黄金色の奇跡
灰色混じりの黄茶色髪の青年は、うっと声を漏らした。
意識が朦朧としはじめて、何日経つだろう。ぐらんぐらんと頭を叩かれるような鈍痛に、酷い倦怠感。暖かい季節なのに、指先まで氷のように冷え、どうにもこうにも力が入らぬ。
弱っている姿を見られぬようにと、集落からは少し離れた森に、身を潜めていた。
いくら末端の下級妖魔とは言え、彼――鼬鼠にだって妖魔としての矜持がある。弱った姿を見られるわけにはいかない。
妖気の枯渇という、妖魔にあるまじき失態を目の前にして、ただただ事実に抗えぬ自分がいる。なんと不甲斐ないことだろう。
しかし、これは何も自分だけが抱えている問題ではない。
気がつかぬ間に、この病は宵闇の者皆に浸透しつつあった。大なり小なり、誰しもが問題を抱えはじめている。妖気の多い狼などには、この末端の気持ちはわからないのだろう。ただ、あの人間――筆頭妖魔の婚約者だとかいう――を敵視しては、わめき散らす。
もと上級妖魔だか何だか知らないが、彼の妖魔らしからぬ他者への敵意が、目に余るようになってきた。ぶつぶつと文句を言うくらいなら、殺ってしまえばいい。それすらも出来ぬのに、声だけ高らかな彼にはもう、うんざりだ。
最近の森の一族――いや、宵闇の村全体が、何かおかしい。こうやって原因不明の病の進行が更に早まり、為す術もなく倒れていく者が多数。それをあの人間の小娘のせいにして、対処も何も出来ないまま恨んで過ごす。これが妖魔のすることなのだろうか。
同じ疑問を持った者は少なくない。
狼の存在により声大きくは言えないが、こんな大きな病をたかが人間の小娘が引き起こせるものなのだろうか。以前彼女が目の前で倒れたことも見ているからこそ、その能力が大したことないであろう予測が立つというのに。
むしろ、それほどの力を持っていると仮定するならば、狼よりもその人間の小娘を迎え入れるべきではないのか。妖魔の社会において、力というのはそれほどにものを言う。
いずれにせよ、狼のやり方にはもう限界がある。その事実を恨むだけ恨んでみるが、今の鼬鼠には、狼に噛みつく力すら持ち合わせていなかった。
この感覚をどう説明して良いのかわからなかった。
妖魔として生を与えられて、そんなに長いわけではないが、初めての感覚だ。
腹の中心が空洞のようになっていて、全身に駆け巡る力が循環しないような。妖気が空っぽ――なのだろうが。なんとなく、それとも違う気がする。
そうして自分の力のなさを実感している時だった。
ふわんと、鼻腔をくすぐる匂いがした。
力の入らぬ体にどうにか気を張り巡らせ、鼬鼠は体を起こす。
なんだろうか。このえも言えぬ高揚感は。
嗅いだことない類いの香ばしい匂いが、自身を引き寄せる感覚がする。とっておきの糧の妖気を吸収する時よりも遙かに尊い。何物にも代えがたい、魅力的な芳香。
ぐいと自分の気を惹きつけてはなさないその香りに、鼬鼠は何とか、立ち上がった。
行かねばならぬ、と、本能が告げる。どうにかこうにか、足を動かし、一歩一歩匂いの元を探る。
弱々しい一歩はやがて歩幅が広がり、早足になる。最後の力を無意識に引き出すような、強い引力。
何故だろう。どうしてこんなにも、体がこの匂いを求めているのだろう。
鼬鼠は、森の奥へ奥へと進んでいくうちに、匂いに釣られた妖魔が自分ひとりでないことに気がついた。
ふと横を見ると、同じように匂いに惹きつけられた妖魔がひとり。お互い顔を見合って、苦々しい笑みを溢す。それだけで何か言葉にするわけでもない。ただ、お互いの本能に任せるようにして、真っ直ぐに匂いの元へ歩みを進める。
そうしてひとり、ふたりと増えていき、最終的には十人程度集まった。
誰もが無言で、ただ、一刻も早く匂いの元へ進みたいと歩む。黙々と歩き続け、ようやく、その元となるものを目にとめた。
「……来たか」
声をあげたのはひとりの妖魔だった。
大きな鍋に何やら棒のようなものをつっこみ、ぐるぐるとかき混ぜる。
下には火をおこしており、加熱することでその匂いを発しているようだ。しかし、その匂いの元ももちろんだが、それをかき混ぜる妖魔に驚きを隠せない。
飴色と錆色が混じり合った髪。三角の耳をぴこぴこと動かして、芥子色の瞳がこちらを見つめる。
「山猫」
誰かが声をあげた。
ぴり、という張り詰めた空気が一瞬漂うが、それも僅かなこと。匂いに釣られて集まった連中に、彼に対抗する力など持っている者がいない。
ただでさえ、病で体が動かない上、彼は元とは言え森の一族の長だった男だ。彼自身は病にかかっていないのだろう。従来と変わらぬ状態の彼に、かなうはずがない。
――それよりも、だ。
だれかが、唾を飲み込んだのが分かった。
山猫がかき混ぜている鍋の中身。そこから漂う匂いにどうにも抗えない。
ふらふらと、足を一歩踏み出したのを、山猫は楽しげに見つめた。
そして何を言うわけでもない。彼は自分の手元にある手のひらサイズの器に、先ほどかき回していた棒――先は液体をすくえるような形になっているらしい――で鍋の中身を一杯流し込んだ。
誰にでもない、それを集まった妖魔たちに差し出す。
おそらく、受け取れと言うことなのだろうが、これは何かの罠なのだろうか。
匂いにつられて集まったものの、誰もがそこから先が進めず、足踏みをしている。彼は一族を捨て、村を去った男。容易に信用していいはずがないのに――。
鼬鼠は笑った。狼が信用できぬ。人間の小娘も信用できぬ。そして目の前の山猫も。
しかし、見えない靄のようなものに操られ、疑心暗鬼になっている自分などまっぴら御免だ。
自分は妖魔。自分の行動は、自分の本能が決める。
そうして、鼬鼠は前に出た。誰もがはっとして鼬鼠に注目する。
周囲の視線を感じつつ、鼬鼠は真っ直ぐに山猫の元へ向かった。重かった足取りは、いつの間にやら随分としっかりとしていた。気持ち一つで、ここまで変わるらしい。
そうして、器を手に持った山猫を真っ直ぐ見据える。彼も笑って、無言で、器を鼬鼠に差し出した。
器の中身を覗き込むと、黄金色に輝く透明な液体の中に、橙や白、緑の屑が幾つも沈み込んでいる。
顔の前に掲げると、自分を誘い込んだ匂いはなお芳しく、香ばしい。そして立ち昇る湯気が尚更自分を捉えて離さない。
どうすれば良いかなど、考えずともわかった。本能が、この液体を求めている。
鼬鼠は自身の本能に従って、その器を自分の口元に運んだ。誰しもが固唾を飲んで見守っているのがわかる。凝視してくる無数の視線をもろともせず、鼬鼠は、器に口をつける。そして、その黄金色の液体を、こくり、と呑み込んだ。
瞬間。彼の意識は遥か彼方へと飛び去った。
未だかつて、味わったことのない衝撃。自分を誘った香りが、舌を通じて味となる。温かい液体が喉を通って、体の中心まで落ちてくるのがわかる。
腹に力が満ちるだけではない。この、舌に落とされた衝撃の感覚をどう表現して良いものか、表す言葉を彼は持ち合わせてはいなかった。
ただ、舌を通して、全身に祝福が与えられたような。純粋な快楽。その衝撃に飲み込まれ、気がついた時には、二口、三口と口にしている。
掻き込むように、全力でその液体と向き合った。ズルズルと音を立てながら液体を飲み干し、底に溜まった屑すら飲み込む。
横では、山猫が苦笑いしながら、匙のようなものを差し出してきたのだが、そんなものは不要だ。
屑を喉に流し込み、何度か歯で嚙み砕く。適度なかたさのそれらを潰す感触すら愛しく、噛み砕いた瞬間に広がる新しい味覚に酔いしれた。
ーーああ、言葉が欲しい。
この快楽。全身を打つような喜びを表現する言葉が必要なのだ。
器の中身をたちまち空にして、もうあの感覚を味わうことは出来ぬのかと後悔に苛まれる。
もっとゆっくり、あの喜びを味わうべきだったか。
いや、本能がそれを許さなかった。
それ程の衝撃だったのだ。
愛おしむように器をぽうっと見続けた。口の中に喜びの味覚がまだ残っている。じわじわと消えつつあるそれが、哀しくて仕方ない。
こんなにも残酷なことはあろうか。脳に焼き付いて離れない、衝撃。こんな喜びを味わってしまっては、ずっとこの快楽を求めて生き続けねばならぬではないか。
鼬鼠には、この、黄金の液体無しに生き続ける自信が、もう無かった。
恨むような目で山猫を見つめた。しかし彼は実に余裕ぶった笑みを浮かべ、こちらを見てくる。まんまと罠に落ちたとでも言うのだろうか。
だが、彼が告げた言葉は、鼬鼠の予想と遥かに異なっていた。
「美味かったろい? お代わりいるか?」
ーー美味かった。
その言葉はまさに天啓だった。
先ほど欲していた、この喜び、感激、衝撃、衝動、そして快楽。それらを余すことなく表現しうる言葉。
匂い。味。食感。全ての感覚をひとつにする、奇跡の言葉。
「美味かったーーーーーー!!!」
鼬鼠は叫ぶ。
勢いよく器を天に掲げ、生きとし生けるもの全てに感謝を捧げた。
「お代わりぃーーーーーーっ!!!」
この言葉を皮切りに、周囲で様子見をしていた妖魔たちも我慢ならぬと前に出る。
俺も! オレも! 私もと、競うようにして山猫の周囲に群がった。
人間の三大欲求のうち一つ。威力は絶大でした。
次回はルカも参戦します。




