴいてやるから覚悟しておけ」
人手はいくらあっても足りんからな、と言葉を付け足す。この時のレオンの顔。実に悪そうにふふふと含み笑いを見せ、明日から本当に無事なのだろうかと不安になった。
しかし、鴉も、同意したいと思う。
ーーこんな生き方も、悪くない、か。
レオンの言葉に頷きながら、鴉も三日月を仰ぎ見た。
***
そうして鴉は、ルカに傅く。
眠りから覚めた彼女を待って、大切な話があると呼び出した。
いつか彼女と話した下弦の園。秋になっても花は咲き乱れ、甘い香りが鼻腔をくすぐる。
目を丸める彼女の手を取り、そこにひとつ口づけを落とした。
鴉? そう不安げに彼女が言葉を落とす。だが、そうではない。彼女に呼んで欲しいのは、その名ではないのだ。
「アルヴィンと。ーーどうか、アルヴィンと呼んでくれないか」
彼女の瞳が驚きの色に変わる。その吸い込まれそうな金色を懇願するように見つめて、どうか。と繰り返した。
しばらく、目を細め、考え込むように彼女は押し黙る。しかし、観念したようにふと微笑んで。そして、形の良い赤い唇から、望みの言葉が唱えられた。
「アルヴィンーーこれからも、よろしくね」
鴉はルカを護ることしか出来ないと思っていたのに、それすら叶わなくなりました。
新しい生き方を見つけられるよう、“人化”にも前向きに進み始めます。
次は白雪、薊、狼のその後です。
※八月上旬の更新予定です。




