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夜咲き峰の人々  作者: 三茶 久
第一章 風の主の婚約者
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星祭の夜に(7)

 耳元で声が聞こえた気がした。

 私の名前を呼びなさいと、後押ししてくれる人が居た。

 それはきっと、とても大切な儀式のはずだった。なのに、切羽詰まって、どうしようも無い状況で、覚悟も出来ぬまま呼ばざるを得なかった。

 苦しくてもどかしい。それでもどうか、風の主よ、とルカは念じる。心にすとんと、糸が繋がる感触がして、じいと彼を見つめた。



「――戻ってくる」


 ルカと繋がっているのはオミも同じだ。ぽん、とルカの肩を叩いて、口の端を上げる。

 瞬間、風が巻き起こった。ルカの周囲を渦巻いて、それは縹色の髪を巻き上げる。ぐるりと部屋の中をまるで嵐のように駆け巡り、やがて中央へ収束していく。

 その部屋の中央――風の主の生まれ石は、元の弱々しい光などでは無く、翠がかった色彩でも無い。まばゆいばかりの月白の光を強く放つ。



 ――まるで、レイルピリアのような色。


 ぎゅんぎゅんと力を吸い取られるのを感じながら、ルカはぼやんとその光を見つめた。

 彼の名を呼ぶことで、ルカの持つ何らかの力が介入してしまったのだろう。風の主の生まれ石は、もはや別物へと生まれ変わろうとしていた。息苦しさを感じながらも、その美しさに目を奪われている自分もいる。ルカはただただ風の主の手を取り、祈るように力を捧げる。

 それとともに巻き起こる嵐のような強い風も石へと吸い込まれていく。


「えっ!? あ、ダメっ」


 ただでさえヘトヘトなのに、まるで搾り取られるように力が流出し、体を支えることすら難しくなる。かくんと体が倒れ込もうとしてしまったが、力強い腕に支えられ、なんとか意識を保った。


 縹色の髪が、ふわりとルカの頬に触れる。背中からすっぽりと包み込むように、後ろから手を回された。

 毎朝の僅かの時間。毎日のように触れてくれた細い指。でも、その朝の出来事が随分と前のことのように感じる。

 あまりに長い一日で、その間、彼の安否がずっと胸に突っかかっていた。だからこそ、その涼しげな瞳が動くことが、こんなにも嬉しい。


「……風様」

「世話をかけた」


 ほう、と息をついて、ルカには笑みが溢れた。頬が緩み、気持ちが軽くなる。

 まばゆいほどの光はいつの間にか落ちつき、周囲はいつも通りの穏やかな空間を取り戻している。

 自らを支えてくれる彼の腕を掴み、ぎゅっと力を込めた。そんなルカに対して風の主は僅かに眉を寄せるが、それもつかの間。いつも余裕に満ちた涼しげな瞳も、この時ばかりは少し張り詰めたような色へと変化していた。

 ルカに背中から抱きしめるように手を回し、彼女の左手をとる。包み込むように優しく触れ、彼は自らの生まれ石を睨みつけた。



「無駄遣いが多い。余所見をするな」


 風の主に目を奪われている場合ではなかったらしい。いきなり叱咤されて、ルカは目を白黒させた。

 しかし、言わんとしていることはわかる。きゅっと頬を引き締め、真っ直ぐに彼の生まれ石を見た。

 月白の色に光を灯した、彼の生まれ石。この峰を護るために彼の生まれ石が大きな役割を示していたであろう事くらい、ルカだって予測がつく。


「……媒体にして良いのですか?」

「もう其方のものだ」

「でも」

「つべこべ言うな」


 いつになく強引に、彼は導く。ルカの意識を誘導しつつ、オミに目を向けた。


「何をぼんやりしている。手伝え」

「何? 風ったら僕に対して主気取り?」

「馬鹿を言うな。それともルカにこれ以上負担をかけさせるか?」


 男二人のにらみ合いは、オミが折れて笑うことで収束する。彼もまた、風の主の生まれ石に手をかざし、瞳を閉じて集中しはじめた。

 ルカは自らの力の使い方などとてもではないが分からない。ただ、大幅に出たり、止まったり、ふらついたり、まったく安定しない波のような感覚をどうにか石の方向へと向けようと試みる。

 その力の方向を、左右から風の主とオミで誘導しているのだろうか。力を注ぎ始めてからしばらく、風の主の生まれ石の光が、大きく揺らめいたかと思うと安定するのを繰り返した。



「本当に。無駄が多い」


 呆れるようにして、赤薔薇が宣った。その隣で、石墨と呼ばれた妖魔も大きくため息を吐く。

 名を縛ったオミと風の主しか、この力に介入することが出来ないのかもしれない。赤薔薇はぼんやりとその様子を眺めていたし、石墨はさらさらと絹のような衣を引きずりつつ、バルコニーの方へと足を進めていった。


「無駄は多いが、戻ってきた様だの」


 本当に、とんでもないごり押しじゃ。と言葉を続けつつ、彼女は笑う。鈍色の瞳が夜の空へと注がれていて初めて、ルカは気がついた。


 部屋にふわふわ飛び交っていた星屑は、いつの間にか姿を消していた。夜が明けたわけでないのに、周囲が随分と明るい。星屑の代わりに輝いているのはーー外。

 艶々と、絹のような光が幾重にも重なって、まるで花弁のように揺らめいている。



「あ……」


 たった一夜。見えなかった花弁が現れてこんなにも心穏やかになる。新月の夜。暗がりだけが広がっていた空に、淡い輝きが灯り始める。そうして花弁が揺らめき出すと同時に、星祭の星屑は輝きを失い、地に落ちていった。



 ーー命が、大地に還る。


 夜咲き峰が持つ強い力が周囲に拡散し、力が世界を満たす。

 夜咲き峰の上から、地上へと真っ直ぐ落ちていく。かつて風の主の妖気で縛られていた世界を上書きしていくような感覚。その揺らめきのような膜が宵闇の、麓の村まで届いたであろうことをルカは直感で知るに至った。



「ふむ、終わったか」


 僅かに疲労の色を浮かべつつ、風の主が言葉を漏らす。

 しかし、今の状態では以前の夜咲き峰とは決定的に異なっている。ルカが行ったのは、この地に再び夜咲き峰の妖気を漂わせただけだ。

 


「でも。風様、結界が――」


 この地に力は満たされたが、結界がまだ溶けたままである。再構築の仕方も分からず、ルカは狼狽える。しかし、誰もが目を合わせ、首を横に振るばかりだった。


「結界の再構築は、簡単にできるものでもない」

「……それじゃあ」


 ルカは目を見開く。

 この閉鎖された妖魔の地が、今まで安穏とした刻を過ごしてきたのはすべて結界があったせいだ。人間社会との一切の交流を拒否し、彼らに立ち入る事を許さず、独自の文化を築いていった。

 この地から唯一、外の社会に出て行ったものは“ミリエラの種”のみ。そのたったひとつの種が、どれほどの騒動を起こしたのかくらい、ルカは知っている。そしてそのミリエラの種以上に価値の高い素材が、この近辺にはゴロゴロしていることくらい、当然気がついていた。


 ただでさえ、人化が進み妖気を満足に使えない妖魔たちの数も増えている。もし人間が入ってきたとして、本来の彼らの力を発揮できない大多数の妖魔が対抗できるのかというと、怪しい。

 自分の周囲にいる上級妖魔の力は甚大だ。

 彼らなら少々の軍隊程度なら軽く追い払えるだろうけれども、夜咲き峰のために行動することが必ずしも彼らの希望では無い。

 人間の階級社会とは全然別の社会を構築している彼らだ。個の力は、個のために使われるべきものである。


 同時に、ルカの与り知らぬところでもし妖魔の文化が流出したら、とも思う。例えば、ミリエラ以外の植物がひとつでも外に漏れ出たとしたら。そして漏れ出るとするならば、スパイフィラス領であることは容易に予測できる。


 ルカは知っている、この国の歴史の中で、大きな混乱を招く事態を起こす発端となったのは、いつもスパイフィラス領であったことを。




「……っ」


 そこまで考えを至らせて、冷や汗をかく。まだ、ぼやぼや出来る状態では無いのだ。

 慌ててレオンたちを差し向けたが、あちらの様子はどうなっているのだろう。

 最悪の事態に繋がっているのではないか、と頭が混乱するからこそ、一つ一つ冷静に対処せねばならない。


 ロディ・ルゥにも話を聞かなければならないだろう。

 ルカの予測が正しければ、今まさに、人間が結界内へと押し寄せてきている。しかし、何故だ。

 夜咲き峰はスパイフィラス領の東の端。人が寄りつくことのない未踏の地だ。なのに何故、この結界消えてすぐに、こんなに大勢の人間が入り込むことができるのだろう。結界が消えるまでに、すぐ近くで待っていたとでも言うのか。


 そして答えは簡単だ。結界が解けることを知っている者が居た。ロディ・ルゥたちの計画を知り、人間に伝えた者が居た。

 ロディ・ルゥに話を聞けば、背後関係は繋がるだろうか。

 いや、その前に。まずは人間たちを何とかせねばなるまい。まだ、人が入ってくるには早い、この夜咲き峰は。




「――風様、私はここを離れても良いのでしょうか?」

「……?」

「また、夜咲き峰から光が奪われたり、しないでしょうか?」


 風の主は、満月の峰から出ることが出来なかった。それはこの夜咲き峰の力を管理していたからに他ならない。

 ならば、風の主の生まれ石を媒体にしたルカも同じなのかもしれない。峰の管理を引きついだ今、風の主のようにこの峰から出ることが叶わなくなったのではと思う。

 ぶるりと体が震えた。後手後手に対処するばかりで、まったく意識が働いていない。この短い時間の中で、どれだけ取り返しのつかない大きな決断をしてしまったのだろうか。

 すべてルカの力不足。そして想定不足だ。


 震える体。足にはまったく力が入らず、相変わらずぐったりしている。

 そんなルカの腰に手を回していた風の主は、何を言うわけでも無かった。ただルカを抱え込み、バルコニーの方へと向かっていく。


 彼の私室のバルコニーへと出たのは初めてで、ルカは目を丸めた。こうやって抱え込まれて運ばれるのも、いつぶりだろう。

 わわ、と声を漏らしつつ、ルカは彼の肩へと手をまわす。


「風様、外に出ても――風様っ!?」


 彼の心配をする時間など、無かったらしい。

 次の瞬間、ルカはこの日何度目か分からなくなってしまった飛行を、あろうことか風の主に抱え込まれたまま体験してしまった。

夜咲き峰に、一部妖気が戻りました。


風の主がようやく峰の外へと飛び立ちます。

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