はぐれ山猫(1)
宵闇の村との交渉は完全に決裂していた。
皆が“人化”への共通認識を持って二週間。ルカは下弦の峰で大人しくしていたが、菫を中心に下弦へと何度か足を運んでもらっている。
しかしやはり、上手くはいかないらしい。彼らは完全に自分たちのテリトリーに引き籠もってしまい、そもそも、交渉の余地すらなかった。
こんな時は正直、鷹が元気で居てくれたら良かったのに、とも思う。彼は下弦の妖魔でもないし、飄々と挑発行為を繰り返し、宵闇の妖魔たちとの関係に切り込んでいける気がする。
思って、すぐ否定もしたが。彼には、極力頼りたくない。頼ってはいけない、と。
先日、逃げるようにして彼の部屋から出てしまった後、彼には会っていない。鷹がルカに会いたそうだとは、レオンからも菫からも聞いている。しかし、あの空間に行き、鷹の顔を見ると、気持ちが押さえられる自信がない。
彼の名前が頭をちらつき、あの文様が瞼の裏に焼き付く。こびりついて離れない彼の言葉、彼の想いに答えることは到底出来そうにない。
「今日も、矢車には会えなかったのね。……森の一族は?」
「相変わらずです。東の森のテリトリーに籠もったまま、出てくる気配はありません。村の入り口には、何名か守備を置いているようですね」
「取り付く島もないわね」
ほう、とルカは息を吐いた。菫の報告は毎日同じ内容になってしまっている。いい加減何かアクションを起こしたいところだが、妙案が思い浮かばない。
赤薔薇や鴉を中心に上弦の峰の調査も続けてもらっているが、宵闇との接触も特にないようだ。
しかし、そんな変わらぬ毎日に変化が起きたのは、一人の訪問者がきっかけだった。
***
「ルカ様!」
パタパタと、菫が部屋へ駆け込んでくる。琥珀も横に控えており、何とも言えない微妙な表情を浮かべている。
「どうしたの? 突然」
「あ、あの! 城の外に、その……!」
なんと言って良いのか分からないのだろう。菫は両手を頬にあて、焦って言葉を探している様に見える。
「知らない妖魔が倒れてるよ」
「琥珀様。その、知らないというか――彼、宵闇の妖魔ですっ!」
琥珀の説明を菫が補足する。まったく頭が回っていないのだろう。オレンジの瞳をきょろきょろさせて、挙動不審に陥っていた。
宵闇の妖魔と聞いて、ルカも目を丸くする。転移の間は風の主の許可がなければ使用できない。城の外と言うことは、飛んできたのだろうか。つまり、ある程度の力を持った妖魔であることがうかがえる。
「もしかして、狼?」
「……いえ、違います。彼は。彼は――山猫です」
「?」
菫的には、なかなかの有名人が釣れたらしい。もったいぶって告げられた言葉であったが、当然ルカはそのような妖魔を知らない。きょとんとしてしまって、菫は更に混乱っぷりに拍車をかけた。
「ええと、すみません! ご存じないですよねっ。彼は……」
「待って待って、菫。今は、アイツの元へ戻ろう。上弦に見つかったら面倒だよ?」
「そうでした! えっと、ルカ様。彼をどこかへ運びたいのですが」
「そうよね、わかった。レオンも呼んでもらえる?」
菫は大きく頷いて、奥の扉へと進んでいく。
琥珀だけがそこに残って、ルカの側へと駆け寄ってきた。ルカはテーブルで資料の整理をしていたのだが、彼はすぐ隣にやって来たと思えば、ルカの膝の上に座ろうとしてくる。
「わ! わっ! なに、琥珀!?」
「だって寂しいんだもん」
そう言って琥珀は、ぷー、と頬を膨らませる。そしてルカの制止も聞かずに膝の上に座ってしまった。
はぁ、と、ルカはため息をつく。琥珀の甘えたはとどまることを知らず、隙あらばルカの気を引こうと必死になっている。
見た目的にはある意味相応なのかもしれないが、年齢はというと三百手前くらいらしい。ルカよりも遙かに人生の大先輩だ。というか、レイジス王国自体とほぼほぼ同い年になるわけだ。
本当にこのまま放置で良いのか疑問も湧いてくる。と同時に、彼のたまに見せる黒い感情が気になった。
それは人と接してこなかったからこそ出てくる一面だろうと、ルカは認識していた。彼一人で生きてきたゆえの我が侭。今はまだ、彼に無償の愛情を与えてあげるべきかもしれない。
「最近はこの部屋も寂しいね。僕、またお茶がしたいな」
「琥珀。……そうよね。みんな今は出払っているから。落ちついたら、またみんなでお茶にしたいね」
「うん! 早くあいつらを何とかしないとね」
僕のお茶のためにも、と、黒い笑顔で琥珀が決意を口にする。
落ち着け、と言う代わりに、ルカはペンを置き、琥珀の頭を撫でた。菫に付き添ってくれてありがとう、と礼を告げると、嬉しそうにはにかみ、笑顔が溢れる。
「おい、お前。どこ座ってるんだ、どけ!」
すると、奥からばたばたとレオンがやって来た。
絶賛膝を椅子代わりにした琥珀に顔を引きつらせて、注意する。
「えー」
「急ぎなんだろう、早く連れて行け。あと、お嬢様。あまり琥珀に甘くするな」
案の定、自分にもお小言が飛んできて、ルカは笑った。
ポンポンと琥珀の肩を叩いて、降りるように促す。ルカ自身も席を立ち上がり、すぐに外に出ようとした。が、簡単に許可は下りないらしい。
「待て。お嬢様は部屋で待機だ」
「えー」
「当たり前だろうが。相手の目的もわからないのに、お嬢様を連れて行けるわけないだろうが。琥珀、お前の部屋借りられるか?」
「僕の部屋? やだよ、そんなの部屋に入れるの。鴉の部屋でいいでしょ。宵闇の妖魔なんて、暗いところがお似合いだよ」
随分と失礼なことを言うものである。琥珀は基本的に、自分の身内と認定していない者に対して極端に冷たい。
妖魔全体がそうなのだろうが、彼は言動のせいもあって、極端な物言いが目立つ。言い過ぎだと言わんばかりに、琥珀の頬をつねっておいた。
ルカの怒りに気がついたのか、琥珀はバツの悪そうな顔を見せ、目を背けた。
「……しょうがないな。いいよ、行くよ」
そう言って琥珀は、とぼとぼと部屋を出て行く。ちょっと落ち込んでいるらしい。琥珀色の瞳が曇っている。
菫もその様子を悟ったのか、少し気まずそうにして部屋を出て行った。
「行ってくるが、部屋を出るなよ?」
「うん、大人しくしておくよ」
「よし。聞いたぞ。じゃあな」
ルカの声にレオンは満足そうに頷いて、部屋を出て行った。
皆が居なくなってしまい、一気に空間が広く感じる。
今までだったら、こんな時にも鷹は居たのに、と思うと、少々寂しい心地がして、胸の奥がちくりとした。
***
それからしばらく。
ルカは一人で部屋に籠もっていたのだが、菫がルカを呼びに部屋まで戻ってきた。隣には鴉もいる。いつの間にか合流したらしい。
「――奇病?」
予想だにしなかった言葉を聞いて、ルカは目を丸めた。菫は神妙に頷くと、山猫との会話について大まかな報告をする。
どうやら山猫は目を覚ましたらしい。
意識はまだしっかりとしていないものの、助けて欲しいという言葉だけをどうしても伝えたくて、ルカを呼んでいるようだ。
「俺から離れるな、ルカ」
頷くと、鴉が警戒態勢をとった。まだ自分の私室なのだがと苦笑しながらも、鴉に近づく。
“奇病”という言葉がひっかかった。
そもそも、妖魔に病気という言葉自体聞いたことがない。が、ルカは一つの答えに至る。今まさに、ある意味奇病で眠っている者がいるではないか。
「ねえ、鴉。呪の類いと考えられないの?」
「……ああ、そうだな。俺もそうじゃないかと思っている」
神妙に頷く様子を見て、やはりと思う。となると、上弦の関与も考えられるわけで。きな臭くて、自然と表情が険しくなる。
菫に先導される形で、到着したのは琥珀でなくて鴉の部屋だった。
琥珀が嫌がったのだろうか。一度部屋に入れると言ったにも関わらず、結局は我が侭を押し通したのだろうと思うと、頭痛がする。
「あの、ルカ様。琥珀様を怒らないで下さいね」
「?」
考えが表情に出てしまっていたのだろうか、菫が心配そうに訴えてきた。横で鴉も大きく頷いている。
「少々危険だからな。あいつよりも、俺が対応した方がいいだろうと提案した。お前への危険の可能性は、俺が引き受ける。当然だ」
「なるほどね。ありがとう、鴉」
納得し、笑顔で受け答えした。琥珀を疑って悪いことをしてしまった。心の中で琥珀に謝りながら、彼の部屋を見据える。
そこでルカの脳裏に過去の記憶が蘇り、硬直した。
ルカは以前、鴉の部屋に訪れたことがあった。あまりの部屋の荒れように、倒れそうになったことがあったはずだ。
その後鴉は宝物を一通り捨ててしまったのは知っているし、本当に申し訳なくも思ったが、あの惨劇が再現されている可能性は否定できない。
ぽたぽたと全身から汗が噴き出てきて、ルカは目を白黒させた。別に汗を掻きたくて掻いているわけではない。思い出しただけで、生理現象として身体が拒否反応を起こしてしまっているようだ。
ちらりと鴉の方を見る。そんなルカの様子に気がついていないのだろう。彼は何故か、どことなく嬉しそうで、小さな瞳がキラキラ輝いている。何が嬉しいのかはさっぱりわからないが、どうにかして鴉の部屋の現状を知れないものかと考えを巡らせる。
「菫、レオンは何か言ってた?」
とりあえず、菫に疑問を投げかけることにした。レオンならば、ルカが入るのに問題がありそうであれば、何らか行動を起こしているだろう。
「いえ。ただ、山猫さんが随分と衰弱しているので、突然襲いかかったりすることもないだろう、と」
「そう。わかったわ」
そこまで聞いて安心する。レオンが山猫の相手を出来る状態ではあるという事だ。
しかし扉を前にすると、やはり変な汗が止まらない。ごくりと唾を呑んだ。菫が問題なく中に入っていくのに続いて、ルカも一歩光の扉を潜る。
視界が広がる。そこには、以前とは様変わりした殺風景な部屋が広がっており、心の底から安堵した。
「……本当に、何もなくなっちゃったのね」
ぽつりと声が漏れる。
部屋の中に入ったところ、そこには寝台があるくらいだった。
――寝台、あったんだ。
と、以前琥珀が教えてくれた寝台の意図もちらりと脳内をかすめたが、一瞬のこと。彼の部屋は基本的に、下弦の峰の廊下と変わらない暗くて殺風景な空間だ。所々、赤の水晶も輝いているし、廊下の延長線のようで、部屋に入ったという感覚が無い。
ルカが何を怯えていたのか理解したのだろう。鴉は優しい瞳で、頭を撫でてくる。
「大丈夫か?」
「何が?」
「気分は悪くならないか、と聞いている」
優しい気遣いに、ルカは大きく頷いた。
「大丈夫。ありがとうね、気を遣ってくれて」
「……そうか。ルカが俺の部屋に来てくれるなら、あれらを捨てたのは、やはり良かったのだろう」
彼は少し寂しげに、でも、とても優しい瞳で笑う。
鴉はこうやって、何から何まで自分を大切にしてくれるからくすぐったい。
きっと琥珀と同じで、この人も誰かの愛情を知らずに育ったからだろうと、ルカは考えていた。愛情表現の仕方が琥珀と異なっているだけ。もしかしたら、母のようにでも思われているのだろうか。そう考えると、少し気恥ずかしいが。
「私に気を遣わなくてもいいのに。あっ、でも、倒れるのはもう勘弁したいけど」
ふふ、とルカは笑った。すると鴉は再度くしゃくしゃと頭を撫で、菫とともに奥の部屋へと進んでいく。どうやらそこに山猫がいるらしい。
奥に踏み入れる前に、ルカは大きく深呼吸した。
さて、現状を、変えるか。
心の中で強く決意し、そして、一歩前へと進み出す。
鴉の部屋が綺麗になっていました。
さて、次は山猫とご対面です。




