目覚め(2)
ぎゅう、と、抱きしめられてしばらく。随分と時間が経ったように思う。何度か話しかけたが、まだだ、と駄々をこねられた。一体何だというのだろうか。
それでもしばらくするとようやく落ちついたのか、彼の腕にこもる力が和らいだ。
「……満足しましたか?」
「……」
特に返事は無い。しかしその代わりに、緩めた手で頭を何度も撫でられた。そして気がつく。あの日つけていた髪飾りが無いことを。
「風様の髪飾りが……」
「問題ない。また作れば良い」
うっすら誰かが回収しているかもと都合のいい事が頭に浮かんだが、どうやらそう上手くはいかないらしい。逃走する中で、落としてしまったようだ。
いつの間にやら風の主は涼しげな表情に戻っている。しかし、ルカの思い違いなのか何なのか、頭を撫でる行為に熱がこもっているようで、ドキドキと心臓が動き出す。
おかしいなあと、ルカは思った。
二人で過ごす時間は随分とあった。いつも彼は腰に腕を巻き付けてきていたし。以前とそう変わらぬやりとりのはずなのに、何かが違う。風の主には行動に柔らかさが出てきたし、ルカ自身も、彼に甘えるようになってきたのかもしれない。
今まで名目上のものだと自覚していた婚約者という形が、実感できてきてこそばゆい。このやりとりも、婚約者であれば当たり前のようなもので。でも、いつからこのように変わってしまったのか分からなくて、ルカは戸惑った。
ふと、風の主を見つめると、相変わらずの涼しい顔だ。でも、この人のこの顔はこんなにも温かかったかなとルカは思う。冷たかったはずの陶器のような頬も手も、確実に熱を持っていて、ルカをじんわりと温めることを知っている。
ああ、まずいなあと、ルカは思う。
あんな温かい夢を見たからだろうか。あの時の光を追いかけ、目を覚ました先に彼がいたからだろうか。顔を見るだけでほっと頬が緩んで、じわりと心の芯があったまる。こんなの、困るに決まっているではないか。
「ルカ?」
名前を呼ばれてはっとする。
そうだ、これもいつからだろうか。彼はいつから、自分のことを名前で呼ぶようになった?
いや、最初からのはずだ。彼は最初から其方と言わない限りは、名前を呼ばれることもあったはずだ。でも、こんな風に、心が震えるなんてこと――。
――そうか、風の主が変わったのではない。
――自分自身が変わってしまったのか。
気がついて、戸惑う。単純に筆頭妖魔である彼は、あまりにも麗しい見目だから、女の子だったらときめかないはずがないと思っていた。自分でなくとも、例外なく彼のことを好ましく思うのだろう、と。一種の憧れのようなものだと思っていたのに。
ちくりと、胸が痛む。くすぐったくて、切なくて、震える。
この婚約は、人間的な事情と、妖魔の世界の事情、二つの上に奇跡的に成立したものだ。これから情勢が変わることもあるかもしれない。もしかしたら、取り消される可能性だってある。
だからこそ、ルカは、あくまでも取引相手くらいの気持ちで風の主に接してきた。
それなのに、いつからだろうか。何を考えているか分からなかった彼の気持ちがちょっとずつ分かるようになって。すごく美しい大人の男性なのに、無表情でルカに甘えてくることもあって。とても可愛らしく思えて。
「風様が、居てくれて良かった」
じわりと胸に痛みが広がっていく。でも、悪くない気分だ。甘えるように、今度はルカから風の主に抱きついてみた。
驚いたように、風の主が碧の瞳を瞠っている。普段感情の起伏が少ない彼を揺るがしたことに満足して、ルカは微笑んだ。
「心配させて、すみません。もう、大丈夫ですから」
身を離し、大げさなくらいの笑顔を見せる。少しでも、子どものようなこの人を安心させてあげたい。
次は頭をわっしわっしと撫でてみる。長くて艶やかな縹色の髪は、思った以上に手触りが良くて、いくらぐしゃぐしゃにしようとすぐに真っ直ぐに戻ってしまう。
それが面白くて、ルカはますます頭をかき回してみた。当然、驚きに満ちていたはずの風の主の表情が、だんだんと不機嫌に染まっていくのがわかる。
「なんなのだ、一体」
「安心させてあげようと思って」
「やめなさい」
「はい」
ぶすりとした面持ちが可愛くて、ルカは吹き出した。
ある意味吹っ切れたのかもしれない。今までは距離感を縮めすぎないよう、注意を払って過ごしてきた。けれど、それが馬鹿馬鹿しく感じてくる。
――くすぐったいけど、悪くない。
下弦の妖魔たちだけではない。目の前の、無表情で不器用な彼のことこそ、幸せにしてあげたい。溢れるその気持ちを否定することなど、なかった。
***
「それでですね。私、どうなってしまったのでしょう?」
風の主でしばらく遊ぶと、随分と気持ちが落ちついてきたらしい。いい加減、状況を整理せねばと頭を働かせ始める。相変わらず風の主の胸にすっぽりと収まる体勢ではあったが、緩んだ頬を引き締め、ルカは問うた。
「ふむ、君は少々特殊な攻撃を受けたようだな。一種の“毒”だ」
「毒?」
「妖力を媒体にしたものだな。魔力を固める効果があるのだろう。普通の人間は耐性を作れないからまず助からん。よく生きていたものだ」
「そもそも、毒への抵抗力など皆無なのですが、とても運が良かったということですね」
「……魔力すら持ち合わせていなかったことが逆に良かったのかもしれぬがな」
「……」
さらりと怖い事も言われたが、ほぼ死人のこの体にもメリットがあるらしい。つまり、魔力をほんの僅かでも持ち合わせていたら、お陀仏だったと言うことだろうか。釈然としない気持ちの方が大きいが、命が助かったことは万歳に値する。
「宵闇の村の妖魔たちにとっては、私はそんなに邪魔なのでしょうか?」
単に威嚇目的だとは思いがたい。受ければ死に至る、いわば猛毒。上級妖魔たちを敵に回してでも、ルカを討ち取りたいと思うほど、憎まれているというのか。
となると、今後の峰の改革は、非常に難しくなる。どうやって彼らと接触を図って良いのか、途方に暮れてしまいそうだ。
「ふむ、余計な手が入ったと見えるな」
「え?」
「この“毒”、ただの下級妖魔に用意できるような代物ではない。そもそも、ただの下級妖魔ならば、其方に毒が届く前に、誰かが防いでいるだろう」
「えっと、つまり、上級妖魔の誰か、と言うことですか?」
「おそらく」
あの場に居た上級妖魔と言えば、下弦の4名くらいで、後は森の一族の狼だ。しかしあの時、狼は鴉と対峙していた。
それ以外に不審な動きをしていたとすれば、赤薔薇が向かっていった相手。あの攻撃の直前、彼女は空へ飛び上がった。なんらかの攻撃を防ぎきれず、ルカまで毒の刃が届いてしまった。
「宵闇の村ではない、第三者の介入だったのですね」
となると、思い当たる節がある。恨まれた記憶は微塵も無いが、自分のことをよく思っていないだろう男の顔が浮かんで、ルカは目を閉じた。
「上弦、でしょうか」
すれ違ったときの、白雪の表情を思い出す。熱のこもらない灰色の瞳。印象の薄いのっぺりした笑みが恐ろしくて、息を呑んだ。
「下弦の者は隠したがっていたようであったが」
「……やっぱり」
風の主の言葉に確信する。ここ最近、皆がピリピリしていたわけだ。裏で何があったかは分からないが、彼らが警戒していたのは上弦の峰だったのか。
ということは、あの空からの攻撃は上弦の上級妖魔と仮定できるし、もしかして花の一族の様子がおかしかったのも、彼らが関わっている可能性も示唆されるわけで。
「風様。上弦の者たちにとって私が居てまずい理由って何でしょう? やはり、人間だからでしょうか?」
「……白雪の思想からすると、そうだろうな。アレは、妖魔であることを至高だと考える節がある」
「白雪は私が下弦で何をしようとしているのか、感づいているようでした。つまり、人間らしさ……のようなものが広がることを危惧してでしょうか」
「それは大いにあるだろう」
「でも、“人化”は……」
白雪はこの峰の異変については気がついてはいないのだろうか。
下弦の妖魔たちにも、未だ“人化”については特に話してはいないのだが。“人化”という現象はじわじわと進行しているはずだ。だからこそ、彼らに切り出して良いのか分からない。
いずれ人に近づく妖魔たちにとって、ルカの知識は必要だ。しかし、“人化”の事実を知らなければ、ただ人間に支配されていくような恐怖を覚えるのかもしれない。
特に、妖魔が至高だと考える白雪であれば尚更、その可能性は否定できない。
菫は“人化”に関することは、決して言ってはいけないと告げていた。自ら消える選択肢を選びかねないと。妖魔の矜持をもつ彼らに“人化”について伝えるべきか、止めるべきか。何が最善か分からなくて、ルカは目を閉じた。
「上弦の皆は“人化”してしまうとわかれば、何を思うのでしょうか」
「さて。他の妖魔のことなど、わからぬ」
「では、風様は?」
思いがけない質問だったのだろうか。風の主は目を瞠ったが、ふいと視線を逸らしてしまう。
彼は“人化”に対してどう思っているのか、ルカは聞いたことが無かった。美しい筆頭妖魔が、妖魔ですらなくなってしまう日。彼はもし人となるのであれば、それでも、ルカと生きてくれるだろうか。
何も変わらない、そういった答えを期待していたのに、返ってきた言葉は随分と違ったものだった。
「……わからぬ」
自分のことすら、わからないと言う。その瞳が随分儚げで、ルカは、ああと思う。
以前も感じたことのあるある種の不安。ちらりと、彼の生まれ石を見ると、相変わらずの弱々しい輝きが揺らめいている。それだけで、軽々しく話をふってしまったことを深く後悔した。
その時だった。
風の主の部屋の扉が、淡く輝く。誰かが妖気をあてているらしい。
「……入れ」
突然の来訪者に風の主は声をかける。誰かが訪れるというのに、抱きしめられる腕にぐっと力がこもる。どんな表情をして相手を迎えたら良いか分からず、ルカは目を背けた。
「失礼致します、風の主」
現れたのは菫だった。ここまで駆けてきたのだろうか、息が乱れているのをぐっと押さえ込んでいるようだ。
「鷹が目を覚ましましたから、もしかしたらって――ルカ様!?」
彼女と目が合う。オレンジの瞳がこぼれ落ちそうなほど見開き、頬を緩める。
そんな彼女が声を上げたと思うと、どやどやと下弦の皆が部屋に押しかける。
誰もがルカの顔を見、驚きと安心で、目を見開く。そして、泣きそうなくらい表情をくしゃくしゃにして、駆け寄ってきた。
二人の関係も少しは変化するのでしょうか。
さて、下弦のみんなが飛び込んできました。
こちらにも随分と心配をかけたようです。




