宵闇に蔓延る病(1)
再びこの地に戻ってきたと、ルカは思う。
ルカを抱え込むのは鴉。山猫を赤薔薇が。そして花梨。いろいろ話し合った結果、宵闇の村へ向かうのはこの五名となった。
今日は転移の陣を使うつもりもなかった。飛べない菫とレオンはお留守番。そして琥珀は彼らを守るために残ってもらうことにした。
隠密行動をとるために、妖魔たちには全員気配を消してもらっている。この手の隠蔽は花梨の得意とするところらしく、彼女には更に妖気を覆い隠す衣を製作してもらった。全員がそれを羽織り、自然に身を溶かす。
ルカも鴉の妖気に便乗するかのように覆い隠してもらうことになり、わくわくが止まらない。魔力も妖気も持たぬ身だからこそ、こういった不思議な力を体験できるのが喜ばしい。
そうして、夜咲き峰を下ってゆく。
山猫は飛べると思っていたのだが、どうやら違ったらしい。驚くべき事に、山猫は自力で夜咲き峰の断崖絶壁を登ってきたとか。
かかった期間は約三日。糧を得ることも祈ることも出来ずにいたため、登り切ったときに完全に倒れてしまったらしい。つまり、妖気不足と言うことだ。
夜咲き峰で妖力回復は目を瞠るものがあったらしく、彼はあっという間に元気になってしまった。だからこそ、今日は同行をお願いしたわけだが。
「山猫。言っておくけど、今日は誰彼かまわず喧嘩ふっかけちゃ駄目だからね」
「わかってるわかってる」
「わかってない!」
はあ。と、ルカは大きくため息をついた。
山猫。花の一族の若い妖魔たちを心配するような心優しい一面に完全に油断してしまったが、ルカの中での彼の印象は完全なる“戦闘馬鹿”に位置づけられていた。
元気になったと思ったら、鴉に喧嘩をふっかけて返り討ちにあい、赤薔薇に喧嘩をふっかける前に返り討ちにあい、琥珀に喧嘩をふっかけて返り討ちにあい、花梨を口説いては返り討ちにあっていた。
レオンこそ相手をしなかったから何もなかった。しかし、レオンの機嫌が悪い場合、彼すら参戦しかねない。
下弦の峰最弱決定戦が行われなかったことにルカは心から安堵した。どちらが負けたとしても、非常に面倒なことになっていただろう。とにかく、山猫の行動に、ルカはハラハラしっぱなしだった。
この山猫という男、上級妖魔にはかなわないようだが、宵闇の妖魔たちの間ではトップクラスの腕の持ち主なのだろう。自分の腕に自信を持っているからこそ、負けっ放しの現状が逆に楽しくて仕方がないようだ。ルカにはさっぱり理解できない感情である。
もっと強くなると寝言を言いながら、毎日元気になっていく様子を眺めていると、なんともいたたまれない気持ちになったものだ。
「いい、山猫? 貴方の役目は、雛の病状を心配することだけ。後は私が交渉するから」
「へいへい」
返事をするものの、右から左へ通り抜けた感が否めない。
山猫は実に楽しげに、耳をピョコピョコ、視線もキョロキョロと動かしている。
空を飛ぶことなど何年ぶりだか、と言っていた。宵闇の村には空の一族という、飛行可能な種族もいるらしい。その昔、彼らに頼んで飛んだことがあるのだとか。
雛を助けに行くという目的を完全に忘れているのではなかろうか。実に楽しそうな様子が不安でたまらない。
「……花梨、山猫の監視、よろしく」
「心得ましたわ」
ルカの呼びかけに、花梨が心得たと微笑む。
山猫の思考回路は実に単純に出来ている。強くなりたい。美人好き。この二つだ。
もれなく花梨にも赤薔薇にも弱いわけだが、平気でポンポンとだめ出しする気が強い正統派美人花梨こそ、山猫の押さえ役に適任だった。
山猫は花梨を見てよくぼーっとなっていたし、何を言われようとも頬を染めてにへっとしていたから、間違いないだろう。
妖気を隠す役目だけでなく、山猫の件もあって、今日は琥珀ではなく花梨に動向をお願いした。もちろん出番がなければそれに越したことはないわけだが。
「ルカ、見えたぞ」
飛行してしばらく。直接西の森へ向かい、花の一族の集落が確認できるところまでやってきた。ここまでは特に何の問題も無い。
全員で頷きあって、地面へと降り立つ。今、完全に妖気は隠している。この状態で、ルカ達に気付ける者はいないと思う。
ルカは颯爽と矢車の住まう家へと足を進めた。外には誰も出ていない。みな家に閉じこもっている様子は相変わらずだ。
鴉に目配せすると、彼は心得たように矢車の家の扉に手を触れる。僅かに妖気を流したのであろう。間もなく、慌てたように矢車が飛び出してきた。
「……やはり貴女方ですか」
彼は敵愾心をむき出しにしていた。
普段は温厚なのだろうと予想できる顔つきに怒りを浮かべると、とたんに威圧感が表れる。ぷるぷると体を震わせながら、にらみ付けてくる瞳。案の上の歓迎ぶりに、ルカは気持ちを落ちつかせようと深呼吸する。
「入れていただいてもいいかしら? 私たちと接触していること、貴方達も知られたくはないでしょう?」
ルカの言葉に、矢車は口元を引き結んだ。眉間に皺を寄せ、やはり脅しなさるか、と声を漏らす。
そうしてちらと山猫の存在も確認したらしい。僅かに狼狽した様子を見せるが、それも一瞬のこと。くるりと背を向け、どうぞ、と冷たく言い放った。
場所を矢車の家に移し、ルカ達は全員、木の幹の中の家に移動した。
中に入ると、外で見るよりずっと広い空間が広がっていた。
これも何らかの妖気によるものなのだろうか。ゆったりとしたリビングスペースに、寛ぐための大小ソファ。円状の空間に、ぐるりと小部屋が並んでいるらしく、等間隔に五つの扉が存在する。
家具は木の素材で作られたものや、手縫いの刺繍が入った布などが飾られ、夜咲き峰の城と比べると、随分と温かみのある庶民的な空間が広がっていた。
中央のソファに腰掛け、矢車と向かい合う。
その様子を窺うかのように、それぞれの小部屋の扉から、何名かの妖魔が顔を出していた。
しん、と静まりかえる室内。ルカは、矢車の顔をじっと見つめ、結論を告げた。
「雛を、助けに来ました」
ルカの言葉が予想外だったのだろうか。矢車は僅かに眉を上げた。
「山猫に聞きました。宵闇で、原因不明の病が広がってる。そして、雛って言う妖魔が倒れたってことも」
「山猫……貴方、何処に行ったかと思ったら」
矢車は嫌悪感をあらわにする。が、山猫は飄々とやり過ごしていた。
「おう。ちょっとな。雛が心配でよ。顔を見せてくれねえか?」
「病で伏せっているのです。見せられるわけないでしょう」
「よし、わかった。じゃ、ちょっと失礼するな」
そう言って山猫は、あっさりと矢車の言を無視した。何の気兼ねもなく奥の小部屋に入っていこうとする。
慌てて上級妖魔皆で彼を押さえ込むことになった。早速過ぎてもはや笑えない。きっちりと山猫をにらみ付け、ルカは矢車に頭を下げる。
「……山猫が失礼しました」
「貴女は山猫まで従えたのですか」
「そんなわけないでしょう。先ほども言ったように、山猫は私を頼ってきてくれただけですよ。雛を助けて欲しいって」
何かを推し量るような目で、矢車はルカを見つめた。
ルカの言葉に嘘偽りはない。信じてもらえるかどうかだ。しかし、今ルカに出来るのは、自分たちなら雛を助けられるかもしれないという可能性の提示だけ。
「私なら雛を助けられるかもしれない。だから話を聞いて欲しいのです」
「人間の力は借りません」
「妖魔の矜持ってやつでしょうか? 人間も妖魔も関係ないでしょう?」
「我々は貴女に取り込まれる気はないんだ」
矢車の語尾がきつくなる。キッとルカをにらみ付けてくるが、このまま押し問答をしているつもりはない。
「――思うに!」
語気を強める。その言葉に、矢車の体がぴく、と動く。
突然大声を出したものだから、下弦の皆も目を丸めてルカに注目した。
「――思うに。雛に限らずこの宵闇の村の者の不調が出てきているのは、妖気の枯渇。これが原因と考えて問題ないのでしょう?」
「何をいきなり」
「つまり、本来貴方たちが糧で得ている妖気が、今まで通り吸収されていない。もしくは、吸収されているのに消費が早くなってしまった……このあたりの現象が起きているのではと考えられますね?」
よもや具体的な話がはじまるとは思っていなかったのだろう。矢車は怪訝な顔つきで、ルカに向き直る。
「……頭痛。体温低下による体の震え。ひどい倦怠感。大なり小なり、皆、この症状が出ているのではないかしら?」
ルカの口から出たのは、彼らに現れた具体的な症状の羅列。おおよそ当たっていたのだろう、矢車はぴくりと肩を震わせる。
「山猫に……聞いたのですよね?」
「半分はそうですね。でも、症状については私の憶測でしかありません。私、病の原因が見えてきているので。治療法だってなんとなくわかります」
ルカには確信があった。
彼らの身に何が起こっているのか。
もともと風の主の呪いについての知識を借りるつもりでいた。しかし、いろいろと原因について考察した後、ある結論へと至ったのだ。
――呪いでも、何でもなかったのよ。
そしてその治療法が分かるのは、おそらくこの峰でルカとレオンだけだろう。誰もが知り得ない情報。だからこそ、ここで矢車に負けるわけにはいかない。そんなことでは、誰も救えないのだ。
「ことは一刻を争うの。雛を助けられたと証明できれば、皆も私の方法で助かる気になってくれるでしょう? この状態の宵闇の村を放っておくことなんて出来ないのです、私は」
「そうやって、妖魔たちを騙して、自らに取り込んでいったのですか貴女は……! 原因は元々貴女が作ったのではないですか!」
「知らないわ。関与していないことよ」
「そうやってまた嘘を……!」
ばん、と、矢車がテーブルに拳を打ち付ける。鴉が警戒して前に出ようとしたが、ルカはそれを手で制した。
よほど雛の病状が良くないのだろう。焦燥感溢れる様子が見て取れる。
ここでルカは周囲をとりまく妖魔の顔色も窺った。土気色の顔をして、瞳には力がない。ルカが上述した症状が、彼らにも現れているのだろう。だからこそ具合の悪く伏せっていたいこの状況でも、話の行方を見守っているのだろう。
「おい、矢車よう。お前、ちったあ自分で考えたらどうだ?」
「山猫」
「てめえが誰の言を信じて、嬢ちゃんのことを疑っているのかは知らねえ。だが、嬢ちゃんの話も聞かずに敵対するのは何故だ? 俺たちは妖魔だ。誰を信用して誰を信用しないかは、他の奴らが決めることじゃない。己で決めることだ」
「……私は、花の一族を導く立場にあるのです」
「だったら尚更だろ。てめえで決めないでどうするんだって言ってるんだ」
山猫は明らかに声を荒げた。
だから村は嫌なんだ、と、言葉を付け足す。
はぐれである彼は、誰かを群れるようなことをしない。それはある意味とても妖魔らしく、彼も誇りに思っているのだろう。
下弦の峰で過ごしたルカでもわかる。己で決め、行動する。その意思は誰が関与するものではない。彼らは妖魔の矜持でもって、自らの意思に誇りを持っている。それこそが当たり前だと思っていた。
しかし、宵闇の村では状況が違ってくるらしい。ルカが思っているよりも、彼らは人間に近いのかもしれない。これが上級妖魔と下級妖魔の違いだとでも言うのだろうか。
なるほど、上級妖魔には一人で生きていく力があるからこその矜持なのかもしれない。妖魔の誇りとは、妖魔の強さの上に成り立つとも言えるのだろう。
「少なくとも、夜咲き峰に上がれば、妖気の吸収は格段に捗ると思います。そうよね、花梨?」
「ええ、そこの山猫も、数日寝込んだだけでこの通りですわ」
この花梨の言葉に、矢車がはじかれたように目を瞠る。山猫に視線を向けては、驚いたように口を開けた。
「彼、倒れていたところをルカをはじめとした下弦の者で介抱したのですわ。見ての通り、今は元気すぎるくらいです。ねえ、山猫?」
「やめてくれよ、倒れてたとか教えるの」
山猫の反論に、してやったりと花梨は笑った。
確かに、花梨の言っていることは間違いではない。山猫は倒れていたし、ルカ達はそれを助けた。山猫の倒れた原因はあえて触れていないが、些末なことだ。
ゆるゆると、驚きがやってきているらしい。矢車は信じられないと言った様子で、山猫を見ている。
「まあ、倒れたのは本当だが、今はこの通りだ。下弦は凄いぞ。月の妖気が直接体に落ちてくるみたいだ」
「……そこに行けば、雛は……皆は治るとでも? だが……」
少し、心が揺れているらしい。
矢車は何度か、とある小部屋の扉に視線を投げかけている。あの扉の向こうに、雛がいるのかもしれない。
悩むように何度も何度も目を伏せ。眉間に皺を寄せる。
「矢車。私はね、別に全ての妖魔を下弦に連れて行く気は無いのよ。それだと、根本的な解決にはならないでしょう?」
「だったら」
「雛は一刻を争うのでしょう? だったら、より効果を見込める下弦の峰へ連れて行こうと思っています。けれど、私の予想が正しければ、別に場所は関係が無いのよ」
「何だというのです?」
「確信が持てない限りは、口には出せません。けれど、必ず。必ず救います」
じっと、矢車の瞳を見つめた。
彼の握る両手に力が入っているのが分かる。人間で言うと二十代中頃くらいの年齢にしか見えない彼。この体にどれほどの重責を背負っているのだろうか。
心の中の葛藤が読み取れる。だからこそ、ルカは手を差し伸べねばならない。このまま放置しておくと、宵闇はますます立ち直れなくなるのだ。
「矢車、僕が行くよ」
すると。
先ほどからちらちらと、矢車が視線を投げていた一室。
その扉から現れた一人の少年が、そう、呟いた。
「……波斯。お前は向こうにいなさい」
「矢車がいつまでもそうやって悩んでいるから、出てきたんだよ」
波斯。聞いたことがある。
菫の説明によると、矢車の直子にあたる者ではなかっただろうか。
柔らかな藤黄の髪は、肩まで真っ直ぐにのびている。赤銅色の瞳がじっとルカを見つめていて、見た目は少年ながら随分と落ちついて見える印象を感じた。
「矢車は、雛を一人にするのが心配なのだろう? だったら僕が行く。悩んでいる暇があるなら、僕は雛を助けたいんだ」
「しかしだな」
「矢車は動かない。一族のみんなも動かない。どうしようどうしようと無為に時間を過ごすだけじゃないか。そんなの、妖魔として恥ずかしいよ。菫姉さんは自分で決めて下弦へ行った。ルカ様のことをとっても信頼してた。そんなの妖魔らしくないってみんな言ってたけど、僕はそう思わない」
淡々と思いを述べて、波斯はルカへ向き直る。
「ルカ様。雛と一緒に、僕も連れて行って。菫姉さんもいるし、いいでしょう?」
「波斯……ええ、もちろんよ。菫も喜ぶわ」
まだ体の小さい彼だが、誰よりもハッキリと意思を示す。トコトコとルカの側にやって来ては、迷わず彼女の手を取った。
「矢車が反対しても、僕は協力する。ルカ様、雛を助けて」
真っ先に固定概念を切り崩したのは、花の一族の少年でした。
次回、雛を助けるため、下弦の峰へ戻ります。




