狼の遠吠え(2)
狼の悲痛とも言える声に、皆が一瞬動きを止める。
しかし上弦の者たちに容赦は無い。その事を知ってか、下弦の皆も一斉に防御の構えをとる。
四方で攻防が激化する中、狼はただ一人、薊と向き合っていた。
紫の髪が風に揺れる。――その冷たい瞳。狼の脳裏に蘇るのは、かつて、狼が向き合っていた頃の薊の記憶。
クセのある髪は変わらぬままの、幼い顔つきの少女を見つめる。
「薊――」
「……」
狼が呼びかけるけれども、薊は全く返事をしようともしない。ふい、と視線を逸らして周囲の戦闘を観察している。
まるでどの戦線に加勢しようかと考えているだけの、何の感情も浮かべないその表情。あまりに信じがたくて、狼は一歩、二歩と前に出た。
「薊、なあ……お前、白雪ンとこいたのか!? 探したんだぞ……ずっと……」
「……」
そう狼が言って、前へ出た瞬間。薊の眼光が鋭く光った。
シュンッ、と風を切るかのように狼へと詰め寄り、彼に真っ直ぐ蹴りを入れる。
まさか攻撃を仕掛けられるとは思っていなかったのだろう。狼は左腕で何とかその蹴りを受け止めて、一歩後ろに退いた。
「何するんだ! 薊!」
「……主の……敵は排除する……っ!」
そう言うなり、薊は体を捻らせ反対方向の脚で回し蹴る。狼はまともに背中からの一撃を食らうが、たいした重さでは無かったらしい。少し表情を歪める程度で、狼は体勢を立て直す。
「……っ。薊、やめろっ」
「……!」
しかし、その攻撃が通らないと分かったとしても、薊がその手を緩めることは無かった。狼に向かって拳を繰り出し、その素早い動きでいくつも狼の肌に傷をつける。狼の頬からは青い血がたらりと垂れ、こぼれ落ちていった。
薊が繰り出すその手刀。ずっとやられている狼でも無い。すんでの所で避けたかと思うと、彼女の手をがっちりと掴む。
「……っ。はなせっ」
「やめろよ、薊。お前じゃ、俺に勝てない」
一旦狼に捕まれてしまうと、薊ではどうしようも無いらしい。ばたばたと藻掻くが、狼の腕はびくともしない。
狼は薊をグイと引き、彼女の肩を抱いた。睨み付けるようにして、彼女に問いかける。
「お前、いつから白雪の元に居るんだ!?」
「……っ」
声を荒げた。
薊は応える様子も無いのに、何度も、何度も問いかける。
周囲では相変わらず四方で戦闘が繰り広げられているようだが、赤薔薇と対峙している蜘蛛と黒犀が声を上げた。
「みゃはははは♪ 狼もあんぽんたんだもんね♪ 狼と引き替えに、上弦に召し抱えられたのだっ!」
「お前の代わりだと言ってなァ! 下級妖魔の小娘が入ってくるなど許せんと思ったが……っ」
「下級の駒が欲しかったみたいだし、丁度良かったんじゃないかみゃあ〜♪」
きゃはははは、と癇に障る笑い声を発しながら、蜘蛛は赤薔薇に再度攻撃を仕掛けている。
宙には彼女のテリトリーとばかりに無数の糸が張られていて、実に面倒そうに赤薔薇がそれを刈っていた。妖気に直接関与する蜘蛛の糸が面倒なことくらい、赤薔薇も分かっているのだろう。
「俺と――引き替え?」
え、と。狼は目を丸くした。そんなまさか、と声が漏れる。
全ての事情を知っている上弦の妖魔たちは、下弦の者と対峙する中でも、狼をあざ笑うかのようにくつくつ笑いをもらした。
そうして四方から次々と声を投げかけられる。
「そうだよん♪ お前が大切に想って仕方が無かったその娘をさっ。上弦を捨てて宵闇へ渡った酔狂な妖魔にすんなりと渡すと思ったのかみゃあ???」
「上弦を捨てた者がのうのうと幸せになれると思うか?」
「白雪様は笑っておられたよ。その娘が帰れるようにするために、せっせと宵闇を制していくお前を見てな」
「んふ〜♪ 涙ぐましい努力だねぃ♪ でもでも残念♪」
「放っておいても、白雪様と同じ方法で村を統率していくお前は滑稽だった」
「それはそうだろう? 狼はさ、白雪様のやり方しか、知らないんだから」
「統率という名の枷でもって、お前は宵闇から、自由を奪ったのさ!」
何の話だ、と狼は思う。
もともとは、白雪のやり方が気にくわなかった。
真名を捧げよと、彼は言った。妖魔である自分に、彼に屈し、膝を折れと。頭を押さえ込まれ、莫大な妖気で縛り付けられる感覚を、毎日のように感じ、疑問に思っていた。
そんなときに、彼女――薊は言ったのだ。
『――どうして、上弦に縛り付けられる必要があるんだ?』
『妖魔の、妖魔たる所以は、住む場所に準ずるものなのか?』
カラリとした笑顔だった。
上弦の者と違い、あっけらかんとした素朴な表情が、狼の目をとらえて離さなかった。
そう言って手を差し出してきた彼女は、自分よりもはるかに尊く、妖魔らしい誇りを持っていた。
だからこそ宵闇へ降りたのに――求めていた彼女は、どこにも居なかった。
白雪の制裁は随分と軽くて、拍子抜けした矢先だった。
話を聞けば、薊は追い出されたのだという。上級妖魔をたぶらかして、峰から墜落させた罪を背負って、その身をくらませたと。
何を馬鹿げた話を、と思った。
実際、馬鹿げていたのだ。全て、嘘だったのだから。
彼女を探すために、彼女を追い出した宵闇を徹底的に締め上げた。最大勢力であった森の一族を押さえ、その筆頭である山猫を追い出して。彼のポジションを奪うようにして。
妖魔をまとめる方法など、白雪のやり方しか知らなかった。だから、必死で皆を統率して、全力で薊を探した。何処にも、見つかりはしなかったけれど――。
そうやって宵闇をまとめることすら、白雪の思惑通りだったというのか。
ではなぜ? 何のために?
実際、宵闇に降りてきた後も、白鷺や蜘蛛に会うことは少なくなかった。
彼らに利用されているなど思いもしなかったし、上弦を抜け、宵闇落ちした自分に、以前と変わらぬよう接してくれた。彼らとの関わりを持つことに疑問など抱かなかった。
むしろ、彼らと繋がりを持つことで、少しでも薊を見つける手がかりになればと思っていたのに。
白鷺たちは、最初から、狼を利用するために接していたのだ。
そもそも、薊は彼らの元にいたのだから……!
「……そういう事だったのか……!」
ぐつぐつと体中の血がたぎるような感覚がする。目の前が真っ赤になって、憤怒の感情で覆われる。
自分から薊を奪ったのは、白雪をはじめとした上弦の皆。奴ら全員で、狼を掌の上で転がし、あざ笑い、観察していたのだ――。
キッ、と上弦の妖魔たちを見つめる。
下弦の者と戦う彼らは実に余裕の表情。上級妖魔たちは皆、実力はある程度拮抗していたはずなのに、人数比以上に力の差を感じるのは何故だ。
どこから力を吸収している。この、妖力の減少が顕著になっている夜咲き峰で。
そうして狼は思い至る。
――いつか、奴らからもらい受けた魔石。
『人間の小娘が宵闇から妖気を奪おうとしているらしい。この石で、結界を』
そう告げ、白鷺に手渡されたのは三つの魔石。
『先日の襲撃で、風の主も娘にかかりきりだ。結界を張るなら、今だろう』
宵闇でルカが倒れた後、これ以上あの人間の小娘をのさばらせないためにも、妖気を確保するための結界が必要だった。日に日に妖力を失っていく下級妖魔を見ているのは、狼でさえも心苦しいものがあったのだ。
しかし、薄々感づいてはいたのだ。
狼があの魔石を設置した後に、妖力の減少は加速していった。
信じたくないと思いつつ、日々を過ごした結果――あの病の蔓延だ。最初、皆は人間の小娘のせいだと信じて疑わなかったようだけれど――狼だけは、気づいていた。しかし、どうしても、言い出せなかった。
だからこそ、あの娘が宵闇で何かをはじめた時、捨て置いた。
本来ならば介入するべきなのだろう。以前の自分ならそうしていた。しかし、自分の周りに居た妖魔の誰も彼もが力を失っていたし――何よりも、あの娘をはじめとした下弦の皆が、宵闇の者たちを救っていたことに気がついてしまった。
様子を見に行って、驚いた。
笑っていたのだ。
誰もが。
狼が統率する森の一族だとけして見られない光景がそこにはあった。
周囲に立ちこめる香ばしい香りと、頬を染めて幸せに浸る笑顔。美しい建物に、希望に満ちた表情浮かべる妖魔たち。
いちから村作りを始めた様子で、皆が同じ目標に向かって、一丸となって働いている。
狼が無理矢理、妖魔の尊厳を踏みにじりながら統率している環境とは、根本から違った。誰もが望んで、村作りに参加していた。自分たちの為になると、確信しているからこそ。
ぎり、と、歯をかみしめた。
今までの自分は、一体、何をしてきたのか。
目の前の薊を護れず、白雪に操られ、宵闇の者の生き方を踏みにじり――。
そして今。
宵闇の者は、妖気を失い、動けなくなってしまった。
薊は白雪に操られるかのように、まるで自我を失っている。
宵闇を救ったルカは――白雪に追われて――。
「っくしょーーーーーー!!!!!」
叫んだ。
腹の底から怒りがわき上がる。
白雪に対する怒りと、自分に対する怒り。
誰かにぶつけなければ気が済まぬ――。
「おい、下弦の奴ら! 俺も加勢する! とっとと倒してあの小娘ンとこ行くぞ!!」
薊を突き放して、狼は走った。
手っ取り早く目の前の玻璃の方へ突進する。
「え?」
突然一対二になった玻璃は、目を丸めるようにして狼の方を見た。そのスキを逃す琥珀でもない。
パン! と、光の石のようなものを弾けさせ、玻璃が纏っている硝子の障壁のようなものを全て粉々にした。そこを狼が蹴り上げると、ものすごい勢いで玻璃が後方へ飛んでいく。
木々をいくつもなぎ倒す形で、玻璃の体は地面に倒された。
「――ふん。僕、頼んでないからね。お礼は言わないよ」
「わかってる。とっとと倒して、小娘たちを追うぞ」
狼が加勢します。
次回は、逃走するルカと鴉です。




