希望の芽吹き(2)
ハチガがアヴェンスに来ている。以前、こちらに向かっているとの報告は受けていたのだが、想像以上に早い。
ルカ自身は直接アヴェンスに向かうことが出来ないものの、ごく近くにいるとわかると、胸の奥がふわんと温かくなる。
「そう……兄様が」
思わず頬が緩んで、ルカは目を細めた。
夜咲き峰に連れ去られた時、兄弟はみな会場にいたにも関わらず、別れの挨拶すらままならなかった。突然会えなくなった大切な家族が、自分のためにこんなに遠くまで足を運んでくれている。
離れていても、家族。それを態度で示してくれているようで、本当に嬉しかった。
「今日向かうの?」
「いや、しばらく滞在するらしいから、明日で良いだろう」
「そう。じゃ、手紙を書かなきゃね」
胸の前でぎゅっと手を握る。伝えたいことはいろいろある。事あるごとにミナカミ家には連絡を寄越してはいるが、アヴェンスに向かっている間、ハチガに直接ルカの言葉が伝わることはなかっただろう。
元気でいるだろうか。無理はしていないだろうか。
……同じ事を、心配されているような気もするけれども。
「ルカ?」
隣で、不思議そうな瞳で琥珀が見上げてくる。
「琥珀、私、頑張らなくっちゃ!」
やる気に充ち満ちて、ルカは鍋を回す手に力を入れる。いや、こんな事をしている場合ではない。配膳は順調らしいし、次の動きも為ねばならないだろう。
「レオン! 私もそろそろ違う作業をするわ。兄様が来たって事は、アレが届くのでしょう?」
「そうだな。おい、お嬢様まさか……」
「久々の力仕事ね! 腕がなるわっ」
腕まくりせんばかりの勢いで、ルカがずんずん歩こうとしたところ、レオンが必死になって彼女を止めた。
「まて、待て待てお嬢様っ! なんのためにこの付近での手伝いに留まらせてると思ってるんだ。気持ちは分かるが、落ち着けっ」
やる気は伝わったから、と、レオンはどうにかして宥めようとしている。
久々の兄の気配が嬉しくて、今、やる気が満タンなのだが、この気力を何処に消費すれば良いのだろうか。折角振り上げた両手を何処に落としたら良いのかわからない宙ぶらりんな気持ちをどうしてくれよう。
何か動いておかないと、この妙なソワソワは解消されそうにないのである。
「うー、私も。私も何かやりたい」
「鍋係だ。それ以外は許さん」
「もうだいたい終わったよ。スープも底が見えたし」
給仕をほぼ終えてしまった今、いつまでも鍋を混ぜる必要も無い。意味もなく、生産性のないことをしていられるほど、暇ではないのだ。
「……わかった、俺も行くから。琥珀は?」
「僕はルカと一緒にいるからね!」
「だろうな。ちょっと待ってろ」
レオンは薪にくべられた鍋を放置しておく訳にもいかぬと、さっさと消火活動に入る。それを遠巻きに見守りつつ、ルカは周囲に目をやった。
今、30人程度の妖魔がここに集まっている。中にはもう、体が復活してきている者も見受けられる。しかし彼らは、今更ルカたちに対して邪険にするわけにも行かず、戸惑いを見せていた。
鼬鼠をはじめとした下級妖魔に、ルカはにこりと笑いかける。
少々気まずそうに目を伏せて、彼らは黙り込んでしまうが、つっかかってこないだけたいした進歩とも言える。いや、元々彼らは、狼に先導さえされてなければ大人しいものなのかもしれない。
肩の力が抜け、表情の険がとれている。それが少し嬉しくて、ルカは益々笑顔を見せた。
「気が向いたら、貴方たちも手伝ってくれて良いのよ?」
突然話しかけたものだから、目の前の下級妖魔たちがぎょっとした顔を見せた。
一体何だというのだろう。一緒にいるから話しかけてみたわけだが、皆が皆、随分と慌てた様子だ。それは下級妖魔だけではなく、レオンだって同じ。「お嬢様!」と叱咤するような声が飛んできて、驚く。話しかけることくらい、たいしたことでもないだろうに。
「いいじゃない、レオン。敵意がないのに無視する意味がわからないわ」
「だが、うかつにも程があるぞ」
「そうかしら?」
ルカは首を傾げる。
レオンの言うことは一理ある。表面上は友好的な顔を見せておいて、後になって牙をむく。貴族社会ではごく当たり前のことだし、警戒心を常に持っておくのは社会常識だ。
しかし、ここには貴族はいない。
妖魔たちが貴族とは全く違う――もっと単純な原理で動いている者たちであることを、ルカは知っている。驚くほど純粋で、純真だ。
だからこそ、彼らに救いの手を差し伸べた今、助けた者に対して牙をむくのは彼らの誇りが許さない。そんな気がする。
むしろ、救いの手を差し伸べられたくない――懐に入ってきて欲しくなかったからこそ、彼らはかつてルカたちを襲ってきたともとれるわけで。
普段妖魔たちが排他的なのは、自分たちの尊厳を傷つけられたくないから。傷つけられるくらいなら、関わらない選択をしているからだと理解するようになってきた。
「で、レオン。何処に準備するの?」
「ここからは近い方が良いだろう? 森の一族の集落には近寄らない方が良い」
「警戒心むき出しだものねえ」
レオンと会話しながら、現在の状況についてルカはため息を吐いた。
ルカたちが宵闇でこそこそ活動していることは、すでに彼らには明らかになっている。しかし、先日の戦闘を見てもわかるとおり、森の一族だけでは下弦の妖魔たちに太刀打ちできそうにもなかった。
まともに相手できるのは狼くらい。上弦の妖魔の乱入があったからこそ、ルカが倒れるという結末に至ったが、森の一族だけでいざ行動を起こそうとも出来ないらしい。
というよりも、ここにいない妖魔にも、病の広がりは深刻なのだろう。
一部の妖魔に聞いたところ、このところの妖気の減少は益々加速しているらしい。まるで人為的な何かが動いているのかと思える程に異常な状態。妖気の少ない宵闇の妖魔たちにとっては、本当に深刻な状態らしい。
だからこそ、ルカたちの元へ逃げ込んでくる者も少なくない。
妖魔の誇りをかなぐり捨ててでも、こちらに身を寄せる。自身が朽ち果てるのを待つ前の最後の足掻きを見せる。ここに居ない者も動けない者が大多数らしい。よって、ルカの周辺に集まった者だけが僅かながら元気を取り戻しつつある状態だった。
そのため余計に、宵闇の妖魔たちはルカにどう接したら良いのかわからないようだった。
恩を感じているが、ルカの目的もわからない。謝るのも感謝するのも彼らの誇りが邪魔をして、戸惑うばかりのようだった。
もちろん、ルカは謝罪も感謝も、どちらも不必要だ。
それよりも、ルカを受け入れて、これからの生活を何とかしていく方向で考えて欲しい。気持ちよりも行動が欲しい。でなければ、この問題は根本的に解決しないのだ。
「よし、お嬢様。行くぞ」
「ん、了解」
にこっと笑いながら、周囲の妖魔たちに目配せをしておく。
「手伝いに来てくれて良いのよ」言い残して、レオンについていった。
琥珀もきょろきょろしながらルカの後ろに続き、周囲の宵闇の妖魔たちに警戒心をむき出しにしている。
それだとルカ的には都合が宜しくないので、軽く琥珀の頭を撫でて、気持ちを落ちつかせようとつとめた。いつか、もう少し下級妖魔たちと向き合ってくれれば良いのに、と、何度も思う。
そうして向かった先では、木々が少々切り倒されて、少し開けた空間が作られていた。配膳の終わった山猫も先にこちらに来ていたらしい。幾つか穴を掘るための道具などが用意されてはいるが、まだ何もない、ただの空間である。
「さて、簡易とはいえ、衝立も何も無い状態だと困るものね」
正直、土木作業についての知識があるわけではない。しかし、こうも悠然として構えていられるのは、周囲の者がそれなりの知識を持っていると知っているからだ。
何とかなるという漠然とした自信を持ちつつ、ルカは琥珀を見つめた。
「ねえ、琥珀。力を貸して欲しいんだけど」
「……僕?」
ルカの腕をぎゅっと握りしめたまま、琥珀は目を丸めた。
先ほどまで頑なに手伝うことの出来なかった彼だが、周囲に下級妖魔がいなくなったとたん、いつものようなちょっと気の抜けた表情を見せる。
「僕に何か出来るの?」
「うん、多分、こういうことは琥珀が得意なんだと思う」
決して美しいものを作るわけではないのだが、彼がこれまで部屋を大々的に改造してきたのをルカは知っている。だからこそ、何もない場所に小屋を建てる場合にも、力になってくれるはずだ。
「実はね、お手洗いを作りたいの」
これに驚いたのは、琥珀だけではなく山猫もだった。雛にだけ見られた変化。下弦ではやがて波斯にも現れ始めた“排泄”という行為。
宵闇の病を救うため、食事を与えはじめたうえ、人化が進んでしまった下級妖魔たちには、いずれは見られる現象だろう。そうなると、連中は再び大混乱になる。ただでさえ人数も多いし――雛の、そしてその後続いた波斯の落ち込みようを見ていたら、放っておけるわけがない。必ず何らかのフォローがいるのだ。
琥珀は何度か瞬いた。一応ピンとくるものがあったらしい。彼だって雛や波斯の様子は見ているからこそ、妖魔にとって排泄が如何に衝撃的なものなのか予想できるのだろう。
「慣れない者に、流石にその辺で、とも言うことは出来ないし。それにね、きちんと処理をしないと、今度は本格的に別の病が蔓延する原因にもなりかねないの。宵闇の妖魔たちに、少しでも抵抗のないように排泄できる場所を作りたいんだけど……」
「で、ルカはどうするつもりだったの?」
「え? ええと……」
少し責められるような目つきで見られるのがよくわからない。しかし、ルカは彼女なりのプランを提示した。
「ええとね、ここに幾つか穴を掘って。使用する人が周囲に見られないようにね、一個一個衝立のようなものを……」
「そこらへんの木で?」
「うん、木で……」
そこまで聞いて、琥珀は盛大にため息をついた。
「ばっかじゃないの!? ルカ!!」
「ほへっ???」
突然怒鳴られてしまい、ルカは目を丸くした。
「あのねえ、それで抵抗ないっていうのは大間違いなんだからね! 妖魔って言うのは、いつでも美しく、誇り高くいないといけないんだから。そもそも!」
びしっとただ切り開かれただけの空間を指さし、琥珀は声を張り上げる。
「この場所は何? 土の上に何か置いても、それはただの屋外! 屋外で妖魔にあんな行為をさせるの!? 僕だったら諦めて朽ちるね。絶対嫌だもん!」
あんな行為、とは、きっと雛達の排泄行為を言っているのだろうが。まあ、彼の言うことはもっともだ。しかし、そもそも時間が無いし、自分たちに出来る範囲のことを考えた精一杯なのだ。衝立と、穴は。炊き出しと同レベル。必要最低限。
しかし、手洗い周りに関しては、琥珀的には必要最低限にも達していないという判断らしい。
依然、建築環境のことになると、水を得た魚のように琥珀は動き始めた。周囲をぐるぐる歩きながら、彼の中で設計を考えているようだ。
宵闇のためでは決してないだろうが、彼の誇りを持って、建築物に手を抜きたくないらしい。とたんに、デザインに没頭していくように、彼はぶつぶつと何かを呟きはじめる。
「……急ぐのだったら、眷属も呼ばないとね。あとは、素材が足りないよ、ルカ。ここには何もないからね」
「じゃ、じゃあ、その素材を集めるのは、私にも協力できる?」
「手に入りやすいものを考えるよ。そのためにはまず……」
と、再び彼は思考の海に溺れていく。
ほんとうに物作りが好きらしい。邪魔をしないようにくすりと笑って、ルカは彼から少々離れた。
そこで、ふと気がつく。
木々の向こうに、幾つかの影。
少し申し訳なさそうな、所在なさげな様子で立っている者たちがいる。
灰色混じりの黄茶色髪の青年――鼬鼠を先頭にして、五人。彼らの目的がわかって、ルカはにっこりと微笑んだ。
「こちらに来てくれる? 早速手伝って欲しいことが出来そうなの」
琥珀の物作り魂に火がつきました。
というわけで、琥珀が暴走しそうです……。




