希望の芽吹き(4)
周囲がまだうすらぼんやりとした頃から、宵闇の妖魔たちは活動を始める。太陽が僅かに顔を出し、夜咲き峰の光の花弁がうっすらと消えていく頃、彼らは自らの意識を起こすのだ。
下級妖魔たちは、以前の生活があまり思い出せなくなっていた。いや、正確には、以前の生活で何を思って生きていたのかを思い出せなくなっていた。
目を覚まし、その日の糧を見つけ動き、夜は月に祈りを捧げ眠りにつく。当たり前だった日々が失われたのは、ごく最近のことであったのに。
以前の生活によって、何に満足し、何を目的としていたのか。それがまったくわからない。
それほどまでに、彼らの生活は、変化を遂げていたのだ。
夜明け。
彼らはむくりと起き上がり、いそいそと、とある場所に向かう。
夜のお祈りと同じくらい重要な儀式。もはや日課とも言える行為を致しに行くわけだ。――神殿へ。
ルカの周囲に集まった妖魔たちは、毎日のようにトイレへ通うようになった。真白く、繊細な彫刻を施されたその建物は、彼らに深く愛された。
宵闇の村にはあり得ない、上級妖魔にこそ相応しい美しさ。その建物に足を踏み入れるだけで、気持ちが浮き立つような感じがする。
ましてや、いちから建築に携わった。この建物を愛さない理由がない。
ぞろぞろと集まりはじめた妖魔は早朝ですでに五十を越えている。長い行列を作りあげ、ひとりひとり、順番に“致し”に参るわけだ。
小。もしくは、大を。
排泄という天に授けられた神聖なる行為は、月に祈るのと等しく、下弦の妖魔にとっては重要なものになった。朝日とともに自らの中の不純なものを排出する。そうすることによって、純粋に美しいものだけが残った自分になれる。
ルカたち人間には到底たどり着けない遙か高み。妖魔たちにとって排泄は、それ程までに素晴らしい行為となり得たのだ。
さらに説明するならば、朝と同時にトイレに並ぶ妖魔は、皆が皆、排泄を行えるわけではない。むしろ、未だ人化が進んでいない者も数多い。
そう言った者は、個室に籠もってはトイレの前に傅き、天よ月よ、自らの不純を取り除き給えと祈り捧げる。そうすることによって、自らが“致す”日を、今か今かと待ち続けているわけだ。
***
「……まさか、こんなことになるとは思わなかったわ」
「お嬢様、安心しろ。俺もだ」
風の主の元で朝食を終え、のんびりとルカがやって来てなお、トイレに並ぶ長蛇の列は消えていない。むしろ、二周目三周目と並ぶ者も中に入るらしい。まったくもって理解し得ない。
「やったー! 俺は、致したぞー!」
たまにトイレから大喜びで飛び跳ねながら出て来る者まで現れるから、滑稽だ。
狂喜乱舞なその様子を、周囲の妖魔たちが「おおー!」だの「すごいっ」だの賞賛する。致す作法を教授してくれと申し出る者も少なくない。
もともと妖魔はお互い干渉し合わない生き物だと思っていたのだが、一体これはどう言うことなのか。人間よりも遙かに親しみが湧く様子に、ルカは頭を抱えた。
「ねえ、レオン、どう思う?」
「なにがだ?」
「……この認識は、正さなくて、いいのよね?」
「……」
レオンは黙り込んだ。答えから逃げるだなんて、卑怯である。
排泄行為がこんなにまでありがたがられるだなんて明らかに計算外で、言葉が出てこない。
むしろ、どうやって伝えれば彼らにとってショックが和らぐのか……悩みに悩んでうんうんとうなり続けてきた時間を返して欲しい。
ルカは大きくため息をついて、とことこと彼らの列の方へ歩いて行った。
「ああ、ルカ様、おはようございます」
「ん、おはよう。今日もお祈り?」
「ええ、毎日こんなにも清らかな気持ちで一日を過ごせるだなんて、夢のようです」
にっこりと微笑む下級妖魔はかわいい女の子たち。
キュートな女子たちがわいわいキャッキャとトイレに列を成す光景はなんだか異様だ。しかし、楽しそうなのだから、否定する気にもなれない。
「このトイレの使い心地はどう?」
「最高ですよ! 綺麗だし、致しても、美しいままで」
うっとりと、両手を胸に当てて妖魔たちは答える。
ユーファが用意してくれていた魔術具をベースに、レオンが更に改造を加えたもの。そこにはハチガの意見も入っているらしく、なかなか高度な技術の結晶が、このトイレには施されていた。
致したと同時に、その成分を直ちに分解。鼻孔をくすぐる爽やかな香りの風となり、周囲の空気すら清浄する。人間社会でも見たこともないような素晴らしい機能は、ルカ自身もちょっと羨ましく思う。
というわけで、後でレオンにおねだりしておこうと心に決めつつ、山猫を探した。
山猫は最近、ここの集落の長のような役割を果たしている。
五十を超えたあたりから、もはや宵闇の新しい一族のような集団となってしまっている。出身・属性はまちまちだ。しかし一丸となって病を乗り越え、集落を建築しはじめている彼らはもはや家族。
人化の傾向が見られても、少しばかりの妖気が残る者がほとんどらしい。よって、お互いが自らにできることで、村作りに貢献している。種族がバラバラなことも幸いして、花の素材を集めるのが得意な者、鉱石を集めるのが得意な者、製作・建築が得意な者など、それぞれの性質にあわせての分担作業が捗っていた。
「山猫ーっ」
「おおう、来たのか」
山猫も、最近は夜咲き峰に戻らず、すっかりと宵闇の村に居着いてしまった。たまに雛や波斯の様子を見に、峰の上へ同行するけれども、基本的には下級妖魔の皆が気になっているらしい。
夜になると上級妖魔たちはこぞって峰の方へ戻ってしまうし、いざというときの護衛がいないのは心配なんだそうだ。
「今日もみんな元気ね」
「ああ、相変わらずだ。むしろ、こんなにはやく人間の文化に馴染むとは思ってなかったな」
「朝食は?」
「今準備してらい。朝の参拝が終わった奴らから、順番にな」
クズ野菜やクズ肉を入れたスープだけは何とか作れるようになってもらって、後は森でとれた獲物の肉などを丸焼きにして食べたりしているらしい。そうやって食事は一日に二回。今はその準備で限界らしいが、皆、その生活に十分満足しているのだとか。
ともに食事をとることが増えれば、一緒にいる時間も増える。種族を越えて交流が広がり、今、この集落の者はみな仲がいい。
少しずつ少しずつ、希望が広がっている気がする。
……不本意だが、トイレを中心に。
参拝という名の排泄大会を終えた者から、次々に鍋の中のスープをよそっていくスタイル。早くしないと具材がなくなるが、何度でも参拝したい。どちらを優先するのか、ルカには理解しがたい葛藤を彼らは抱いているらしい。
何だそのチキンレースは、とルカは心の中で突っ込みを入れつつ、今日の作業の確認をした。
「トイレはほぼ完成したでしょ? 住居も必要だけど、資材置き場がいるわよね?」
「ああ、今は野ざらしだからな。花素材もそうなんだが、食料の保管に困ってる。毎日の買い出しじゃ対応できないくらい妖魔が増えているだろう? 獲物も捕るんだが、置いておく場所がなあ」
「獲物の取り過ぎも生態系を狂わせるからね……それよりも、生産できる環境を整えた方がいいわよね」
周辺の建築予定物を地図のように書き出して、ルカは唸った。すると後方から声がかかる。
「ねえねえ、ルカ! 僕は次はお家作るからね。うふふ、試したい表現いっぱいあるからなあ。どのスタイルにしようかなあ」
頬をニマニマとさせつつ、琥珀が嬉しそうに立ち去っていく。例えひとりでも、一刻も早く作業をはじめたいのだろう。
琥珀も、インテリアの改造を趣味としていたが、夜咲き峰では手を入れるスペースに限界があったらしい。その反動で、宵闇では好き勝手出来るからと毎日実に楽しそうである。
彼の作った神殿のような建物が、下級妖魔にとっては憧れの建物になったおかげで、今の円滑な関係性が作り上げられている。もはや、彼の好きにさせた方が良いのだろう。上級妖魔の感覚というのは、それだけで下級妖魔に受け入れられやすいのだとルカは学んでいた。
「ルカ、私たちも作業にうつりますね」
鬱屈とした森の中だというのに、まるで光の女神が舞い降りたかのような煌々とした輝き。それは花梨が纏っている雰囲気。
にっこりとルカに微笑みかけた花梨は、相変わらずのシンプルスカートに白いエプロン。若干エプロンのフリルが豪奢になってきている気がするが、別に不都合は、ない。
宵闇に舞い降りた女神は、周囲に可愛らしい女の子の妖魔たちを従えて、にっこりと微笑んだ。皆、花梨とおそろいの看護スタイルになっている。
宵闇白百合の会。勝手にそう名乗りはじめた彼女たちは、新しく病で駆け込んできた妖魔たちを手厚く看護するのを担当している。ついでに言うと、花梨を筆頭に美しい女とは何か。男性に愛される女とはどう言うものかを研究する会らしい。
残念ながら、ルカに興味は皆無である。
看護という目的の先に別の楽しみを見つけた彼女たちは、不謹慎にもきゃっきゃ言いながら看護活動を進めていた。主に食事介護から、人間となっていく経緯の説明、心構えなどを説くらしいが、内容については疑問視するところも多い。
花梨の息を十分に吹き込まれた彼女たちが説明するのは、女性を引き立てるための精神をこれでもかというくらい盛り込んだものだ。まあ、生き死にに関わるでもないので、今のところは放置している。それよりも、彼女たちが協力して皆を救おうと行動してくれている行為が嬉しい。
赤薔薇は相変わらずあちこちを飛び回っているようで、ほとんど宵闇には姿を見せない。
だから彼女は省くとして、最後に鴉だが。
彼は――
「ルカ、お前は俺が護る」
「……鴉もお友達作りなさいね」
「……」
彼は、ひとりぼっちだった。
ここにレオンと菫、そして山猫が加わって、思いの外順調に宵闇の開発は進んでいく。
未だ、この集落の外には、病にあえいでいる者も多いだろう。少しずつ、少しずつそのような者を取り込んでいきながら、行動範囲を広めていった。
その間、不安になるほどに、妨害行動の類いは発生しなかった。
狼も。上弦の峰も。
誰もが希望に満ちあふれ、新しい村の建築に奔走する。
だから、気がつかなかった。
ルカたちがすでに、白雪の手の中にいたということを。
宵闇の妖魔たちの趣向は思わぬ方向に転びました。
次は、順調に進んでいた村作りに暗雲、です。




