風の手を握って
立ち去っていく一軍をぼやんと見守り続ける。彼らが目の前から完全に消えるまで、注意を逸らすことがどうしても出来ない。
緋猿軍の一部が見送ってくれるそうで、かなりの数の魔力の粒が遠ざかるのを感じながらしばし。ようやく気持ちが落ち着いて、ルカはふうと息を吐いた。
「終わったな」
「……はい、良かった」
隣に立つ風の主が告げることで、一連の事件が粗方片付いたことを実感する。ロディ・ルゥのことも、人間のことも、そして風の主自身のことも。
とまで考えて、一つ、また懸念が残っていることに思い至った。
「……いえ、風様。私、宵闇の皆の無事を確認するまでは」
そこまで告げたところで、ルカの意識に一人の妖魔の気配が反応した。
「ロディ・ルゥ……?」
ピクリと体を動かすと、ルカを支えるハチガは何事と首を傾げる。
トンっ、と、静かな空気を纏って、突然白い男が地面に降り立った。体重を感じさせない軽やかな足取りで、ルカの前に歩んでくる。
にこりと微笑むその顔は、本当に妖魔らしからぬ平凡なつくり。
しかし、顔とは違ってその存在感は強烈だ。静かすぎて違和感を感じるような凄み。そんな彼に対して、ハチガが思わず息を呑んでいるのがわかった。
「誰だ、お前は?」
しかし次兄にはその厳粛ともいえる雰囲気がまったくもって伝わらないようだ。眉を寄せて真っ先に威嚇をはじめるものだから、ルカは苦笑する。しかし笑っていられるのはルカくらいで、彼の周囲の騎士たちは慌ててリョウガを諌めていた。
ロディ・ルゥをはじめ、上級妖魔たちの尋常ではない妖気を感じてなお、気丈に振る舞えるのはある意味リョウガらしいとも言えるのだが。
「リョウガ兄様、彼は私に仕えてくれてる白雪。だから大丈夫よ?」
「白雪? レオンの報告にあった男か?」
ハチガの反応にリョウガが益々険しい表情をみせる。彼との関係は、伝達の魔術具で伝えてあったらしい。
名を縛ることで、まるでこれまでの警戒が嘘のように溶けてしまったけれども、つい先ほどまで確かにロディ・ルゥとは敵対していた。
ああ、違うの。と慌てて二人の兄を諌め、ルカは言葉を付け足す。
「白雪とのことは、もう終わったの。それより、ロディ・ルゥ、宵闇はどうしたの?」
「皆が動き始めたので報告に参りました。状況的に、上弦の者が目に入るわけにも参りませんから、山猫と、蜘蛛を残して離れております」
「そう……狼と、鴉は?」
「意識はあります。放置しておくわけにも参りませんから、黒犀たちに夜咲き峰へと運ばせております。ーーああ、ご心配には及びませんよ? 彼らは、私が名で縛っておりますから」
「ええ、大丈夫。疑いようないわ。……良かった、皆がーーそう」
ほう、と大きく息を吐いた。頬がわずかに緩み、口元が綻ぶ。
まだまだ考えることは山積みだし、今回の一件も、事件の根になっている部分が一切見えてこないのが気になっている。
それでも、と、ルカは思う。皆が無事でなによりだ。
安心すると、ふわりと体に堪った疲労感が押し寄せてくる。
気丈に振る舞っていたから自覚し切れていなかったが、体に負担をかけまくっていたらしい。
考えれば、当たり前のこと。朝から宵闇の異変に走り回って、戦闘に巻き込まれて――いままで持ち得なかった力を操り、ロディ・ルゥたちの妖気をも受け入れ。
慣れない力の出し入れに、体のあちこちが悲鳴を上げている。通りで立てないわけだし、腕にだっていまいち力が入らない。
ふああ、と間抜けにも大あくびをして、ルカはこてりと頭を伏せた。
「ルカ? どうしたんだ?」
ルカを支えるハチガが奇妙そうに顔をのぞき込んでくる。当然向こうの方で次兄も大騒ぎしているが、ルカは次兄のことをスルーできる優秀な耳を持っている。
「うん、ちょっと……」
眠いの、と呟くと、再びあくびが出てくる。
まだ眠る訳にはいかない。所謂事後処理に奔走しなければいけないのに、と頭をふるが、どうにもこうにも睡魔には勝てそうに無い。
「無理をするな」
抑揚の無い声でそう告げたのは風の主だった。
ハチガの方へ歩み寄り、ルカを受け取るようにして担ぎ上げる。とろんとしたまどろみの中で、ルカは安心して彼の胸に顔を埋めた。
「心配ない。眠りなさい」
頭を撫でられ、ふあいという気のない返事をするとともに、瞳を閉じる。
最後に奇妙そうな目をした皆の顔が見えたが、気にはしないことにする。それよりも今はただ、眠りたい。
事態に動転してピリピリした気持ちなどどこかに行ってしまった。もう大丈夫だよ、安心していいよと、気配が教えてくれる。
おやすみなさい。あとはよろしく。と言葉にできたのかできなかったのか。
意識が深く落ちていく際、柔らかな風が最後まで自分を護ってくれているような感覚を覚えて、ルカは笑った。
***
そうしてルカは、やわらかな光を手にする。
遠い幼い頃の記憶。
ただ真っ暗闇な世界の中で、ぽっかりと浮かぶ温かな心。
それは道標であり、希望だ。
深くて暗い闇の世界で、ただひとつ信じるべきもの。
――すべてのはじまりは、貴女の光だったのですね。
おかあさま。と、ルカは口にした。
闇の中に浮かぶ光は、ルカの言葉を決して否定しなかった。微笑むように揺らめいて、周囲を明るく染めていく。
黒から白。世界が一気に塗りつぶされていくように広がっていく。
そうして自らの周囲には、柔らかな風がすり抜け、光の鷹が舞い、繊細な雪が降る。知っているもので塗りつぶされていく世界を見つめながら、ルカはうっとりと微笑んだ。
――私は、こんなにも愛されている。
幸せな娘だ、と実感する。
この目で母の姿を見ることは叶わなかったがそれでも、母の代わりに見守ってくれる人がいることを、ルカは知っている。
彼らと共に歩んでいこうと心に決める。
名前を背負うことがいかなる事か。彼の名前を呼んで初めて、その重みを理解したから。
風の手を握った。確かに握った。
夢の中、形無いものに手を委ねると、確かにその手を引いてくれる感覚がある。
ずっと憧れて追いかけてきた彼ら、妖魔たち。
こうして間近で接してきたから、分かる。どんなに美しく、どれだけの時を重ねていようとも、彼らはまるで子どものようだ。そして、ルカ自身も、まだ。
――だから、ともに歩んでいこうと思います。
どうか、彼らの近くで。
出来るだけ、近くで。
ルカの決意を汲み取るように、光は笑った。
揺らめきの世界に手を振り、別れを告げる。
――どうかお母様、次に会う時まで、お元気で。
必ず会いましょう、と心で告げる。キラキラと光がまたたき、ルカの気持ちを肯定してくれているように感じた。
そうしてルカは、瞼を持ち上げる。
目に浮かぶぼんやりとした世界は縹色に覆われている。心配そうな瞳の色と、この身を抱きしめる温もり。――いつかと同じだとルカは思った。
「――おはようございます、風様?」
「……エリューティオだ」
まるで拗ねたように、縹色の彼は瞳を逸らした。
その子どものような様子が可愛らしくて、ルカはふふ、と目を細める。
「おはようございます、エリューティオ様」
そうしてルカは、彼の温もりに身を委ねた。
これにて第一章本編終幕となります。
ここまでお付き合い下さいまして、ありがとうございました。
第二章へ向けての準備の兼ね合いで、更新ペースを落とします。
詳しくは活動報告に記載致しますので、ご確認頂けましたら幸いです。
次回は幕間。レオンと鴉のお話になります。
更新は七月下旬になると思います。
お待たせすると思いますが、何卒よろしくお願い致します。




