希望の芽吹き(3)
【ご注意】食事中のご閲覧はおすすめできません。
高くそびえる夜咲き峰を背に、緑の木々が生命力に溢れた様子で生い茂る。
手入れもされていないし、人通りも多くはないのだろう。のび放題の草と蔓。日が差し込んでこなければ、おどろおどろしく感じてしまうような鬱蒼とした森――のはずだった。
深い緑と幹の焦げ茶。そんな濃い色の中、明らかに浮き立った様子で、ソレは完成しようとしている。
いまだ建築中のソレではあるが、真白い壁は明らかに周囲の風景に溶け込んでいない。浮きに浮いた繊細な装飾は、せめてと、蔓や花をモチーフにしたものではあったが、それにしても違和感しかない。
まるで小さな神殿のように清らかかつ豪奢なそれは、この森には明らかに不釣り合いなものであった。
「……馬鹿げているのは、どっちよ」
呆れて、コメントに困る。隣では同じように、憮然とした表情でレオンが立っている。
「彼奴らの考えることはわからん」
「全面的に同意するわ、レオン」
主従そろってうんうんと頷き合い、大きくため息をついた。
外壁を真白い漆喰のような素材で建築途中のソレは――所謂、トイレだった。
村からも外れている森の中、一時的なものだというので仮設で作れれば良いかなあ……くらいに思っていたソレは、何故だか夜咲き峰の城と遜色ないほどに豪奢な作りになっていた。
しかも、制作期間は二週たらずである。
大まかな外壁と、中の設備関係はほぼ終わっており、いつ彼らに必要となっても問題ないようになっていた。
ちなみにこの設備、人間の魔術具がベースに作られている。
排泄物を吸収し、分解して自然に返す。機能としてはシンプルなのだが、制作するには少々厄介な代物だ。分解する要素が多いため、素材集めに難儀するのである。
しかし、いつか必要になるかもしれないと、随分前に実家に手紙を送っておいたことが功を奏した。
義姉のユーファがその需要を拾い上げてくれたらしい。魔術具制作を趣味とする義姉の存在は、ルカにとって嬉しい誤算だった。
それをアヴェンスに赴いたレオンが、到着していたハチガを仲介にして受け取ってきたわけである。
「ここまで綺麗に整備されていたら、ユーファ様も本望だろうが……」
生まれも育ちもレイジスのユーファは、この建物を見たら飛び上がって喜ぶだろう。人間の技術力では達し得ない、見事な装飾。そして機能。
出来ることならば見せてやりたいが、これはトイレで、ここはただの森だ。そもそも夜咲き峰に人が自由に立ち入ることなど叶わぬ故、彼女に見せることは出来ないだろう。嘆かわしいことである。
「人間の魔術具と、妖魔の建築物……二つの文化が融合した、時代の最先端の代物なのよね……これ」
それがまさかの、トイレ。
しかも、へんぴな森の中にそびえ立つ、トイレ。
時代の流れとは、かくも残酷なものなのである。
二人呆然と作業を見守っていると、建物の中から琥珀が顔を出す。
「誰か出られそうな人いない?」
生き生きとした琥珀色の瞳をキラキラと輝かせて、彼は楽しい物作りタイムを満喫していた。宵闇にやって来た頃の不機嫌な様子はすっかりとなりを潜めている。
「俺たちが」
「また素材ですか? 琥珀様」
「うんうん、白がまだまだ足りないんだ。柔らかい素材が良いから、石より花が良いと思うんだ」
二名の下級妖魔が名乗りを上げると、琥珀はさっさと指示を出す。普段眷属に命じているのとさほど変わらない様子だ。そうしてすぐに、建物の中に入っていった。再び作業に没頭するらしい。
宵闇の妖魔たちも、随分と従順に琥珀の命に従うものだとルカは驚いていた。
最初は戸惑いながらの行動ではあったが、次々に出来上がっていく建物を前にして、興奮を抑えきれなくなってきたらしい。
たしかに、木々を利用した宵闇の村の家々から考えると、この建物は異様だ。いや、比較せずとも、悪目立ちしていると言えよう。
上級妖魔が使用するに相応しい美しい建築物。その素晴らしさに魅入られた下級妖魔たちは、動ける者から次々と作業に参加した。
琥珀も物作りに関して手伝ってくれることで、彼の中の折り合いもついたらしい。思わぬところで、彼のわだかまりが解けるきっかけが得られて、ルカは安堵した。
***
この建築途中のトイレを中心にして、着々とルカと接する妖魔たちの住環境は整っていった。
トイレ中心というのが何とも言えない微妙な気持ちになるのだが、この美しい白の建物は、もはや彼らにとってのシンボルマーク。
人間で例えるなら、神殿に対する神聖な思いと似たものを抱いているらしく、落ち着かない。そんなありがたいものではないのだが、妖魔にとって見た目は本当に大切らしい。
動けない者も含めて、集まった妖魔たちはすでに五十人を越えた。いよいよ、集落らしくなってくる。
中には人化が進んでいないにもかかわらず、ひょっこり交じってくる者もいて、狼の独裁がどれほど彼らに閉塞感を与えていたのかがよくわかった。
改めて接してみると、彼らは穏やかな性格の者も多く、利害関係が発生しない限りは大きな争いごともなくなった。というより、山猫が言うには、人化が進むことによって性格がまるくなっているような気がするらしい。
そうこう準備を推し進めているうちに、最初の犠牲者が出た。
「うっ!」
夜でなかったことが不幸中の幸い。
真っ昼間の作業中、鼬鼠が声をあげた。近くに居た山猫がすぐさま、どうした? と声をかけるが、鼬鼠は涙目になりながらその場にしゃがみ込む。
その異様な光景に、新しい病かと周囲がざわめきはじめたが、山猫がすぐさま手を出して制した。
「どうした? 腹でもいたいのか」
「なんだこれは……」
脂汗のようなものを垂らしながら、鼬鼠が何かを恨むような瞳で空を見上げる。その様子を見た時に、ルカはピンときた。
そう、脂汗。それが大きなヒント。まさか、と思ってすぐにレオンを呼び止める。
「レオン! レオンちょっと来て!」
新しく制作中の個室に魔術具を取り付けていたレオンが、ひょっこりと建物から出て来る。
白の神殿とも宮殿ともつかない場所から出て来る彼は、まるでおとぎ話の王子様だが、実際はトイレとただの従者である。なんとも紛らわしい建物だ。
「鼬鼠の様子が。……あれって、まさか」
下腹部を押さえて、ぎゅっと全身に緊張が走った様子。ううっ、と呻くような声がすでに限界が近いであろう事を告げている。
瞬間、レオンは目を見開いた。
ルカも、レオンも、人生の中で一度は経験したことある状況。切羽詰まった瞬間の事を思い出すようにして、声をあげた。
「……間違いないな。大だ!!」
「大ね!!」
お互い頷き合って、すぐさま鼬鼠の元へ走った。
周囲はちょっとしたパニック状態になっており、大丈夫かと口々に声をかけている。
「大丈夫か、立てるか?」
「お、俺……ここで死ぬのか……?」
「死ぬか、バカ野郎!」
レオンが引き上げるようにして、鼬鼠の腕を掴んだ。瞬間、鼬鼠から悲鳴のような声が漏れる。
「うああああ、も、漏るっ。漏るーーーっ!!」
瞬間、レオンが表情を歪ませて、その力を緩めた。この場で漏らされるのは流石に嫌なのだろう。
同時に、何が起こっているのか、周囲の者全員が察した。
妖魔たちとともに作業する中で、波斯や雛の例を交えながら、彼らの体内で何が起こっているのかを少しずつ伝えていっていた。
疑心暗鬼になりながらも、冗談半分くらいでは聞いてくれていたが、まさか本当に体に異変が起こるとは思わなかったのだろう。
ざざざっ、と神殿への道が切り開かれる。その距離はけして遠いものではなかったが、彼にとってはまるで苦行。ひょこひょことおぼつかない……いや、漏らしてたまるかという精神で、一歩一歩確実に歩んでいく。
まさに切羽詰まった人間と、まったく同じ動作である。
――やはり間違いない。あれは、大だ。
レオンの腕をぎゅっと掴んだまま、鼬鼠は必死に進んだ。その涙ぐましい努力がやがて実を結び、彼は神殿へとたどり着く。
使い方は教えたな? と、安堵したようにレオンが腕を放したその時だった。
がしっと。鼬鼠は力強く、彼の腕を握りかえした。瞬間、レオンの表情が凍り付く。
「――嫌だ」
「え?」
「一人でなど、できないっ!!」
不安に苛まれたような絶叫を、彼はレオンに浴びせた。
凍り付いたレオンの表情が、だんだんと歪んでいく。まさか、と小さく口にしているようだ。
「レオン、ついてきてくれっ。教えてくれっ。俺には、無理だっ」
「待てっ! 待て待てっ! 落ち着け! 大丈夫だからっ!」
「いや、無理だ。レオン、頼む。俺についていてくれ」
「ちょーーーーーっ!」
悲鳴にも似た声を、今度はレオンが発しながら、ずるずると神殿の中へと引きずられていく。
皆が皆、憐れな生贄の安らかな幸せを願って、目を閉じ、頭を垂れた。
「……なんか随分楽しそうだね? どうしたの?」
鼬鼠たちと入れ違うようにして、琥珀が顔を出した。
「あはは、緊急事態みたい。琥珀、ちょっとこっちに来て。しばらく中に戻らない方がいいから」
「え?」
きょとんとする琥珀を、急かすようにしてルカは手を引いた。
中に個室がたくさんあることくらい知っているけれども、何せ初めての経験だ。万が一、琥珀に美しくない光景を晒そうものなら、後が怖い。
レオンが中にいれば、その万が一が起きても何とかするだろう。だからこそ、ここは二人きりにさせておいた方が良い。
緊急事態を察したのか、琥珀以外に中で作業していた者もずらずらと出てきた。
状況が見えてきたらしく、皆、固唾を呑みながら建物の方を見つめる。
――そして、時はきた。
大きな悲鳴と、ひとつの快便。そしてひとりの人間の誕生。
聖なる神殿で産声を上げるように、鼬鼠は、新しい存在へと生まれ変わったのであった。
レオンには手をあわせておくとしましょう。
次回、神殿を中心に、開拓は広がります。




