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夜咲き峰の人々  作者: 三茶 久
第一章 風の主の婚約者
31/121

目覚め(1)

 真っ暗闇の世界でただ一人、漂っている。眠っているような起きているような生きているような死んでいるようなただただ安穏とした世界の中で一人。


 ああ、この地を知っているとルカは思う。

 ずっとずっと、自分の記憶が形になる前のこと。真っ暗闇で何も見えないのに、自分は何かの存在と確かに繋がっていて。あったかくて、心地よい。

 うとりうとりと浮かんでいるのが幸せで、動きたくなくて、でも前に進みたくて。心の中の矛盾がすべてどうでも良くなるような絶対的な安らぎ。

 繋がれた存在が優しくて、幸せすぎて溶けそうになる。




 ――ああ、そうだ。これ、お母様だ。


 生まれてこの方、夢の中でしか会ったことのない母のことを思い出す。

 絶対的な安らぎとぬくもり。自身の全てを肯定してくれる存在。大好きで、大好きで、でも会えなかった母。物心ついた頃にはルカには母親なんていなくて、でも、夢になるとこっそりと会いに来てくれた。

 暗い暗い闇の中をのそのそと歩いていると、彼女はいつの間にか手を繋いでくれているのだ。

 彼女は女の人のような形をとっていたこともあったし、不思議な光のようになって現れたこともあったし、気がつけば月として側にあったこともある。彼女はいつも違う不安定な存在だったけれども、ルカにとっては間違いなく母と言える。誰に認めてもらったわけでもない、実際に会ったことがあるわけでもない、判断する方法なんて皆無なのに、ルカには、ルカだけにはわかった。


 今も、彼女のぬくもりが全身を包みこむようにして護ってくれている。



「おかぁ…さま……」


 目を閉じ、感じるようにして呟くと、どうにか声が漏れた。

 全身をかき混ぜるような不快感がいつのまにやらおさまっている。左腕の傷口からは淡い光りが体内へと入り込み、体の内側からぽかぽかと温まっていくのがわかる。

 自身を繋ぎ止める優しい光に心やすらぎ、ルカは目を開いた。


「お母様、いるの?」


 答えは返ってこない。暗闇にはほんのりと浮かぶ淡い光。お母様、と手を伸ばす。しかし光は掴まらず、ふわりと飛んでいく。


 ああ、とその光を追いかける。触れたくて、手を伸ばす。でも届かない。

 淡い光は姿を変え、今度は大きな鳥の姿になる。



 真っ暗闇を迷うこと無く真っ直ぐ飛び続ける、大きな大きな鳥――“鷹”の姿に。



「お母様、鷹が。どうしたの? 何か言いたいの? お母様?」



 光は答えることはない。ただ、ふと、柔らかい微笑みのような感情が、ルカの心の中に届く。

 あったかくて、抱きしめたくて、手を伸ばす。涙が溢れる。お母様。お母様。


 ――会いたいよ、お母様。




 *




 *




 *




「おかぁ……さ……」



 声が、漏れた。

 喉が動かなくて、空気がかすれたような音ばかりだが、確かに。


 しかし、僅かな声で震わせた空気を、何者かが捕らえた。体を包みこむあったかいものが、ぎゅって身を強ばらせるのがわかる。



「……ルカ?」


 声が聞こえる。何かを恐れるかのようなか細い声が寂しくて、ルカは「大丈夫だよ」と言ってあげたくなる。口から出るのは呻くような音だけだったけれど。



「ルカ」


 体を揺すられ、声をかけられる。温かなまどろみが幸せで、ずっと眠っていたいような気もする。しかし、その声のあまりの寂しさに胸が締め付けられる気がして、ルカは手を伸ばそうとした。

 ピクリと指先が動いたのが分かる。その人物も、指先の動きに気付いたのだろう。ぎゅっと手が握られたのがわかった。


「ルカ、聞こえているのか……ルカ!」

「う……」


 今度はちゃんと、声が出る。体が完全に固まっているようで、ぎしぎしと音をたてるように何とかして腕を動かす。ぴくりと、重い瞼も動き、誰かが顔をのぞき込んでいるのがわかった。



「お母様……?」


 霞む視線の先。飛び込んできたのは違った。母ではない。母のような絶対的なぬくもりは無いし、安らぎもない。けれども、目の前の人物には、絶対的な信頼があって。とても大切なものだとわかった。

 瞳に飛び込んできた縹色が嬉しくて、ルカは微笑んだ。



「風様?」

「ルカ……っ」


 視界がだんだんとクリアになり、彼の顔がよく見える。涼しげな碧色の双眸が不安そうに揺れていて、大丈夫だよと言葉にする代わりに、ぎしぎしと動かない手を何とか上げる。そして、側にある彼の頬に触れた。

 彼のつるりとした陶器のような肌は冷たい。でも、なんだかとても愛しいものの様な気がして、ゆっくり指先で頬をなでた。



「ここに、居ますよ」

「……っ」

「大丈夫です」


 にっこりと、強ばった表情を解きほぐしていく。風の主はいつもの無表情もどこへやら。ただただ、辛そうに表情を歪めていた。

 なんだかその様子が愛しく感じて、ルカはますます笑顔が溢れる。けれどぎしぎしと体が悲鳴をあげていて、何とか触れている指先ですら上手く動かすことが出来ない。


 視線僅かに動かすと、どうやら風の主の私室に居ることが伺えた。いつものソファーでは無く、寝台に寝そべるようにして、風の主に抱え込まれている。いや、抱きしめられている。その現状を冷静に判断した後、ルカは、目を丸くした。



「っ……あれ? ちょっ」


 信じられない状態をどうにかしたくて、体を動かそうとするけれども、相変わらず動く気配はない。ぎしぎりともがいてみるけれども、まったく言うことを聞かないようで、逆に風の主に強く抱きすくめられる結果になった。



 ――ん? ん? これ、まずくない?


 ルカは非常に焦った。一応名目上は婚約者ではある。無駄に広いがある意味ひとつ屋根の下でもある。けれども正式な婚約を結んだ気配はとんとなく、では結婚しましょうかっていう雰囲気も皆無。名目という言葉がこんなにも似合う婚約などあるだろうかと言えるくらいの鈍足進展っぷりである。

 それなのに、婚約者の私室で二人でベッドで抱きしめられ……ん、これはおかしいでしょう、と、何度も何度も疑問に思う。そんなルカの気持ちにはまったく気がついていないのだろう。風の主はルカを強く引き寄せ、彼女の顔をのぞき込んだ。


「肌が温かい……生きてたのか?」

「ちょっ、勝手に殺さないで下さいっ」


 今度は風の主に頬に触れられ、とんでもない言葉を浴びせられる。死んだとでも思われていたのだろうか。非常に不本意な展開に、ため息をつかざるを得ない。しかし同時に、真面目な顔をしてなんて間抜けな質問だろうかと思うと頬が緩んだ。


「ふっ……その様子では、大事ないようだが」


 すごく間近で見つめられ、ルカは大きく目を見開いた。本能が距離をとりたいと言っている。しかし、体が動く気配がないものだから、もう、無の心で対応するしかないのだろう。


 しかし、麗しい筆頭妖魔は、問答無用で精神攻撃を仕掛けてくるようである。ルカの目の縁に手を当てて、拭う。「泣いていたようだが」と言葉を添えるものだから、タチが悪い。

 ぶわりと頬に熱が集まるのが分かる。風の主の手はまだルカの頬に触れているままだ。体温の上昇を感じ取ったのか、ふと、瞳に柔らかさが宿った。

 あまりの恥ずかしさに、穴があるなら入りたい気持ちに追いやられる。しかし、ぎゅっと抱きしめる風の主は、ルカを離す気は無いらしい。どうにかして状況を打破したいと、ルカは話を逸らすことにした。



「……えっと、私。倒れたんですよね?」


 意識がぷっつりと切れてしまったため、宵闇の村がどうなったのかルカは知らない。おそらく、あそこにいた上級妖魔の誰かがここまで運んでくれたのだろうが。


「皆は、無事ですか?」

「……そうだな」

「?」


 なんともハッキリしない答えが返ってきて、ルカはきょとんとした。いつもの風の主なら「大事ない」くらい言いそうなのに。不思議な間と煮え切らない言葉。それが急に恐ろしくなって、カタツは声を大きくする。


「何か、何かあったのですか?」


 縋るようにして訊ねたが、風の主はふと視線を逸らしてしまった。



「皆は無事だ。……鷹以外はな」

「……え?」


 思いがけない言葉が出てくる。そもそも、襲われたあの場に鷹は居なかったではないか。つまり、彼は彼で、一人のところを襲われたとでも言うのだろうか? しかし、彼が襲撃に遭ったとして、あの鷹をどうこうできるとは思わない。



「鷹が……どうしたんですか?」

「……」


 風の主は答えない。その沈黙が怖くて、ますます混乱する。


「風様、教えて下さい」

「……其方が倒れたのと同じように、花の一族の集落で倒れておったそうだ」

「誰かに襲われたのですか?」

「いや、違うだろう。だが大事ない。其方が目覚めたのだ。彼奴も目が覚めておるのではないか?」

「えっと?」

「……私からはこれ以上は言えん。だが、そんなに心配することでもないだろう」


 質問を打ち切るようにして、風の主は答えた。倒れたけれど、大事ない。結論的には、心配するなと言う。普段から風の主の言を全面的に信頼しているルカだ。彼が大丈夫だと言うなら、大丈夫なのかもしれないが。


「……わかりました、詳しくは、皆に聞きますね」

「答えるとは限らぬぞ」

「うっ……でも」


 心配ですから。と、言葉を付け足す。

 あんなにド変態でも、あんなに鬱陶しくても、あんなに気持ち悪くても、ルカは鷹のことが嫌いではない。なんだかんだで自分を心配してくれもするし、叱咤することもあれば甘やかしてくれることもある。妖魔と対応する際の経験を邪魔すること無く、起こった事態にはきちんと対処法を学ばせてくれる。見た目はああだが、ルカは彼のことを非常に頼りにしていることくらい、もう自覚していた。




「まったく、そなたは。もっと心配するべき事は他にあるだろう」

「仲間の安否って結構心配だと思うのですが」


 ルカの反論を待たず、風の主はルカの体を持ち上げる。


「わわっ」


 ひょいと空中に浮かせて、そのまま寝台に腰掛ける体勢をとらせてくれた。


「体は動くか」

「……ええと、重たいですが、やってみます」


 ぐぎぎと、きしむ間接を何とか動かす。その時、筋肉などの物理的な問題ではなくて、もっと根本的な場所が悲鳴を上げていることにルカは気付いた。

 魔力妖力に対して知識がゼロではあるのだが、本能が言っている。魔力が足りない、と。



「あ、あれ?」

「……そなたの魔力は死人同然だからな。仕方ない」

「えっと?」

「体を動かす為、人は魔力を補助的に使用するもの。単に、其方には最初に立ち上がるだけの補助がないだけだ。ほら、これでどうだ?」


 そう言って、風の主は触れたのはルカの左手だ。レイルピリアに妖気を送り込むように光を放つ。すると、ルカの体中にピンと糸が張り巡らされたような感覚が沸き起こった。

 あ、と思った瞬間にはふと体が軽く感じ、立ち上がっていた。


「あ、いけました! すごい、風様、すごい!」


 先ほどまでの重りのような体が嘘のようだ。風の主の前で軽くステップを踏み、回ってみせる。すると満足するかのように風の主も口の端を上げる。


「当然だ。だが……其方は人間として非常識ではないのか。妖気でなぜ体が動く」

「ん?」

「私が力を送ったのだぞ? 妖気に違いないだろう? 其方の体を構成するのにはそもそも不必要な力ではないか」

「あれ」


 雑食とでも言いたいのだろうか。とんでもなく馬鹿にされている気がする。


「おかしいですね。死んでますかね、やっぱり」

「馬鹿なことを言うな。妖気も魔力も皆無な其方に、そもそも力の常識など無いのだろう」

「あー、死んでますよね、やっぱり」

「……」


 本人であるが故非常に無頓着ではあるが、魔力無くして生きている人間は無いし、妖気無くして生きている妖魔もない。両方の力が皆無なルカは、そもそも生命の定義を逸脱しているとも言えよう。もちろん、今更の話ではあるが。


「まあ、どちらも皆無と言うことは、どちらでも良いと言うことなのだろう」

「なんですかね、その、雑食的な残念な感じは」

「体が動くのだ。良かったではないか」

「そうですけど……」


 ルカの言葉に、呆れるようにして風の主は息を吐く。そして、改めてルカを見据え、手を差し伸べた。




「来なさい」

「?」

「さんざん心配させたんだ。いいから、来なさい」


 そう言って、風の主は少々強引に手を取り、ルカを引き寄せた。

 思った以上に強い力で引かれ、ルカはよろける。そしてそのまま、寝台に腰掛ける風の主の胸元に飛び込む形になった。



「わっ! っと、すみません。ちょっとよろけちゃって」


 ぎゅっと抱きしめられ、目を白黒させる。一体この状況は何だというのだろう。勢い余って懐に飛び込んでしまった。早いところ距離をとりたいと、ルカは両手に力を込める。しかしそれすら制されてしまって、ますます混乱するに至った。


「しばらく、こうしていなさい」

「でも」

「いいから――」


 そう言って、風の主に抱きすくめられてしまう。どんな表情をしていいものか分からなくて、ルカは何度も瞬きをした。そして、彼こそ、どんな顔をしているのだろうかとも思う。

 風の主が何を考えているのか知りたくて、顔が見たかった。しかし、ルカの顔こそ彼の胸に押しつけられてしまって、ついぞ風の主の表情を見ることは叶わなかった。

ルカは母の顔を知りませんが、

懐かしいぬくもりを感じることができました。


風の主も流石に心配だったようです。

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