星祭の夜に(2)
「……ルカ、下がって……いろ」
鴉が険しい表情のまま、ルカの手を放した。先ほどまで抱きしめて放す様子など無かったというのに、そのままだと白雪には対抗できないのだろう。
鴉を挟んで向こう。白雪は柔らかな表情をしたまま、ルカを見つめている。射竦められるような心地がして、ルカはじりと後ろに下がった。
鼓動が早まるのがわかる。白雪の、のっぺりとした何の印象も無い顔。そんな表面上の彼では無くて、白雪の本質に惹かれるような。無個性という殻を被った強烈な存在感。まるで魂のようなものにぐいと引きつけられ、呼吸が早まる。
そのようなルカの変化に気がついているのかいないのか。鴉は焦ったかの表情を浮かべつつ、空気中から二本の刀を取り出す。黒く鈍く輝く刀身が印象的な、飾り気の無い無骨なそれ。キラキラしたものを好む彼の趣味とは思えなかったが、彼の本質に一番近い気がする。
「鴉? 君程度が私の相手になるとでも?」
「だまれっ」
その白雪のセリフに、ルカの額にも汗が浮かぶ。
直感的に、下弦の峰の筆頭である赤薔薇と、鴉の実力は近いのだと思っていた。だからこそ、上弦の峰の筆頭白雪にも対抗できるのでは、と。
しかし今の鴉の表情を見ると、それが思い違いであったことを思い知る。普段、ギロリとした三白眼の彼が、その目を細めて、いつも以上に険しい顔になっていることが分かる。
そして武器の構えも強ばっているようで、余裕の類いがまったく見られない。
「鴉! 無茶しないで!」
無責任な言葉だと思っている。けれど、告げずにはいられなかった。
ルカは、一人では何も出来ない。今だって、こうやって護ってもらうばかりで、彼に対して何も出来ていない。だからこそ、彼だけに強大な敵に立ち向かわせるのは、胸が痛い。
「下がってろっ!」
しかし、当然ながら鴉も首を縦に振らない。ルカの方へ視線を向けることすらせず、ただただ白雪を睨み付ける。
ふォん――と、彼の周りの重力が軽くなったかのように、黒い妖気の塊のようなものが彼の全身を包む。鋼のような髪が靡き、翼が広がる。そして白雪に狙いを定めたかと思うと、真っ直ぐに飛び出した。
「ふん、来るんだ?」
白雪も、足を動かすのでは無く、妖気のようなもので体を浮かせながら移動する。すう、と音も無く、地面の上を滑るようにして少し後ろに下がった。
「ふっ……!」
そこからはルカにはもはや分かるべくもない戦いだった。
鴉の二本の刀を、どういうわけか白雪は指で掴むようにいなしていく。鴉が黒の妖気を粒のようにまき散らす一方で、白雪は、自らが踏んだ草花をまるで灰のように崩しては、粉雪のごとく周囲に拡散していく。
そうして彼がステップを踏んだ場所から順に、銀世界が広がってゆく。
星屑が輝く。てらてらとした灯りが、灰のような、粉雪のようなそれに反射して、幻想的な世界が広がった。
深い緑の樹海がたちまち銀一色に変わり、ルカは息を呑む。何故だろうか、自分を取り巻く空気が酷く甘い香りを放っている。
「ちっ……!」
鴉の表情が歪む。肩で息をし、実に憎々しげに白雪を睨み付けた。
「面倒な」
この短期間で相当体力を削られたらしい。むしろ、鴉の体力をここまで削るなんて、白雪は一体どんな技を使ったのだろうか。
ふォん、と、再び鴉は自分の周囲に黒い妖気を飛ばした。そこから巻き起こる風のような渦に、銀の粉が吹き飛ばされる。そうして幾ばくか顔色を良くした鴉だが、その余裕は長くは続かない。
今度は白雪の方から、鴉へと迫っていたのだから。
「君もずっと邪魔だったんだ! ルカに纏わり付いてね!」
「俺が決めたんだ! 俺の、妖魔たる所以として……!」
「妖魔たる所以、だって――?」
鴉の言葉に、白雪が醜く表情を変える。よほど気に障ったのだろう。そうして鴉の懐に入ったかと思うと、刀を持つ右腕を掴み取った。
「……んっ!?」
瞬間、それを強く捻ると、鴉から悲鳴のような声が漏れる。小さな瞳の目を大きく見開く。ぷるぷると瞳が揺れるが、何とか耐えているらしい。鴉はもう一方の手に持つ刀で抵抗しようとしたが、そちらの腕も掴み取られた。
「――妖魔たる所以、君程度の妖魔が使える言葉だとでも思っているのかい?」
「うぐ……ぁ……っ!!」
凡庸な顔。何の特徴も無い顔。そんな白雪が憎悪で塗りつぶされたような表情を浮かべて、鴉を捻り上げた。悲鳴のような声を響かせながら、鴉は両の刀を取り落とす。地面にこぼれ落ちるかという瞬間に、その二本の刀は空気中に姿を消していった。
「鴉っ!」
「逃げろ、ルカ……!」
鴉は逃げろと言うけれど、まるで張り付いたようにしてその場から動けない。白雪の一挙一動に目が奪われて、心臓が痛くなる。
「君も知っての通り、この峰の妖気は減少している」
ルカが逃げられないことを知ってか、白雪はゆったりとした様子で話し始めた。その間も、ぎりぎりと鴉の腕を締め上げ――まるで彼の妖気を直接縛り付けるかのように鴉を苦しめる。
「峰全体が保有する妖気自体が、低くなっているんだ。放っておくと、妖魔は全員共倒れ。だからこそ、君も派遣されてきたのだろう?」
「……知ってたのね」
「“人化”? ああ、そうだね。そんなくだらないものを受け入れる馬鹿な筆頭妖魔もいるみたいだから」
「……」
ぽたり、と汗がこぼれ落ちた。
銀色の世界に白雪とルカ。鴉の存在が消え去るように、ルカには白雪の存在だけが大きく見える。
何も無いのっぺりとしたその顔が、星祭の星屑に照らされ、やけに美しく見える気がした。
「でも、私は、そんなものはまっぴらごめんだ。私の、妖魔たる矜持でもって――誰をも犠牲にしても、その妖気を奪ったとしても、私は妖魔で在り続ける――!」
「……!」
白雪の周囲に、光の粒が輝く。瞬間、鴉が悲鳴にならない悲鳴をあげた。その苦しげな表情が耐えられなくて、ルカは手を伸ばそうとする。しかし、体がびくとも動かなくて、心臓だけが大きく鼓動した。
鴉の体から無数の黒い粒のようなものが引き出される。それらはどれも、鋭利で細やかな石の粒のようで、先ほどの刀の色によく似ていた。
「ルカにも護衛が必要だから。……鴉。君は残してあげようと思っていたのにね」
「……やめろ……っ」
苦しげに、鴉が声を吐き出す。膝をついて、目を開けることすら億劫なのに、意識をどうにか保っているような。全身からまるで力を引き抜かれたかのように、くたりと白雪に寄りかかる。
「本当に、残念だ。彼女に懸想する君を許すことなんて出来ないんだ」
「け……そう……?」
ルカは目を丸める。思いがけない言葉に、心臓を抉られる心地がした。
白雪に寄りかかっていた鴉にはもう、立ち上がる力も、声を出す力すらも無いように見えた。ただ、その瞳には明らかな憎悪を浮かべ、彼を睨み付けている。
鴉の体から飛び出した黒の粒。白雪は手をかざし、それをいとも簡単にかき集めた。そして、彼がもつ透明な石の中へ、力を吸収するかのように吸い込んでゆく。
丸く大きな石はやがて黒に染まっていき、鈍い光を発していた。
「ふぅん――やっぱり黒か。ほんと、勿体ない。私の駒に相応しかったのに」
「鴉に何をしたのっ!?」
「何って? 邪魔する者の妖気をちょっと拝借しただけ。実に妖魔らしい思考回路の結果だと思うよ、私も」
すぅ、と薄い笑みを浮かべて、白雪は言い放った。
「君を想う者、君が想う者なんて、私一人で十分だからね?」
瞬間。
ルカの胸が熱く高鳴った。その急激な変化に、ひっ、と声が漏れる。
鴉の手を放して、一歩一歩近づいてくる白雪から目が離せない。
周囲の銀世界は、星屑の光に照らされ、まばゆくルカを取り囲む。それと同時に、むせるような甘い香りを感じた。
くらくらと脳が働かなくなって、呼吸が浅くなる。
彼の後ろに倒れている鴉に視線を送った。地面にひれ伏せるようにして倒れている鴉は、動ける状態ではない。苦しそうに表情を歪めて、ルカに手を差し出しているが、届きはしない。
ルカだって、助けてと声に出したくても、出てこない。頭の中が白雪で満たされる心地がして、恐怖した。
「君は私の物になるんだ」
「私は……ただの……人間なのにっ……」
「――ただの人間が、こんな所に送られてくるものか」
「……っ」
怖い。
ルカは首を横に振った。
白雪の存在も、怖い。
彼を見て高鳴る心も、怖い。
そして彼が持つ、ルカ自身の事実を知るのも、怖い。
足よ、どうにか動け。とルカは思う。段々と迫ってくる彼に対して、抵抗どころか逃げることすら出来ない。
彼が近づくたびに、恐怖と同じくらい、耽美で蕩けるような感情に支配される。問答無用で引き起こされるこの感情は何だ。彼をとりまく銀の世界に漂う、花のような芳香が邪魔でならない。
「うっ……」
やがて腕を縛り上げられて、でも抵抗すら出来ずに、白雪を見上げた。
「わからない、といった顔をしているね? ーー君は、知らなければいけないのに」
「……」
「私と同じものを見て、同じものを考えて? 私は、唯一無二の妖魔の王となる」
「筆頭……ではなくて?」
「夜咲き峰の? こんな峰、もう必要ないだろう?」
「……」
「妖魔の、妖魔たる所以は住まう場所に非ず。私の眷属が、かつて妖魔だった時に言っていた。私の言葉でないのに、こればかりは的を得ていると思うね。誰かのように、夜咲き峰に縛られて生きるのは真っ平さ!」
ずきりと心が痛む。
誰かのように。その言葉に、あの涼しげな瞳が脳裏に浮かぶ。
縹色の影。満月の峰から出ることを許されず、ただただ時を過ごし続けた孤高の妖魔。
でも、あの人の手も温かいことを、ルカは知っている。だからこそ、あの人一人を犠牲にして成り立っている夜咲き峰の結界に疑問を覚えないかと言うと、嘘になる。
しかし、白雪の言葉は極論だ。
全体の妖気が落ちてきた? その中で妖魔であり続けるために、この男は何をしているのだ。
「宵闇の病はーー」
予測が、確信に変わる。
「貴方自身が妖魔であり続けるために、彼らを犠牲にしたと言うのーー?」
「もともとは自然現象さ。ただ、僕はそれを加速させただけ。君と風、二人が動けない間にね」
「なんてことを……」
「やだなあ。僕の眷属にも妖気は回してるよ? 駒がいないと、王とは呼べないしね」
「そんな問題じゃないでしょうっ! 貴方たちのために、一体どれだけの妖魔が倒れたと……!」
「それがどうかしたのかい?」
ふう、と。白雪は涼しげに息を吐いた。微塵にも気に留めてない。そんな目をして、あっさりと言い放つ。
「ルカ。君も忘れちゃ駄目だよ。私は妖魔だ。妖魔たる矜持を持って、他の者に気を取られたりなどしない」
「そんな……」
「そして、君にもそうあって欲しい。私のものとして。私以外の者にーー気をとられるのは、許さない」
自信に満ちた表情で、白雪はルカを見た。自分の選択を信じて疑わない。潔癖とも言える妄信ぶりに鳥肌が立つ。
「だからほら、はやく私のものになりなよ、ルカ」
「いやだ……っ」
首を横に振る。
しかし、抱きすくめられ、彼の存在に直接触れると、更に自分の脳裏が侵されていく感覚がした。
ふわりと漂う芳香が強くなる。白雪の体からますます強い匂いが漂い、くらくらした。まるで夢のように、温かくて、蕩けるような感覚。ぼやんと神経が麻痺していき、やがて彼のことしか見えなくなるような。
必死で頭を振る。
違う。この蕩けるような、痺れるような想いを彼に向けたくない。
最近ようやくわかり始めた、淡い想いを、こんな感情で塗りつぶさないで欲しい。
いやいや、と首を横に振るけれども、ルカの頬に触れてくる白雪の手がくすぐったくて、心が震える。
強制的に呼び起こされる恋慕に似た感情に抵抗したくて、ルカは皆の名を呼んだ。心の中で、強く。
白雪一色に塗りつぶされていく心を、皆の顔を思い出してどうにか堰きとめる。そう、ルカには、大切なものがこんなにもたくさんあるのだ。
一人では何もできない自分の側で、一緒に環境を作り、未来を描いた仲間たちが。
それが全て真っ白にされそうで、怖い。
――でも、決めたんだ。
さっきだって、鴉と約束したのだ。星祭を、一緒に見ようって。来年も、再来年も、ずっと、ずっと――。
なのにどうして、こんなにも、白雪に心を揺さぶられるのだろうか。
ふるふると震える身体。顎を掴まれ、強制的に白雪の瞳と目を合わせられる。何者でもない、色を持たないその瞳に吸い込まれるような心地がして、恐ろしい。
「そう、良い子だ。こちらを見て。さあ、私に名前を教えておくれ」
「……?」
「ルカ。君の本当の名は?」
腕に抱かれ、甘い香りに必死で抵抗しながら聞かれた問いに、ルカは答えを持ち合わせていなかった。
鴉では白雪に歯が立たないそうです。
そして、ルカは名を問われました。




