忘れ去られた約束
鷹が眠っていたのは、ルカの部屋の奥。小部屋が並ぶ一室だった。菫とレオンに並んで、鷹の部屋もきちんと用意されている。さして大きくない寝台に横たわって、彼は寝息をあげていた。
人間みたいだと、ルカは思う。すうすうと、呼吸するように胸が上下する。彼の眠りは、ルカが知っている妖魔の眠りとは明らかに異なっている。その存在自体、他の妖魔と異なって見えて、何が彼をそうさせるのか分からず、ルカの胸をぎゅっとしめつけた。
――汗?
うっすらと額に汗を浮かべている。ルカはポーチからハンカチを取り出し、彼の汗を拭き取った。ああ、やはり。人間みたいだ。
ふと彼の目を覆う布に手が触れて、ピクリとする。その奥を知りたいと思うと同時に、勝手に見てはいけないと理性が邪魔をする。差し出した手をどうしたら良いのか分からなくて、ルカはただ、灰白色の彼の頭を撫でた。
「……ルカ?」
すると、か細い声が聞こえてきて、ルカはハッとした。鷹が僅かに顔を動かし、ルカの方を見つめているようだ。もちろん、目隠しで瞳は見えないけれど。
「起こしちゃった? ごめんなさい」
「ううん。君も、目を覚ましたんだね」
鷹は嬉しそうにふと笑って、片手でルカの頬に触れた。その手がとても温かくて、ルカの胸にじわんとした感情が広がる。こうしていると、本当に、彼は人間みたいだ。
「なんだか、こうして布団に潜っていると、普通の人みたいね、鷹」
「あはは、ルカと同じになれるなら、それもいいかもね」
からからと笑う声が、乾いて聞こえる。ああ、違う、とルカは心の中で否定する。彼とはこんなどうでもいい話がしたいのではないのだ。
「まだ寝る? ここに居て、いい?」
「ルカの方が僕のそばにいたいの? いつもとあべこべだ」
「ふふ、そうね」
「……僕に聞きたいことがあるのでしょう?」
完全に真意が読まれてる。
ルカはふと、口の端を上げて、小さく頷いた。
「貴方のことを聞きに来たのよ、鷹」
「僕は、僕。君の側に在るべきもの。それ以上でもそれ以下でもないよ?」
「何を言ってるのかわからないよ。どうして側にいてくれるの? 何故私が倒れた時、貴方も倒れたの? わからない事だらけだよ」
意を決して、彼に尋ねた。ルカの真剣な表情が伝わったのか、鷹は少し困ったような、寂しそうな様子で笑う。
「そんな表情を見せても、無駄だからね。今日は、退かないんだから」
「今ほど空気に溶けたい気持ちになったのは初めてだよ」
「弱ってる時なら逃げられないと言うことね? ちなみに、このまま黙秘を続けて元気になるまで逃げ切ろうとしても無駄よ。私、もう一回倒れて道連れにするからね」
「勘弁してよ!」
普段余裕しかみせない鷹の態度が必死で、ちょっとおかしい。くすくす笑ってみせると、鷹は観念したような面持ちで、ため息を吐いた。
「んー、ごめんね、ルカ。いくらルカにでも、言えない事はたくさんあるんだ。だから少しだけ。話せる範囲の事を話す。それで勘弁してくれないかな?」
「……内容によるわよ?」
「手厳しいな」
苦笑いを浮かべたまま、鷹は、片腕を上げる。何を、と思うと、彼はそのまま目隠しに手をかけた。
あっと思うのと同じタイミングで、彼はそれを取り払ってしまう。
「……それは」
遠い遠い、昔の文字。今は失われた古代言語。
瞼を閉じたままの彼の目元に彫り込まれた文様に、ルカは目を瞠る。
ルカの記憶によると、これは時の女神セルスが歴を数える前。石に、碑に、洞穴の奥に。人々は祈りを捧げる代わりに彫り込んだ、意味を成さぬ祈りの言葉。月の女神を愛し、自らを捧げると誓約する言葉。
あまりにも強くて、祈りを届けることを切望しているかのような意思表示とも言える文様に、ルカは何も言えなくなってしまった。
「僕は誓ったんだよ。君を護るって。遠い昔に」
「なぜ? 私、貴方に会ったことなんか」
「君に直接誓ったわけではないよ。遠い約束さ。僕はそれを果たすためだけに、生きている」
そう言って、鷹は自身の文様に手を触れる。触れた部分が淡く白く輝きを放ち、何らかの呪が施されていることがわかった。強い思いを秘めているのだろう。目を開くことを禁じてまで守るべき約束とは何なのだろうか。
「約束については教えられないよ。僕の大切な思い出だから、君にも侵されたくないんだ」
色々考えていると、先手を打たれてしまった。くすりと笑って、ルカは頷く。
「とにかく、この呪によって、僕は君と繋がっているんだ。君を護ると誓約する呪だからね。君を護り得なかった僕は、今、この通りさ」
「私が倒れると、貴方も倒れる?」
「そ。だから、ルカも人一倍気をつけてくれると嬉しいよ。君から離れた僕も悪かったけど。……ああ、思った以上に呪の効果が強力みたいだね。しばらく動けそうにないや」
ははは、と笑う声が乾いている。その自虐的な微笑みが、ルカには辛く感じた。
「――どうして私?」
聞くと、鷹は少し困ったように口を閉じた。それも、約束の一部だからと。答えられないと小さく呟く。
ルカはしがない人間の娘だ。父はゲッショウにいた頃もそこそこの大人物だったらしいし、レイジス王国に来てからもそれなりの地位は与えられている。しかし、それだけだ。あくまでもただの人間でしかない。父と同じような位の人物など、この世にごまんといるだろう。
そんな彼の末娘で――しかも、魔力すら持ち合わせていない自分。ちっぽけで、何物でも無い存在。どこにでも居る人間の少女。そんなルカにここまでする理由なんて、まったく見当たらない。
鷹と話したところで、自分の中の疑問も不安も、何も解決しなかった。どうして自分なのか、という思いだけが際だって、少し苦しい。何をしたわけでもないのに、鷹の命を握っているような状態になってしまい、億劫になる。
彼の命を握るだなんて責任、自分の与り知らぬところで負いたくないのだ。
「やめて、って言っても、やめられるものではないのよね?」
「寂しいな。どうしてそんなこと言うの?」
「私は、貴方の命に責任なんて負えないもの」
ルカの答えに、鷹は可笑しげに笑う。まったく理解できないとでも言うかのように、吹き出していた。
「あはは! ルカはそんなこと気にしなくて良いのに。僕が勝手にやってるだけだよ。君が倒れると、僕が倒れるだけ。仮に僕が先に倒れたとしても、君は大丈夫だと思うよ? 心配しなくても」
「そんなことが言いたいわけじゃない」
「君に不利益はないだろう? 大人しく護られなよ」
「私は、貴方に命までかけて護って貰う理由なんか、どこにもないって言ってるのよ!」
声を荒げてしまう。鷹は、頑固すぎる。……いや、違う。単に、自分は怖いのだ。
自身のせいで、もし鷹がまた倒れてしまったら。自分を護るために、その命を落としてしまったら。それを考えると、たまらなく怖くなる。命をかけて貰えるほど、自分は崇高な人間でも無いし、彼に何かを与えられるわけでもない。彼の行動原理がまったく理解できなくて、戸惑う。
「君がなんと言おうが、どう拒否しようが無駄だよ。僕は君の側に居るし、君を護り続ける。ま、今はご覧の通りだけどね」
「……やだよ。やめてよ」
苦しくなって。反論する気力も無くなって、ルカは俯いた。
何を言っても通じない。ただ、自分を護ると一点張りで。とんでもなく頑固なこの男を、どうすればいいのかわからない。
「ねえ、ルカ。理由がないなら、作ってよ」
「……なによ」
「僕の名前は覚えているかい?」
「……」
その回答として“鷹”がふさわしくないことくらい、ルカにもわかった。もちろん、覚えている。忘れるはずがない。鷹の姿を見るだけで、魂がざわめき、脳裏にちかちかする言葉がある。
鷹が何を言いたいのか、予想が出来てしまって、ルカは困ったように首を横に振る。
「お願いだよ、ルカ。僕の名前を呼んで」
「……っ」
「君に、理由を作ってよ」
怖くて、耐えられなくなって、ルカは立ち上がった。
心臓が警鐘を鳴らす。けして、踏み入れてはいけない。呼んではいけないと叫んでいる。
「嫌だっ」
「ルカ!」
「嫌! 絶対。絶対呼ばない!」
ぎゅっと拳を握りしめ、ルカは駆けだした。怖くて、身体が震える。
肩を抱え込むようにして、自身の部屋まで走り、寝台へ飛び込んだ。
「お嬢様?」
その尋常ではない様子に気がついたのだろう。レオンがルカの元へと駆け寄ってきた。
「レオン、レオン!」
身体にとりつく震えをどうして良いのか分からない。がたがたと、手も、肩も、脚も、全てが震えている。その様子にレオンが焦ったようにして、ルカの肩を押さえた。
「お嬢様、どうした? 鷹に何かされたか」
「……っ」
けして彼が悪いわけではない。違うと、ルカは必死で首を振った。
名前だけではない。今度は彼の目に浮かぶ文様までもが頭から離れなくなる。あれほどの祈りと想い。そんなもの、自分に抱え込めるはずがない。
夜咲き峰に来て、自分の周囲の全てが変わった。彼らの運命を自分の行動が変えている自覚もあった。それなりの責任を持って行動してきたつもりだし、妖魔の皆に関してはこれから先も、自身の全てをかけて接していこうと思っている。
けれど、鷹の。彼ほどの覚悟など自分には――。
苦しくて、苦しくて、涙した。
ぽろぽろと、とめどなく涙が流れ落ちていく。
あれほどの想い、受け止める自信なんて、あるはずがない。
――ごめん。ごめんね、鷹。
まだ、自分には、余分な運命を受け入れる覚悟なんて、ないみたい。
鷹には、とても大切な約束があるのです。
次は上弦の妖魔たちの閑話です。




