星祭の夜に(8)
闇空に月白の髪が靡く。普段ならば宵闇の村に向かって真っ直ぐ降りていくのに、今回は東の空へと向かって飛行する。
皆、アヴェンスへ買い出しに行くときはこのように飛ぶのだなあとぼんやりと思いながら、ルカは風の主の顔を見た。
「風様? もう大丈夫なのですか」
「問題ない」
ただ一言。短く言葉を切り、風の主は真っ直ぐ飛行する。
何を言わずとも、ルカの抱える不安を理解くれているみたいだ。まさにルカの胸の中で、プツプツとした粒のような違和感は、彼が向かう方向にある。
ふと後ろを振り返ると、オミと赤薔薇がついてきているようだ。そこには石墨の姿はないが、彼女は一体誰だったのだろう。
赤薔薇たちとは面識があったようだから、夜咲き峰の妖魔であることは予測できるが、下弦でも上弦でもないとしたら……新月の峰の者だろうか。
オミと似た、ゲッショウ風の衣装を纏っていたことも気になっている。オミからもルーツを聞きたいところだし、彼女について知る事ができたら、もっと妖魔社会のことが分かるかもしれない。
彼女のことが気にならないと言えば嘘になる。しかし今はその感情を横に置いておかなければいけない。
きり、と表情を引き締め、ルカは前を見た。
夜咲き峰の結界があった場所。人間の足だとかなりの距離があるはずだが、妖魔の飛行だとあっという間だ。王都と夜咲き峰を一夜で飛行してみせる彼らのこと。夜咲き峰の端など、目と鼻の先だ。
「風様!」
「ああ」
ごく近くに、数多くの者の気配を感じて、ルカは声をあげた。ぎゅっと彼の衣の袖を握りしめる。
風の主は僅かに頷いたのち、真っ直ぐ高度を下げていった。それに続くようにして、オミと赤薔薇も地上へ真っ直ぐ降りていく。
宵闇の村を越え、夜咲き峰を囲む森が開けた場所。まさにその境目。峰の妖気はここまで届いているらしく、星祭の灯りは見当たらない。
地上に降り立った瞬間、風の主とルカの周囲に風が巻き起こる。
ルカたちの目の前には、予想通り、幾千もの人間たちが甲冑を着込んで立ちはだかり、森の手前にはレオンを含めた、琥珀や花梨が彼らと対峙していた。
いくら上級妖魔たちといっても、この人数差、よく抑え込めたものだと感心する。
琥珀を見てみると、顔が醜く歪んでいる。怒ったり、脅したりしようとすると、彼はこのように表情に変化を見せるらしい。どうやら今回もかなりの威圧しただろう。
しかしお互いに被害があった様子はない。上々だ。
きっとレオンがうまいことコントロールしてくれたのだろう。彼の存在がありがたくて、ほっと胸を撫で下ろす。
ルカたちの出現とともに巻き起こった風に、人間たちは目を白黒させていた。当然だろう。人の作る魔術具で、これ程の出力を出そうとしたら、一体何人の人間、そしていくつの魔術具が必要か計りしれない。
それ程の大きな力の中心にいながら、ルカは穏やかな風に囲まれている程度にしか感じない。術者には影響が出ないよう、コントロールされているのだろう。
四方に風が流れていった後、誰も微動だにできず、周囲は静寂に包まれた。人間たちは言葉を失っているようで、突然現れた妖魔たちに目を奪われている。
中央にルカと風の主。左にオミ。右に赤薔薇。そして後方には花梨たちが控えている。筆頭妖魔らしい圧倒的な雰囲気を持った風の主に抱えられたまま、ルカはゆっくりと笑った。
月白の髪が、夜咲き峰の灯りに照らされる。月のない夜、夜咲き峰の灯りは月そのものの様に美しく、その光を浴びたルカは、まるで月の女神が乗り移ったかのように神秘的だった。
その華奢な体躯が、縹色の髪の男――恐ろしい美貌を備え持った風の主に抱えられているから尚更。一人では立つことも出来ない儚さすら、計らずして彼女を印象づけた。
先頭に立つ、この軍を纏めているであろう男は息を呑む。さて、この男は、ルカのことが誰なのか認識しているのだろうか。
「お初にお目にかかります。私は、レイジス王国、緋猿将軍が娘にして、この夜咲き峰筆頭妖魔、風の主の婚約者、ルカ・コロンピア・ミナカミ。スパイフィラス軍の方々かとお見受けいたします。このような場所、このような時間に大勢で――一体、いかがなされたのです?」
ちら、と視線を落とすと、目の前の男が明らかに動揺しているのが目に入る。白髪交じりで、口元に髭を生やした壮年の男。夜咲き峰に来ているのは、おそらくスパイフィラス領の意思。かなり重要な任務であろうことから、スパイフィラス領領主カイゼル卿の手の者であることが分かる。実際、鎧につけられた紋章から判断するに、それなりの地位をもった男のようだ。
男は返答に迷っているようだ。夜咲き峰に足を踏み入れることの意味を分かっていなかったのだろうか。まさか妖魔を、獣やあやかしか何かだと勘違いでもしていたのだろうか。
しかしいざ目の前にしてみたら分かるだろう。この男も。
上級妖魔の圧倒的な凄みを。もともと気配に聡くはない只の人間ですら素通りできないその圧倒的な力を。
魔力が皆無だったルカには、今までわかり得なかった。しかし今なら理解できる。畏怖すると同時に、その力に魅了されてしまう程の実力差。成る程、過去の研究家たちが――いや、ただ生きゆく人間たちが、彼らの存在を素通りできず口伝で後世に伝えるわけである。
――気がついているのだろうか。スパイフィラス軍の皆は。
軍の皆を束ねる壮年の男。彼が返答に間違えれば、今ここで、全員が潰されかねないと言うことを。
「其方が……本当に……?」
頭の中が整理できないのだろうか。目の前の男は目を見開いて、そして首を振る。
「緋猿将軍の娘は、魔力など持たぬと……いや、其方は……」
あらかじめ幾ばくかの情報を得ていたようで、益々混乱しているようだ。
随分と長い間夜咲き峰で過ごしていたから失念していたが、ルカに対する貴族の態度は決して良くはなかった。
それはルカ自身が魔力を持ち得ぬ平民――いや、もしかしたら平民以下の存在であり、貴族として認められていないからに他ならない。貴族の通う学校にすら入れなかったし、その扱いは異例だった。
だからこそ、彼らはルカのことを軽んじていたのだろう。あまつさえ、彼女の婚約者であろう筆頭妖魔でさえも、ルカと同列と認識していたか。だからこそ、この状況に対応しきれないでいる。
そして彼の混乱の原因はこの場に立っている妖魔たちの圧倒的な存在感もさることながら、ルカ自身の持つ気配に対するものかもしれない。
魔力が皆無だと噂されていた彼女に、確かに魔力が備わっている。それも、圧倒的な。
それに加えて、妖気の存在すら感じとっているかもしれない。
ルカ自身も感じ取れるようになって初めて気がついた。魔と妖。二つの力の明らかに異なる様を。
どちらも森羅万象、生きとし生けるもの全てに宿っていることは、理論上確かではあった。あくまでも人間と妖魔のどちらとも面識のあるルカだから、気がついた。ずっと一緒にいたレオンだって、妖魔と過ごす様になってすぐ、妖気の正体について悟っていた。
魔と妖、どちらも根源とする力は同じ。ただし、出力の方向が真逆であるだけで。
人間が魔力を扱う際に必ずついてまわる“抵抗”と呼ばれるものがある。媒体から力を引き出す際に、それに反発する力のことを示しているが、端的に言うと、人間社会で“抵抗”と呼ばれるものそのものが“妖気”の正体であった。
人間には妖気とは別の名で浸透してしまっていた。当然だ。抵抗を扱う者など、人間社会には居ないのだから。だれがそれが、別方向に働く力であったと認識できようか。
「答えよ、この抵抗は何だ!?」
目の前の男は、貴族の中でも中級以上の魔力は持ち合わせているのだろうか。やはりルカの放つ違和感に気がついたらしく、声を荒げる。
身分上は明らかに彼の方が上の立場になる。ルカが人間社会に属しているのならば。
しかし、彼は失念しているのではないだろうか。ここは夜咲き峰。そしてその夜咲き峰は、レイジス王国の管轄外となる。
もはや国外の者と言っても差し支えないルカは、この峰の筆頭妖魔の婚約者。下弦の皆と仲良くなり、上弦のロディ・ルゥすら押さえ込んだルカは、峰の中に置いては確固たる地位を持ち合わせている。
「……ずいぶん不躾な質問ですね。私、貴方様が名乗り出て下さるのを待っているのですが」
冷たく言い放って、ルカは彼から顔を背けた。興が冷めたと言わんばかりに、ぷいと首を反転する。すると自然と風の主の胸に顔を埋める形になってしまった。
少し気恥ずかしいが、当の風の主本人は、どうということはなさそうだ。すっと涼しげな瞳を一瞬落としてくるが、それだけ。風の主もまた、人間達の方へとその瞳を動かした。
とたん、誰もが息を呑むのが分かった。
その気持ちは痛いほどよく分かる。男性から見ても、風の主の絶対的美貌、そして圧倒的な存在感は素通り出来るものではない。
いや、この場にいる上級妖魔たち誰もが、恐ろしく整った“自然ではあり得ない”美しさを持っている。そんな彼らに見つめられて、平然としていられるわけがないだろう。
ルカのように特別妖魔に思い入れが無くても――いや、思い入れがないからこそ、単純にその美貌だけにとらわれる。ちらと先頭の貴族に目を向けると、ぽけーっと開いた口がふさがらない様子で、締まりの無い様子だ。
ルカはため息を吐いた。
さて、この状況どうしようか。
少なくとも、今、人間たちの質問に答える義理はない。面倒ごとは御免だ。どうしてわざわざ、妖気についての知識を彼に与えねばいけないというのか。
ルカが迷っていると、行動に出たのは風の主だった。呆然としたままの人間たちに向かって、特に興味もなさそうな視線を投げかけつつ、代わりに苛立ちのようなものを露わにした。
「ふむ、勝手にこの峰へ足を踏み入れようとしてなお、そのような態度をとるか」
ほう、と息を吐き、右腕を前に差し出す。
「力を持たぬ者が、何故こうも醜い行動に出られる」
妖魔の概念だとあり得ないことなのだろう。力を持つ者が絶対的強者。地位はその妖気によって決まると言っても過言ではない妖魔社会。そこに介入しようと強硬な態度を示す者の力が足りないことに憤りを覚えているようだ。
己の力の有無も自覚せず、ルカたちに対して命令口調になっている目の前の男が気にくわない様で、風の主は手で宙に弧を描いた。
瞬間、突風が大地を駆け抜けていった。ざわ、と、森の方からまるで生き物が通り抜けていくかのような感覚。同時に木々が揺れる音が移動していく。
それは人間たちを取り巻き、彼ら自身に纏わり付いた。ひぃ、と悲鳴に似た声が口々に上がることを、ルカは確認する。
魔術具を使用することもなく、事も無げに自然界を操る。その力はまさに未知のものであり、人間にとっては畏怖そのものだろう。
風の主にとってはほんの脅しのような行動でしかないのだろうが、その効果は絶大だったらしい。
恐怖に怯え、その場に尻餅をつく者すら出てきた。ひぃ、と悲鳴も聞こえ始めたところで、ルカは手を差し出した。万が一にでも、ここで誰かを傷つけるようなことになっては困る。今後の夜咲き峰のことを考えても、スパイフィラス領と安易に敵対するのは得策ではない。
「風様、良いのです」
ルカの冷静な声に、風の主は手を下げる。とたんに強烈な風は凪いでいき、森から飛んできた木の葉がふわりと地面に落ちていった。
「それより、名を伺っても?」
再度ルカは名を問うた。瞬間、ルカに助けられたことを悟ったのだろう。弾かれたようにルカの方を見たかと思うと、壮年の男は言葉を絞り出す。
「……私は、スパイフィラス軍第二軍将軍、ロマンサ・ダナン。緋猿将軍の娘よ、ここを通してはもらえぬだろうか」
幾ばくか、ルカに対する態度が柔らかくなった。目を細め、彼はぎゅっと拳を握りしめる。本来ならばこのような小娘にへりくだるなど、彼の誇りが許さないのだろう。
「……ロマンサ将軍。何故ここを通る必要があるのです? ここから先は夜咲き峰。本来ならば人間の立ち入って良い土地ではありません」
「何を言うか。今までは結界に阻まれて叶わずとも、ここはスパイフィラス領だ。我々が足を踏み入れるのに、何の問題がある!?」
「スパイフィラス領? ……そうなのですか、風様?」
ロマンサの言い分に、ルカはわざとらしく首を傾げた。風の主の方を見つめてみると、彼は眉一つ動かさずに「知らぬな」と答える。
「……筆頭妖魔が知らぬと言っているのですが?」
「妖魔の意見など求めておらぬ! このグレイゼス山脈の東はすべてスパイフィラス領だというのは周知の事実だろう。夜咲き峰とて、例外はあるまい。我々は重要な任務中なのだ、通してもらおうか」
「……ええと。人間側の都合を押しつけられても、妖魔の皆は困ってしまいますわ。そもそもロマンサ将軍。それは誰の命で動いているのです? あの……こんなこと申し上げるのは大変心苦しいのですけれど……忠告させて頂きますわね」
人間側だけに都合のいい理論を披露されてしまい、些か戸惑う。
ルカは頬に手を当てて、非常に残念そうに視線を揺らしながら、彼の希望が叶わぬ理由をつげた。
「まず、ここがスパイフィラス領というのはみなさま人間側が取り決めた事情でしょう? 本来ここに住む者を無視して主張されても困惑するだけです」
それに、とルカは言葉を続けた。
「私もこの峰に来て驚いたのですが、妖魔たちの力は本物です。わかりますでしょう……ここに居る僅か数名の上級妖魔の力。それだけで、皆さまが全滅なさっても不思議ではないと思うのですが」
ほう、とわざとらしく息を吐いた。憂いを帯びた表情で、側に居る妖魔たちに視線を向ける。
「――赤薔薇。この峰に不法に侵入した者は、どうなるのでしょう?」
あえて赤薔薇に話をふってみる。まるで陶器人形のような美しい少女がはじめて動きを見せ、皆が一斉に目を奪われるのが分かる。その気持ちは分からないでもないが。
その美しく可憐な少女は、感情を浮かべない深紅の瞳で真っ直ぐ射貫くかのように人間たちを見たまま、淡々と言葉を返した。
「侵入者? ――殺す」
――あろう事か、空中から大鎌を取り出して。
彼女は言葉を飾らない。
まるで死神かのような装いに、誰もが息を呑むと同時に恐怖した。生きている温もりを一切持たぬ彼女の表情が不気味に見えるのだろう。
単に何も考えてないだけだとルカはすでに熟知しているが、初対面の人間にとってはそうはいくまい。ロマンサでさえ一歩後ずさるような素振りを見せ、瞳をふるわせていた。
「ああ、いいのいいの、赤薔薇、攻撃は待ってね。――ロマンサ将軍。このように妖魔は自分たちのテリトリーに他者を入れることを極端に嫌います。無理に侵入するのはオススメしません。気配を探る力にも長けているので、こっそり侵入しよう、とかも考えない方が良いです」
ですので、とルカは言葉を続けた。
「話し合いを致しましょう。私は、正式な輿入れはまだとしても、もうこの峰の者ですから。貴方がたの要望を聞くくらいなら出来ます。……もし話し合いすら応じることが出来ないというのであれば、残念ながら、妖魔の法に則って妖魔自身が貴方がたを裁くでしょう。あいにく、私にはそれを止めるほどの力はありませんので」
夜咲き峰に足を踏み入れるなら、妖魔が黙っていないよとかるく脅しをかける。
上級妖魔たちが放つ異様な気に怖じ気づいたのか、ロマンサだけで無く周囲の兵たちも皆、戸惑いの表情を露わにした。
「さて、ロマンサ将軍? いかがなさいますか?」
じとり、とロマンサを睨み付けてようやく、彼はその首を垂れた。
上級妖魔と人間の力の差は、相当なものです。
レオン、いろんな意味でよく頑張っていました。
次回、ようやく決着がつきます。




