星祭の夜に(6)
風を切り裂くようにして、闇空へと浮遊する。森を抜け、峰の上へと向かって上昇していくと、星屑の灯りがどんどんと少なくなっていくのがわかる。森の生命の息吹が、天上までは届かない。
闇の中、ただ進む。オミも赤薔薇もしっかり見えてはいるのだろう。瞳には何もうつらないのに、確かに峰の頂上がある方向へと視線を向け、迷うことなく進んでいく。
「――つまり、皆が動けなくなったのは妖気が足りないから? “人化”とはまた違うのよ……ね? そして、その妖気を吸い取る媒体としての魔石を置いたのね、彼は」
「宵闇の子に散らせたから。場所が追いきれなかった」
飛びながら赤薔薇と情報を共有する。いつもは風の主以上に無表情を貼り付けた彼女だが、この時ばかりは少し瞳を揺らす。彼女の中で後悔や歯がゆさがあるのだろう。
小さく、悪い、という声が聞こえた気がした。オミが、おや、と表情をゆるめ、ルカも小首を傾げる。
「赤薔薇に何の非もないわよ?」
そう返すと、赤薔薇は僅かに狼狽したそぶりを見せる。そしてそのまま、当然だ。といつもの無表情に戻ってしまった。
上級妖魔のスピードで戻れば、夜咲き峰にまで時間はかからない。正面の満月の峰から中に入ると、そこでも星祭の現象が起こっていた。
峰を彩る水晶――月の雫たちが命を放出するかのように輝く。いつもならば彩りを持った月の雫は、このときばかりは無色の白の輝きへと彩りを変えていた。
正面の螺旋階段を突っ切るように浮遊する。オミに抱えられたまま頂上まで飛ぶと、やがて風の主の部屋だ。
魔力妖気の類いが感じ取れるようになったルカが、風の主の力を感じ取れない。胸が痛くて、自分の足で駆けつけられないもどかしさがある。
オミに、急いで、と告げたくて。でも出来なくて、彼の腕をぎゅっとにぎった。
それだけでルカの気持ちは通じたらしく、彼も珍しくいつもの胡散臭い笑顔を引っ込め、まっすぐに上を見つめる。そのまま、転がり入るようにして風の主の私室へとつっこんでいった。
普段ならば扉の結界が作動するはずである。しかし今日ばかりはするりと中に入り込めてしまった。
そして、ルカは息を呑んだ。
いつもと変わらぬ風の主の部屋。ただ、月の明かりが差し込むことは無く。部屋の中にまで星屑の瞬きが輝き、その部屋の中央――風の主の生まれ石は、完全に光を失いそして――地面に広がる縹。ゆったりとした髪が力を失い、流れている。まるで陶器のような肌はそのままに――いや、いつもよりも随分と白く感じて。いつも涼しげに前を見つめる、その瞳は閉じられたまま――。
視界の端、彼のごく近くに知らない者が佇んでいるのが目に入る。しかしそんなことは気にしていられない。ルカはオミの腕を離れて、真っ直ぐに風の主の元へと駆け寄った。
「……っ! 風様っ!!」
他の妖魔のように動かなくなっているのとは状況が違う。彼は、まるで気を失うかのようにしてその場に倒れている。
「やだっ……風様っ!!」
揺り動かすけれども起きる気配は無い。それでも、彼の名を呼ばずにはいられなかった。
どうして良いのか分からない。人間では無い。医師を呼ぶなど、専門の者もいなければ、ルカには対処法がわかり得ない。
どうしよう、と迷いの表情で、ルカはオミ達の方向を見た。しかしオミも赤薔薇も、風の主よりもルカの手前に立っている一人の人物の方に気をとられているようだ。
何事ぞ、とルカも視線を上げた。
そこには、一人の少女が佇んでいた。
鮮やかな朱色の着物――これもオミと同じく、ゲッショウの民族衣装に近い――を幾重にも重ねて。整えられた艶やかな黒髪を、後ろで丁寧に一つにまとめ上げ、鈍色の瞳は静かにルカを映している。小ぶりな唇は真っ赤な口紅で彩られており、幼い顔つきながら口の端を上げた彼女の表情は随分と色っぽいものに見えた。
「ようやく来おったか。人間の娘」
「……貴女は」
この状況で冷静に入られる彼女のことがわからない。その恐怖からか、目の前の風の主のことで頭がいっぱいだからか、ルカは風の主の手をぎゅっと握りしめた。
体温があるらしく、僅かに温かい。
大丈夫、生きてる。と心の奥底で、自分に言い聞かせる。
「石墨」
ルカの質問に答えたのは赤薔薇だった。じいと、石墨と呼ばれた少女を見据えたまま、前に歩み出す。
「緊急事態」
「ああ、わかっておる。でないと、わざわざ起きては来ぬ」
ふああ、と安穏とした様子で大あくびをして、眦から溢れた涙の粒を拭き取る。
「待ちくたびれた。妾の力で押さえ込むのも限界での。ほれ、小娘。はよう代われ」
「え?」
「妾はまだ眠いのじゃ。ここで風に倒れられてはかなわん。変な役目を背負いたくないでの。ほれ、はよう代われ」
そう言って石墨は再度ふああ、と大きなあくびをする。袖でそれを覆い隠しはしているが、この非常事態にあまり興味が無いのだろう。風の主が倒れている事実さえも、自分の睡眠を妨げる要因程度にしか感じていないようだ。
「代わるって……何を」
ルカは問うた。
先ほど、宵闇で赤薔薇も告げていた。はやく風の主の元へ行けと。同時に、他の者たちに反対もされていた。
ちらりと、石墨の瞳を見る。その後、赤薔薇の瞳も。
赤薔薇は言葉が足りない。彼女の考えている事は、おおよそのことしかルカにはわかり得ない。しかし――
「代われば、風様は助かるの?」
「さての。其方の力次第じゃ。知ったことではない」
よほど興味が無いのだろう。実に冷ややかな瞳でルカを見下ろしては、手をかざす。
「さりとて、もう契約は交わしておるようじゃし、大丈夫じゃろう。名を呼んでやると良い」
「え?」
「意味はわかるであろう? ほれ、後ろの輩も、早う教えてやらんか」
「後ろの呼ばわりは、酷いなあ……」
石墨が指したのはオミだった。彼を名指ししただけで“名を呼ぶ”の意味が瞬時に分かる。
「……待って。まさか――」
目を見開いて、ルカは風の主の顔を見た。
色を失った白い肌に、僅かに苦しそうに眉が寄っている。妖気不足を起こした妖魔とは明らかに違う彼の様子に、ルカは息を呑んだ。
「名を呼べって、そんな」
ルカは首をふる。
脳裏に浮かぶのは、オミ。そしてロディ・ルゥ。彼らと同じように、真名で存在を縛れとでも言うのだろうか。
「そんなの、嫌よ」
だからルカは首を横に振った。何度も、何度も振った。
元々ルカのことを見守り続けてきたオミ、逆にルカに害をなし、夜咲き峰を乗っ取ろうとすらしたロディ・ルゥとは意味が違う。
風の主を、彼の意思を無視して、名前で縛ることなどルカには出来ない。
そもそも、彼はルカの婚約者だ。彼には、余計な枷など関係なく、ルカを見つめて欲しい。
ロディ・ルゥを見れば明らかだが、名を縛ることによって、縛った相手に対して明らかに感情の在りようが代わってしまうことが恐ろしい。
そのようなもので、風の主の感情をコントロールしたくないのだ。
「何故だ、小娘」
「風様の意思を踏みにじる事なんて、出来ない……!」
「何を言うか。もう、意思は届いておろう?」
「え?」
「とうに其方の生まれ石に名を捧げているではないか、その男は」
「……?」
石墨が何の話をしているのかまったく理解が出来なかった。ルカの生まれ石? 昔に名を捧げた? まったく思い当たりの無い出来事に訝しげな様子で、ルカは風の主の方を見やる。
「――ルカ。石墨の言っていることは本当だよ」
「え?」
「風が君のレイルピリアを加工できたのは何故だと思っているの?」
「レイルピリア……え?」
思いがけない単語に、今度は自分の左手を見た。薬指に輝く石。中央のレイルピリアと、その周囲を彩る風の主による生まれ石の欠片。この指輪――琥珀には加工が出来なくて――いや、触れることすら嫌がって。一方で風の主は、この石に触れ、指輪に作り上げた。
当時の記憶が蘇る。彼は苦しみながらも何かを呟き、それで触れることを可能にしていた。てっきり、大きな力を秘めた石だからこそ、この峰の筆頭である彼にしか御せなかった――的な事だと思っていたのだが。
「風はもう、君に逆らわないと誓っている。後は君が受け入れるだけだ」
「でも……」
「白雪のように名を縛るのとは意味が違うよ。もともと僕たちは、君のものなんだ」
「だからって……どうして、私なんかに」
鷹の意思を聞いた時も戸惑った。風の主に対してはもっとだ。鷹はルカではない別の者との約束だと言った。しかし風の主は――本当に、ルカの為にすでに契約を交わしたのだという。
彼と出会ってこの短い期間。未だに掴みきれない風の主。そんな彼が、そこまで自分に命をかけられる意味がわからない。
「うん、白雪とは訳がちがうよ。同じになんてして欲しくない。――ほら、僕は何か変わったかい?」
オミが訊ねるものだから、ルカは彼の顔をじいと見つめた。
まるで変態にしか見えなかった目隠しをとった以外に、彼に変わった所なんて無い。久しぶりにその鬱陶しさを感じたわけだが、それは名前を呼ぶ以前から同じ態度だった。
ふるふると首を横に振りながら、ルカは少しだけ笑った。
「……オミと比べること自体に抵抗があるけど」
「今ちょっと傷ついたかな」
あはは、とあっけらと笑って、オミは頬を掻く。すぐにルカは視線を外して、風の主の方へ向き直った。彼の手を両手で握りしめる。そうして、風様、と呼びかけると、僅かにその指に力がこもった気がした。
――私は本当に不甲斐ない。でも……
――名を呼ぶことで、風様が助かるのだとしたら。
オミが頷く。
横に立つ、赤薔薇も。
石墨の言に信は置けないが、彼らのことなら信じられる。
ルカは口の端を上げて、風の主に向き直った。
「……風様。ごめんなさい」
そうして、瞳を閉じた。
じいと、彼の気を探るようにして思念の波へと溺れてゆく。
レイルピリアの力を借りると、その石がルカの思念を誘導してくれるような気がした。
深い深い、縹色の空間は、何を抵抗するわけでも無く、ただルカを受け入れてくれる。
深く緑茂る先――蒼穹の丘。思念の中歩みを進めると、その向こうに世界が広がる。
街も、人も何も無い。ただ、草木が息吹き、風そよぐ。
高速で過ぎ去る時間を体感するような気がして。空は赤みを帯び、やがて月が輝く。大きな満月下、輝く花弁に彩られた夜咲き峰――。
ああ、これが、彼の世界。
人も妖魔も誰も居ない。ただ、世界と月があるだけの世界。
そこに足を踏み入れて、居てはいけない人間である自分を、風は優しく迎え入れてくれる。
そうして風が、ルカの月白の髪を掬い、通り抜ける。導く先。爽やかで、緩やかな心地がルカの胸の奥へと届く。ふわりと頬に触れ、いつものように腰に手を回される感覚。
――風様、どうか、ご無事で。
そうして、ルカは、目を開く。
「……エリューティオ様」
風の主以外誰にも届かないような僅かな声で、彼の名前を呼びながら。
石墨もまた、夜咲き峰の妖魔です。
ルカが名を呼ぶことで、
皆との関わりが、良くも悪くも変化しはじめます。




