筆頭妖魔として(1)
かちゃり。カトラリーがぶつかる音がする。耳に届く金属音が妙に気になって、ルカはふうと息を吐いた。集中力が散漫すぎる。
どうにもこうにも、今日は何かおかしい。雛に関する大事な話をしに来たはずなのに、頭がなかなか切り替わらない。
それどころか、先ほど唇を落とされた場所がぽっこりと熱を帯びたような感じがして落ち着かない。
向かいの席で静かに朝食を食べる風の主は、いつも通りの涼しげな様子なものだから、ますますルカは戸惑うこととなった。
ーーきっと、挨拶みたいなものなのでしょうね。
妖魔といえば、めくるめく色艶帯びた伝説も数多い。ルカのようなお子様では想像しきれないような情事の記述、口伝が数多く残っている。
まともな史実よりもそれらの方が遥かに多いものだから、かなりの数は面白可笑しく想像で書かれたものなのだろうとも思う。
しかし、火のないところに煙は立たないもので。それらの噂になりうるだけの根拠は、あるはずだ。
ーー風様は、どうなのかな。
妙に気になってくる。
ちらと彼に視線を向けると、すっかりと慣れた様子でカトラリーを手にしている。
彼が一体いくつなのかは知らないが、過去の女性の一人や二人ーーいや、もしかしたら数十数百人単位なんてこともあるかもしれないがーーいたのだろうか。……いたのだろうが。
どう見ても、風の主は女性に困ることが一切なさそうだ。妖魔の恋愛事情がいまいち分からないのだが。相手が妖魔なのか、攫ってきた人間なのかすら。いや、さすがに人間はない――気がするが、妖魔に攫われた人を主題とした物語は数え切れないほど読んできた。
実際妻を娶るとなった際、相手がルカ――魔力すら持ち合わせていないちんちくりんの娘だと分かった時、彼は一体何を思ったのだろうか。大人ですらない、ただの小娘。
自分のことながら、風の主が不憫に思えてくるし、妙に自信が持てなくなってくる。
この後に及んで、自分で良いのだろうか。妖魔との出会いに浮かれてしまって、彼の気持ちなどとんと考えたことがなかったことに今更ながら気がつく。
はあ。と大きく息を吐いて、ルカは暗い顔で紅茶を口につけた。
「どうかしたか」
「へっ!?」
突然質問されて、何のことか分からず、ルカは間抜けな悲鳴をあげる。どうやらよほど表情が曇っていたらしい。
風の主の見せたわかりやすい気遣いに戸惑って、ルカは苦笑いを浮かべた。こんなにも人の感情の起伏に敏感な人だとは思っていなかったのだが。
まさか風の主のことで悩んでいるとは言えるわけがない。どうしたものかと、ルカは言葉を濁らせる。
頭の中をまとまらない悩みがぐるぐると回転する。ちらりと視線を背けると、憮然とした様子で控えているレオンが目に入った。
別に寝台での出来事を見られたわけでもない。しかし、明らかに動揺しているルカを目にして、何かあったことは伝わっているだろう。
――後で、聞かれるかな。
幼い頃から共に育ってきたからこそ、こういった色恋を目の当たりにされて気恥ずかしい。風の主に対する気持ちに変化が訪れはじめていることくらい、レオンは気がついているだろう。
彼はあくまでも従者なのだからと、平然と構えていれば良いのだろうが。ルカは単なる従者としてレオンを見ていないのも事実だ。
そのように、再び思考が脱線するものだから、困る。
気がつけばじいとレオンの方を見つめる形になってしまい、場の空気がなんとも微妙なものになってしまった。
「……お嬢様、今朝は話すべき事があるでしょう」
風の主の前だからだろう。言葉遣いは丁寧ではあるが、その奥底にはしっかりと棘がある気がする。ぶすりと心に釘を刺されたところで、ルカははっとした。
そうか、彼なりに助け船を出してくれているのかもしれない。
「……そうでした。雛の事なんですけれど」
「花の一族の子か」
「ええ、思った以上に順調に回復を見せています」
レオンの作ってくれた流れに乗っかって、話題を無理矢理変えてみた。
実際に話すべき事を言葉にしてみて、ようやく心が落ちついてくる。
いい加減、頭を切り換えるべきだろう。もやもやと脳内を占拠していた風の主のことは一旦横に追いやって、目の前の問題を整理しなければならない。
ふう、と、大きく深呼吸をして、ルカは目を閉じる。
雛の容態を思い出した。毎日食事を続けて約二週。顔色も随分と良くなってきたし、普通に立ち上がれるようになった。
そしてひとつ、驚くべき変化が現れたのである。
「本来ならば食事の席は避けるべき話題ではあるのですが……」
「?」
「大きな変化がありまして。宵闇に蔓延する病は“人化”の影響だとみて間違いないと、私は確信しました」
「何があったのだ?」
ルカが言い淀むからだろうか。風の主は訝しげな顔を見せる。
少々口にするのは憚られるが、とりあえず、皿の上は片付けた。
今なら腹をくくって話すのも良いだろう。そう決意し、ルカは気持ちを落ちつかせるため、もう一度紅茶に口をつける。
風の主の皿も空になっていた為、レオンがさりげなくそれを下げてくれる。実に良いタイミングだ。
ふう、と息を吐いて、そして風の主を真正面から見据えた。
「雛が……排泄行為をはじめました」
あの日の朝は衝撃的だった。
朝、顔色を変えた波斯が部屋に飛び込んできて、雛が死ぬ、と必死で訴えかけてきた。
体から体液がしみ出て、止まらない。この大嘘つき、と、首を絞められる勢いで飛びかかってこられて、レオンが必死でひっぺがえしてくれたのを覚えている。
もちろん、体液と言われてすぐさまイメージしたのは、血液のことだった。いよいよ、全く知らない病と遭遇することになったかと慌てて雛の部屋に飛び込んだわけだが。
そこにあったのは、涙で顔をぐしゃぐしゃにした雛と、寝具の上の大きな地図だった――。
「……毎日の食事を三食とらせているわけですから。もし人化が進むならばと、一度は考えたことのある変化だったのです。あいにく菫には見られなかったものですから、完全に失念しておりました」
「排泄……か……なるほど」
知識としては持っているらしい。風の主は額に手を当て、ぎゅっと目を閉じた。なにやら途方もない複雑な心境が手に取るようにして分かってしまって、ルカは彼の顔色を窺った。
妖魔である者が、排泄。
そのショックは計りしれない。
もともと雛や波斯、いや、大部分の妖魔は、排泄なんて知識を持っていないだろう。ただ、未知の生理現象との遭遇。それはそれでとてつもない恐怖であろうし。
風の主のように万一知っていたとしても、妖魔にとっては衝撃的な出来事であることに違いはないだろう。現に、雛はその日は一日中不安定だったし、今でも自分の体の変化に心がついて行っていない様子だ。
いや、雛だけではない。
波斯も、山猫も、菫も。そして他の下弦の妖魔たちだって、いつかは自分の身に起こるかもしれない現象に戦慄していた。
花梨など、あまりにショックすぎて、しばらく部屋に籠もってしまったほどだ。「大便なるものもあってね」なんて、追い打ちをかけることなどとても出来なかった。
「おそらく、他の者にもいつかは現れる現象でしょう。雛が比較的人化が早いことと、しっかりと食事をしていることから、真っ先に症状が現れたと思うのですよね」
「つまり、同じように食事をすると、他の者にも現れかねないと?」
「あくまでも、予測ですが」
「厄介な」
風の主は吐き捨てるようにして言った。
眉間に皺を寄せるどころか、明らかに不機嫌さを隠していない様子から、彼自身も相当にショックを受けたことが伺える。
手にかけていた紅茶を飲むか、飲むまいかを悩むように、カップをカチャカチャ揺らしていた。
「……風様。ショックを受けようがどうしようが、起こる時は起こる現象なんですよ。ほら、覚悟を決めてさっさと飲んでしまえばいいじゃないですか。というか、今更過ぎますよ」
今更食べる事に戸惑いを覚えた風の主に対し、さっき朝食も召し上がったじゃないですか、と更に言葉を付け足しておく。
「少なくとも、菫にはまだ症状が出ていないのです。筆頭妖魔の風様に出るはずがないじゃないですか。今日、明日の話じゃないんですから。数年後、とかかもしれませんし。ゆっくり腹をくくればいいのですよ」
「其方は……もとより慣れているからそのようなことが言えるのだろう」
こんなにまで気分をぺしゃんこにしている風の主は初めて見る。両目を閉じてううむ、と唸っている様子が、一周回って、少し可愛らしくさえ感じてきた。
「大丈夫ですよ、風様。愛嬌があっていいじゃないですか。私もいますし。困った現象が起きたら、気にせず相談して下さい」
くすくすと笑ってみせるが、風の主は相変わらずむすっとしたままだ。愛嬌……と、ルカの放った単語に更にショックを受けている気がしなくもないが、今は気にしないでおくとする。
「そんな未来のことを憂うより、風様。今は宵闇のことが問題なのです」
「……まあ、そうだが……」
「ほら、しゃんとして下さい。相談したいこともあるんですから」
「む……」
風の主は随分と落ち込んでいた様子だったが、ルカの呼びかけに眉をつり上げる。相当情けない表情になっていたのに気がついたらしい。ぎゅっと目を閉じた後、いつもの涼しげな表情に戻った。いや、これは無理矢理戻したのだろうが。
「今、私が問題視しているのは二つあるのです。一つは、何故、急激に人化が進んだのか。そしてもう一つは、これからどうするのか、ですね」
「ふむ……人化の進行については……」
「赤薔薇たちが、宵闇の村の妖気が急激に減っていると、言っていました。それは妖魔たち個人の力だけでなく、自然が持つ保有量にも影響が現れているとか?」
「ああ、そのようだ」
ふむ、と風の主は一つ頷く。
「明確な原因は私にも分からぬ。しかし、どこかで妖気の気脈が滞っている気配がするな」
「……風様でもわからないのですか?」
「私とて万能ではない。現地に行けば、その限りでもないのだが……」
ふと、風の主は目を伏せた。ひとつ息を吐いて、しばし。意を決したように言葉を吐き出した。
「其方も気がついているのだろう? 私はこの峰から出られぬのだ」
そう言って彼は、少し気まずそうに、ルカから視線を逸らしてしまう。
事実を彼の口から聞いてようやく――やはり、と。心にすとんと落ちてくるような心地がした。
そもそも、彼をこの部屋以外で見ることなど、ほとんどなかった。白雪との出会いに心配して顔を見せてくれたりもしたが、基本的に彼は部屋から出ない。下弦の峰へ誘っても、けして来ようとはしなかった。
最初は単に出不精かと思っていた。
明らかにおかしいと感じたのは、宵闇でルカが倒れた後の出来事だ。
彼はルカを抱えてこの部屋を出た。下弦の皆は戸惑いを見せ、最終的に赤薔薇に手渡されたあの時。赤薔薇は、風の主を制した。下弦の峰へ向かう直前に。
あまりにあからさまな交替。あのときの風の主の心配様を見れば、下弦の峰のルカの部屋までついてくるのが普通だろう。しかし、彼はそれをしなかった。
赤薔薇に交替した後も、ずっとルカを見つめていたのに、一歩も前に出ようとしなかった。あれはすなわち、満月の峰から出られないからこそだったのだ。
ルカは返事に困った。風の主が、自身のことを話してくれることなど、今まで一度もなかった。
彼はただ、ルカの話を聞いてくれたのだ。それなのに、初めて彼から話してくれることが、満月の峰から出られない事実、だって。薄々感づいていたとはいえ、その途方もない寂しさに気が遠くなる。
――何が、過去の女性だ。
――何が、女性に困らないだ。
ここから出られないと言うことは、誰とも巡り会えないと言うことではないのか。
彼がどうやって外の世界の知識を仕入れているのかは知らない。しかし、彼自身の目で見ることはできず、彼自身の足で歩くことは出来ぬのだ。
その孤独に途方もない気持ちになって、ルカは言葉を失った。
はじめて、風の主と向き合った気がしました。
引き続き、宵闇についてお話しします。




