夜咲き峰の妖魔たち(2)
そこには、いつの間に現れたのか二人の妖魔が対峙していた。
一人は、謁見の間に並んでいた少女だ。つい先ほど見たのだから、間違いがない。
まさにルカを殺そうとしていたのだろう。何の感情も浮かべていない少女は、まるで人形のように愛らしく、美しかった。
ほっそりとした体躯に白い肌。漆黒の髪は無造作に伸ばしているが、それが妙に色気を感じる。大きな瞳は深紅。大きな薔薇が装飾された同じ色のドレスは体にぴったりと。さらにスリットが入った部分から脚がことさら白く映えた。
そんな美しい少女が振り回しているのは、彼女の背の倍ほどもある大鎌だった。
先ほど聞いた名前と一致することから、彼女こそ、下弦の峰の筆頭妖魔、赤薔薇なのだろう。
だったら、突然の侵入に襲いかかるのも無理がないのかもしれない。であれば、彼女と対峙する妖魔は何だと言うのだろうか。
彼女と対峙している所見の男は、一言で言うと奇妙だった。何よりも、まずはその衣装。
――お父様の衣装に似てる。
ルカにとっては比較的なじみのある衣装。それは袴だ。
異国の衣装を常に身にまとっていた父のことを思い起こさせる袴のようなものを着てはいた。が、膝下でぎゅっと絞り込み、袴にしては丈が短いキュロットのような形をしている。さらにその下はただの裸足。
だっぽりとした袴を固定するはずの帯すらも崩しており、腰よりも若干下にずれてしまっていた。
それだけなら、みっともないの範囲で済むのだが、問題は彼の上半身だ。
裸、だった。
細身の体にうっすらとついた筋肉は美しく、肉体美であるとは言えよう。首元が寂しいのだろうか、数珠に似た首飾りを下げているのも良いだろう。問題視すべきなのは、そこではないからだ。
何度も告げるが、彼は、完全に上裸だった。
だからこそ崩れた帯が問題になってしまう。ずれ込んだ彼の袴は、彼の臀部を隠しきれていない。割れ目の先がうっかり見えてしまっているから、ますます困る。
ルカから見て、目の前の男は、全身の五分の三が裸とも言える、悲惨な状況だったのだ。
「大丈夫だよ。赤薔薇は少し、気が立っているだけだから。テリトリーを侵されたと思ったんでしょ。ふふ、獣みたいだね」
その男が振り返ったところで、ルカはまたまた視線を背けた。なにも大丈夫な要素がなかったからだ。
笑った口元は整った形をしているのだろう。が、彼は両目を布で覆っていた。一体なんだと言うのだろう、目が見えないではないか。というか、隠すべきはそこではないだろうが。
灰白色の毛は肩まで。前髪だけを長くのばし、毛先を赤く染めている。変な髪型、変な色、変な目隠しに変な袴。隠すべきところを隠さず、隠さなくていいところを隠してしまう。上から下まで何もかも変で、ルカは襲われていたという状況も忘れ、集中力をぷっつり切らした。
――なんだ。なんなんだ、この男。
基本的に、ルカの妖魔専用脳回路は単純だ。妖魔の存在に至っては「素敵!」の一言ですべて片付けられてしまうはずだった。
しかし、この男に関しては、何かが違う。
そもそも、今この状況でルカが恐怖を感じているのは、自分を殺そうとした赤薔薇に対してではない。目の前の男――仮に全裸ならぬ、五分の三裸の君と名付けよう――断然、この変態の方だ。
しかもこの恐怖の種類は、自分の身の危険を感じた故のものとは異なっているようだ。
自分の中の完璧なる妖魔像がガラガラと音をたてて崩れていく。同時に、目の前に現れた妖魔の新定義が、受け入れられそうにない。この不愉快極まりない感情を、上手いこと言葉に出来なかったかと頭をひねった。
「……わかった」
一つ、脳内である結論にたどり着き、声が漏れる。
「お嬢様」
動くな、と、言うのだろう。抱きしめるレオンの腕にぐっと力がこもる。
「こういうの、生理的に受け付けない、って言うんだ」
ぞわぞわする感情を定義できて、ルカは満足できた。自分の中にあるはじめて芽生えた感情に合点がいき、希有なる新体験に心を震わせる。
「……それはひどいでしょ」
しかし相手は違うようだ。赤薔薇と対峙しつつも、落ち込んだような声を発している。
その瞬間、赤薔薇は身を引き、もう一度大鎌を振りかぶる。冗談など言っている場合ではなかった。彼女の纏う殺気に、瞬間的に視線をとらえられ、身を固める。
「お嬢様!」
レオンはそんなルカを後ろに庇うようにして、懐からナイフを取り出す。同じように、菫もルカに駆け寄ってきた。彼女もどこからか、小型のナイフのような鏢を身につけていた。
しかし、どうやら彼らの出番はないらしい。
――ガキンッ! キン、キンッ!!
激しい金属音。
赤薔薇が大鎌を振りかざしたのは、ルカに対してでなく、五分の三裸の君だったからだ。
赤薔薇が大鎌を構えている一方で、この五分の三裸の君に至っては丸腰だ。そんな彼が何らかの方法であの大鎌を受け止めたのだから、その実力は推して知るべし。
武門の出故、幼い頃から家族やレオンの訓練を間近で見てきたルカでさえ、何が起こっているのか分からなかった。ただ一つ判断出来るのは、五分の三裸の君が自らの腕を光の膜のようなもので覆い、対峙していると言うこと。
「赤薔薇。君じゃ僕には勝てないよ」
「うるさい。黙れ」
「でも、今後もこんなに警戒されると、僕、困っちゃうんだ。そろそろ許してくれないかな?」
「今後など。ないっ!」
ガキン、ガキン、と、鋭い金属音とは対照的に、二人の会話は温度が低く、落ちついている。
だが、諭すような五分の三裸の君の言動に苛ついているのだろう。赤薔薇は先ほどまでの無表情と異なり、瞳に怒りの色を帯びていた。
「あるよ。ルカがここに居るならね」
……嫌な言葉を聞いた気がする。ルカはうっすらと背中に汗をかく。
そもそも、自分はこの男に名乗った記憶もない。名前を知られているだけである意味恐怖だというのに、これ以上何をやらかしてくれるのだろうか。
「ほら!」
そう告げて、五分の三裸の君は一気に距離を詰めた。しかし攻撃をする為ではない。
赤薔薇の美しい顔に、ぐっと彼自身の顔を近づけて、両目を覆った布をめくり上げた。
「――っ!」
もちろん、ルカからは彼が何を見せたのかは確認出来ない。しかし、彼の目隠しの下の何かは、赤薔薇を止めるのに十分だったらしい。振り上げた大鎌はそのままに、赤薔薇は大きく目を見開き、硬直した。そして、絞り出すようにして声を出す。
「鷹。本気なの?」
「まあね」
「――わかった」
何を納得したのか、赤薔薇は振りかぶっていた大鎌を空気中に溶かした。同じようにして、鷹と呼ばれた――五分の三裸の君も、覆っていた光を消し去る。そして、再び両目に布をかけた。
「私の峰での勝手。許さない」
「大丈夫。君の領域は侵さないから」
「どうだか」
冷たく言い放ち、次に、思い出したようにルカの方向へと振り返った。
「眠る。……妨げないで」
そしてそれだけ告げ、彼女は再び姿を溶かした。
赤薔薇が溶けて消えてしまった後、場に残るのはルカたち3人と、目の前の男。背を向けた彼の臀部は、相変わらず割れ目の先っちょが見えている。実に寒そうだ。引き締まった体は、確かに美しいのだが、とりあえず見るに堪えない。
スッと視線をそらしてしまったのは、ルカだけではないらしい。レオンが「見苦しい」とつぶやいたのを、ルカは聞き逃さなかった。
「さて、赤薔薇も許してくれたし、今後ともよろしくね」
突拍子も無い物言いに、ルカは目を丸める。何事ぞ、とばかりにレオンと向き合った。
「いや……」
全力で御免被る。と言っても問題無いだろうか。
興味山盛りの対象である妖魔であることは間違い。しかしその興味以前に、目の前の男とはあまり関わり合いになりたくないとルカの本能が告げてる。正直、早く会話を切り上げ、どうにかしてここを逃げたいところだ。
「助けてもらったのはありがとう?」
つい疑問形になってしまうのは、そもそも自分が狙われたのではなかったのでは、という結論が出てきてしまったからだ。
たまたまルカ達が上弦の峰にやってきた時、五分の三肌の君もやってきた。だから狙われた。そう考えると納得できる。
「いや、今のは最初から僕を狙っていたからね」
そして案の上の答えだ。五分の三裸の君こと鷹は、くつくつと笑いながらルカの方へ歩み出した。それに反応し、再びレオンが庇うようにして前に出る。
「お嬢様に近づかないでもらおうか」
「ん〜、そんな怖い顔しなくていいよ。僕はルカを傷付けないし、傷付けられるようにも出来てないから」
思わせぶりな物言いに、ルカたちは揃って顔をしかめる。
色々質問したい気持ちがあるのも事実だが、早いところ会話も切り上げたい。そうして対応に困っていると、菫が矢面に立ってくれた。
「あの、鷹様。恐れながら、ご質問よろしいでしょうか」
「何だい?」
「何故はぐれである貴方様が、赤薔薇様の領域、下弦の峰にいらっしゃるのでしょうか?」
菫は、声が震え、オレンジの瞳も同じように揺れている。なるほど、彼女は下級妖魔だったはずだ。
人間社会に当てはめてみれば、下級貴族が上級貴族に意見するなどありえない。おそらく、妖魔社会の構造的にも同じような――いや、もしかしたら人間以上に厳しい上下関係があるのかもしれない。
そこまで考察したところで、はた、と疑問が湧き出る。そもそも目の前の鷹は、どの階級の妖魔なのだろうか。先ほど菫が告げた「はぐれ」という言葉。それはこの妖魔社会に属していないと言うことでは?
妖魔社会の構造など今のルカの知り得るところではない。菫に任せて様子を見るのも良いのかもしれない。というよりも、極力、この不審きわまりない男に関わりたくない。ルカはそう心に誓って、菫に丸投げすることにした。
「ん〜、そうだね。そこに僕の可愛いルカがいるからかな」
だが、ルカの思惑など早々に崩れ去ることになった。
聞き捨てならないセリフに、全身の毛穴という毛穴がぶわっと開くような寒気を覚える。
どうやらレオンも同じらしい。眉間の皺を深め、何かを考えるように目を閉じた。
「ごめんなさい、私、貴方との面識なんてこれっぽっちもないのだけれど?」
「そりゃあ、君に姿を晒すのは初めてだもの」
「ええと?」
「でも僕ね。ずっと見てたんだ、君のこと」
「わ、私、さっき、夜咲き峰に来たんだけど!?」
――やばいやばいやばいやばい!
もはや抗いきれない恐怖に、肌にぶつぶつが現れる。
「鴉が面白いの引っさげてきてるから気になっちゃってさ。ついて来ちゃった」
「尾行られてたって事!?」
「うん。でも、今まで気づかなかったでしょ? ふふっ」
お願いだから、そんなに得意そうに言わないで欲しい。
ルカがちらりと視線をそらすと、レオンの表情が氷点下へと突入しているのが分かる。ナイフを持つ手にぐっと力を込めていた。
「おい、変態」
「ん? 誰のこと?」
「貴様だ。てめえ、いい加減にしろ。我慢するにも限度がある」
――ほらね。
ルカはため息を禁じ得なかった。むしろ、鷹が現れたときから危ない予感しかしなかった。
口は悪いが根は真面目なレオンは、殊更服装に関して厳しい。そんな彼が、目の前の五分の三が裸という奇天烈変態男に対して、何も思わないわけがない。
「とっとと前から消えやがれ」
「えぇー、酷いなあ! せっかく出てきてあげたのに」
「嬉しかないんだよ。むしろ邪魔だ。不愉快だ。視界の暴力だ!」
「そこまで言う? まいったね、ふふ」
散々ののしられているにもかかわらず、鷹は、どことなく嬉しそうに笑う。
「僕は楽しいからいいや。ね、ルカ。僕が一緒にいてあげるね」
「うえ!? 結構です! 間に合ってますから!」
もう、放っておいて欲しい! そう強く思わざるをえない程、彼のぐいぐい迫ってくる謎のアピールに、ルカはたじろいた。
この近寄らないで欲しい思いをどう伝えて良いものか、全く分からない。説得するのは不可能と早々に判断した方が良さそうだ。
頭が働かなくなってきた。よってルカは、この場をおさめる一つの手段を選択した。グイと、鷹と対峙するレオンの手を引く。反対の手は菫の肩を叩いて。
「逃げるわよ!」
撤退だ。
鷹を背にして、ルカはとにかく全速力で走った。
「菫、案内して!」
「かしこまりましたっ」
パタパタと、足音が三つ、夜咲き峰を響かせる。鷹がいるのとは反対の道へ。とりあえず、彼の目の前から立ち去ることを最優先した。
「おやおや」
余裕たっぷりに、鷹がこちらを見ていたことにも気付かずに。
五分の三裸の君推参。
全力で逃亡したいです。