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夜咲き峰の人々  作者: 三茶 久
第一章 風の主の婚約者
57/121

ブラッディ・ローズ

 空気がざわめいているのを感じていた。チリチリと肌に痛みを伴う。大鎌を軽々と振りかざし、赤薔薇は一心に攻撃を続けていた。

 まるで飛散するかの様に、妖気が周囲に飛び散る。己の体に留めておく、その当たり前のことが上手くいかない。何かに吸い取られる様な心地がして、赤薔薇は舌打ちした。


 周囲はすっかり薄暗くなっていて、なぜか光の屑のようなものが浮遊している。その光の正体はよく分からないが、まるで妖気の欠片のようで、命を燃やす行為に似ている気がした。


 ――風。間に合わなかったか。


 ちらりと峰の上の方へと視線を向けると、そこには不自然なほど漆黒の空が浮かんでいるだけである。月も無く光の花弁も無い。夜咲き峰の姿はすっかりと闇に溶け込んでしまっている。

 未だかつて見たことの無い現象。下弦の者たちは、この異常事態に狼狽しかできない。


 しかし、相手はそんな隙すら与えてはくれなかった。

 ひっきりなしに繰り出される攻勢を防ぐのが精一杯。一刻も早くルカの元へと向かいたいのに。



 ーー余計な事を。


 隣で戦っている狼が憎らしい。まんまと上弦の言に乗せられて、妖気を吸収する結界を作り上げているとは。白雪の企みを暴こうと首根っこ掴んで連れてきたのに、白雪は消え、狼は何故か今は同じ方向を向いて戦っている。


 足手まといにだけはなってないからいいけれど。と心のなかで吐きつつ、赤薔薇は前を見据えた。蜘蛛と黒犀。二人を同時に相手をするのは流石に骨が折れる。しかも、どういうことか相手の妖気は以前感じたものと比べると遥かに大きくなっている。

 宵闇の村の異変。消えた花弁。浮かび上がる光の屑。削り出される妖気。そして、彼らの力の増長。全てが無関係とは到底思えない。




 周囲の戦況は芳しくない。琥珀と玻璃は互角としても、問題は花梨とレオン。いくら何でも、人間が妖魔に敵うはずもない。

 ちらりと視線を向けると、白鷺の攻勢に逃げるので精一杯なようだ。レオンの魔術具で相手の動きを阻害し、遅れた速度でようやく花梨の防御が間に合う。少しでも気を緩めたら、あの二人ーー特にレオンは、一瞬で終わりだ。

 しかし、あくまで足止めのつもりなのだろうか。白鷺は本気を出していないように思える。特にレオンへの攻撃は緩やかで、彼が表情を顰めるのを楽しんでいるようだった。


 ーー悪趣味。でもーー


 万一、レオンに何かあっても、ルカは悲しむだろう。そこまで考えて、赤薔薇は戸惑った。

 自分が、自分以外の誰かの事を考えるのはいつぶりだろう。



 そうやって掘り起こすのは、遠い遠い、昔の記憶。かつて赤薔薇にも、親にあたる者がいた事は確かだ。

 ただ、あまりに永い時を、ただ揺蕩う様にして過ごしていたから、覚えてはいないけれども。

 しかし、漠然とその人――自分に命を与えてくれた者の事を考えると、胸がじわりとする。そして、ルカを見るとその感覚が呼び起こされるような気がして、いつも戸惑っていた。


 ――影響されてる。でも。悪くない。


 くすりと笑って、赤薔薇は大鎌を振り回した。空気を切り裂く刃が四方に飛び出し、それを黒犀が防ぐ。彼の出した大盾は万能で、大概の攻撃を受け止めてしまうからやりきれない。

 蜘蛛もそんな彼の後ろにぴったりと張り付きながら、こちらの動きを阻害してくる。



「やっぱり赤薔薇は赤薔薇ですなァ〜。黒犀ぃ〜吹き飛ばせないのん?」

「細っこい体の割に、びくともしないぞ、アイツは!」

「お前が自慢げに言うなっ。となるとぉ〜……狼? アンタから行く?」


 蜘蛛の視線が赤薔薇から狼へとうつる。流石に狼も二人に視線を向けられては、びくりと体を震わせている。冷静に考えて、一人でも相手が難しそうなのに、二人同時に攻撃されると避けようはないだろう。


 じり、と狼は身構えながら、半身を後ろにずらす。しかし、二人に集中したからこそ狼は対応が遅れた。横から飛び出してきた薊に、懐に入り込まれたのである。


「っ! 薊っ!」

「……!」


 黒い棘のようなものを無数に生み出し、薊は狼を攻撃する。一見その力は強くは無いが、このギリギリの状態で一人敵が増えると言うことはそれだけで厄介だ。それに、狼は薊に反撃するのに抵抗すら持っていそうで。


 薊に気をとられている狼の元に、黒犀が向かう。彼の一撃は重い。不意にくらったらタダですむはずが無い。

 守るのは些か不本意だが、赤薔薇は彼の元へ飛んだ。しかし、そう簡単にはさせてくれないらしい。

 斜め後ろに妖気の気配が揺れる。ふわり、と糸が張り詰め、触れてはならぬと直感が告げる。大鎌を一瞬消して糸の間をくぐり抜けるが、その一瞬の対応で狼への援護が遅れる。


「……うぐぁっ!!」


 次の瞬間、ダンッ! と地面を割るかのような震動と、狼の悲鳴が聞こえてきた。

 目の前で、黒犀の重たい一撃を喰らった狼が散る。はるか後方へ吹き飛ばされ、大木に背中をぶつけた。ずるりと。青い血が溢れる。呻きながら腹を押さえるが、どうにも立てる状態でも無いらしい。


「うっ……」


 狼一人が沈むと、一気に均衡が崩れる。薊と黒犀、蜘蛛。三人を相手せねばならぬかと思ったが、蜘蛛が向かったのは赤薔薇の元では無かった。




「ういっしょー!」


 玻璃と真っ向から向き合う琥珀に、横殴りするかのように糸を飛ばす。とっさに琥珀は避けたけれども、その糸は斬糸の属性を持っているらしい。琥珀の服を切り裂いて、蜘蛛はにまりと笑う。


 もちろん赤薔薇だってそちらの戦いに気をとられているわけにはいかない。隠した大鎌をまた出現させ、黒犀と向き合った。


「っしゃあああ! 赤薔薇、俺とサシで勝負しろっ!」

「サシ? 今更?」

「っるせっ! うし、俺の力で、下弦も乗っ取ってやる!」

「……!」


 赤薔薇は表情を歪めた。何勘違いを口にしているのだろうこの男は。

 赤薔薇が下弦を手放すはずなど無い。死んでも、ない。


 赤薔薇は託されたのだ。かつて。風の主と同じように。遠い記憶――彼女を生み出した者に。


「不愉快」


 吐き出して、赤薔薇は自分の周囲に妖気を集めた。

 彼女の妖気は姿を変え、やがて赤い薔薇の花びらとなって周囲を舞う。ぐるぐると彼女の周囲を花弁が取り囲み、渦を巻いた。彼女がかつて“血薔薇の死神”――ブラッディ・ローズと呼ばれたように。

 その無数の薔薇に姿を隠すようにして、赤薔薇は空気中に溶け込む。ただの妖気。本来在るべき薔薇の姿へと形を変え、彼女は飛散した。


 妖魔の中でも生粋の上級妖魔の力の持ち主である彼女にとって、人や、他の妖魔と同じ姿をとると言うことにこだわりは無い。赤薔薇は赤薔薇。その造形は、彼女を構成するあくまでも一つの要素でしかない。

 大気に身を溶かし、草木に同化し、彼女は命の間を渡り歩く。


 今日のこの光の屑――ああ、星祭と言うのか――は、月が見えなくて不安になる草木の悲鳴であることを赤薔薇は知った。

 夜咲き峰の結界がとけ、花弁の光による妖光もない。月の代わりとなるものが消えてしまったせいで、草木が不安がっているからこそ、自らの妖気を月へと捧げる。

 なるほど、そういうことかと赤薔薇は思う。


 新月の夜。この星祭が起こっているのは、夜咲き峰が放出する妖気の光すら失われたから。

 かくも美しい現象を、この様な状況下で見るとは、実に残念。そう思いながら、赤薔薇は空間を移動する。するりと黒犀の背後へ移動し、薔薇の花弁が黒犀を襲う。


 黒犀はとっさの判断で大盾を用意し、それらをなんとか凌ぐが、あくまでも目くらまし。今度は赤薔薇自身が空気中に姿を現し、大鎌でもって切り裂く。奴の全てを刈り取ることは無理だったが、それでも脇腹を一閃に薙ぎ、青い血が空中に飛び散った。


「……ぐっ……!」


 とっさの判断でなんとか致命傷を避けたものの、黒犀のダメージは大きいらしい。彼の纏う黒の重たい鎧をも切り裂いたその大鎌。赤薔薇の妖力の結晶とも言えるそれは、黒犀の予想以上に強い力を秘めていたのだろう。


「なるほど」


 強い、と赤薔薇は思う。上弦の峰で純粋に力比べをするならば、白雪は別格としても、黒犀がその次に立つのだろう。大盾は赤薔薇の大鎌を持ってしても切り裂けないし、今だって妖気の薄い場所を狙ってようやくだった。奴を完全に切り裂くためには、もっと妖気の低下をはからねば不可能かもしれない。


 厄介な、と赤薔薇は思う。

 赤薔薇が削り取る以上に、彼らがどこかから妖気を集めている。そう思えてならない。

 その証拠に、黒犀が纏っている鎧は、みるみるうちに破損を修復していった。




 赤薔薇ですら黒犀とほぼ互角。その状態で、他の者がまともに勝負できるはずが無い。


「――くっ!」

「きゃっ!」


 蜘蛛と玻璃、二人相手になった琥珀が。

 レオンと協力しているものの、白鷺に一撃を貰った花梨が。

 それぞれ表情を歪めて苦痛を露わにしている。


「花梨様!」


 レオンも花梨を助けに前に進むが、所詮白鷺の相手ではない。軽く腕を捻られて、ねじ伏せられる。


「貴方の命を刈ってはならぬと、白雪様の命令なのです」


 そしてレオンにそう告げた。レオンの美しい白い肌が地面に押しつけられる。土にまみれた表情で、しかし気高く白鷺を睨み付ける彼に、白鷺もほう、と目を細めた。


「白雪様は、彼女を悪いようにはしませんよ?」

「……やはりお嬢様を……何故っ!!」

「さあ、私が知るべくもありません。ただ、彼女は白雪様の獲物。獲物の僕なる君も確保せよと仰いました」

「貴様っ!」

「足掻くだけ無駄です。所詮は人間。私たちの足元にも及びません」


 消そうと思えば、一瞬で出来ます。そう宣って、白鷺は彼の頬に触れる。つう……と細い線とともに血が流れ落ち、その血の赤に、自分たちと彼が別の存在であることを自覚した。




 周囲の状況を確認し、赤薔薇は心がざわめく。

 狼、琥珀、花梨、そしてレオン。まるで上弦の者には歯が立たない。ルカを追うどころでは無くこの場をどう凌ぐか。そればかりを気にするようになって、赤薔薇は戸惑う。


 ――皆を。助けたいと。私が?


 世界は、己とその他で成り立っていた。その他の者たちは、自分の邪魔で無い限りは好きに生きれば良い。とくに接触することも無かったし、彼らに対してどうこう思うことも無かった。

 下弦の峰の者も、自らの峰を浸食するような真似さえしなければ、好きに生きれば良いと思っていた。

 ルカと出会うまでは。


 ――少し。気が向いただけ。そう思ってた。


 けれど違ったらしい。

 彼らと共に過ごす時間が増え、趣味趣向が増え、彼らを認める事も増えた。


 ――個。認識。こういうこと?


 琥珀は無邪気で自由奔放。彼は繊細な妖気を操るのが得意で、細工物などを作らせたら右に出る者は居ないだろう。赤薔薇とて美しいものは嫌いでは無い。彼とルカに用立ててもらった皆月のペンダントは、今でも大切に身につけている。


 花梨は気高く美しい。己が美しくあることに最大限の力を発揮し、女性として、妖魔としての魅力を引き出し続ける。かつて赤薔薇も彼女にドレスを用立ててもらった。こだわりの深紅のドレス以外に、気に入るものができるとは思わなかった。


 鴉は、ただ羨ましい。あそこまで、好きなものに一途になれる――恋慕という感情を――妖魔ながらに強く持てることが意外でならなかった。誰よりも早く、人間に歩み寄るのは彼なのかもしれない。


 今まで個としてみていなかった下弦の皆が、こうまで差がある妖魔たちだとは思わなかった。ここに、ルカやレオン、菫や鷹までもが加わって、あまりに賑やかな日々。

 それが赤薔薇にとって、いつのまにか大切な日常になっていたことを知った。


 現に、上弦の者たちが攻撃を仕掛けてきた頃から――下弦の皆は神経を尖らせていて、それが非常につまらなかったのを覚えている。一刻も早く以前の生活に戻りたくて、奔走した。


 結局は間に合わなかったけれども。



「下弦の者に手を触れるな。許さない」


 濃い深紅の瞳を益々闇色に染めて、赤薔薇は宣った。まるで透き通るかのような細い声なのに、空気を貫くようにして皆の耳に届く。冷え冷えとした彼女の表情に、上弦の皆はぴり、と空気を尖らせる。

 一方で、下弦の者たちは誰もが意外そうに赤薔薇を見た。何に対しても関心を示さない彼女が、皆のために怒っている。その事実が信じられなくて、瞳をふるわせる。



 赤薔薇は自らの妖気を空気中に飛散させる。それは再び薔薇の花弁となり、周囲を赤く染める。

 星祭の星屑が赤を淡く彩り、まるで喜ぶように輝きを増す。瞬間、上弦の妖魔たちがとっさに彼女の方向を見た。

 まずい、そう感じてか、目の前で倒れている下弦の妖魔たちを一旦捨て置き、一気に赤薔薇へと詰め寄る。

 最初は黒犀が。次に蜘蛛、玻璃、白鷺。外から薊が全方向の動きを確認しつつ。一斉に全員に対して赤薔薇ひとりが対抗することとなり、琥珀たちは目を剥いた。


「赤薔薇、無茶だ!」


 そう告げて加勢しようとするも、琥珀の体は満足に動かない。花梨だって同じだし、狼に至っては意識が無い。レオンだけが加勢できる状態だが、人間の彼にあの戦闘を援護することなど、ほぼ不可能だった。悔しそうに歯がみして、ただ、空中を見上げる。



 四方からの攻撃を薔薇の花弁でいなしていく。花びら一つ一つがまるで意思を持ったかのように舞い踊るかのように動く。それが厄介らしく、四人の攻撃を分散させて赤薔薇は対応していった。

 もちろんこれでどうにかなるとは思えない。しかし、赤薔薇自身も何故だか、こうしないと気が済まない。自分の力で敵を引きつけられるなら、喜んで引き受けよう。


「逃げろ!」


 そして赤薔薇は叫ぶ。

 声を荒げることなど、いつぶりだろう。

 彼女の発した怒鳴り声のような言葉に、皆反応するが体が動かない。歯ぎしりしながら、何も出来ない自分を悔やみ、この状況を打破する方法が見つからず、思考は停止した。





 その時だった。

 森の一族の村――転移の陣のほど近くに、一つの大きな柱が立った。

 周囲が白に包まれて、眩しさのあまり誰もが目を閉じる。赤薔薇の心の中にも沸き立つようなざわめきが起きて、顔を上げた。

 上弦の者たちも何が起こったか分からず、まるで固まったかのように動かない。ただ、明らかに平常心を失った様子で、口を開けていた。


 赤薔薇はふと、胸元に目をやる。熱い何かがそこにあるから。


「皆月――」


 そうだ。

 ルカに、琥珀に。遅れながら用意して貰った皆月のペンダント。その小さな粒がまばゆいばかりの閃光を放ち、つい見とれる。それは赤薔薇のものだけでなく、下弦の皆も胸元からそのペンダントを取り出しては目を剥いた。


 そして次の瞬間、そのペンダントに、強い妖気が通うのを感じた。



 キラキラと。星屑たちは歓喜の光を浮かばせる。

 宵闇に立った光の柱。あまりの美しさに目を奪われ、皆月から感じられる妖気に驚き、戸惑って。

 しかし見とれている暇はないと上弦の皆に目を向けた時、あまりの光景に、赤薔薇は目を瞠った。



 黒犀。蜘蛛。玻璃。白鷺――そして薊。


 その誰もが例外なく、たっぷりと涙を、その瞳から流していた。


赤薔薇の特に動くことのなかった心に、温もりが生まれてきました。


次回、ルカが皆と合流します。

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