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夜咲き峰の人々  作者: 三茶 久
第一章 風の主の婚約者
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まどろみの朝

 その日はいつも通りの朝のはずだった。レオンが先行して風の主の私室へ向かい朝食の準備。少し遅れて、菫と一緒に彼の元へと向かう。

 最近変わったのは、その僅かな距離に必ず上級妖魔の誰かが付き添ってくれるようになったこと。別にルカが声をかけるわけでもないのだが、彼らは自主的に、ルカの周辺に気を配ってくれているようだ。

 もっとも、琥珀はどうやら朝が弱いらしい。よってこの時間は顔を見せなかったが。



「赤薔薇様がいらっしゃいますね」


 菫がふと呟く。ルカもきょろきょろして探してみるが、近くにいるわけでもなさそうだ。鷹のごとく姿を隠しているのか、もしくは少し離れたところにいるのか。


 赤薔薇や鴉は特に気をつかってくれている。頻繁に見守っててくれるようだ。

 鴉の場合は、横にぴったりとくっついて離れないものだから、少なからず好かれているのだろうとは思う。

 しかし、赤薔薇とまともに会話できた試しのないルカにとっては、このような遠回しの気遣いを彼女が見せることに少々戸惑ってもいた。


「赤薔薇は思いの外、マメだし周囲に気を配っているわよね」


 ピンとはりつめた空気のようなものをまとっている。それが赤薔薇に対する印象だ。

 常に周囲に危険がないか気を配り、危険が迫れば真っ先に行動する。美しき戦士のイメージがルカの中には定着している。



 ――狼が言ってたものね。ブラッディ・ローズって。


 その単語を思い出すだけで、ルカの中でふつふつと煮えたぎるような興奮が湧きだしてくるものだから、困る。断然困る。

 戦闘のさなか、微かに耳にかすめた単語だったが、ルカが聞き逃すはずがなかった。

 ブラッディ・ローズと言ったら、ジグルス・ロニーの手記でも、別の史料でも、口伝ですら伝わっている、伝説級妖魔の名ではないか。

 妖魔の長寿具合から考えて、赤薔薇自身がご本人様だと言われても「ああなるほど……」と、納得は出来る。


 実際赤薔薇の持つ、少女から大人へと殻を脱ぎ始めたくらいの瑞々しい年頃の見た目に、漆黒の髪と深紅の瞳が美しく。真白い陶器のような肌や冷たい表情が命を感じさせない、ぞっとするような恐ろしさのようなものも兼ね備えている。

 さらにあの大鎌だ。

 小柄で、恐ろしくも美しい少女が、あの大鎌を構えてみたら――そりゃあ、幻想的にだろう。圧倒的な存在感と神秘性、そして非日常感。忘れられない美しさ。口伝で伝えたくなるのも無理はない。



 ――そんな彼女が、ただの肉大好き妖魔とは誰も思わないでしょうけれど。


 生ける伝説がこうも近くに、当たり前のようにいるのが何とも奇妙で、ルカは不思議な感じもした。が、彼女の生活感溢れる一面を知ってからは、単に美しいだけの印象は崩れ去っていた。彼女は、ただの肉大好き肉魔神だったのだ。



「でも、どうして赤薔薇は私にこんなに良くしてくれるのかしら?」


 そうしていろいろ考えたけれど、最終的な疑問はそこに行き着く。

 鴉も、琥珀も、花梨も。それぞれ向き合い、仲良くなっていった課程をルカ自身も実感している。しかし、赤薔薇だけはまったく心当たりがない。手紙を起き続けた事実はもちろんあるけれども、そんなにも心を打ったのだろうか?

 いかんせん彼女も無表情なもので、何を考えているのかルカには全く理解が出来なかった。


「……うーん、あの方は独自のルールで動いていらっしゃいますからね」

「ちゃんとお話聞いてみたいけれど、会話もなかなかかみ合わないしね……」


 おそらくこの会話も聞こえているだろう。しかし、ルカも菫も躊躇せずに彼女の――それほど外聞の良くない――認識を交換し合う。

 赤薔薇自身のことはまだまだ理解できそうにないが、それでもわかったこともある。

 懐が大きいのか無頓着なのかは分からないが、否定的なことを言われてもまったく気にする様子を見せないのだ。

 それどころか「その通り」と肯定されたことすらある。むしろほんのり頬を緩めて、ちょっと嬉しそうにするから、よけいにわからない。


 つまり、赤薔薇のことはこれからもよく分からないのだろう。

 だから、ルカは事実だけをとらえることにした。何故か自分に心を砕いてくれている。今と態度も対応も、何一つ変える必要がないということだ。




 ***




 風の主の部屋の前まで行くと、菫が手をかざし、妖気を送る。これで到着したことを知らせるわけだが、今日は何故だか返事がなかった。

 いつもならすぐに風の主の声が届くのに、と、菫と二人で首を傾げる。

 きょとんとしていると、光の扉からレオンが顔を出した。


「……まだお休みでいらっしゃるんだ。朝食の準備は出来たんだがな」

「そうなの?」

「起こそうとしたんだが――」

「そう。じゃ、部屋で待たせてもらいましょ」


 まだ眠りについている殿方の部屋へ入るのは完全にマナー違反だ。一応婚約者な為、節度や礼節のようなものが必要になるはずだ。

 しかし、それも今更だ。最近はすっかりと通い慣れてしまっているため、ルカは躊躇なく部屋へ入ってしまった。


 レオンの静止を振り切って、ルカは光の扉を潜った。いつもと変わらぬ、夜咲き峰の筆頭妖魔に似合わないこぢんまりした部屋。部屋の中央には彼の生まれ石が弱く輝き、いつも過ごす長いソファーが置いてある。

 ちらと視線を左へそらすと、さほど大きくない彼の寝台が目に入った。


 レオンのため息が聞こえた気がしたが、当然無視だ。

 瞳を閉じ、微動だにしない様子で眠りにつく風の主に引きつけられるように、ルカはフラフラと足を進めた。


 後ろではレオン達が奥の部屋へ引っ込んでいくのがわかる。気を利かせてくれたのか、はたまた付き合いきれないのかは定かではないが。

 ルカはそっと寝台に腰をかけ、風の主の顔を見つめた。

 今まで眠りに落ちた彼を見たことがなかった。赤薔薇のように、流石に立ったまま意識を手放すようなことはしないらしい。妖魔らしく、息すらせず微動だにしない眠りがまだ不思議で、ルカはそっと彼の頬に手を当てた。


 ――長い睫。それに、なんて綺麗な……。


 うっとりするほど整った顔立ちに、ルカの目は完全に奪われる。神秘的なほど、均整のとれた顔。鮮やかな縹色の髪が美しく、撫でると絹のように滑らかだ。

 静かな空間で、ただ一人、こうして風の主の顔を見ているだけで、時間を忘れてしまいそうなほどにぼんやりとしてしまう。


 ほう。と息をつく。

 完全に見とれてしまっている自分を、認めなければなるまい。

 ここ最近、風の主の姿を見るだけで心の奥がほっこりとするような、なんとなくこそばゆい気持ちを感じている自分がいる。


 ――広くて、あったかい胸板だった。


 先日、抱きしめられたし、自分から抱きついたこともあったのではないかと思い出す。長い眠りから覚めて、彼を安心させるためとはいえ、随分と思い切ったことをしたものだ。

 思い返すと、ぎゅっと抱きしめられた感触が蘇ってきて、ルカは顔に血が上るのを感じた。

 気まずくなって、頬に当てた手を離そうとしたその時だ。




「……!」


 ぱしっと、その手を捕まれてしまってルカは目を白黒させる。

 そうして、風の主は瞼をそっと開く。碧色の瞳がルカの姿を映し出し、ルカもうっかり目が離せなくなった。


「……朝……か……」


 虚ろな様子で、風の主は瞳を左右に動かした。手を掴んだのは無意識らしい。

 風の主は実に朝が弱い。朝食時も少しぼんやりとしている様子がよく見受けられたが、まさに寝起きの今も、例外なくぼんやりとしているようだ。

 そんな夢か現かのまどろみの中でゆっくりとルカに視線をうつして、しばらくの間直視する。

 いつものような精気を持たぬ気怠そうな瞳が、妙に色っぽくて、ルカは赤面した。

 瞬間、ぐっと手を引かれた。何事、と思った時はもう遅い。彼の懐へ引き寄せられ、ぎゅうぎゅうに抱き寄せられる。


「……わっ! ちょっ……風様っ」


 悲鳴に近い抗議の声をあげるものの、届いているかどうか定かではない。余っている手に力を入れ、逃れようとするが、そう簡単には離してくれないらしい。腰に手を回されて逃れられない状況に、ルカは心の中で悲鳴を上げる。


「風様っ。寝ぼけてますよねっ、風様!」


 ダメ元で再度呼びかけてみる。細身の体なのに、どこにそんなに力があるのかというくらい押さえ込まれ、動こうにも動けない。

 気がつけばルカの体は反転させられ、寝台に押しつけられた。何事、と天井の方を見ると、上から風の主に覆い被さるように迫られている形になっている。腰がカッチリと固定されており、ぼんやりとしたままの風の主に見つめられるというありえない状況に、心臓が爆発しそうになった。


「風様っ! 止めて下さいっ、朝ですよ、風様ぁっ」


 情けない叫び声を上げて、ルカはいよいよ抵抗した。この状況ではもう、心がもたない。

 ただでさえとてつもなく美しい妖魔だ。抱きしめられるだけで、心が暴れるのに、何故今、自分は押し倒されるという状況へ陥っているのだろうか。

 ばくばくと鼓動が早くなり、押さえきれない感情に翻弄される。

 ちょっと寝顔を拝見しようと思っただけなのに、なぜこんな状況になっているのか。全く理解が出来ず、じたばたと体を動かして、首を横にふる。


 しかし、うっかり風の主と目が合ってしまう。

 吸い込まれるような碧い瞳に完全に目を奪われて、ルカは一瞬抵抗を忘れた。だんだんと彼の切れ長の瞳が、自分に近づいてくるのが分かる。ぼんやりとそれを見つめ返してしまってしばし。

 美しい彼の顔が間近に迫ってくるのを感じて、ルカはハッとした。


「風様ってばっ!」


 間近で叫び声を上げると、流石に届いたのだろうか。

 ピクリと彼の肩が震えるのが分かる。


「……?」


 ぼんやりとした瞳は次第に精気を帯びてきて、彼は首を傾げた。


「ルカ……か? 其方、何をしておるのだ?」


 あれだけ人の気を揉ませておいて、当の本人はどこ吹く風。むしろルカを責めんとする態度で、眉を僅かにつり上げる。


「もうっ、風様のせいじゃないですかっ、離して下さい!」


 真っ赤になったり真っ青になったり、感情が大忙しだったのに、風の主はまったくの無自覚。その事実が妙に悔しくて、ルカは声を張り上げた。そしてそのままそっぽむく。

 いくら風の主が目を覚まそうが、まだ彼に抱きしめられたままの状態だ。このまま彼の瞳を見ようものなら、再度、心臓が持たなくなりそうで釈然としない。自分ばかりが振り回されるのはごめんだった。


 しかし、なかなか思うようにはいかないらしい。風の主は相変わらずの涼しげな様子で、離れるどころかルカの髪をなで始めた。少し楽しげな様子なのは気のせいだろうか。


「ふむ……目覚めると其方がいる……些か理解できない状況ではあるが」

「私も理解できませんっ」

「悪くない」


 最後の台詞に、全ての感情を持って行かれてしまった。

 悪くない、と彼が言う。朝、目覚めた時にルカの顔が見えることを、不快に思うどころか、悪くない、と。

 折角冷静さを取り戻そうとしていたのに、再度ルカの心臓が暴れはじめた。


「……私は、ちょっと……起こそうとしただけなのにっ」


 本音では、寝ている顔を見たかっただけなのだけれども、そんなことは言わないでおく。細々と恨みがましく言い訳を漏らしながら、ルカは首を横に振った。

 降参である。

 風の主に、抵抗なんて、出来そうにない。

 憧れの筆頭妖魔で、婚約者でもあり、ルカ的にはちょっと淡い気持ちを抱いてしまいそうな彼に、朝から押し倒されている状況。いかんせん小娘で恋愛経験ゼロのルカにはまだ早い。


「これ以上は心臓が持ちません……勘弁して下さい……」


 懇願するように言うと、緊張感に耐えきれなくなって、ルカはそのままぐだっと力を抜いた。風の主の寝台の上で考えることを手放し、ただただ横たわる。彼と押し問答をするだけ心臓に負担がかかる。もう無理と言わんばかりに、意識を手放すことを選択した。


「勝手に来ておいて、何を言っておるのだ、そなたは」

「……うう、風様こそ、勝手に抱きしめるわ勝手に……うっうっ……」


 伏せったまま、顔を隠して宣った。今、顔が真っ赤になっているのは想像に容易い。そのまま見つめられるのが恥ずかしくて、ルカはただただ縮こまる。

 その小さな抵抗すらも、風の主は涼しい態度でスルーするかと思っていたが、どうやら違ったらしい。

 ピクリと体を動かして、彼は固まった。



「……私が、何かしたのか……?」

「自覚無いんですねっ。酷い……っ」


 私があんなに抵抗したのに、離してくれないから。と、言葉を付け足す。

 その言葉に僅かな混乱を見せ、風の主は体を起こした。ふと、ルカにのし掛かる力が軽くなって、ルカも視線を彼の方へ向けた。


 片手で頭を抱えるようにして、無表情のまま、固まった彼がいる。

 その瞳は真っ直ぐルカを見据えているが、僅かながら戸惑いの色が見て取れた。


「……その……私が、本当に何かしたのか?」

「しましたっ。すっごい、しました。心臓、持ちませんからっ」


 ようやくルカの話を聞く気になったらしい。ここぞとばかりに責め立てると、風の主は益々狼狽する。

 そんなまさか……いや……と、ぶつぶつと独り言を呟いては、自身で否定する。己の中で押し問答をするようにして、憮然とした表情のまま彼は起き上がった。



「……すまない、少々、頭が働いていなかったようだ」

「ううっ」


 恨むような目で、風の主を見つめ返したが、ふとルカは気がつく。

 風の主が、素直に謝っている。

 たいしたことではないし、あくまでも会話の流れでの言葉なのだが、初めての状況に目を丸めた。


「……ルカ?」

「……っ、もう、いいですから。朝食にしましょう」


 風の主との新しい一歩な気がして、ルカの心がぽっかりとあったかくなる。体を起こして、衣装の皺をのばした。そうしてようやく、先ほどまで暴れ回っていた感情が凪いでいき、平常心を取り戻そうとした時――。


 ――ルカの頭が抱えられるように引き寄せられ、ルカは再度目を丸くする。


 撫でられた、と思った時には、彼の顔が頭に近づいていた。

 そのまま、ちゅ、と、髪にひとつ優しく口づけを落とされる。


 当然ながら、ルカの平常心は崩壊した。

風の主はお寝坊さんです。


次回こそ、病についての話し合いです。

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